表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
5/8

第五章 日本航空入社当時


2006年8月12日。

群馬県・御巣鷹の尾根。


幸子の姪・望美と、幸子の元同僚・佐藤絢香は、幸子の学生時代の話をしながらシャトルバスに乗って村の市街地にある慰霊の園へ帰った。

慰霊の園の喫煙所で、絢香の夫・拓郎が煙草に火を点けようとしていたが、ライターのガスが無くなり点かない。

已む無く、喫煙をしていた他のご遺族にライターを借り、煙草に火を点けると、饒舌な口調でご遺族と話が弾んだ。

すると、絢香が拓郎の頭を後ろから叩いた。

「あなた!禁煙したんじゃなかった?」

「おお!いや、………まあ、たまには、いいじゃないのォ。」

絢香が気まずく苦笑いする拓郎を睨みつけた。

「あんたね、そうやって、いつもいい加減なことばっかりしていると、幸子が化けて出るわよ!」

 拓郎が笑った。

「何言ってやがんでェ!ちょっと禁煙破った位で幸子さんが化けて出るわけねえだろうがよ!わははは!………は、は………。」

 拓郎が、絢香の後ろに立つ望美を見て、絶句し、煙草を地面に落としてしまった。

「驚いた?幸子の姪っこさんよ!」

 拓郎は、あまりに望美が幸子に似ていたので驚いた。

 絢香が望美に拓郎を紹介した。

「うちの夫よ、昔ちょっと事件に巻き込まれて体が不自由で登山は出来ないから、毎回ここで待っていて貰っているの。」

 拓郎は、望美を見て呟いた。

「ホント、若い頃の幸子さんに生き移しだなぁ。」

 

 3人は慰霊の園の茶屋に入り、幸子の想い出話を続けた。


■知性の200期


 1974年 東京・羽田 日本航空客室乗務員訓練所。

 客室乗務員は当時は「スチュワーデス」と呼ばれた。

 現在もそう呼ぶ人が居るが、航空業界では何故か「差別用語」扱いされ、90年代には廃れた。

 日本航空では「キャビン・アテンダント」に正式に変えたのは1993年の事だった。

 幸子の時代は高嶺の花の職業で、「宝塚かスチュワーデスか」とまで言われていた。

 審査は厳しく知力・美貌、そして体力が求められ、不規則な時間勤務、絶えず機械で操作された気圧の中の不自然な職場であり、厳しい世界である。

 しかし、厳しい世界である一方「厳選されたエリート美女集団」として見られ、合同コンパの申込は絶えず、給与も高給で、休みも多く、世界旅行が楽しめるので、人気は高い。

 因みに1991年バブル崩壊後の航空業界は全体的に不況となり、よい待遇の航空会社は激減し、給与も全盛期に比べ格段に下がり、全盛期の良いイメージは消え、「空のガデン」とまで言われたが、現在、日本ではサービスの低下の危惧と、サービスを殆んど排除した格安航空会社の競争に対抗し、大幅な待遇改善を行っている。

 幸子の時代は全盛期の中盤頃で、200期台生末期であり、彼女らにはアダ名が付けられていた。

「知性の200期台生」である。

 因みに当時は90年代初頭の500期頃までアダ名が付けられていた。

・1〜9期 神話のヒトケタ(1952年創成期)

・10〜99期 伝説のフタケタ(1950年代中盤〜後半)

・100期 美貌の100期(1960年ジェット化時代)

・200期 知性の200期(1970年代前半ジャンボ機導入時代)

・300期 体力の300期(1970年代後半過渡競争時代)

・400期 向こう横丁の400期(1980年代前半大量輸送時代)

