第2話① その男、勇者にあらず――商人である
勇者は、壁に頭を突っ込んだまま倒れていた。
召喚の間に、じんわりと静寂が広がっていく。
その中心で、王女リーゼロッテは、自分の右拳を見下ろしていた。
(……勢いで、やってしまいましたわ)
十賢人の合図で、貴族や侍女たちがぞろぞろと退出していく。
みんな、なかったことにしたいのだろう。できることなら、自分だってそうしたい。
けれど――
ピクピクと痙攣している“あの人”が、星霊様のお導きで呼ばれた異界の――“勇者”だというのなら。
(……私は、一体どんな冗談の中に生きているのかしら)
それが、この国の命運を握る存在だなんて。
誰が信じられるというの。……いや、信じなければいけないのだけれど。
それでも。
(……しかも、その人が。
私の、未来の旦那様ですのよね?)
何度思い返しても現実味がない。
いや、現実であってほしくない。
(……ねえ、星霊様。ちょっと説明してくださらない?)
王族としての人生は、それなりに覚悟してきたつもりだった。
でもこれは、もう覚悟というより、試練ではありませんこと?
(いえ! でも! 仕方ありませんでしょう!?)
内心で必死に言い訳を並べる。
だって――彼は、いきなり「子作りしませんか?」なんて。
よりにもよって、自分の母――セリーヌ王妃に、そんな破廉恥なことを言い出したのだ。
(正気の沙汰じゃありませんわ!!)
……いや、ほんとに。
数日前、星霊様から託宣が下ったとき、御前会議の空気が一瞬で凍りついたのを覚えている。
『この国に“厄災”が迫っている』
『唯一の対処法は――異界から勇者を召喚すること』
そして、もうひとつ。
(勇者召喚と同時に、私の即位。そして……その勇者を、王配に?)
思い返すだけで頭が痛くなる。
つまり、“召喚されたばかりの異世界人”が、
リーゼロッテの夫になることが、最初から決まっていたということ。
(逃げ場なんて、最初からなかったんですのね……)
もちろん、政略ですよ。
王配には“華楼公”の地位が与えられて、後宮の妃たちを調停する役目もついてくる。
要するに――
(政治と派閥と愛人の火種を、全部一人で背負ってくださいまし、ってことですわ)
しかも、華楼公には各派閥から妃が集められて、
王家は血を継いで名を守り、貴族は血縁を得て権力を強め、
十賢人は――あの人たちは、政を“操る”ために黙って頷くだけ。
(はいはい、いつものお約束ですわね)
でも……わかってましたのよ。最初から。
そんな均衡の上でしか、この国が生き残れないことくらい。
だから、リーゼロッテは決めていた。
(どんな相手が召喚されようと、きちんと受け入れて、王家の務めを果たそうって……)
そう決めていた。そう、ずっと。
それなのに――
(よりにもよって……お母様に手を出そうとするなんて……)
拳が出たのは、理性のせいではない。
本能だった。
(いやもう、無理ですわよ! 脳が焼き切れますわよ!!)
もちろん、やりすぎたのは理解している。
でも。
(でも……アレは……あんなの、正気で聞けるわけないじゃありませんの!?)
ぐらぐらと揺れる理性にしがみつきながら、なんとか自分を正当化しようとする。
(私の行動は、きっと間違ってなど――)
……たぶん。
いや、たぶん。きっと。……たぶん。
「り、リーゼ……だ、旦那様に、なんてことを……」
「ち、違うのよお母様! こ、これはその……そう! 愛情表現よ!」
叫んだ自分の声に、自分でもビビる。
どう聞いても、言い訳というより事故報告である。
「は、初めてお会いした感動で……つい、感極まって……ほんの少し、興奮してしまったの!」
「……あ、愛情表現……ですの?」
セリーヌの微笑みが、ゆっくりと引きつっていくのがわかる。
(やばい、ダメですわこれ。完全に変な子扱いですわ……)
「……こ、これは……その……私には少々、理解が……」
「愛情表現ニャ!? リーゼロッテは拳で語るタイプかニャ?」
「ち、違いますわっ! これは……その……!
“王族としての威厳を示す一撃”ですの!!」
両拳を構えて威嚇するように振りかざす。
(……猫か。私は猫なのか)
だが、自覚だけでは止まらない。
「わ、わたくしは決して暴力的などではなくて……っ!
だ、だいたい悪いのはそちらですわっ!」
床から這い起きてくるユーリを、震える指で容赦なく指さす。
「いきなり…………あの、その、子孫繁栄的な何かを前提とした……建設的な……国益的協議を……その、夜間帯に……っ! するなんて言い出すなんて、
勇者としての自覚が――まるで足りてませんわっ!!」
それは、極めて美しい責任転嫁だった。
【あとがき】
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