第二十話(最終話) 私の選択
私の体を抱きしめるカイエンの腕に、少しだけ力がこもった。
そんな彼を安心させようと、私は彼の胸に頬をぐりぐりとこすりつける。
「私ねぇ」
そう言うと、彼からパッと離れた。
離れて見えたカイエンの表情は、不安に揺れている。
私は思わず、背伸びをして彼の頬に唇を寄せてしまった。
「リュッ……!」
私のキスに驚いたのか、カイエンの動きが一瞬止まる。
とさりと踵を地面に落とすと、再び彼に抱きつく。
「カイエンの想いを受け入れると、自由ではいられなくなるって──思ってた」
(誰かが誰かを大切に想う気持ち。それに制約なんて、何もないのに)
「リュシー。俺を……」
抱きしめられた体が、熱を持つ。
彼の腕は、誰よりも私を守ってくれる盾だ。
「俺を受け入れるのを、畏れないで欲しい」
カイエンのその言葉は、この長い時間の彼の心そのものだった。
無理に私の中に入り、めちゃくちゃに傷つけることなど一度もしない、優しい人。
だから私も、あなたを守る盾になりたい。
「カイエン。すぐに、結婚しましょう」
彼の背に腕を回し、見上げる。
そこには、変わらないガーネットの瞳が、柔らかく輝いていた。
「婚約期間なんて、いらないわ」
その瞳に、私が映っている。
「早くあなたの妻になりたいの」
***
それからのカイエンは迅速だった。
すぐに私とノアを王族籍に追加し、正式に妻と子という記載を書類に残す。
結婚式なんてやらなくても良いという私に、お父さま、お兄さま、陛下、果てはノアまで味方につけて、結婚式を執り行うことを決める。
一年先まで予定がびっしりだと叫ぶ、王太子付きの侍従に無理矢理半年後のスケジュールを空けさせて、彼の呻きが聞こえてきたりもした。
それも、三ヶ月前のこと。
「王太子妃殿下!」
天気の良い昼下がり。
王城の廊下を歩いていると、後ろから声がかかる。
振り向けば、農政事業部の役人が数人書類を持って小走りに近付いてきていた。
「この植物の使用法について、教えていただきたく」
「ああ、ネコサフランね。その球根から採れるコルヒチン液に種を浸してみて。花も実も大きくなるから」
注意事項も忘れずに伝える。
「ただ、中毒症状があるから扱いは気を付けて。管理を徹底してね」
「はいっ!」
彼らは私に礼をすると、すぐにでも試そうと言わんばかりに、その場を辞していった。
(領地だけじゃなく、国のために農業の研究が生かせるなんて)
王太子の担当であった農政事業を、カイエンが私の担当にして三ヶ月。
我が領地アストレアを視察にきていた補佐官たちが多数存在するこの部署は、私を歓喜で迎えてくれた。
(小娘が事業に口出しするな、って言われるかと思ってたのに)
それだけではない。
王城の一室。お茶会をするためのコンサバトリーに、私は足を進める。
そこにはすでに、数人の貴族夫人や令嬢が集まっていた。
「遅くなってごめんなさい」
私が中に入ると、すぐに皆が立ち上がる。
「いいえ、私たちが早く到着してしまいましたの」
彼女たちの中で、一番地位の高いザイヨン公爵夫人が、口を開く。
「公爵夫人にそう言っていただけると、気持ちが楽になります」
笑みを浮かべ、彼女たちに席を勧める。
今日は、中立派のお茶会だ。
「王太子妃殿下のお召しになっているドレス、お色が美しいですね」
「ありがとう。ポマース染めなの」
「まぁ! 最近王都で話題の?!」
ザイヨン公爵令嬢アントリエ嬢が、目をキラキラさせる。
ポマース染め、なんて名前を付けたが、これはアストレア領でやっていた、ワインの絞りかすを使った染め物だ。
──ワインの絞りかすなんて言ったら、プライドの高い貴族たちは身につけたがらないだろう。
そう言って、名前を付けたのはカイエンだった。
その名で売り出したところ、美しい色の布地は、瞬く間に王都で流行となった。
(以前は社交なんて、面倒なものって思ってたけど)
この三ヶ月で、数回お茶会を開いた。
元ホーツグリル公爵派の貴族も呼びよせ、こちらへと与しやすい状況を作ったり、こうして私たちに近しい立ち位置の貴族たちと、穏やかなお茶会をしたりもした。
