第四話 殿下の胸はがっしりしてて
テーブルの上を片付けて貰い、アリサが持ってきた資料を広げる。
「これは……」
「カイエンの視察の予定と、関連する資料をまとめたの」
四日間のスケジュールと目的の一覧、それに各項目の詳細を書いた別紙を、カイエンは一枚ずつ手にしていく。
「まさかこれ、一人でまとめたのか?」
「当たり前じゃない。このくらいなら、人を呼ぶまでもないでしょ」
「いや……、昨日から今日にかけての間で、だろ」
「ううん。今朝作ったの」
「今朝──」
カイエンがペンを持ってくるように指示を出す。
そうね。気になるところとかは、どんどん書き込んで貰う方が良いかも。
「リュシーは、仕事の速さも前と変わらないねぇ」
「そう? でも王太子妃やってた頃は、人にお願いする仕事も多かったから」
「人に仕事を頼めるのも、できる人の条件さ」
妙に褒めてくれる。
(考えたら、カイエンって褒め上手よね。いつも褒めてくれてたなぁ)
彼は詳細が書かれた紙に、なにやら書き込みをしていた。
疑問点や、確認したいことなどだろう。
「リュシー、詳細ページは完璧だ。だが」
ぺらりと私に見せたのは、四日間のスケジュール一覧の紙。
「これだけはいただけないな」
「何が不満?」
「四日間というところさ」
「え? 一番内容理解をしやすく、かつ効率的に回れるように、ジャンル別、エリア別に日をわけたのに」
「そうじゃない」
カイエンはその紙をテーブルに置き、笑う。
「そんなに、急がなくてもいいんだ」
「いや」
「俺は、じっくり視察したい」
「でも」
一瞬の沈黙。
「最短で効率的に進める方が、良いでしょ?」
「安心してくれ。時間はしっかりと確保して来ている」
「早く終われば、その分他の仕事をしに王都に戻れるじゃない」
私の言葉に、彼は懐から一枚の紙を出した。
「俺は、じっくりと二人きりで話を聞きたいといっただろ?」
(二人きり?)
「いやいや、視察は二人きりとはいかないでしょう」
「まぁな。でも俺は、リュシーの話をじっくり聞きたいんだよ」
「そっか。視察の最中に、いろいろ疑問もわいてくるだろうしね」
そう返すと、カイエンは軽く肩をすくめ、笑う。
その微笑みを見て、なぜか心臓がドクンと跳ねた。
(なに、今の……? ただの視察計画の話よね?)
そうして彼が広げたそれは、十日間の視察スケジュールだった。
「とりあえず、視察だけで十日間かけていこう」
「と、十日……」
「三週間いる、って言っただろ? 視察に十日、残りはリュシーの知識を聞きたいな?」
そう言うと、カイエンは私の手を取り、にっこりと笑った。
「リュシー、早速明日からよろしくな」
彼の指が、優しく絡むように手を包む。
「え、あ、うん……」
(カイエン視察四日間計画は──失敗に終わったのね……)
そんなことを思う私の心臓は、この先のことを考えてなのか──まるで早鐘のようにバクバクとしていた。
***
翌日は、日が昇るか昇らないかという時間に、出立した。
「馬でまわる方が早いのに」
「でも馬車なら、ゆっくり二人で会話できるだろ?」
薄暗い中、私の向かいに座るカイエンは、そう言って笑う。
「あ、確かにそうね」
(馬車なら、移動中にも資料を見せながら説明もできるわ)
さすがは王太子殿下! そこまで考えているとは……。
思わず尊敬の目を向けると、カイエンは少し困ったような顔をしている。
「絶対、俺が思ってるのと違うこと、思ってるよなぁ」
「きっと同じよ?」
「……そう思っておく」
夜明けを迎える空は仄かに明るく、青と白のグラデーションが美しい。
(薄暗いところで見ても、カイエンってかっこいいわよねぇ)
そう。カイエンは顔が良いのだ。
その血は、しっかりとノアにも受け継がれているようで、感謝してしまう。
(初めて会ったときも、別に……嫌だったわけじゃないしね)
「綺麗だな」
そんなことをぼんやりと思っていると、カイエンから声がかかる。
「ええ。この夜明けの景色も、うちの領地の」
「リュシーだよ」
「え?」
「リュシーが、夜明けの色に染まってて、綺麗だなって思ったんだ」
カイエンの言葉に、思わず瞬きを数回してしまった。
私? が? 綺麗?
そんなことを言ったら──。
「カイエンも、とてもかっこいいわ」
素直に思ったことを伝えられる。
やっぱり、恋愛で始まった結婚じゃなかったから、別れた後もこうして気持ちが伝えられるのね。
でもなぜか、カイエンがほんの一瞬、動きを止めた。
(あれ?)
