□はたらけ魔王さま! 鳳凰編
「これはこれは魔王様! ……どうもご機嫌麗しゅう存じます」
老獪な男の声なのに、どこか艶っぽさすら感じられる挨拶が、今しがた通過した中央市場の方角から聞こえてきた。
魔王様にグリグリと頭を押さえつけられていた私は、その聞き慣れない声色に疑問符を浮かべながら振り返る。
こちらに近づいてきたのは、一人の魔族と十人を超える情婦たちで。
多様な種族で構成された彼女たちは、それぞれが容姿に似合った薄手で妖艶な、率直に言ってほぼ娼婦な衣装に身を包んでいた。
私も魔族の美的センスを把握しているわけではないけれど。その比率の整った目鼻立ちから、全員が各種族で『美女』と呼ばれる存在なのだろうと直感する。
そんな彼女らを違和感なく侍らせているのが、中心で異彩を放つ“彼”の存在。
一見リザドンの亜種にも見えるが、青銅色の鱗肌は一枚一枚が鎧の如く硬く肉厚で。同様に顔にも無数の棘が覆い、側頭部には立派な角を伸ばしている。
背筋から尻尾まで並ぶ突起物は、もはやそれ自体がイバラの鞭のようで。屈強な剛腕と過剰に張り詰めた太腿は、それだけで四本指だの爪先立ちだのという下らない品評を忘れさせた。
そしてなによりの特徴は、背中に広がるその巨大な翼だろう。
ミルーエの羽根とは比較にもならない、重厚な鱗と分厚い飛膜で構成された筋肉の塊は、畳んでいても“彼”という生き物を民衆に誇示し続けていて。
ドラゴン。正確には“ドラグーン”と呼ばれる、あの有名な神話生物のモデルとなった魔族がそこには立っていた。
『……ふーん、ドラグーン種ってのは巣穴の外に出てこないもんだがなぁ?』
囁くような聖剣の豆知識を耳にしながら、私は再度彼を見つめ直す。
魔王様の前まで悠然と歩み寄ったドラグーンは、軽く手を挙げて周囲の女たちを後ろに控えさせて。その上で自身はどこか芝居めかせた動きで胸に手を添え、深々と跪きながらドラゴンフェイスを下げていた。
鱗と干渉してしまうためか。肌に合わせた青緑色の礼装は服というよりマントに近く、肩当てのような装飾品と垂れ幕状の絹麻で構成されていた。
腰のスカート部分も前垂れみたいに分割されて、臀部はほぼ丸出し状態。それでもまったく卑猥さを感じさせないのは、彼自身が放つ圧倒的強者の後光と無関係ではないだろう。
……こいつは間違いなく、魔王様や四天王に匹敵し得る何者かであると。
文字通りの平身低頭で平伏するドラグーンを前にして、私はどんな予想外の出来事にも対処できるよう、最大限の敬意と警戒を払って三つ編みを身構える。
「遠路はるばる城下まで足を御運び下さいまして、このグラスティン・デュオ・マグランティス、感謝感激の極みにございます。魔王様におかれましては、日々御清栄であることをお喜び申し上げると共に――」
「あーもー、おまえはいつも暑っ苦しいんだよ! ……そういうのはやめろって、毎度のように言ってんだろうが」
「大変申し訳ございません。しかし、たとえ叱咤を受けたとしても、我らが君主に礼を尽くさぬ愚か者がこの世におりましょうか!」
……
…………
………………まおーさまー?
なんか思ってたんと全然違うタイプの厄介さに、私はことさらに半眼をジトらせつつ魔王様の犬顔を見上げた。
一方の魔王様も、このドラグーンのことは苦手としているようで、やれやれと犬耳をしな垂れながらくたびれたように尻尾を揺らす。
「こいつはグラスっていうこの市場の顔役でな。……なんて説明してやったらいいのか、まあ城下町の実質的町長みたいな魔族なんだよ」
なるほど。少なくとも魔王様が名前を覚えちゃうくらいには、存在感と影響力を併せ持った人物であるということは理解できた。
……ここまでやりづらそうにしてる魔王様、初めて見たかもしれないぞ?