 教官が、教室で幸子達に聞いた。

「君ら、日本航空を使って来た人は手を挙げて。」

 幸子も手を上げた。

「機材は覚えているかな?」

 一人一人言わせた。

「727です!」

「ジャンボ機です!」

「DC-8です!」

 幸子の番が来た。

「あ、DC-8ですっ!」

 皆が言い終わると、教官が聞いた。

 まず727と答えた娘に聞いた。

「全日空さんの727と違いは?」

 福岡出身の松本絢香だった。

「はい!色が違います!」

 クスクス笑い声があがり、教官が苦笑いした。

「ま、まあな、皆、笑わない!………会社違うからな。」

 教官はボードに写真を貼った。

「うちの727は初期のタイプなんだ。一方、全日空さんは機体を延長して乗客を増やしたタイプになる。因みに今はうちは国内線には殆んど使っていない。今は乗客の少ない国際路線が主だな。松本クンは運がいいな!もう国内線じゃ殆んど乗る機会は無くなるだろう。」

 教官は、次はDC-8の写真を出した。

「で、これは、うちの主力のダグラスDC-8だ!」

 教官が幸子に指揮棒を差した。

「君は、DC-8の何に乗った?」

 幸子は黙った。

 教官が続けた。

「他、DC-8の国内線で来たんだろ?DC-8の何?」

 一人が手を挙げた。

「………長さが短いの。」

 教官が苦笑いした。

「おいおい、すぐバレるような出任せ言うんじゃない!」

 皆がクスクス笑う。

「お〜い、笑った奴、答えてみろ。」

 皆が黙った。

 教官が、もう1枚写真を出した。

「単純に言うと、短いのは31、33、55、62型と言うんだ。

一番新しいのが62型。国際路線用なんだ。

長いのが、61型。君らが乗ってきた国内線用機材だ。このように、うちの社には、単純にDC8と言っても違うんだ!君らはこれらの客室を全て把握しないと、乗ることは許されないんだ。更に、さっきの727だって、うちと全日空さんが違うのは長さだけじゃない………カラーも違う!な?」

 皆がクスクス笑う。

「笑っている場合じゃないぞぉ〜、さぁ覚えるのが大変だ!まぁ頑張れ!全員、これから格納庫に行くぞ!」

 訓練生は皆で、日本航空のマイクロバスに乗り、格納庫へ向かった。


挿絵(By みてみん) 


 教官が話した。

「空港内は、空港内で車の走り方に決まりがある!この広い敷地を無闇に歩けば大変な事になる!下手に滑走路に出ると軽くても空港閉鎖になって大騒ぎになるし、遠くに見える飛行機も、結構なスピードで降りてくるから怪我するからな!判ったか?」

 外には巨大な飛行機が見えた。

 アテンション・プリーズで見た、新型の747ジャンボ機。

 バスを降りて皆が、あまりの大きさに、ただ黙って見上げた。

 教官が大声で話した。

「さっき、ジャンボ機乗って来たのが居たな!いいか、これからは、国際線だけじゃない、国内にも就航する時代が来たんだ!これも、国際線と国内線では、シートアレンジから違う!座席も従来で最も大きいDC-8の61型の三倍もあるんだ!」

 機体は、まだ1月に完成し、引き渡されたばかりのボーイング747だった。

 ボーイング社製造番号20783、747型として製造230機目。

 国内線用はSR型といい、「ショートレンジ(短距離)」を意味した。

 スモッグで霞んだ羽田の青い空に、新品の機体の白い塗装とジュラルミンが輝き眩しい。

 尾翼の赤い鶴丸が誇らしげに幸子達を見上げていた。

 幸子はふと、後ろの数字に目が行った。

「JA8119」と黒文字で書いてある。

 教官が話した。

「何か質問あるか!」

 幸子が手を挙げた。

「あ、あの数字は、何ですか?」

「あ〜、あれは、レジステーション(以下レジスト)登録番号だ。車のナンバープレートみたいなもんだ。」

 教官が、レジストに指を差した。

「最初のJAは日本、最初の8は大型ジェット機を意味している。」

 全員がタラップで機内に入った。

 新品の匂いが漂っていた。

 教官が話した。

「いいか、国内線用ジャンボ機は、シートが国際線より詰められて、多くが乗れるように作られている。従来のDC-8なんか比較にならない、3倍以上の乗客が乗るんだ。君らは、この大量輸送時代の先駆けだ。さっき、遠藤クンが指摘したレジスト、よく覚えとけ!この機体は見ての通り出来たばかりだ。つまり、君らと同期な訳だ!仲良く一緒に成長してもらいたい!以上!」


