厄災3
「曇ってる……雨降るのかな」
窓から空を見上げたアリスが呟く。
曇天が空に蓋をして、湿気た空気が流れ込む。
「昼間は大丈夫みたい。けど夜には降り出すから、仕事が終わったくらいに降り出すかもね」
楽しみにしていた小説を読みながらエレナは言った。
何気ない時間は過ぎていく。
◆◆◆◆◆
――――夜。
降り注ぐ月光は、分厚い曇天に遮られ、重々しい空気が漂う時間。
そんな日にも関わらず、エレナの働く酒場は陽気な客が賑わっていた。
子供は寝静まり、酒場以外は静寂が包み込む。
――――アルトナの街の門を護衛する衛兵。
三交代で配置される衛兵は、アルトナの街を囲う壁の門を護衛する。
怪しげな人物が入ろうものなら取り押さえ、人手が足りなければ発煙石で合図を送り、街の中央の高台で構える衛兵に警鐘を鳴らさせる。
それが彼らの仕事だ。
「ふあぁ……暇っすね先輩。しりとりでもします?」
開く大口に手を当てて力の抜ける声を出す若い衛兵。
そんな彼に、少し年上の衛兵は厳しく答えた。
「気を引き締めろ! 我々の役目はこの街を守ることだ。もっと責任感というものをだな……」
「あーはいはい。すいませんって。でも、町を守るって言ったって、俺この仕事に就いてからもう三年近く経ちますけど、今まで何か起こったことないじゃないですか」
「かもな。しかし、危険というものはいつ襲い掛かるか分からないものだ。気を抜いた瞬間にってこともありえなくはない。可能性があるなら我々はその可能性を例え小さくても消さねばならない。そうやってこの町も平穏にぁッ――――――………………」
「どしたんすか先輩……せん、ぱい?」
聞き流していた説教が突然途絶え、若い衛兵は先輩衛兵の方を見た。
壁に背を任せ、朱色の流動体が口から流れる。
喉を何かに貫かれ、その眼には光が、無い。
「先輩ッ! 先輩ッッ!!」
身体を揺らすも、魂が蒸発したかのように、肉体は力を持っていなくて。
目前の死を受けて、唖然とする若い衛兵の前に何かが通り過ぎた。
風を切ったそれは、壁に深く突き刺さり、
「ッ――――!」
飛んできたそれが矢だと視認した瞬間、若い衛兵は発煙石を頭上に投げる。
月明かりもない夜でも、その煙は輝いて、中央の高台にまではっきり見える。
確認した高台の衛兵は、警鐘を強く鳴らす。
鐘の音が、静寂に響き渡る。
その音が全体に広がると同時――――
「「「「「―――――――――ぉおおおおおおぉおおおおおッッッッ!!!!」」」」」
流水のように門から流れ込む荒くれ者たち。
武器を片手に街を駆けて、その恐怖はすぐに浸透した。
「町の住人に構うな! 俺達が狙うは領主の首だッ!!」
悲鳴を轟かせて逃げる街の住人に、彼らは見向きもしない。
立ち向かう衛兵をなぎ倒し、彼らは一直線に領主の屋敷に向かって行った。
だが、そうしているのは一部だけなようで。
「ぐぁおあ!?」
背後から斬り付けられて、逃げていた男が倒れた。
絶命するまでに時間を要さない深い一撃。
それをした男は、恐ろしく冷たい目をしていた。
「おいテメェ!」
それを見た、今作戦の総指揮である頭は、冷酷な眼をした男の胸ぐらを掴み上げる。
「今回の作戦は領主だけだ。無駄な血を流すんじゃねぇ」
眉を寄せて、鋭い眼力をぶつける頭。
だが、冷徹な眼の男は、その言葉を鼻で笑う。
「おいおい、アンタがここの領主に何の恨みがあるのか知らねぇが、この場にいる連中のほとんどは関係のないことだ。俺達は殺して奪う盗賊だ。そのことを忘れたのか?」
この組織、領主に恨みを持つのはほんの一部で、他のほとんどはただの協力組織に過ぎない。
勢力的には総指揮である男の勢力が一番だが、全体から見ると、それもほんの一部。
「今回の作戦は俺がリーダーだ。俺の指示に従ってもらう!」
冷徹な目の男は、呆れるように溜息を吐いて、
「まだ分かんねぇのか。とっくに統率なんか取れてねぇんだよ。俺達は――」
「なっ――――ぐふぅっ……」
冷徹な目の男は歪んだ笑みを刻む。
頭は込み上げるものを吐き出して、胸に刺さる鋭い感覚の正体を黙視した。
分厚い刀身の剣が、頭の心臓を貫いていて。
「あぁ~あ、やっちまった」
台詞と共に笑みを刻んで、顔に掛かった血しぶきをふき取ると、
「やろぉどもぉ!! こっから先は自由だ! 奪って殺して暴れまわれぇぇぇえええい!!!」
―――――――――――――ッッ!!!