『マスターと遊んでるときの魔王って、わりとこんな顔になってるけどな?』
「もしや、そちらが件のヒュームですか? ……初めまして、お噂は兼ねがねお聞きしておりました。なんでも魔王様に客人として招かれた、史上稀に見る人間なのだと。私の名はグラスティン、ただのしがない一商人にございます」
聖剣に睨み返していると、身体の向きを直したドラグーンがあらためてこちらに頭を下げながら、ツラツラと長文で自己紹介をしてきた。
その鼻先に乗せられた小さな眼鏡が日光を反射し、彼の不気味さをさらに助長させる(……そもそもそんな場所に着けて意味あるの?)。
いやいや、こんな隠しダンジョンの裏ボスみたいなカリスマを放つ『ただのしがない一商人』がいてたまるかと。
初対面の相手にそんなボヤキを入れるわけにもいかず、私は大人しくお辞儀をすると『私もただのしがない村娘でして』とありのままの事実を陳列する。
「ふむふむ、エルザ様でございますか。このグラスティン、しかと記憶に留めさせていただきましたぞ」
なんでいちいちそこまで仰々しく振る舞おうとするのか。マグランティスは人間の私に対しても、噛み締めるようなオーバーリアクションで頷いていた。
その一挙手一投足が実にやりづらくて、私の背後で三つ編みも萎びれる。
ガルトライオ様と言い、政治家という生き物はどうしてこうも無駄に長台詞を話したがるのだろうか……
ちょっとくらいあのクソ領主の無能っぷりを見習ってほしいぞ、まったく……
『いや見習わせんなよ、そんなもの』
「っつーか、ディゼルとこいつは幼馴染みなんだよ。そもそも俺様たちがこんな国を作る羽目になったのだって、全部こいつが裏から根回しした所為で――」
魔王様ウェイト。そんないっぺんに日記のネタを投げ込まれても、私の脳が情報過多で爆発してしまいます。
……えっと、マグランティスさん?
「グラスで結構でございますよ、エルザ様」
こちらもエルザで結構でございますよ、マグランティスさん。
そんなことより、もしや貴方は“ロスケ様”の正体もご存じなのでしょうか?
「はい、僭越ながら存じ上げておりますとも」
――この魔族、みたいじゃなくて正真正銘この国の裏ボスなのだと。
あくまでも下手に出続けるドラグーンを見つめながら、あらゆる裏事情を察した私は戦慄で三つ編みを硬直させた。
そしてそんな私の内心を量ったかのように、マグランティスは堂々と言葉の建前を取り外し、悪代官に囁く悪徳商人の口調で魔王様へと視線を戻す。
「しかし魔王様も御人が悪い。人間を飼いたかったのであれば、私に仰っていただければすぐ工面させましたのに……」
マグランティスの蒼い眼に見つめられて、深層心理の裏側まで覗かれたような気分になった私は、ゾクリと背筋に悪寒を走らせた。
丁寧で丁重で、生き物を生き物と微塵も考えていような無機質な慧眼。これはヒトの魂を値踏みする悪魔の瞳だと、無意識に魔王様の傍へ近づき尻尾を掴む。
「……悪いが、あくまでも俺様が飼いたいのは“この小動物”なんでな。テメェが用意しそうな従順なペットなんて、頼まれても願い下げだぜ」
ボフンと。我知らず膝を震わせ始めた私を宥めるように、魔王様がそのデカい手の平を額に押しつけてきた。
そのあまりにも予想外な言動に、私の方がパチパチとまばたきを繰り返して。
マグランティスはそんな魔王様の振る舞いを興味深そうに眺めてから、秤量の錘を修正するように私の半眼を見つめる。
「魔王様の御尊顔を目の当たりにすれば、凡百の人間など命ぜられるまでもなく平伏してしまうもの。その威厳を前にしてのこの懐きようは、たしかに“躾”でどうこうできる範疇ではないかもしれませんなぁ」
なんか、魔王様の所為で妙な誤解を受けちゃった気がするんですけど……?
「うるせえ、文句があんならとっとと尻尾から手を放せってんだよ……!」
ムスッとした顔で流し目を送ると、魔王様はそれに対してグリグリと腕に力を籠め返してきた。
そうして断末魔を挙げる私をジッと観察していたマグランティスは、フムと感嘆詞を漏らしながら立ち上がり、布服の乱れをバサリと整える。
「どうでしょうか、魔王様。もしよろしければ、そのヒュームをしばし私にお貸し願えませんか? もちろんタダでとは申しません。なんであれば、先日の融資の件を再考致してもよろしいのですが……」
……ホワット?
「またそれかよ。ヒトの物をすぐに欲しがっちまうのはテメェの悪い癖だぞ?」
ホワッツ!?
彼の申し出に唖然としていた私は、魔王様の返信に三つ編みを驚愕させた。
自然と視線を向けてしまうのは、視界のギリギリ隅っこで微笑み続けているマグランティスの情婦たちの姿で。
この魔族、まさかの寝取り属性持ちかよっ?!
