砂漠
砂で覆い尽くされたな視界に、ホクロのような点が浮き上がった。
人間だ。
私はスコップを動かしていた手を止めて、持っている水と食料の残量を確認すると、その点にむかって歩いていった。
行き会ったのは真昼を過ぎた頃。若い男だった。
「よかった。俺、もう喉がからからで」
手持ちの水筒をほとんど空にしていたその若者は、渡した水を美味そうに飲んだ。
「そこから必要なだけ水を移しておけ」
「いいんですか?」
「知ってるだろう」
私が言うと、若者は素直に頷いた。
「ありがとうございます」
両手に持った水筒の口を合わせて、水を移し始める。その拙い手付きを見せられては、思わず忠告せずにはいられなかった。
「次からは、もっと入念に準備しろ。命に関わるぞ」
「こんなに遠出をしたのは初めてだったので……」
「そんな様子じゃ、コブにもろくに溜め込めてないんだろう?」
今度は少し恥入っている様子で若者は頷いた。まあ、あまり追求しても仕方がない。所詮は他人事だ。
私は棒と毛布で簡易的なテントを作ると、そこに座った。若者も日陰の中に招き入れる。彼は腰を下ろすと、肌を覆っていた重そうな着物を解いていった。嗅ぎ慣れた古い汗の匂いがむっと広がる。
私たちは無言のまま、揺れる蜃気楼を眺めていた。やがて若者が口を開いた。
「こんな話を聞いたことありますか?」
彼が話し出したのは、砂漠の者達が交わし合う定番のジョークだった。最近、誰かに教わったのだろう。聞くまでもなく、私はその内容をそらで言える。こんな話だ。
かつて、神話の時代、三柱の神々がいた。
男神、女神、無性神。
男神は女神を愛し、女神も男神を慕い、無性神は他の二柱と共にいながら、ずっと遠くへと思いを馳せていた。
やがて、男神と女神は結ばれ、世界を創造し、無性神は混沌へと飛び立った。二柱の神の交合によって大地が生まれ、海が生まれ、自然が配され、命が形作られていく間、無性神は混沌の中で独り踊っていた。踊り、踊り、踊り続けて……。
「それで無性神は孤独のあまり、何を生んだと思います?」あどけない笑顔で私を見ながら、若者は言った。
「なにもないこの砂漠だ」
私が即答すると、若者の笑みが萎んでいった。
「何だ。知ってたんですか」彼は残念そうに、ばたりと後ろに倒れこんだ。一拍おいて、その背に沿って砂粒がさらさらと流れていく。
「ここにきて、どれくらいになる?」私は訊ねた。
「そろそろ1年です」
「なら、本当の話を知ってもいい頃合いだろう」
若者がむくりと体を起こした。
「本当の話?」
「そうだ」私は彼に説明した。「お前がさっきした話はな、途中から創作されている。男神と女神は互いに恋慕し、交合し、大地を産み落した。破水した水は海になった。二柱はそこに多くの自然や生き物を加えていき、そうして世界が創造されている間、無性神はずっと混沌を飛び回り、一人で踊っていた……。ここまでは正しい。だが、この後から出まかせになっている。本当の話はこう続く」
若者は聞きやすいように、体勢を変えて座り直していた。
この砂漠において、他者の口は滅多に出会えぬ神聖な泉だ。どんなにつまらない話でも、耳に入れる機会があれば、旅人は決してそれを逃そうとはしない。
私は語り続けた。
「いいか、本当の話はこう続く。三柱はみな幸せだった。自分が望むままに生きていたからだ。しかし、時が経つにつれ、それぞれがある思いを抱くようになった。それは熱のようでいて熱でなく、渇きのようでいて渇きでなく、飢えのようでいて飢えではない思い、自分でも言い表すことができず、誰にも伝えられない思いだった。いつしか三柱は沈み込むことが多くなった。男神は女神の顔に悲しみを見て取った。女神は男神の仕草に苛立ちを感じ取った。だが、何故、相手がそんな思いを抱いているのかが分からなかった。また、何故、そんな思いを抱いているのかを相手に教えることも出来なかった。困った二柱は使いを送り、無性神を呼び寄せた。三柱は久方ぶりに一同に介することになった。そして、三つの顔が合わさると、たちまち全てが明らかになった。三柱は、感じ方は違えど、自分達がみな同じ思いを抱いていることを知った。そして、それをどうすることも出来ないと知った。そこで、三柱は自分達の胸を手で貫き、力づくでその思いを引きずり出すと、三つを混ぜ合わせて、一つの砂粒へと変えた」
一度、言葉を切って、私は若者の方を見やった。
彼はじっと話に聞き入りながら、目を砂漠へと向けていた。その眼差しは生気に満ちて、瑞々しかった。
自分が初めてこの話を聞いたときも、こんな目をしていたのだろうか。一瞬頭をよぎったそんな考えを、すぐに脇へと追いやり、私は最後の結びを話してきかせた。
「神々はその砂粒を世界の外れに捨てると、その上から普通の砂を大量に撒いた。自分達が苛まれた思いを覆い隠してしまうために。そして、それが終わると、それぞれ元の居場所へと戻り、以降、二度と同じ思いを抱くことはなかった」
「じゃあ、この砂漠は無性神が独りで作ったわけじゃないんですね」
「ああ。この砂漠は三柱の神々が、自分達から切り捨てた思いを隠そうと共謀した結果なのさ」
「なるほど。いい話を聞きました」
若者は立ち上がり、服に付いた砂を払いながら言った。
「自分がここに来た理由が分かったか?」
「ええ」
