第六章 中堅時代
2006年8月12日 午後6時56分。
群馬県・上野村・慰霊の園。
20回目の黙とう式が行われた。
式が終わると、絢香は望美を拓郎と住む世田谷の自宅に誘った。
前橋で望美のレンタカーを返して、拓郎の運転するBMW・7シリーズで一路、世田谷に向かった。
向かう最中の車内で、絢香は再び昔話を続けた。
■初長距離便
1978年5月21日朝。千葉県・成田空港。
ロサンゼルスから日本航空貨物便の1047便が、成田着始めての便として着陸した。
幸子はまだ国際線としては新人の為、残念ながら記念すべき成田第1便に搭乗出来なかったが、羽田から他の客室乗務員とバスで成田に向かった。
そして、あまりの遠さに驚いた。
さらに、空港周辺はグレーに白いラインの入る警察の装甲車があちこちに止まり、検問で機動隊員がバスの中に入りチェックする。
桑原に話を聞いていた幸子でも、あまりの物々しさに緊張した。
第一ターミナルビルは新築の匂いがして、既に多くの外人客で賑わっていた。
マネージャーが皆に話した。
「取り敢えず、滑走路は1本、ターミナルビルもここだけだが、計画では今後、さらに2本の滑走路、ターミナルビルも、もう1つ造られる予定だ。」
窓からマネージャーが滑走路を指差した。
「滑走路は1本しかないが、日本最長の4000メートル滑走路だ。もっとも、先端に団結小屋があって実際にはもっと短いがね。」
一人が手を挙げた。
「団結小屋って、何ですか?」
上司が驚いた顔をした。
上司は、周りを見渡し、その娘に小声で話した。
「…………知らんのか?成田空港建設反対で、立ち退かない人達が金を出しあって購入した土地なんだよ…………。」
幸子が話した。
「でも、こんな都心から離れていて不便では無いですか?」
「いや、これから成田と東京を結ぶ新幹線が出来る、おまけに、うちで独自でさらに交通機関を開発中なんだ。それが出来れば羽田よりも便利になるよ!」
因みにこの成田新幹線構想は用地買収が遅々として進まず、日航が開発していた新交通機関も結局実現しなかった。
幸子は3日間、空中勤務はせず、成田空港の設備の教育を受けていた。
その後、ようやく成田から、バンクーバー・メキシコ線に搭乗割り当てされ、嬉々として出勤した。
羽田では日帰りの近距離国際線しか行っていなかった幸子にとって、始めての長距離国際線勤務に心をときめかせた。
離陸一時間半前から、4階のオペレーションセンターで、ブリーフィング(打合せ)を始める。
幸子は咲子が今回同じ勤務でホッとした。
不安そうな顔をして咲子を見る幸子に気付くと、咲子はウインクで答えた。
なお、この打ち合わせは英語で行われる。
まずは客室乗務員達一人一人の自己紹介、注意事項の説明、保安用機材の位置確認、最後にキャプテン(機長)からフライトプラン(飛行計画)の説明を受け、バスに全員乗り込み、出発ターミナルへ向かう。
クルー達全員が税関による出国手続きを済ませ、タラップに接続された747ジャンボ機の中に入る。
挨拶の後に、各持ち場に付き、機内食や読物、ツールキットのチェックを行う。
すると、「ゴリッ!」と、スピーカーが音を立て、機内放送のチェックが始まる。
保安機材のチェックと請負業者による清掃に漏れがないかのチェックをたったの30分で行わなくてはならない。
幸子のチェックする奥で、恐怖の100期の大先輩の注意する声がして、緊張する。
すると、先輩が怖そうな顔で来た。
「遠藤さん、終わった?」
「はい!終わりました!」
先輩が睨んだ。
「息きらさない!これから9時間のフライトよ?今から疲れていては持たないわよ!」
「は、はい!」
搭乗5分前。
最終機内点検を終え、お互いの服装を見直す。
咲子が幸子に小声で呟いた。
「幸子、鼻毛!」
幸子は慌てて鼻を押さえた。
咲子が舌を出して笑った。
「ウソだよ〜ん!」
幸子が咲子を膨れっ面で軽く腕を叩いた。
すると、先輩が怒鳴った。
「そこ!ふざけてない!降りたいの?」
幸子と咲子が慌てて入り口に整列した。
咲子が幸子に舌を出して笑い、幸子が膝で咲子を突いた。
そして、278名の乗客に対し、一人一人丁寧にお辞儀をして迎えた。
全員が着席するのを確認し、各自乗客の搭乗状態を確認し、チーフパーサーが、機内放送で挨拶した。
日本語、英語、そしてスペイン語で。
機体は1週間の旅に向かい、離陸を始めた。
幸子は始めて行く地球の裏側に思いを馳せ、シートベルトに固定された自分と、アポロ11号のクルーをダブらせた。
離陸20分後。
ベルトサインが消え、幸子達はベルトを外して立ち上がる。
機内放送の音楽を楽しむイヤホンを配布し、次はドリンクを配布しに向かう。
次は食事。
和食か洋食か、一人一人訪ね歩く。
これは、予測で和食と洋食が搭載されるので、足りなくなるとお詫びしなくてはならなくなる。
そうならないことを祈りつつ、不安を決して顔に出さないように配り歩く。
配り終わると配膳室で、先輩が深い溜め息をついた。
「うまく配れたわね………。」
すると、先輩が幸子を見た。
「ねぇ?ちょっと付いてきて。」
咲子の顔を見ると、黙って頷いていた。
乗務員エリアに入ると、先輩が服を渡した。
「今日は貴女が着るのよ。」
和服だった。
長距離路線では和服クルーによるサービスがあり、特に白人には大人気だった。
先輩の手伝いで、和服に着替えた幸子が、顔を紅くして出てきた。
咲子が配膳室で見て笑った。
客室に歓声が上がる。
Wonderful! geisha girl! It's Japan indeed! That there is service of a geisha girl!
(おい、芸者だ!凄い!さすが日本だ!芸者のサービスがあるなんて!)
