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第11章:予想外の展開

 白鳥美月さんの、あの深淵からの響きのような安堵の吐息が、まだ耳の奥でリフレインしている。


 俺は、女子トイレの前の廊下で、まるで燃え尽きたボクサーみたいに、壁に背中を預けてぐったりとしていた。

 精神的な疲労が、どっと押し寄せてくる。


 たかが昼休み。されど昼休み。


 こんなにも濃厚で、こんなにも心臓に悪い昼休みを経験したのは、生まれて初めてだ。

 

(もう、帰りたい……家に帰って、あったかいお風呂に入って、そのまま泥のように眠りたい……)


 切実にそう思う。

 

 だがしかし、現実は非情である。

 まだ午後の授業が残っているのだ。


 ああ、憂鬱だ。


「あら、田中くん。そんなところで体育座りなんてして、どうしたのかしら? まるで捨てられた子犬みたいで、可愛らしいわね」


 頭上から、鈴を転がすような、しかしどこか楽しんでいる響きを隠さない声が降ってきた。


 ハッと顔を上げると、そこには、さっきまでの切羽詰まった様子が嘘のように、すっかりリフレッシュした表情の美月さんが立っていた。


 頬はほんのり桜色に染まり、瞳は潤んでキラキラと輝いている。

 まるで、エステ帰りのセレブみたいに、全身から幸福なオーラが溢れ出ている。


 ……その幸福の源泉が、さっきの「あれ」だと思うと、なんとも言えない複雑な気分になるが。


「もう、大丈夫なんですか……?」


 俺は、壁に手をつきながら、よろよろと立ち上がる。

 足が少し痺れている。

 

「ええ、おかげさまでスッキリしたわ。本当に、田中くんには感謝しているのよ?」


 美月さんは、にっこりと微笑む。

 その笑顔は、いつもの完璧な「営業スマイル」とは少し違う。

 もっと自然で、親しみが込められているような……いや、待て、油断するな、俺。

 この人は、そういう演技がめちゃくちゃ上手いんだぞ。

 さっきまでの俺は、完全に彼女の手のひらの上で踊らされていたじゃないか。


「そ、それはよかったです……。じゃあ、俺はこれで……」


 一刻も早くこの場を立ち去りたい。

 それが俺の本音だ。

 これ以上、彼女と関わっていると、俺の精神が持たない。


 俺がそそくさと退散しようとした、その時だった。


「――君、そこで何をしているんだね?」


 背後から、低く、威圧的な声が響いた。

 その声には、聞き覚えがある。

 いや、ありすぎる。


 俺の背筋を、冷たい汗がツーッと流れ落ちた。

 ゆっくりと、本当にゆっくりと、まるでギギギと音を立てそうなブリキの人形みたいに振り返ると――。


 そこには、腕を組み、仁王立ちでこちらを睨みつけている男がいた。


 生徒会長、氷室雅人。


 その切れ長の瞳は、まるで獲物をロックオンした猛禽類のように、俺を鋭く射抜いていた。

 顔には、「不審者発見」とデカデカと書いてある。

 いや、書いてないけど、そう見える。


「あ、か、会長……。こ、これは、その……」


 俺は、完全に凍りついた。

 

 やばい。やばいやばいやばい!

 よりにもよって、このタイミングで、この男に遭遇してしまうとは!


 女子トイレの前で、男子生徒が何やら挙動不審な動きをしている。

 客観的に見たら、どう考えても不審者以外の何者でもない。

 言い訳の言葉なんて、何一つ思い浮かばなかった。


「女子トイレの前で、一体何をしていたのかと聞いているんだが?」

 

 氷室会長の声は、あくまで冷静沈着。

 だが、その奥には、明確な怒りと軽蔑の色が滲んでいるのが分かる。


 これはもう、完全にアウトだ。

 絶体絶命。人生最大のピンチと言っても過言ではない。


 俺が、しどろもどろになりながら何か言い訳をひねり出そうと口を開きかけた、その瞬間。

 まるで救いの女神のように(いや、この場合は小悪魔か?)、美月さんが俺の前にスッと割って入った。


「あら、氷室会長。ごきげんよう」

 

 彼女の声は、いつものように上品で、落ち着き払っている。

 さっきまで俺に見せていた、あの妖艶な雰囲気はどこへやら。

 完璧な「学園のアイドル・白鳥美月」モードに切り替わっている。

 その変わり身の早さ、もはや職人技だ。


「やあ、美月さん。君こそ、こんなところでどうしたんだい? もしかして、この男に何か……」

 

 氷室会長の視線が、俺と美月さんの間を疑わしげに行き来する。

 おいおい、まさか俺が美月さんを襲ってるとか、そういうあらぬ誤解をされてるんじゃないだろうな!?