夜明けというのは、あっという間に明るくなる。
その明るい日の下で、カイエンの頬が僅かに赤くなっていた。
「カイエン? 熱でもあるの?」
カイエンの横に移動し、私の額と彼の額をコツリと重ねる。
「熱は……なさそうね」
「ちょっ。リュシー」
「あ! ごめんなさい、つい」
(ノアにするときの癖で……!)
慌てて元の席に戻ろうとしたとき、馬車が大きく揺れた。
「ひゃっ」
「危ない!」
カイエンの手が私の体を引き寄せる。
そのまま私の体は、彼の腕の中にすっぽりと収まってしまう。
(む、胸板が……! 胸板が、四年前よりもがっしりと……!)
そういえば、カイエンは剣の腕が良かった。
この四年の間に、さらに鍛錬を積んだのかもしれない。
「大丈夫か?」
「う、うん……」
(耳! 耳の近くで話さないで!)
カイエンのテノールの声が、私のすぐ近くで聞こえた。
こんなに近距離で、彼の声をまた聞くことになるなんて──。
「殿下、お嬢さま、申し訳ありません! 大丈夫でしたか?」
思わぬできごとに、心臓がドキドキしている。
「ああ、大丈夫だ。何かあったか?」
「狐が前を横切りまして」
「殺してはいないな?」
「はい。無事に逃げていきました」
「そうか」
カイエンが対応をし、ゆっくりとまた馬車が動き出した。
「あの……」
「ん?」
「助けてくれてありがとう」
「ああ。リュシーに怪我がなくて良かったよ」
「あの……」
「ん?」
「その、もう大丈夫だから」
「ああ」
(私、なんで抱きしめられたままなの?!)
あまりにももぞもぞと動いていたからなのか。
カイエンが笑い出した。
「ははっ。ごめんごめん」
そうして私の体を抱きしめていた腕が、ゆっくりと離れる。
「もう、からかって!」
「からかってなんか、ないよ」
やわらかに笑みを浮かべるカイエンに、なんだか気持ちがそわそわとしてしまった。
誤魔化すように、窓の外を見る。
「あ! そろそろ到着よ」
やがて止まった馬車から、降りようとすると、後ろからカイエンに抱き寄せられた。
「なに?!」
「足を怪我する。一人で降りようとするな」
「大げさねぇ。大丈夫よ」
「頼むから」
そう言って、彼は私を抱えて馬車を降りる。
(別に、ステップが着いてるんだから大丈夫なのに)
「カイエンが過保護なのも、変わらないわね」
「過保護なんじゃなくて、心配なんだって」
「……ありがと」
(結婚してたときも、カイエンはずっとこんな風に、私が怪我をしないように、気を配ってくれてたわね)
「リュシーが無事なら……俺はそれでいい」
カイエンは、ぽつりとそう口にした。
いつもそう思ってくれてたのだろうか。なんだか、胸が熱くなってしまう。
「さぁ! 農地の視察開始よ!」
私は、目の前に広がる農地を両手を広げて指し示した。
カイエンと、馬で随行してきた補佐官たちが、目を瞠る。
「これはすごいな」
そう。
今から十二年前に始まった戦争で、我が領地はボロボロになった。
それが今では、見事な麦畑となっている。こんなに早い時間だというのに、領民がすでに働いていた。
「この土地、戦争でかなりやられて、不毛の地になったところだよな」
「うん。だから改善したの」
私の目には、戦争でどんどんと駄目になっていく、あの頃の景色が浮かぶ。
私が十歳のときだ。
このままじゃ、領地が駄目になる。そう思って、戦いに出ているお父さまやお兄さまに代わって、私ができることを考えた。
それが、農業の研究や、そのほかの産業の勉強だった。
「戦後復興会議があっただろ?」
私とカイエンの結婚の王命が下った、あの会議だ。
実際には、数日間に渡っての会議だった。
「あのとき、怪我で参加できない辺境伯の名代で、リュシーが来て」
「実は名代は、お兄さまだったのよねぇ」
カイエンが少し驚いた顔をする。
「……それ、初めて聞いたな」
「だって、お父さまもお兄さまも、戦時中の領地の状況は知らないでしょ?」
もちろん、報告は随時していた。
でも、戦後復興の我が領地に必要なものは、私が一番分かっていたのだ。
「あのとき、リュシーがあの場の空気を仕切ったのを、今でも覚えてる」
「仕切るなんて、大げさね。ただ、必要なことを話しただけよ」
「いや、君はあの場にいた全員を黙らせたんだ」
思い出して、笑いが零れる。
最初は会議に出席している他の貴族が、私を侮っていた。
だから私は、ギャフンと言わせてやりたくなったのだ。