外人客がニヤけて拍手で迎える。
かなり照れ臭かったが、これこそ日本の旅客機の証しだった。
チーフパーサーが腕を組んで見てる横で、咲子がカメラを構えていた。
「さ〜ち〜こ!はい!」
写真は後に実家に届けられた。
機内の映画上映が始まると、幸子が先輩に呼ばれて、着替えて食事休憩をとるように指示された。
クルーの食事も豪華だった。
5時間後。
暗闇の中、機内に朝陽が射し込み、オレンジ色に包まれる。
窓からは、はるか続く雲海の向こうに朝陽が輝いていた。
幸子はカタルシスを味わった。
(これよ!私が来たかった世界は!)
幸子の顔は、まるで少女のように生き生きしていた。
着陸一時間半前。
乗客達が起き始めた。
幸子達は交代で仮眠し、化粧を直してから機内を見回り、一人一人、起きた乗客に笑顔で挨拶して回りながら朝食のトレイを渡す。
現地時間午前10時半。
カナダ・バンクーバー国際空港に着陸した。
クルー達には現地で2日間の休暇が与えられ、専用バスでバンクーバー市内のホテルに向かう。
其々は自由行動となったが、皆は殆んど仮眠を取る。
幸子は眠れず、窓からバンクーバーの風景を見ていた。
夕方4時。
ベッドで寝ていた咲子がガバッ!と起きた。
髪は乱れて、ブラの肩紐の左側が外れていた。
眠気まなこで、幸子に話しかけた。
幸子は、無防備の咲子を見て大笑いした。
咲子が化粧を直しながら幸子を夕食に誘った。
「ねぇ、スモークサーモン、好き?」
グランビル・マーケットに田村澄子、西崎真由美、須藤綾子を連れ、5人でタクシーに乗り、向かった。
皆でワインで乾杯した。
「お疲れさまぁ!」
幸子がスモークサーモンを食べた。
「美味し〜い!」
綾子が聞いた。
「遠藤さん、どうだった?眠かったでしょ〜!」
幸子が答えた。
「うん、夜にライトを薄暗くして、皆黙って寝てるしぃ!」
澄子が笑った。
「そうそう、あれ、寝たくなっちゃうのよ!」
真由美が話した。
「でさぁ、ロジャー・ムーアみたいなカッコいい客と添い寝するサービスするとかさぁ!」
澄子が答えた。
「ゴルゴの間違えでしょ?」
皆が大笑いした。
帰りにサンセット・ビーチ・パークで波と戯れる。
咲子が、夕日に染まるビーチで幸子に呟いた。
「まるで女007でしょ〜?悪党のハイジャック犯と闘うし、世界のあちこちに渡って、美味しいもの食べて、綺麗な風景見て!」
幸子がクスッと笑った。
そして、咲子はあの地獄のダッカ事件を経験しながら、それをネタに笑いを誘う精神の強さに感心した。
翌日は、スタンレーパークを散歩し、フォールス・クリークをクルーズして、カナダの春の自然の深さを堪能した。
翌日。朝10時。
彼女らはキリッと制服に身を包み、ホテルを後にした。
なお、ホテルには私物を置いたままバンクーバー国際空港に向かう。
メキシコへ着いても翌日にはバンクーバーに戻る為だ。
次は4時間半のフライトで、メキシコシティーには夕方着となり、一泊するプラン。
300名近い乗客は62名に減り、ガラガラの機内だった。
メキシコシティーは、節電で薄暗いバンクーバーと違い、キラキラ輝いている。
大人しいカナダ人と、陽気なメキシコ人の違いのようだ。
メキシコの夕食には、バスの中で機長が皆を誘った。
幸子は驚いた。
国内線では機長が皆を誘うなんて聞いたことが無かったからだ。
咲子は幸子の顔を見て話した。
「国内線とはまるで雰囲気違うでしょ?ウフフっ!」
幸子は笑顔で頷いた。
ホテルからタクシー6台連ねて、機長のタクシーを先頭に向かったのは、メキシコ料理店「ラ・フォンダ・エクロイド」という有名店だった。
機長が座る前にワイングラス片手に話した。
「皆さん、お疲れさまでしたぁ〜!」
チーフパーサーが機長に話した。
「キャプテン、会話はイングリッシュでお願いします。」
機長が笑顔でチーフパーサーを見た。
「煩いよ!いいよ、仕事以外はっ!」
皆が大笑いした。
「え、何か〜、成田は色々ありましたが、無事、開港してホッとしました。此からは皆さんは不馴れな新空港の勤務となりますが………ま〜………頑張って!」
皆が乾杯して飲み始めた。
チーフパーサーが皆に話した。
「え〜っとね、ここはぁ、メキシコシティーは標高がね、2千メートルあるのよ、だからさ、気圧の関係で酔いやすいから、飲みぎないようにね!」
機長がチーフパーサーに話した。
「あの、イングリッシュでお願いしたい。」
チーフパーサーが笑いながら、のけぞった。
服機長が話した。
「でもさぁ、あれ、酔いがさ、回りやすいと言うことはだ、つまり、あまり飲まずにアルコールを少量摂取で済むわけでして………。」
機関士が話に割り込んだ。
「はいはい、難しく考えなくていいから!食えよ!さっさと!」
機長が苦笑いしながら話した。
「ああ〜もう!食えよ!うるせぇな、黙れ!」
幸子達は吹き出しそうになった。
すると、後ろから楽器を持った男達が集まり、機長がポケットマネーでチップを払うと陽気にメキシコ音楽を歌い始めた。
楽しいメキシコの夜は、こうして更けていった………。
翌朝、バンクーバーに戻り、また一泊。
水着を持ってプールに行く者、一人部屋でエアロビクスを楽しむ者、スタンレーパークでジョギングに行く者………。
幸子と咲子は二人でキツラノ・ビーチに出掛けた。
「ねえ、ここのビーチ、夏は最高よ!今度一緒に泳ごうね!」
幸子は強く頷いた。
翌朝、バンクーバー発成田行きに乗る。
幸子が寂しそうな顔をした。
咲子が話しかける。
「この仕事している間は、飽きるほど世界を堪能出来るわよ!」
幸子は笑顔で頷いた。
