30.医者
「わお」
家に帰ると母が医者を呼んでいた。
どうやら私の為に呼んだらしい。わざわざ家に来てもらうなんて申し訳ない。それに、私はどこも悪くない。健康だ。
「ユユ、もう安心して良いわよ」
むしろ不安だよ。
「母様、なにゆえ医者を……」
「いいから、少しお話だけでもしなさい」
……トラウマを克服するためにも会話だけならしようか。レッツトライ!
医者の前に腰を下ろす。家のソファの方が学園長室のソファよりふかふかだ。秒で睡魔に襲われる。
私の敵は医者だけでなく、睡魔も加わった。二対一はせこいぞ。
「こんにちは」
医者は紅茶を少し口に注ぐと、ティーカップをカチャッと机の上に置き、私に笑顔を向ける。
白い髪、ふさふさの髭、丸眼鏡、脂肪が人並みよりも多い体、……典型的な医者の見た目をしていてむしろ嘘っぽいな。
「ども、こんにちは。ユユ・ベーカーです」
私はそう言って、軽く会釈する。その態度がまずかったのか、私の横に座った母からの圧力をとんでもなく感じる。
「最近の調子はどうだい?」
「絶好調っす」
母が私の足を彼にばれないように踏む。思わず、『い』に濁点が付いた言葉を発してしまう。
「どうかしましたか?」
「只今母様からの制裁を受けまして」
彼は不思議そうな表情を浮かべる。母はもう一度私の足を踏む。既に経験済みの痛みに私は声を出さず我慢した。
偉いぞ、私。私の経験値はきっと五ぐらいアップしたはずだ。
目指せチートヒロイン! 男に頼らず生きてくぞ!
「えっと、ユユ様にとってのストレスは何かありますか?」
母様と医者ですな。
「ないようなあるような、ない寄りのあるって感じです」
「……つまり、あるんですね。具体的にどんな?」
「黙秘で」
「そのストレスが後に大きくなり、ユユ様を余計に苦しめることになるかもしれません」
今、とても苦しめられています。医者よ、今すぐ私の前から立ち去れ。
……今の状況を脱出ゲームだと考えよう。この状況から逃げたい。
まずは、母を説得……は、無理だ。ということは、医者を攻略しなければならぬ。
「医者よ、私に時間を割くなんて人生勿体無いと思わないかい?」
「ちょっと、ユユ一体何を言いただすの!?」
「こんな女に時間を使うのなら、家に帰って奥さんに甘い言葉の一つや二つ言った方が良い。そうすれば、私のストレスも解消され、貴方もハッピーになる。これぞ一石二鳥!」
「ですが、私の仕事は……」
「仕事は終わりっすよ! 今すぐ家にゴーゴーレッツゴー!」
「え、ですが」
「なぁ、誰か俺の本知らないか?」
私達が会話をしている時に、突然兄が部屋に入っていた。
おお! 救世主! メシア!
なんていいタイミングなんだ。素晴らしい兄を持って良かった。全世界がこの兄弟愛に涙を流すだろう。
「さっき、見たわよ。ちょっと待って」
そう言って、母は立ち上がり、席を離れた。
ユユ・ベーカー、十六歳、雌、このチャンス、逃しやしない!
「さぁ、早く家に帰るのです!」
「だが、まだ診断は」
「終わりました」
戸惑う医者に私は目を見開いて圧をかけるようにそう言った。
「貴方は今すぐ奥さんにアイラブユーと伝えるべきなのです。それが使命です」
「え、あ、はい」
「うむ、よろしい。今日は来てくださり有難うございます。では、もう二度とお目にかかることはないでしょうが、お元気で!」
満面の笑みで私は彼に手を振った。彼は口を開けて、奇妙なものでも見るように私を見る。
「ちんたらしてる暇はない。じゃないともうすぐ般若がやってきます」
勿論、般若は母のことだ。
医者は私の圧に負けて、鞄を持ってそそくさと部屋を出て行った。
ちょうどその瞬間、母が私の元へ戻ってきた。
「ユユ? 何をしているの?」
今までに聞いたことのない恐ろしい声に、母の顔を見れない。
生還できねえ、と本能で悟る。
「兄上! 私を助けろ」
私はバッと兄の方を振り向く。
切羽詰まった私の顔を見て、兄上は少し後退る。
「ぶ、無事を祈る」
そう言って、兄は私を置いて部屋から一目散に出て行った。