 幸子は帰りのバスの車窓から、JA8119を見た。

(同僚………新時代の幕開けに私が居るんだ。)

 気分は、アポロ8号から月を見る宇宙飛行士だった。


挿絵(By みてみん) 

 

■地上訓練

 

幸子達、訓練生は合宿所で5日間の泊まり込みで合宿教育を受け、次に4日間の入社教育を受けた後、全国の支店や空港営業所に配属され、地上業務を行う。

 この地上勤務でまず、旅客機が飛ぶ迄の流れを覚える。

 接客、事務、そして航空無線。

 航空無線が何を話しているのか聞き取らなくてはならない。

 この勤務は3ヶ月程続く。


 幸子と綾香の2人は、地元なので福岡の板付空港に配置された。

幸子が夜、早速、フェリー会社に勤める定夫に連絡した。

 休日、幸子と定夫が1ヶ月振りに会い、デートした。

 昼食後、定夫が買った中古のカローラスプリンターで、海岸を目指した。

 海岸の砂浜に座り、定夫が呟いた。

「がっかりしたよ………。」

 幸子が、怪訝な顔をした。

 定夫は真顔で幸子の目を見て話した。

「君のスチュワーデスの格好見たかったのに。」

 幸子が定夫の腕を強くつねった。

 定夫がつねられた腕を押さえながら聞いた。

「どう?日本航空は?」

「うん、凄い充実してる!ジャンボ機、あんな近くで見て、あまりの大きさに唖然としちゃった!ビルみたいに大きいんだよ!あんな大きいのが空を飛ぶなんて、人類って凄いな~って思っちゃった!」

「そうか………。」

「定夫クンは?」

「………あまり。」

 定夫は、君が側に居なくて、つまらないと言いたかったが言えなかった。

 定夫が切り出した。

「ね、いつまで福岡に居る?」

「3ヶ月だから………7月に許可出たら、羽田の訓練センターに戻るわよ。」

 幸子が、定夫の顔を見て話した。

「ねえ?3ヶ月の間、休みの日は遊ぼうよ!」

 定夫が、幸子の顔を見て黙った。

 すると、いきなり定夫は幸子の頬にフレンチキスをした。

 定夫が、すぐ離れて呟いた。

「僕で良ければ………。」

 幸子は定夫の顔を両手で挟んで、キスをし、そのまま二人は、人気の無い砂浜に寝転がった。

 定夫が、下になった幸子から顔を離して呟いた。

「お金貯めて………東京に行こうと思うんだけど、駄目かい?」

 幸子が答えた。

「ごめんね、折角、就職したのに………。」

「いいさ、ただ地元に帰りたいから選んだだけだし、今度は君が目標だから………。」

 二人は起き上がり、寄り添って夕方まで海を見つめていた。

「幸子さん………付き合ってください。」

 幸子は黙って笑顔で頷いた。

 すると、目線に、日本航空のダグラスDC8が飛来した。

 板付空港から離陸したDC8は、機体が夕陽に照らされて、キラキラ綺麗に輝きながら、去っていった。


挿絵(By みてみん)