■伊丹空港尻餅事故
1978年6月2日。
羽田発伊丹行き115便。ボーイング747。
絢香は、アシスタント・パーサーの一人として、乗務していた。
伊丹空港とは、現在の大阪国際空港の事で、かつては軍の飛行場であったが、第二次世界大戦後にアメリカ軍の基地として使われたのち返還された空港であった。
1970年の大阪万博に併せて拡張され、以後、関西の重要な空港になったが、空港になった当時の周辺は畑だったが、高度経済成長により、たちまち空港周辺は住宅地に変貌し、丁度ジェット機が主流になり始めた時期と重なり、騒音公害が指摘された。
その為、全日空ではいち早く全ての機材に騒音対策を施していたが、それでも煩いと夜は飛行禁止となり、悪天候等で着陸が遅くなった旅客機はたちまち吊し上げられ、地元新聞に詳細が載せられ叩かれた。
伊丹市では住民を守るため「空港の無い街」を主張したが、一方空港側は「空港は元からあり、殆んどの住民は後から来たと」して意見は合わず、対立していた。
その為、重要な路線でありながら、日航のジャンボ機国内線就航は、只でさえ煩いのに、さらに大きい飛行機が1日に何度も来ては堪らないと伊丹市市民に猛反対され、空港側は普通の旅客機と変わらないという主張を通すために、何度もジャンボ機の騒音資料を採取し、ようやく1977年5月19日に就航したばかりだった。
絢香が乗る115便は、着陸時に突然大きな衝突音が客室内に響き、乗客の悲鳴が轟いたと思うとフワっと浮き上がり、再度客室に轟音が響き、ガリガリという音と共に振動が響き渡った。
着陸時に操作を失敗し、バウンドし、尾部を滑走路に叩きつけ、着陸したのだ。
客室が平行に戻り、絢香が客室を見ると、客室がざわめき、呻き声が聞こえた。
機体が止まると、客室乗務員達は急いでシートベルトを外して立ち上がり、客室を一つ一つ見回り、乗客の無事を確認して回った。
乗客から罵声が飛ぶ。
「なんやねん一体!」
「ずいぶん乱暴な操縦だなオイ!」
この事故で乗客379名、乗員15名のうち、後部の乗客25名が負傷する大事故となった。
尾部に大きな傷をつけて停止した115便にはすぐ、けたたましくサイレンを鳴らした消防車と救急車が駆けつけ、滑走路は閉鎖された。
只でさえ騒音問題でピリピリしていた地元報道陣がすぐに殺到し、たちまち非難の的となった。
先に怪我人が下ろされ、救急搬送される。
絢香達は、怪我人搬送を手伝った後、無事な乗客を出口で出迎えた。
誰もがムスッとした顔で降りるなか、客室乗務員達が深々と頭を下げて謝罪した。
その中で、絢香に初老の男性が食ってかかる。
「何さらすんじゃいボケぇ!あんたら何しとんじゃ!もう日航なんて使わへんねん!殺されるわ!」
絢香は泣きそうになった。
絢香達は、帰りは別の便で帰され、絢香は休暇を取らされた。
絢香が家に帰ると、拓郎がビールを飲みながら、テレビでニュースを見ていた。
「なぁ、………これ、絢香は関係無いよな?」
絢香が首を横に振った。
拓郎が、タバコに火を点けた。
「………もう、辞めようぜ。」
絢香が慌てた。
「何で?私、怪我もしてないし、ちゃんと帰ってきたじゃん!」
拓郎は杖を立てて立ち上がり、絢香の前に立った。
「あのよ、去年のクアラルンプールで、お前のダチが死んどっと!そして翌日は別のダチがハイジャックに巻きこまれて暴力ふるわれて!………で、今度は着陸失敗か!何なんだお前の会社は!
おい!」
絢香がハンドバックを床に叩きつけた。
「何よ!あんただって、三菱ビル爆破で私に心配かけとっとばい!人の事言えっとね!このバカちんがぁ!」
拓郎が怒鳴った。
「それとこれとは関係なかばい!何だ主人に向かってバカちんたぁ、ゴラア!」
「バカちんをバカちん言って何が悪いたい!このクソバカちん!」
拓郎が絢香をビンタした。
絢香は拓郎の胸に殴りかかると、拓郎は右足をよろけて、左手がテーブルに突いて支えようとしたが、三菱ビル爆破事件の後遺症で踏ん張れず、床に倒れた。
拓郎が、唖然としていると、絢香が目を丸くして見た。
絢香は、障害者と知っていながら突き飛ばした自責の念で大泣きしながら家を飛び出した。
「あ、あ、綾香!待て!………。」
拓郎が必死で起き上がり、テーブルに躓き、倒れ、ソファーに抱きついて、起き上がり、杖を突きながら追いかけた。
すると、外で絢香がタクシーに乗り込み去っていった。
「絢香………。」
絢香は、幸子の家に行った。
幸子は国際線の帰りの休暇でくつろいでいて、定夫とお土産物を並べて笑っていた最中だった。
絢香は髪がグシャグシャになり、化粧は涙で顔が汚れ、幸子を見るなり、また泣き崩れた。
「幸子!幸子ぉ!私、悔しかぁ!悔しかばい〜!!あぁ〜!!」
すると隣のドアが開き、住民が変な目で見ていた。
「判った!綾香!判ったから!早く入って!ね!」
幸子と定夫は帰ったばかりで絢香が巻き込まれた事故は知らなかった。
すると、電話が鳴って、定夫が出た。
「なぁ、綾香、来とらんか?わて、わて、綾香居ないと死んじまうたい!」
定夫が苦笑いをしながら、呆然としている絢香に電話を向けた。
綾香が電話に出た。
「ああ!生きとったか、綾香!自殺したらどうしようと思ったばい!綾香ぁ………悪かったぁ………怒鳴って悪かったばいぃ………ワシ、ワシ、綾香が、綾香が!」
綾香が電話口に怒鳴った。
「黙れ!泣くな!九州男児のくせにベソベソ泣いとっとぉね………。」
綾香が涙でグシャグシャになった顔で呟いた。
「うちが居んと、生きていけん?」
「そうだ!絢香は必要なんじゃ!」
「じゃ、お願いしなさい。」
