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第12章:放課後の呼び出し

 昼休みの一件以来、俺の心はまったく落ち着かなかった。


 氷室会長の、あの嫉妬と敵意に満ちた視線。

 そして、白鳥美月さんの、小悪魔のような笑顔と、俺の腕に絡みついた柔らかな感触。

 それらが交互に頭の中でフラッシュバックして、授業の内容なんて、もうどうでもよくなっていた。


 そんな俺の憂鬱な気分をよそに、時間は無情にも過ぎていく。

 

 あっという間に放課後だ。

 

 ホームルームが終わるや否や、俺は逃げるように教室を飛び出した。

 一刻も早く家に帰って、今日の出来事を忘れたい。

 そう、忘却こそが心の平和を保つ唯一の手段なのだ。


 しかし、そんな俺のささやかな願いは、昇降口にたどり着く前に、あっけなく打ち砕かれた。


「田中くん」


 背後から、凛とした、しかし有無を言わせぬ響きを持った声がかけられた。


 この声は……。


 恐る恐る振り返ると、そこには、やはり美月さんが立っていた。

 夕焼けの赤い光を背に受け、どこか神々しい雰囲気すら漂わせている。


 だが、その手に持っているものを見て、俺の心臓は嫌な予感を覚えてキュッと縮こまった。

 彼女が手にしていたのは、俺の生徒手帳だった。

 

「あ、あの……なんで、それを……?」

「あなたの机の上に、置き忘れてあったわよ。おっちょこちょいね、田中くんは」


 美月さんは、くすりと悪戯っぽく笑いながら、生徒手帳を俺に差し出す。

 いや、確かに俺の生徒手帳だけど、机の上に置いた覚えなんて……。


 はっ! まさか、こいつ、わざと……!?


 俺が疑念の眼差しを向けていることなどお構いなしに、美月さんは続けた。

 

「少し、お話があるの。屋上へ来てくれるかしら」

「え、屋上……ですか?」

「そうよ。それとも、ここでお話したいのかしら? みんなが見ている前で」


 美月さんは、わざとらしく周囲に視線を巡らせる。

 放課後の昇降口は、まだ多くの生徒たちでごった返している。

 ここで彼女と二人で話し込んでいたら、それこそ変な噂が立つのは間違いない。

 

「……分かりました。行きます」


 俺は、ため息とともに、諦めてそう答えるしかなかった。

 もはや、俺に拒否権なんて存在しないのだ。


 屋上へ続く階段は、普段は鍵がかけられていて立ち入り禁止のはずだ。

 しかし、美月さんは、どこから取り出したのか、慣れた手つきで鍵を開けると、俺を手招きした。

 

(この人、一体何者なんだ……?)


 俺の疑問は、ますます深まるばかりだ。


 夕焼けに染まる屋上は、驚くほど静かだった。

 

 眼下には、ミニチュアみたいに小さくなった学園の校舎と、家路を急ぐ生徒たちの姿が見える。

 涼しい風が、火照った俺の頬を撫でていく。


 美月さんは、フェンスに軽くもたれかかり、遠くの空を眺めていた。

 その横顔は、どこか儚げで、昼間の彼女とはまた違う魅力がある。


 しばらく、二人とも無言だった。

 風の音と、遠くで聞こえる運動部の掛け声だけが、屋上に響いている。


 俺は、この気まずい沈黙に耐え切れず、おずおずと口を開いた。

 

「あ、あの……俺、もう帰っても……いいでしょうか……?」


 一刻も早く、この場から逃げ出したい。

 それが本音だ。


 すると、美月さんは、ゆっくりとこちらに顔を向けた。

 その表情は、さっきまでの儚げな雰囲気とは打って変わって、真剣そのものだった。


「ダメ。まだ、あなたと話しておかなければならないことがあるの」


 その声には、有無を言わせぬ響きがあった。

 ゴクリ、と俺は喉を鳴らす。


 一体、何を話すつもりなんだろうか。

 嫌な予感しかしない。


「田中くん」


 美月さんは、まっすぐに俺の目を見て言った。

 

「あなた、今日の昼休み、私のあの姿を見て……その、正直に言って、気持ち悪いと、思わなかった?」

「え……?」


 予想外の質問だった。

 もっと、脅迫めいたことや、理不尽な要求をされるのかと思っていた。


 でも、彼女の問いかけは、どこか……不安げで、こちらの反応を窺うような、そんな響きを帯びていた。

 旧校舎の空き教室で聞かされた、あの時と同じような問いかけ。


 俺は、少し迷った。


 ここで、お世辞を言うべきか?

 それとも、正直に答えるべきか?


 でも、彼女の真剣な眼差しを見ていると、適当な嘘で誤魔化すのは、なんだか違うような気がした。


「……正直に言うと、理解は……できません」


 俺は、言葉を選びながら、ゆっくりと答えた。

 

「普通の感覚とは、違うと思いますし……驚いたのも、事実です」

「……でしょうね」


 美月さんは、ふっと自嘲めいた笑みを浮かべた。

 その笑顔は、どこか寂しげで、胸がチクリと痛む。


 一瞬、彼女の完璧な仮面の下に隠された、素の感情が見えたような気がした。


「でも」


 俺は続けた。

 

「気持ち悪いとか、そういうふうには……思いませんでした」

「……え?」


 美月さんが、意外そうな顔で俺を見る。

 

「だって、あの時の白鳥さん……なんていうか、すごく……必死で、一生懸命で……。不謹慎かもしれないですけど、その……ちょっと、今回もあのときみたいに綺麗だなって……」


 あああああ!

 また口が滑った!


 俺のバカ!

 なんで正直に全部言っちゃうんだ!


 俺は、顔から火が出るような羞恥心で、思わず俯いてしまう。

 もう、どうにでもなれ。

 笑いたければ笑え。


 だが、予想に反して、美月さんからの嘲笑は聞こえてこなかった。

 代わりに聞こえてきたのは、小さな、本当に小さな、ため息のような声だった。


「……そう。あなたは、そう言ってくれるのね」


 顔を上げると、美月さんは、夕焼けの赤い光を浴びながら、どこか遠い目をして俺を見ていた。

 その表情は、喜びでもなく、悲しみでもなく、もっと複雑で、俺には読み取ることができない。

 

「みんな、私のことを『完璧な白鳥美月』としてしか見てくれない」


 その声には、諦めと、ほんの少しの孤独感が滲んでいた。


「でも、あなたは違った」


 美月さんは、一歩、俺に近づいた。

 

「あなたは、私の『汚い部分』も、『変な部分』も、全部見た上で……綺麗だと言ってくれた」


 彼女の大きな瞳が、俺をまっすぐに見つめている。

 その瞳の奥には、さっきまでの不安の色はもうなく、代わりに、強い決意のような光が宿っていた。


 そして、彼女は言ったのだ。

 俺の人生を、大きく揺るがすことになるであろう、あの言葉を。


「よし、決めたわ」


 彼女の声は、静かだが、有無を言わせぬ響きを持っていた。


「あなたを、私の専属執事にしてあげるわ」


「は………………はぁっ!?」


 俺の素っ頓狂な声が、夕焼けの屋上に、虚しく響き渡った。


 し、執事……?

 メイド喫茶の執事カフェとか、そういうやつか……?

 

 いや、待て。

 

 この白鳥美月さんが、そんな可愛いことを言うはずがない。

 きっと、もっと恐ろしくて、もっと理不尽な何かが、その言葉の裏には隠されているに違いない……!


 俺の不安は、的中することになる。

 もちろん、この時の俺は、まだ知る由もなかったのだが。

 


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