『いやーたぶんそういうアホらしい動機ではないと思うぞー?』
「……そもそも、おまえはいつの間にオレの女になったんだよっ」
聖剣のツッコミにテンポを合わせて嘆息した魔王様は、私の手から尻尾を抜き取ると、マグランティスに向かって物理的に突き放した。
その勢いでたたらを踏んで奴の胸板に顔をぶつけそうになり、それだけは何としても回避するべく、私は必死に身体を捻ってマグランティスの脇を通り過ぎる。
――むにゅん。
いつの間にここまで距離を詰めていたのだろうか。あてどなくステップを続けていた私の顔面が、件の情婦たちの胸元に抱き締められた。
その強烈な香油の甘さから息継ぎするように首を起こすと、彼女らはすかさず私を取り囲んでキャアキャアと愛で始める。
「小っちゃくて柔らかくてかわいいー! ねえねえ、この服どこで買ったのー?」
「あら? 眼つきはともかく、近くで見れば結構見所のある顔をしてるじゃない」
「人間の娘を仲間に引き入れようとは、さすがグラス様。やはり器が違いますわ」
「うふふっ、あなた運が良いわね。グラス様はとても“お優しい”御方なのだから」
異論も反論も考える隙間もなく、女性陣は私の全身を揉みくちゃにしまくった。
その思わぬハーレム待遇に半眼を白黒させていると、マグランティスが魔王様を放置してこちらに近づき、そして動けぬ私に向かって恭しく膝を着いてみせる。
先ほどまでの芝居めかせた動きとはまるで違う、女王に忠誠を誓う騎士のようなその所作に、あらゆる雑音がシンと静まり返って。
「恥ずかしながら、私というオスは強欲な魔族なのです。未知なるモノは、価値のあるモノは、手元に置いておかないと我慢ならない性分なのです。――どうでしょうかエルザ様、決して貴女様の悪いようには致しませんよ?」
それこそプロポーズのように囁きながら、私の左手を取ったマグランティスはその甲へとクチバシを押しつけてきた。
身体の至る所を美女魔族に抱きしめられた私は、ギョッと半眼を見開いて。
反射的に魔王様の顔色を窺いつつ、唯一自由な三つ編みを全力で振り上げる。
おまえなあ! いくら裏ボスだからって、やって良い事と悪い事が――
ドン
一瞬、何の振動なのか理解できなかった。
場の全員が衝撃波の方向へ顔を向けると、それまでただの背景に過ぎなかった露店のひとつが轟々と炎を上げて。
悲鳴と共に避難していく市民たちとは対照的に、その消し炭と化した露店の脇では、ゆるふわボブカットのメイド少女がゆったりと翼を羽ばたかせていた。
………………ミルーエ?
「なんですか、それは? いったいなんなんですか、それは?」
うわ言のように呟きながら、ミルーエは露店に突き出していた右腕を降ろす。
彼女の拳には現在進行形でメラメラと灼熱の炎が渦巻いて。その表情にいつもの笑顔はなく、その瞳には微塵も感情が籠められていなかった。
「心配して様子を見に来てみれば、いったい何をしているのですか。好きだ好きだと言っておいて、愛していると囁いておいて。魔王様ならいざ知らず、よりにもよってそんなクソトカゲ相手に!」
えっと、その、ミルーエたん……?
「だいたいその“たん”って何なんですか、“たん”って。私の気持ちにだって、本気で気付いているのかなんかよく分かんないし。夢で告白されたってホント何なんですか、意味が分からないんですよ。意味が分からない、意味が分からない、意味が分からない意味が解らない意味が判らない! ……エルザ様の仰ることは、いつもいつもいつも意味がわからなすぎるんですよ!!」
ミルーエの眼差しには、とても身に覚えがあった。
私が魔王城に送られる直前、領主との関係が夫人にバレた直後。
渾身のビンタと同時に彼女から叩き付けられた、煮えたぎるように冷たい視線。
つまり、嫉妬だ。
「ああもう、なんでこのオレ様が、たかだか人間相手にこんな気持ちにならなくちゃいけねえんだよおおぉぉぉーーーっ!!!」
今度こそ“その瞬間”をしっかりと目の当たりにした。
地面を踏み締め、両手を握り締め、髪を振り乱し、翼を広げて。
彼女が雄叫びを上げると同時に、過剰に加熱された大気が勢い良く爆ぜた。
……ミルーエ!?
熱風に眩む目を必死にこじ開けると、そこには全身だけでは飽き足らず、白い翼までもを地獄の業火に包んだミルーエの姿が。
四天王最後の一人、大魔導師マックロック・ロスケの姿がそこにはあった。