「え?………も、も、戻って来てください………すみませんでした………。」
絢香は電話をしながら笑顔で泣き崩れた。
115便は後日、圧力隔壁を破損し、現地修理は無理だが、圧力をかけなければ飛行可能と羽田から駆けつけた整備士に診断され、客室を予圧せず、空で羽田の整備ハンガーに回送された。
破損状況は酷く、製造元のボーイング社でないと無理との事で、アメリカからわざわざボーイング社の修理チームが来て修理することになった。
すると、圧力隔壁が寸足らずで合わなかった。
焦ったボーイング修理チームは、新たにつぎはぎを追加し直したが結果、横3列のボルトの左右縦2列が効いていなかった。
しかし、外観では全く判らず、日本航空と航空局職員が確認の上、運行復帰の許可が下りた。
この機材は、幸子達の同期、JA8119号だった。
2006年8月12日。
望美は、この話を聞いて驚いた。
「それって………、その事故の話って………。」
絢香が真顔で頷いた。
「そうよ………幸子が亡くなった原因は、この時の修理が原因だったと言われてるの。」
拓郎が運転しながら怪訝な顔で話した。
「あのよ、俺がベソベソ泣いたなんて話すんじゃねえって!」
「何よ、ホントの話じゃないの!」
車は関越自動車道から外環道を経由し、首都高に入った。
■アシスタントパーサー
1978年後半。
幸子は咲子と共に、アシスタント・パーサーの資格試験を受けた。
アシスタントパーサーは、パーサーの指示をスチュワーデスに伝える役割を果たす。
この職種は日本航空の場合は男性もいる。
(男性の客室乗務員・スチュワードは1982年より採用)
他には機内販売、売上金管理、保税品の管理、書類作成。
ギャレー(調理室)も担当し、ファーストクラスの食事を調理する。
二人は無事、アシスタントパーサーとなった。
制服の胸のJALの社章が文字だけから、金の翼にJALの文字が入ったものに代わり、ネームプレートも金枠付きとなる。
年末、幸子は熊本の実家に帰った。
そして、明美も帰っていた。
幸子は有給を使ったが、明美は熊本空港で業務を終えて、普通に休みだった。
父が話した。
「あ〜二人で写真撮ろう!こんな二人が制服姿で揃うなんて、滅多にないからなぁ………。」
二人は奥の和室に着替えに行った。
幸子は明美に金バッチを自慢した。
「あ〜!いいなぁ、幸子姉ちゃん!」
「貴女にはまだ早いのっ!」
「いいもんね〜!私だってね、頑張るからねぇ!」
玄関で撮影しようとしたところ、自転車で駐在さんが通った。
「ありゃりゃ!何ですか!二人ともスチュワーデスなんですか!まぁまぁエリート美人姉妹なんて凄いですなあ!」
父が自慢げに頷く。
駐在さんは、自転車を降りて近づいてきた。
「いや〜、折角だから、親御さんも写真に写りなさいな!」
父と母は照れながら、駐在さんにカメラを託した。
「はい!チーズ!」
明実が自慢げに話した。
「幸子姉ちゃんは国際線で、私より凄いんだよぉ!」
幸子が照れた。
「いや、別に、凄くないから、ね!」
明実が呟いた。
「私も海外行きたい………。」
1979年1月25日。
明美は全日空に新規導入されたボーイング747SRー81の乗務を開始した。
(81とはボーイング社で全日空仕様を意味する。日本航空は46。)
この機材の日本航空との違いは、日本航空国内仕様の500席に対抗し、さらに席を増やして528席仕様となり、日本で就航する機材では世界一の客席数を誇り、日本航空に徹底対抗した。
エンジンは日本航空のプラット・アンド・ホイットニーに対しゼネラル・エレクトロニクス製を搭載していた。
さらに、制服もトライスターのロッキード事件で悪いイメージが付いたものから一新された。
明美は制服を幸子に見せたい衝動にかられていた。
4月。
定夫は成田空港ターミナルのイタリアン・レストランで幸子と待ち合わせた。
定夫は幸子に、呟いた。
「もう、会ってから7年経つんだね。」
「そうねぇ………。」
「あの頃が懐かしいよ。君は………どんどん綺麗になっていくね。」
幸子が照れた。
「なによぉ………。」
定夫はソッと婚約指輪を渡した。
幸子が驚いた。
「ありがとう。これからも、宜しくね!」
定夫が、にこやかに頷いた。
幸子が呟いた。
「お祝いに、ワインで乾杯しましょ!」
定夫が焦った。
「はい?………俺………営業車で来ちゃった………。」
幸子が頬っぺを膨らませて怒った。
「じゃ、私、会社のタクシーで帰るから!」
「はい?………ちょ、ちょっと………いや………えぇ?と、困ったぞコレ!」
幸子が定夫に腕を組んで言った。
「つめが甘いよ!」
「は、はい、ごめんなさい………。」
幸子が微笑んだ。
「冗談よぉ〜!シャンパンでいいよ!一緒に帰ろ!」
定夫が笑顔で頷いた。
7月11日。
静岡県清水市・東名高速道路下り線。
定夫は美容器具の営業の為、社用車のランサーバンで焼津市に向かっていた。
この日は泊まりで、明日問屋に行けば良いので急いではいなかったが、渋滞にはまっていた。
定夫はタバコをふかしながら、疲弊していた。
(何だよもう………。)
夕暮れの中、ようやく渋滞の車列が動き始めたが、定夫はボケーっとしており、動いたのに気がつかなかった。
後ろから大型トラックがコンボイ・ホーンを鳴らし、定夫が焦ってタイヤを鳴らして発進した。
(そんな、急かすなって………。)
後ろから大型トラックに煽られながら、短いトンネルを抜け、すぐに長いトンネルに入った。
すると、中間地点で前の車がハザードを点けて止まり始めた。
(何だよ!また渋滞かよ!)