 幸子が呟いた。

「あのコ、私達を祝福してくれているみたいね。」

 定夫が呟いた。

「君らの先輩方に見られたかな?」

「………あんな遠くから見える訳無いでしょ!」

 翌日。

 幸子の喫茶店で慣らした接客態度は先輩達を感心させた。

幸子はすぐ仕事を覚えた。

 絢香が昼食時に話した。

「幸子、なんかもうベテランみたい!」

「そう?」

「私も負けないよ!………だから助けてね!」

「何それ!もう!」

 先輩達が、二人を見て笑った。

 二人は仲良く切磋琢磨し、1ヶ月後には、誰にも教わらなくても自分達で仕事をこなせるようになった。

 仕事中は絢香、休みは定夫が友達だった。

 幸子は毎日がとても充実していた。


 7月初頭。

 彼女らにスチュワーデス訓練が許可された。

 幸子は絢香を連れて、定夫と福岡サヨナラ会を開いた。

 すると、なんと定夫は悪友の佐藤拓郎を連れてきた。

 幸子は驚いた。

「え!佐藤クン!どうして?」

「新型フェリー造船の営業に来たら、定雄のヤローが居てさぁ!」

 四人は楽しく盛り上がった。

 

 しかし、拓郎は、絢香と話すと急に敬語になって顔を紅くした。

 定夫は、てっきりまた、幸子との関係を茶化すと思い警戒していたが、妙に大人しい。

 定夫は、コッソリ、拓郎が以前やった卑猥な指の仕草をした。

「なぁ、拓郎、これ、意味判らんとよ。」

 幸子が驚き、絢香の顔を見ると、絢香も理解していなかった。

 佐藤は顔を真っ赤にして下を向き、唾飛沫を飛ばしながら言った。

「げ、下品な!君!ぼ、ぼ、僕も意味知らんとばい!」

「え?だって拓郎が………。」

「なんて品が無いんだ、松原くんは!ぼ、僕は、そんな下品じゃなかよ!」

 幸子がニコニコしながら話した。

「ええ〜!品が無いって何で判るのぉ?私も絢香も意味判んないから教えてよぉ!」

「だからワシ知らんとばい!」

 拓郎は慌てて顔を真っ赤にしてトイレに行った。

 絢香がポカーンとして幸子に意味を聞くと、幸子は耳に小声で話し、絢香が顔を紅くして大笑いした。

「やだぁ!あの人、可愛い!」

 しかし、定夫は合わせて笑ったが、実は相変わらず意味を理解してはいなかった。

 2時間盛り上がった後、4人は解散した。

 拓郎は、右手にシッカリと、絢香の連絡先のメモを握りしめ、ニヤニヤしていた。

 幸子と絢香が二人で暮らしたアパートに戻ると、絢香が無口で顔を紅くしていた。

 幸子が聞いた。

「どうしたの、絢香?」

「私………幸子と一緒で良かった………。」


■飢えた狼


 1974年7月 東京・羽田 日本航空乗員訓練センター。

 幸子と絢香は国内線スチュワーデス訓練を受け始めた。 


(1)知識科目。

 航空業務に適した英会話を学び、エマージェンシー(緊急時対処法)を主とした座学。

 ・ファーストエイド 12時間

 救急看護法。航空医学、病人発生時の対処法、怪我の手当等、フライト中に発生が考えられる様々な疾病に対処できるようにする。

 ・エアクラフト 12時間

 日本航空のあらゆる機材の仕組みと構造、全ての客室内の装備の操作を学ぶ。

 ・ルートインフォメーション 3時間

 日本航空の就航航路、時刻表を把握する、航空用語を理解する。

 ・トラフィック 5時間

 危険物輸送、チェックイン、特殊な旅客案件、遺失物収得時の対処。

 ・レギュレーション

 就業規則、規定

(2)実技

 旅客機の客室を再現した実物大模型(モックアップ)を用いて、接客や緊急対応を学ぶ?

(3)適性科目

 スチュワーデスに相応しい身のこなし、美容、接客を学ぶ。

 彼女達は真剣な眼差しで訓練にいそしむ。

 彼女達は品川の女子寮に入り、約2ヶ月、朝8時半から夕方5時まで学ぶ。


 これらに合格してからも、さらに壁がある。

 合格しなかった場合は、諦めて地上勤務になるか、もう一度訓練に参加するかである。


 8月初頭。

 