(こうして、領地や国の産物を貴族に流行らせる。これって、より産業を盛り立てる役割になるのよね)
アストレア領だけではなく、王国全土の農作物を使ったお菓子を考案し、提供する。
副産物で作った商品を、彼女たちに浸透させる。
どれも、アストレア辺境伯領だけでは、限界のあることだった。
(自分のやりたいことを俯瞰すると、気付くことって、割とあるのねぇ)
やりたいことをする。それが自由なのだとばかり思っていた。
けれど、やらないといけないことを利用して、やりたいことを実現する。それこそが、自由なのだと気付いた。
「お邪魔するよ」
と、お茶会もそろそろお開き、といった頃に、聞き慣れた声が開け放っていた扉の方から聞こえる。
「カイエン」
私が彼の名を呼ぶのと同時に、きゃぁ! という黄色い声が広がった。
「どうしたの?」
「そろそろ会も終わりかと思って、迎えに来たんだ」
「あらあらまぁまぁ。カイエン殿下は本当に、リュシア殿下のことを大切にしておられる」
ザイヨン公爵夫人が、満面の笑みでそう言えば、カイエンも笑顔で頷く。
「本当はひとときも離したくないくらいだからね。でも、それじゃあリュシーらしくないから」
再び、黄色い声が広がった。
「……カイエンって、人気なのねぇ」
その声を聞いてぽそりと呟いた私を見て、部屋中の女性が何度も瞬きをする。
(ん? 何か変なこと言っちゃった?)
「カイエン殿下。頑張ってくださいませね」
今度は、ザイヨン公爵令嬢アントリエ嬢がそんなことを彼に言う。
どういうこと? と彼の袖を引っ張れば、カイエンはただただ微笑むだけだった。
「俺たちはこれで失礼するよ。ここはしばらく解放しておくから、しばらく話でもしていってくれ」
「カイエン殿下ありがとうございます。お二人の仲むつまじいお姿を拝見したら、私たちもう少しおしゃべりをしたくなってしまって」
ザイヨン公爵夫人の言葉を受け、カイエンと私は、そのままコンサバトリーを後にした。
「ねぇねぇ、私何か変なこと言っちゃった?」
「いや。リュシーは変わらないなぁって思っただけ」
「結構変わったと、思うけどなぁ」
唇をつぼめて抗議をしようとすると、その先端にカイエンの唇が落ちる。
「ちょっ!」
「いや、かわいくてつい」
「ついじゃないでしょっ」
「お母さま! お父さま!」
外廊下の向こうから、サリーに手を引かれて、一生懸命歩くノアが手を振った。
「ノア!」
カイエンを引っ張り、ノアの元へ駆け寄る。
膝立ちをした私の足に、駆け上ってきたノアの体重を感じた。
同じように膝立ちをするカイエンが、ノアの頭を優しく撫でる。
ノアは、嬉しそうに目を細めた。
(あぁ──幸せだな)
カイエンとノアと親子三人で暮らせる。
(これって、とっても自由なことなのね)
ふと、思い出す。
離婚して領地に向かっていたあの日。
アストレア領に向かう馬車の中から見えたあの空は、私が自由になった証だと思っていた。
それは確かに、そのときにはそう思えていたのだけれど。
(何を自由と感じるのか。いえ、私にとっての自由とは何だったのか)
穏やかな風が吹く。
夏の気配をはらんだ空気が、鼻腔をくすぐる。
ここから見える空は、あの日と同じように青く高い。
王城の庭には、色とりどりの花が美しく咲いていた。
今頃は、アストレア領でも野菜たちの花が咲き誇っているだろう。
「カイエン、ノア。二人とも大好きよ」
私の言葉に、二人は柔らかな笑みを、浮かべる。
「お母さまも、お父さまも、だいすき!」
「リュシー、愛しているよ」
カイエンが、ノアごと私をそっと抱きしめた。
彼の優しさが、伝わってくるそれに、なんだか泣きそうになる。
大切なものをたくさん、手に入れた。
だから、こぼさないようにしっかりと、抱きしめていこう。
共に、歩いて行くために。
私は自由を、選んだのだから。
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