後ろのトラックが、バックミラー一杯に写っていた。
定夫がタバコを出すと、吸い尽くしていた。
「何だよもぅ………。」
ラジオを点けたが雑音だけで諦める。
深い溜め息をついて、ステアリングに持たれかけると、前から悲鳴が聞こえ、大勢が車の間を走って、此方に向かってきた。
すると、道路公団のパトロール隊員が、窓を叩いた。
「今すぐ、鍵を付けたまま逃げてくださいっ!」
「え?何があったの?」
「………ああ、タンクローリーが爆発しますっ!」
定夫は、車から降りて、群衆に混じると、突然トンネルの明かりが消え、停車中の車のライトが群衆を照らした。
定夫は、とにかく群衆と共に逃げた。
通りがかりの車列の車のフェンダーミラーが、群衆に当り、壊れている。
定夫は手をフェンダーミラーの割れたガラスに当ってしまい、うっすらと切れて血を垂らしていた。
<日本坂トンネル事故>
1979年7月11日午後6時半頃
この時トンネル出口では、渋滞解消後に焦ったドライバー達が皆スピードアップし車間を詰めていたが、最先頭を走っていたライトバンがスリップしてスピンし、後続の大型トラックが急ブレーキをかけたところに次々と大型トラックと中型トラックが衝突し、乗用車が1台轢き潰された。
そして、轢き潰された乗用車と、後ろから追突した乗用車が発火し、トラックの積み荷の松根油に引火。
後続車のドライバー達が消火を試みたが、ホースと口金が合わず、さらにスプリンクラーも故障しており、出口が塞がれた後続車173台が車を棄てて避難した。
そして、出口側から消火活動が開始され、最初の事故車7台が事故発生約2時間後に消し止められたが、入口に逆流した煙がトンネル中間にあったトラックの積み荷の可燃物を次から次に引火させ、トンネル内に放置された173台全てが65時間もかけて全焼する大事故になった。
事故原因は様々な複合で、スピード超過、車間距離、さらにトンネルの設備不備に、通行止め標示の見難さが挙げられる。
この事故を機にトンネル入口に信号機が設けられた。
なお、この事故でトンネルから引きずり出された黒焦げの車の車列が「大量輸送時代の歪みの象徴」と大々的に報道された。
死者7名、負傷2名。
■モスクワオリンピック
1979年7月14日昼。千葉県千葉市。
幸子はロンドンから帰ってきた。
日航の出勤用契約タクシーに乗り、マンションに着くと、鍵を回したが逆に扉に鍵がかかった。
元から開いていた。
(………定夫さんは会社の筈。)
幸子はソッと扉を開けると、部屋はカーテンが閉まり、薄暗く、男の何日も風呂に入っていない臭いが充満していた。
幸子は玄関の傘を握りしめ、リビングにソッと行くと、臭い男がソファーで雑魚寝し、テーブルには缶詰が置いてある。
幸子が、明かりを点けて、いきなり男を傘で滅多うちにした。
「うわ、うわ、やめ、止めろ!やめてくれぇえ!」
幸子が声を聞いて、叩くのを止めると、無精髭に髪がボサボサの定夫だった。
「な、何すんだよぉ!」
「貴方こそ何!?会社は?泥棒かと思ったじゃないの!」
「………今日は休む。明日から行くよ。」
「な、何があったの?………臭あいっ!何なの貴方は!」
「仕方ないよ………3日も風呂にも入れず避難所に居たし………。」
定夫がテーブルから缶詰を握りしめ、幸子に手渡した。
「お土産。」
幸子が缶詰を見ると、未開封の赤貝だった。
「何なの!何がお土産よ!お願いだからシャワー浴びてきてよ!」
定夫がダルそうにシャワーに向かうと、幸子はカーテンを開け、窓を全開にし、脱臭スプレーをまいた。
幸子がふと見ると、日本道路公団のパンフレットと、静岡新聞が置いてある。
新聞は2日前の7月12日で、東名高速の日本坂トンネル事故の記事が書いてあった。
幸子が、シャワールームを見た。
「この事故に巻き込まれたの?」
定夫が出てきた。
幸子が新聞を見せながら聞いた。
「そう。そんで、避難所に送られて、車を引き渡すまで待ってって言われて、待ってたら、時間かかるから帰れとさ………。」
この赤貝は?
「非常食だってさ!缶切りネーし!馬鹿にしやがってなぁ………。」
定夫がソファーに座って頭をうなだれた。
「それだけ?会社の車を置いてきたから落ち込んでるの?」
「いや………車なんか、どうでもいい………ただ………。」
「ただ、何?」
「いや!何でもない!」
幸子が定夫にズカズカ近寄り、定夫の顎をしゃくり上げた。
「何か、隠してるでしょ?」
定夫が話した。
「結婚式場のパンフレットが………営業車の中に。」
「で?」
幸子は大体察しが付いた。
「結婚指輪も………。」
幸子が定夫の顎から手を離し、ベットルームに入り、扉をバン!と力強く閉めた。
定夫が慌てて立ち上がり、ベットルームに入った。
幸子がベットに伏せている。
「幸子………悪かった………。」
すると幸子が起き上がり、定夫に何かをぶつけた。
「暗証番号、私の誕生日!」
定夫が足元を見ると、幸子の預金通帳だった。
「いや、まずいよ、ダメだよ。」
定夫が幸子に近寄ると幸子が襟首を掴み、定夫を引っ張り、顔を真正面に向けた。
「いいのっ!言いたく無かったけど、私の方が給与高いからっ!」
定夫が黙って目を逸らした。
幸子が定夫の顔を両手で挟んでグリグリしながら言った。
「情けない顔してないのっ!九州男児でしょっ!」
9月。
幸子と定夫は結婚し、千葉市で結婚式を挙げてから、カナダのバンクーバーに新婚旅行に行った。
幸子にとって、一番好きな場所だったからだ。
機内では思わず手伝いそうになるが、寝ることは出来なかった。
うす暗い機内で、乗客が寝静まるなか、同僚達と小声で話していた。
すると、定夫がイビキをかいて寝ており、隣の黒人男性が眠気眼で定夫の顔に Be silent.と言いながら裏拳で軽く顔面を叩き、目覚めてキョトンとしてるのを見て、幸子達は吹き出した。
幸子は定夫とバンクーバーの自然を感じながらウォーキングを堪能し、秋の人気が少ないビーチで座り、寄り添いながら夕陽を眺めていた。