タガが外れた集団は、もう抑えが効かなくなっていた。
見えたものは殺し、欲しいものは奪い、街は焼き、血と殺戮の光景が夜を侵食する。
そんな中、賊の襲撃した場所から一番離れていた区画にある酒場――――。
「んぉ? なんか鐘の音がしなかったか?」
「あ? 飲みすぎて頭に響いてんだよ」
「それになんか、外が騒がしいような……」
そんな会話が客から漏れだした時、酒場の扉が勢いよく開かれた。
「たたた、大変だ! 南から盗賊が襲撃して来たぞ! 早く逃げろッ!!」
駆けこんできた男はボロボロで、よく見ると腕を怪我している。
その眼は恐怖に歪んでいて、静けさを取り戻した酒場に、警鐘と悲鳴の不協和音が轟いた。
次々と客が外へ出て、その光景を目の当たりにする。
地獄を映した、絶望の光景を――――。
「にげろ……に、逃げろぉぉおッッ!!」
最早誰が叫んだか分からない。
だが、この場にいる人は一斉に走った。
誰よりも早く、遠く、逃げる。走る。
「「…………」」
同じく外に出たエレナとアリス。
二人は地獄と化した世界に、ただ唖然と立ち尽くしていた。
「……ぁ……ぇ」
言葉が出ない。
焼けた街の焦げた匂い、鼓膜を破るような悲鳴の連鎖。
「…………ふぅ、アリス……行くよ」
エレナは現実を飲み込む。
震える足に力を込め、となりで立ち尽くすアリスの腕を引く。
恐怖で震えるアリスにとって、今のエレナはとても心強くて。
「……うん」
いつの間にか、震えていた足が動いていた。
二人が逃げる場所、この街の住人が逃げる場所はただ一つ。
アルトナ大聖堂。
人々をこの炎から守り、賊の侵入を禁ずる力を持つ場所。
そこまで逃げきれれば助かる。
「「はぁはぁはぁはぁ…………」」
全速力で走り、肩で息をする二人。
大聖堂は逃げてきた人で一杯になっていた。
「エレナちゃん、アリスちゃん! 無事だったか。早く中へ」
大聖堂は広く大きいが、流石に街中の人を詰め込むとかなり狭い。
座る事など当然出来ず、エレナ達が中へは言いても次いで次いでと逃げてくる人が大聖堂に入っていく。
「大丈夫……大丈夫…………」
アリスの手を握り、エレナはアリスに、否、自分に言い聞かせるように何度も何度も同じ言葉を繰り返した。
だが、心の中では徐々に不安が募っていく。
火はもう街中を包んでいるだろう。
衛兵が賊を討伐しに向かっているだろうが、これだけの規模の襲撃を行える相手は、強さの前に数が多いだろう。
対して衛兵は数十人程度。
この状況、どちらが勝つかは戦術、戦略を考慮する前に単純な数の差で衛兵は負ける確率が高い。
大聖堂は一度扉を閉めれば、中からしか開けられない力がある。
だが、この場所で過ごせる時間は短い。
賊が何日も、何週間も居座れれば、餓死か殺されるかの選択を迫られる。
はっきり言って、この場所が安全である保障は無い。
こんな事、何故エレナが考えているのだろうか。
他の人は全員神に祈っているばかりで、この状況は分析することに時間を使っていない。
(神に祈る…………ぁぁそっか)
自分には賭けだが可能性があるから。
自分を神と豪語し、この危機からエレナを、皆を助ける力を持つかもしれない男。
人間離れした力を、エレナは一度だけ、規格外の跳躍を体験した。
今思えば、彼は不思議な存在だった。
この場所でじっとしていることしか出来ない他とは違って、エレナは、エレナだけは行動の選択が残っている。
だから、エレナは不安の渦に飲まれながらも冷静でいられるのだ。
「アリス…………」
その声は、強く勇ましい。
だが、アリスには何故か胸を締め付ける何かがあった。
「いい? ここにいるみんなは恐怖で冷静な判断が出来てない。もし、外から声がかかっても、絶対に扉を開けさせちゃダメ」
「なんで、そんなこと言うの? ぇ、エレナ…………」
アリスの手は、エレナの手をぎゅっと握った。
この手を放せば、離れていくような気がしたから。
「あたしは…………」
恐い、恐い。
はっきり言って、何故自分が動かなくちゃいけないのか、ぶつけどころのない不満が込み上げている。
だけど、彼女はこの状況に似合わない、満面の笑顔をアリスに向けた。
「ちょっと勇者になってくる」
「……ぁ」
手が離れた。
エレナが大聖堂から出ていく。
足が、動かない。
親友が、外へと出ていく。
危険な所に飛び込んでいく。
なのに、自分は足を動かすことさえ出来ず、ただ茫然と立っているだけだ。
「エレナッ!!」
情けない。情けない。情けない。
だけど、ここで立ってるだけじゃ駄目だ。
アリスは、エレナに負けないくらい破顔して、
「ここは任せて! 絶対に戻ってくるのよッ!!」
その言葉は、その強い声は、エレナを背中から押して見せた。
◆◆◆◆◆
北の森。
子供の頃は、危険だから絶対に入ってはいけないと、耳にタコができるほどに訊かされていた場所。
今以上にヤンチャだったエレナは、一度もその教えを守ったことはない。
毎日アリスと遊びに行っていた。
だから、北の森が危ない理由も、危なくない道も、何故か存在している祠の場所も知っている。
怪我をした時もあった。北の森は獣が生息する森。
だが、それでも何度も中へと入った。
「はぁ……はぁ……」
何故だろう。
今になって、子供の頃の記憶が脳裏によぎる。
久々に森に入ったからだろうか。
「思っていたより早かったな――――エレナ」
「ほんとに……はぁ、はぁ……いたのね、デウス」
石を積み上げて出来た祠。
そここ片膝を立てて座るデウス・ミュートスは、意を得た笑みを刻んでいた。