若者は頷いた。それから、一刻も惜しいと言わんばかりに急いで身支度をすると、テントから日光の中へと踏み出した。
「行くのか?」
「はい。なんか座ってられなくなっちゃって。水、ありがとうございました」
彼は会釈しながら言うと、歩き出した。むこうに見える砂丘を目指しているらしい。
「私があそこを掘ったのは何年前だったかな」
若者の姿が蜃気楼の先に消えるまで眺めてから、私は一人呟いた。
気温が下り始めるのを待ってからテントを畳むと、私もまた歩き出した。
目星をつけていたポイントをいくつか回りながら、馴染みのオアシスを目指すつもりだった。あの若者にやってしまったので、水はほとんど残っていないが、まあ、大丈夫だろう。蓄えを考えればあと十日は持つはずだ。
足は思ったより軽快に進んでいた。物資を整えた日と比べると、背負った荷が大分軽くなっているおかげだ。私は上機嫌で荷の包みをぽんぽんと叩いた。
ここを旅する者は全ての荷を自らで背負うのが常だ。ラクダは使わない。というより、この砂漠にラクダはいない。不便でないと言えば、嘘になるが、それでも何とかやっていけるのは、我々自身が一頭のラクダであるからだ。
かつて、ラクダは背中のコブに、エネルギーや水を蓄えるという迷信があった。我々もまた、そのようなコブを心の中に持っている。我々は必要な時に、そこに貯めておいた物資を取り出して使うことができる。どうやって心の中に物を貯蔵するのか。方法は簡単だ。分け与えればいい。
私は自分のコブの中に水が増えたのを感じていた。さっきの若者に分け与えた分だ。あとはいつでも好きな時にこの水を取り出して飲むことができる。
不思議なことに、一度心に蓄えた物は、物質であったときより量が増え、長持ちした。一リットル水を分け与えれば、それだけでおよそ一日砂漠で生きることができた。
我々がたった一人で砂漠をうろつけるのは、全てこのコブの恩恵なのだ。
五日後、私が予定通りオアシスにつくと、そこには先客がいた。昔からの古馴染みだ。
「珍しいな。こんなところで会うなんて」私が声をかけると、相手はにこりと笑った。これまで見たことないほど爽やかな笑顔だ。
「お前を待ってたんだ」男は言った。
「どうして?」
「一応伝えておこうと思ってな。俺、街に降りることにした」
すぐに言葉が見つからず、さっき口にしたことを私はそのまま繰り返した。
「……どうして?」
「もう耐えられない」男は笑みを崩さぬまま言った。「もう信じることが出来ないんだ」
私は反射的に友の顔から目を逸らしていた。まるで、見たくないものから視線を背けるように。そこに彼の声が追い打ちをかけて来た。
「お前はまだ神が隠した砂粒を探しているのか?」
「……そうだ」
「見つかると思っているのか?」
「見つけてみせるさ」私は気丈に振る舞って言った。言葉はオアシスの涼やかな空気の中で、どこか嘘臭く響いた。
男が力なく首を振るのが目の端に映った。「我々は騙されていたんだ。本当はここには何もないんだ」
「騙している者がいるとすれば、それは我々自身だ」私は言い返した。「五日前、俺はあんたから教わった話を若い奴にした。あの神話が真実だと俺もあんたも知ってるはずだ。なのに、どうしてここを去る?」
「当時は知らなかったのさ。真実には、来る者の真実と去る者の真実の二つがあることを」
男はもう笑わなかった。
「潮時なんだ。これ以上ここにいると出られなくなる。この砂漠で死ぬことになる」
「それの何が悪い?」
「言ったろう。もう信じられないんだ。信じていないもののために死ぬことはできない」
私が男を見ると、今度はむこうが目を逸らした。俯きながら、それでも男は言葉を止めなかった。
「我々は神の似姿を与えられた。体も心も。だからこそ、神々が苛まれたのと同じ“思い”を抱くことになった。そうとも。我々は灼かれ、我々は渇き、我々は飢えている。神々と違うのは、自分の力でそれを取り除くことが出来ないことだ。神が切り捨てた砂粒を見つけられれば、あるいは、この思いの正体を見破って、自分を救えるのではと考えてきたが、もう限界だ。この砂漠は我々が抱いているこの思いを強くする。どこかに埋もれているあの砂粒が影響を与えてくるからだ。お前も薄々勘付いているだろう?この砂漠は神々が我々に仕掛けた罠なんだよ」
「なら、その罠さえ越えるまでだ」
私の答えに、男は悲しそうに微笑むと、それ以上何も言わずに立ち去った。
私は彼の姿を目で追わぬように、じっと揺れる湖面を見つめていた。
空虚な穴のような思い。広く深い穴のような思い。そんな思いが私達の中にはある。私達はそれを逆説的な皮肉を込めて、コブと呼んできた。
そこにはどんなものも入る。どんなものも入れられる。どれだけ入れても決して満ちることはない。神さえも耐え切れず、捨て去った思いだ。その正体を暴くため、私は砂漠を掘って、ある一つの砂粒を探している。そいつを見つけ出し、自分の最奥を理解するまで、やめるつもりはない。
数えきれぬほど砂を掘り返してきたスコップはすり減って、いまや、齧られたアイスキャンデーのような形になっている。だが、まだだ。
友は次々と私を置いて去り、分け与えることが出来る者はどんどん減っていく。でも、まだだ。
私はそう強く自分に言い聞かせる。
まだ私はやれるはずだ。まだ私は歩けるはずだ。まだここにいられるはずだ、と。