この時が、永久に止まる事を祈りながら………。
11月。
幸子はマネージャーに呼び出された。
「遠藤くん………あ、済まない、今は松原か。松原くん、希望を聞きたいんだが、君、モスクワオリンピックの日本代表特別機に乗らないか?」
幸子は目を輝かせた。
頭の中に、ジンニスカンの「目指せモスクワ」が流れた。
「私で良ければ、頑張ります!」
後輩や同僚が幸子を尊敬の眼差しで見ていた。
自宅に帰って定夫に報告すると、自分の事のように喜んでくれた。
特別機の訓練は来年春から行う事に決まり、メンバーが選抜された。
しかし、彼女らが全員顔を合わす事は無かった。
1979年12月24日クリスマスイブ。
ソ連軍がアフガニスタンの紛争に参加する為に侵攻し、それに対しアメリカが抗議し、オリンピック参加を辞退。
同盟国の日本も海外諸国に説得され、1980年2月に辞退。
テレビではオリンピック日本代表選手が悔し涙を流して会見しているのを幸子は成田のロビーのテレビで通りすがりに寂しい目で見た。
■自家用車
1980年7月。
幸子と定夫は、拓郎の新築祝いに世田谷に行った。
駅前に黒いBMW・E21型が来て、幸子達にクラクションを鳴らした。
当時はまだBMWジャパンは無く、バルコムジャパンが販売していた。
国産の「ビッ」という音と違い、「プァン!」と、ヨーロッパ車らしい音を奏でた。
絢香が助手席から顔を出し、サングラスを下げて舌をだしていた。
「絢香!」
後ろに幸子と定夫が乗り込み、出発した。
「凄い!買ったんだ。」
「えへへ!いいでしょ〜!」
拓郎が語った。
「でもよぉ、コレ、左ハンドルだから乗りにくいんだよなぁ!だから国産にしろっつったのによぉ!117クーペが欲しかったんだよ!」
絢香が膨れっ面になり言った。
「なによぉ?貴方、左手が自由じゃないから外車になったんじゃないのぉ。」
拓郎がしかめっ面をした。
「しかも、リモコン………だっせ!マニュアルが良かったのに。」
「私がマニュアル乗れないのっ!リモコンって………オートマって言いなさいよ!」
「あ〜、学生の頃のベレットが懐かしかぁ〜!」
幸子と定夫が顔を合わせ、最初にドライブに使った拓郎のベレットを思い出した。
幸子は、定夫の凄いヘタな運転、そして、パトカーに先導された時を思い出し、定夫の顔を見て大笑いした。
家に着くと、出来たばかりの一軒家が、夏の陽射しに輝いていた。
家の中は新築の新しい木材の香りが漂い、玄関には三菱重工製のフェリーの模型、上には日本航空DCー8の模型が置いてあった。
幸子が羨ましそうに話した。
「立派なおうちねぇ〜!」
拓郎がソファーに座り、タバコをくわえた。
「立派じゃないさ、土地が高くてさぁ、ウサギ小屋だよ、こんなん。」
拓郎がタバコに火を点けようとすると、絢香が取り上げた。
「もう!外で吸ってよ!汚れる!」
拓郎は渋々、定夫を連れて、外に出た。
絢香が呟いた。
「あと、子供3人作れば完璧よ!ウフフ!」
幸子が答えた。
「でも、育児が大変よぉ〜。」
絢香が困った顔をした。
「………30歳になる前に辞めようと思って。」
幸子が絢香の顔を見た。
絢香が台所に行き、コーヒーを入れながら話した。
「でも、家も建てちゃったし、頑張れるところまで頑張ろうと思って………。昭和60年になる前まで、頑張るよ。」
幸子が、寂しそうに呟いた。
「そうなんだ………。」
絢香が幸子の横に座り、続けた。
「もう同期も殆んど居ないし、幸子と咲子位だし、国内線はもう知らないコばかりだし………。あ〜ぁ、あの墜落とハイジャックが無ければ私も国際線行きたかったのに………。」
「今からでも遅くないわよ!あと4年は居るんでしょ?」
「………拓郎さんに、これ以上心配かけたくなくて。」
夕方の帰り。
幸子が定夫に話した。
「ねぇ、うちも自家用車買おうよ。」
定夫が幸子の顔を見た。
「え〜!………要らねーよ、休みは会社の車借りればいいし。」
幸子が定夫の顔を見る。
「休みの日に、温泉とか登山行きたいのっ!大体、仕事の車で遊びになんか行きたくないわよ、みっともない!」
定夫が渋い顔をした。
「全く、レンタカーでいいじゃん………考えとく。候補は何?」
幸子は車を知らなかった。
1980年暮れ。
幸子はアメリカで見た車に一目惚れした。
日本に帰ると、タクシーの窓から三菱ディーラーが見え、そこに同じ車があった。
幸子は定夫に、三菱から貰ってきたパンプレットを見せた。
三菱ギャランΛは、当時、提携先のアメリカのクライスラー・グループで、独自の名前で発売していた。
1981年2月に納車し、早速、箱根の温泉にドライブに行った。
助手席で幸子が呟いた。
「いいわねぇ、自家用車は。………私も運転したい。」
幸子は早速3月から自動車学校に通い、6月に免許を取得した。
夏に幸子と定夫で運転を換わりながら、福島県いわき市の海に出掛け、焼きウニ等、海産物を堪能した。
海岸の駐車場に停まり、外に出て海を眺めていると、懐かしい排気音が聞こえた。
二人のカップルがベレットに乗ってきて、楽しそうにしていた。
丁度旧車ブームで、60年代後半の車にプレミアが付いた時代だった。
幸子が呟いた。
「まだ残ってるんだね、あの車。」
定夫がサングラスを眼鏡の上に取り付けたまま、ベレットを見つめた。
幸子が聞いた。
「覚えてる?拓郎くんの車。」
定夫が頷いた。
「何とかデパートの火災の時だよね。」
「そう、大洋デパートよ。」
「………何かもう昔の話なんだなぁ。」
幸子がギャランΛの運転席に乗り込んだ。
「貴方の下手くそ運転思い出したら、墜落するかもって、こわくなっちゃった!私が運転するね!」
定夫が「はい?」という顔をした。
「そりゃ、昔の話だろ!ちょ………待てって!」
「早く乗らないと、置いていくよぉ!キャハハハ!」
この日は会津若松の温泉に宿泊した。
旅館の部屋で幸子が定夫にビールをつぎながら呟いた。