 それだけは勘弁してくれ!


「いいえ、違うのよ」

 

 美月さんは、氷室会長の言葉を優雅に遮ると、ふわりと微笑んだ。


 そして、次の瞬間、俺にとっては全く予想外の行動に出たのだ。

 彼女は、俺が手に持っていた、あの忌々しい医学書――『改訂版・人体の構造と機能』――を、ひょいと指差した。


「彼は私のために、この重い本を持ってくれていただけなのよ。ね?」


 そう言って、俺に向かってコテッと首を傾げ、同意を求めるような視線を送ってくる。

 

 え、えええ!?

 い、いつの間に、そんな設定になってたんですか!?


 俺は、あまりの急展開に言葉も出ず、ただパクパクと金魚のように口を開閉させることしかできない。

 そんな俺の様子を、美月さんは楽しそうに一瞥すると、さらに畳み掛けるように氷室会長に言った。

 

「私、今日は図書館で調べ物をしていたのですが、ちょっと資料が多くて困っていたんです。そうしたら、偶然通りかかった田中くんが、親切に手伝ってくださって。本当に助かったわ」


 完璧なストーリー。完璧な演技。


 まるで、事前に打ち合わせでもしていたかのような、淀みない説明。

 俺は、ただただ、彼女の女優顔負けの演技力に圧倒されるばかりだ。


 氷室会長は、まだ少し疑いの目を向けてはいるものの、美月さんの言葉に、さっきまでの険しい表情がいくらか和らいだように見えた。

 

「……そうだったのか。それは失礼した」


 そして、ダメ押しとばかりに、美月さんは、ごく自然な仕草で、俺の腕にそっと自分の腕を絡めてきた。

 

「ええ。田中くんは、見ての通り少し不器用そうなところもあるけれど、本当はとても優しくて、親切な方なのよ。私が保証するわ」


 そう言って、俺の顔を覗き込み、とろけるように甘い笑顔を向けてくる。

 その瞬間、俺の心臓は、またしても不名誉な音を立てて、大きく跳ね上がった。


 うぐっ……!

 

 分かってる!

 分かってるんだ!

 これは全部演技で、俺は彼女の手のひらの上で転がされてるだけだって!

 

 でも……でも……!

 こんな風に、学園のアイドルに腕を組まれて、あんな甘い笑顔を向けられたら、どんな男子だって勘違いしちまうだろ!


 俺のチョロい心は、早くも陥落寸前だった。


 氷室会長の表情が、みるみるうちに曇っていくのが分かった。

 その瞳には、嫉妬と、焦燥と、そしてほんの少しの敵意のような色が浮かんでいる。


 ああ、これは完全に、氷室会長の逆鱗に触れてしまったパターンだ。

 俺の、ただでさえ平穏とは言えない学園生活に、また一つ、新たな波乱の火種が投下された瞬間だった。


「……そうか。それなら、私も手伝おう。美月さん、どんな資料が必要なんだい?」


 氷室会長は、なんとか平静を装ってそう言ったが、その声には隠しきれない棘がある。

 俺と美月さんの間に割って入ろうとするかのように、一歩近づいてくる。


 まずい。このままじゃ、さらに面倒なことになる。

 そう思った俺は、咄嗟に口を開いていた。

 

「あ、あの! もう、大丈夫です!  俺が、ちゃんとお手伝いしますから! ね、白鳥さん!」

 

 俺は、必死の形相で美月さんに同意を求める。

 これ以上、氷室会長を刺激するのは得策じゃない。


 美月さんは、そんな俺の意図を正確に読み取ったのか、あるいは単にこの状況を楽しんでいるだけなのか、こくりと小さく頷いた。

 

「ええ、そうね。それじゃあ氷室会長、これで失礼しますね」


 そう言って、俺の腕を軽く引きながら、氷室会長に完璧な笑顔で会釈する。

 そして、俺たちは、どこか釈然としない表情の氷室会長を残して、その場を後にするのだった。


 女子トイレの前から少し離れた廊下で、俺はようやく緊張の糸が切れたように、大きく息を吐いた。

 

「はあ……助かりました……。でも、なんであんな……」

「あら、田中くん。私、何かおかしなこと言ったかしら?」


 美月さんは、きょとんとした顔で小首を傾げる。

 その無邪気な表情を見ていると、さっきまでのドSな女王様の姿が嘘みたいだ。


 この人、本当に何枚の顔を持ってるんだ……?


 俺の混乱をよそに、彼女は楽しそうに鼻歌を歌いながら、軽やかな足取りで廊下を歩いていく。


 その背中を見つめながら、俺は、とんでもない人物の、とんでもない秘密に関わってしまったのだという事実を、改めて痛感させられるのだった。


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