「海外ばかり行ってると、日本が恋しくなるの。やっぱり自家用車買って良かったね!」
定夫は笑顔で頷いた。
「よし!関東近辺の温泉、全部制覇しようよ!」
幸子が笑顔で答えた。
■羽田沖墜落事故
1982年2月8日昼頃。
絢香が羽田空港で、後輩の400期台生・秦野恵里佳に話しかけられた。
絢香が振り向くと、恵里佳は絢香に対し、心配そうな顔をした。
「なんか、佐藤(絢香)先輩が辞めるかもと聞いて………。」
絢香が微笑んだ。
「ん〜、去年も航空事故が海外で多かったし、主人がその度にテレビにしがみついて、私を心配そうな顔をして見るし………。」
「でも、通勤電車だって事故はありますよ、去年の大阪の通勤電車がホームに突っ込んだ事故みたいに。」
(1982年1月29日・国鉄天王寺駅快速激突事故 負傷数十人。)
「そうなんだけどねぇ………。でも私も大阪の尻餅事故で乗ってたのよ……。」
恵里佳が困った顔をした。
「あ、ごめん!忘れてっ!辞めようかな?って思ってるだけだし、そんな滅多に事故は起こらないわよ!大体、事故があったから皆慎重になってるわよ!」
恵里佳が笑顔になった。
「ですね!皆、気を付けてますよね!」
「そうそう!変なこと考えない!私の事は心配しない!人それぞれなんだから!ね!」
絢香が内心思った。
(変な心配かけちゃったなぁ………。)
恵里佳は、その後、その日の最後の業務で、福岡行きに業務し、泊りで早朝1便で帰る勤務だった。
377便 東京〜福岡 ダグラスDCー8・61(JA8061)
離陸後、福岡に向けて船橋市上空で左旋回するが、いつもは、旋回したのが解る程度の旋回だが、この日の旋回は、どんどん角度が増してくる。
先輩のアシスタント・パーサーが隣で目を丸くした。
客室では、ざわざわと疑問の言葉が走る。
横窓から街が見え、「おい、墜ちるぞ!」と声が上がる。
すると、スッと機体が水平に戻った。
「なんだよ、今の!乱暴だな!」
一人の乗客が恵里佳を睨んで怒鳴った。
恵里佳は、絢香先輩の経験した大阪尻餅事故が頭によぎる。
しかし、377便は無事、いつも通り夜の板付空港に、綺麗に着陸して安堵した。
勤務終了後、客室乗務員だけで飲みに出た。
すると、別の席では全日空のクルー達が飲んでいた。
機長達が、客室乗務員と仲良く笑いながら飲んでいた。
恵里佳は、いつもこの光景を羨ましく思ったが、全日空は国際線がチャーター便しか無く、国際線に乗りたくて日航に入ったので我慢した。
(日本航空以外に定期国際線が開設されたのは1986年から。)
翌日朝6時半。福岡空港ターミナル。
ブリーフィングの最後に機長達が350便の説明に来たが、心なしか機長は元気がなく何も話さない。
副機長が、機長を軽く睨み、機長を無視するように代わりに今回の運航について説明を始めた。
一体どっちが機長なんだと、客室乗務員は皆、不安を感じた。
恵里佳は機材向かう際に他のスチュワーデス達と小声で話した。
「大丈夫?機長、飲みすぎなんじゃない?」
先輩のアシスタント・パーサーに聞こえ、睨まれ、口にチャックする仕草をされた。
350便 福岡〜東京。機材は377便と同じDC8・61。
(JA8061)
午前7時34分
133人の乗客を乗せて板付空港を無事離陸し、昨日のような乱暴な操縦では無く、恵里佳は安堵した。
午前8時40分頃。
シートベルトサインと禁煙サインが点き、恵里佳達は客室を見回り、着陸準備に入る。
正直言って、今回のコクピット・クルーのメンバーは、あまり関わりたくなかった。
ようやく終わると安堵したその時。
急にエンジン音が小さくなり、ガシャンと何かが開く音が響き、エンジン音が再び響き渡る。
この音は、いつも着陸時に聞く音だが、着陸前になんか決して聞かない音だった。
午前8時45分。
350便は、いきなり羽田沖300mに墜落した。
機体は突如失速し、羽田空港手前でズドン!と何かが機体下に当たる音と衝撃が響き、機内に乗客の絶叫が上がる中、一度バウンドしてから海面に機体を叩きつけて停止した。
着水と同時に恵里佳はヘドロ混じりの海水を強く浴び、天井が落ちてきて、恵里佳の頭にガツン!と当たり、酸素マスクが目の前をグルグル回り、荷物が体にバシバシ当たった。
急に静まり返り、明かりが消え、暗い機内で、あちこちから、呻き声が聞こえた。
恵里佳は、シートベルトを外してフラフラ立ち上がり、周りを見渡した。
恵里佳は、咄嗟に叫んだ。
「大丈夫ですか!動けますか!」
周りからは、助けを求める声が上がると共に、数人が自力で動き始め、動けない乗客を助けようとする。
恵里佳が機内の前を見ると、前は潰れ、残骸がミッチリ詰まっているようにしか見えない。
他のスチュワーデスが、泣きそうな声で、落ち着くようにと放送した。
乗客の男性数名が恵里佳に集まった。
「沈む前に脱出しよう!」
誰もが先月発生した「ポトマックの悲劇」を思い出す。
<フロリダ航空墜落事故(通称・ポトマックの悲劇)>
1982年1月13日
ワシントン・ナショナル空港離陸直後にエアーフロリダ90便のボーイング737が失速し、ポトマック川の橋を走る乗用車数台を叩き潰して、凍りつく川に墜落・沈没した事故。
大破した機体から数人が放り出され救助を求めるも、氷に阻まれ救助が困難だった。
死者78名(巻き込まれた車の4人含む)生存者5名。
恵里佳は、答えた。
「放送の通りです!簡単に沈みません!外に出れば冷たい水で凍死しますから、どうか機内に留まってください!」
乗客の一人が怒鳴った。
「爆発したらどうする!」
「え………そう簡単に爆発しません!どうか落ち着いて下さい!」
機内には、ヘドロと海水が混じった生臭く酸っぱい臭いに混じり、漏れたジェット燃料の臭いが漂っていた。
外からは、遠くから、数台の消防車のサイレンの音が響いてきた。
乗客の中には片目が見えず、顔を触ると衝撃で目が飛び出てぶら下がっていた方もいたという。
午前9時。
東京ヘリポートから、羽田沖に旅客機が墜落した一報を受け、警視庁と東京消防庁のヘリが相次いで離陸。
その中で東京消防庁のアルエートⅢ型ヘリは、昨日深夜に赤坂で発生したホテル・ニュージャバン火災に出動し、ようやく終わった矢先の墜落で徹夜の活躍になった。
<ホテル ニュージャパン火災>
古くなって経営が悪化したホテルを買収し格安経営を行っていたが、激安な宿泊料金の代わりに設備に全く力を入れておらず、部屋を2つに別ける際に適当な壁を設けたり、スプリンクラーは配管が無い本体のみの見かけだけとか、従業員も消火設備の使い方を知らない状態で、一人の寝タバコによる火災が大惨事になった。(死者33人 負傷29名)
ヘリが羽田空港の墜落機上空に差し掛かると、既に海上保安庁の呼び掛けで、沢山の小型船舶が墜落機に集結しているのが見えた。
さらに空港からは消防や機動隊が徒歩で墜落機に向かった。
現場は遠浅で、膝位の深さしか無く、ヘドロに足を取られてスムーズには歩けないものの、徒歩で行くのは可能だった。
機体に近づくと、息絶えた乗客の遺体が浮かんでいる。
取り敢えず、生存者が優先となり、救難活動が始まったが、気絶して顔を海面に浸けた状態で溺死し、沈んで発見が遅れた人もいたという。
恵里佳は、他のスチュワーデスと共にドアから救難隊に乗客を一人一人引き渡した後、後ろで内装機材の生き埋めになったスチュワーデスを助けに行こうとして、救難隊に止められ、任せて先に飛行機から出るように言われた。
そして、最後まで乗客の救出に力を入れたクルー達は実は全員が打撲や骨折をしていながら、痛みを抑えて頑張っていた。
一人を除いて。
機長は一番に、制服を脱ぎ捨て、事故機を乗客乗員ごと棄てて避難していた。
恵里佳は、ボートで空港敷地内に上陸した。
閉鎖された滑走路に独特の羽音を響かせ、陸上自衛隊のVー107Ⅱバートル大型ヘリコプターが数機かけつけた。
ヘドロの海に濡れた体に、只でさえ冷たい冬の空気がヘリに煽られ一層寒く感じ、皆は毛布にかじり付くようにして震えていた。
夜。世田谷区。
絢香が暗い表情で帰ってくると、やはり、拓郎が、苦虫を噛んだような顔でテレビを見ていた。
拓郎が絢香の顔を見ると、テレビを消して、わざとらしくアクビをして、伸びた。
「おお!お疲れ!さあ寝るかぁ!」
やけにテンションが高かった。
絢香が呟いた。
「もう………いいの。」
拓郎が、真顔になり黙った。
絢香が涙をポロポロ床に溢した。
拓郎が絢香を強く抱いた。
「今まで、よく頑張ったな!………よく頑張った!………。」
一方、都内の某病院では、恵里佳が他のスチュワーデスと並んで入院していた。
深夜、奥の部屋から、怒鳴り声が聞こえ、看護婦が走っていた。
「あの野郎ぉぉ!ふざけるなぁ!ふざけるなぁぁ!!」
副機長が骨折の熱に侵され、機長の夢を見て暴れたという。
恵里佳は、枕を涙で濡らした。
なお、連日発生した大惨事に利益重視のホテル・ニュージャパンの社長と、不適格なパイロットを誤魔化しながら使い続けた日本航空の高木社長が報道で吊し上げられた。
これにより日本の企業体質の問題が議論された。
日本航空は、さらに9月17日に上海で機材の故障による緊急着陸で着陸失敗事故を起こし、多数の負傷者を出した。
高木社長は、国を代表する国策会社として国際線独占による企業体質の甘えを指摘し、完全民営化を行い、社内意識を変える方針を打ち出した。
<日航機羽田沖墜落事故>
1982年2月9日
(乗客166名 乗員8名 死者24名)
墜落原因は、着陸時にブレーキと併用して使うエンジン逆噴射を、着陸前に操作し、急激に減速し失速したことによる。
さらに操縦桿も下げており「人為的による故意の墜落」と断定された。
なお、前日の離陸直後の急旋回も、この逆噴射も副機長と機関士で止めようとしたが、逆噴射の時は、止められなかった。
機長は、後の供述で、
「現在、日本とソ連が戦争中で、攻撃を回避した」
「着陸寸前に死ねと聞こえた」
等、答えており、精神病として無罪になったものの、精神病院に送られ解雇された。
(事件後に機長婦人がこの件について執筆出版している。)
前例の無い異常事態に狼狽し、日本航空は緊急社内会議で事実を公表すべきか論議したが、公表されることになり、ボイスレコーダーも一部文章により公表された。
ボイスレコーダーには機長の返事が曖昧で、墜落直前に副機長が絶叫する声が記録されていた。
「キャプテン!やめてください!」という悲痛の叫びは、流行語になり、墜落原因の「逆噴射」は、異常な人を指す言葉になり、ギャグ漫画のタイトルにまで使われた。
日本航空側は以前からこの機長は精神的に不安定と知りながらも、彼が失業して路頭に迷わないよう大目に見ていた事が発覚し、管理責任が強く問われた。
以後日本では曖昧だったパイロットの健康管理体制が厳重になり、日本航空では事故後厳密に検査した結果、百名以上が不適格になり、社内は一時騒然となった。
この手の事件は事後30年以上経過した現在、日本では皆無だが、世界的には近年似たような事故が幾つか起こっている。
2015年3月24日のドイツのLCC・ジャーマンウイングス9525便のエアバス320型機の墜落事故も、副機長の自殺と見られており、ボイスレコーダーに機長がコクピットから追い出され、ドアを壊して開けようとする音と怒鳴り声が記録され、フライトレコーダーは機に異常が無いにも関わらず、強引に山に降下した記録が残っていた。
1990年代以降飛行操縦の自動化が進み、コックピット内は従来の機関士を必要としない機長と副機長の2名勤務となった。
しかしその技術革新は乗員の人件費コストダウンとパイロットの負担軽減に貢献した反面、密室の機長と副機長の連携を補助する機関士を排除した事にもなり、結果上述したような個人判断による人為的な事件を増加させているので、2016年現在、オブザーバーを1名乗せて均等を図る事が世界的に検討されている。