 幸子と絢香は、帰り道の喫茶店に二人でコーヒーを飲みに行く。

 幸子が聞いた。

「佐藤クンと、うまく行ってる?」

 絢香がニコヤカに頷いた。

「この前、一緒に湘南に泳ぎに行ったよ!」

「随分早いわね、彼に水着見せたら狼に変身するよぉ。」

 絢香が顔を紅くし、舌を出した。

「もう狼になった彼見ちゃった!」

 幸子が苦笑いした。


 8月30日 午後0時半。

東京・丸の内 三菱重工本社。


 拓郎は、書類整理を一旦止めて、一人昼食に出掛けた。

 絢香との付き合いも上手く行き、仕事も充実し、自然に胸を張って歩いていた。

 口笛を吹きながら、入り口を出て、有頂天で周りを見ず車道を横切ると、危うく走ってきた青いセリカの前に飛び出して跳ねられそうになった。

「うっひょ!やべ、浮かれ過ぎたぜ!」

 と、呟き道路を横切ろうとすると背中から光が体を包みこみ、ハッ!と気がつくと、床に転がっており、天井が見えた。

 天井からは、蛍光灯が外れ、コードにぶらさがっていた。

 天井のタイルもあちこちが剥がれ、廃墟みたいだった。

(は?ここ、何処?)

 立ち上がろうとすると、手に痛みが走り、足も熱くてたまらず、言うことを利かない。

 そして、耳は「キーン」とハウリングし、ゆっくり起き上がると、外は黒煙に包まれ、さっき前を通り過ぎた筈のセリカが止まっている。

 周りを見ると、ビルのフロア全体にガラス片が飛び散り、ガラスが刺さった人達が血まみれで唖然としている。

 消火器を持った男がスローモーションで走っている。

 耳が聞こえないせいか、平衡感覚が掴めず、目のピントも合わなくて気持ち悪い。

 ふと、自分の掌を見ると、沢山のガラス片が刺さり、真っ赤に染まっていた。

 拓郎は訳も判らず、絶叫した。

 すると建物の中から知らない男達が、拓郎を両脇を持って立ち上がらせ、ビルの外に連れ出された。

 歩道から車道まで一面にガラス片が山盛りになっていた。


挿絵(By みてみん)


 ガラス片には鮮血が飛び散り、ガラスが沢山刺さった女性がうずくまり、車道には破壊された数台の車と、全裸の男が左足を無くして転がっていた。

 真っ赤な肉片がテカテカに光っていた。

 向かいの自分の会社が煙で見えない。

 煙を出ると青い空とビルが見えた。

 大勢の人達が拓郎を介護しようと群がる。

 段々、耳の調子が戻り、音が聞こえてきた。

沢山の火災ベルが周り中に響き渡り火災訓練で聞いた「ジリジリ」ではなく多数のベルの音が集まり気持ち悪い神経を逆撫でる音になり頭に響く。

「大丈夫か!しっかりしろ!」

「ガラス、抜くか?」

「止めろ!止めたほうがいい!」

 奥から悲鳴が聞こえ、救急車のサイレンが近づいてきた。

 拓郎は掌のガラスを一個、自分で力いっぱい引き抜くと「ズブリ」というガラスの抜ける音と共に鮮血が吹き出し、あまりの痛さと血の量に卒倒し、目の前が真っ暗になり、気持ち良く闇に吸いこまれてしまった。

そこからは病院のベッド迄記憶に無いという。


 <三菱重工爆破事件>

 左翼テロリストの東アジア反日武装宣戦「狼」による爆破テロ事件。

 犯人は電話で予告したが、悪戯電話と思われていた。

 爆発威力は凄まじく、三菱重工本社建屋に留まらず、周囲のビルのガラスも飛散し、内部に壊滅的ダメージを与え、ビル内部の人間に留まらず、外に居た人々にも容赦なくガラス片が降り注いだ。

 爆弾による即死5名、その後死者3名合わせて8名が絶命し、300人以上がガラスのシャワーを浴び重傷を負った。

 爆弾はテロリストの予想よりはるかに威力があり、自衛隊も驚く程の凄まじさであった。

日本の爆弾テロとしては、2021年現在も最悪。

 しかし、この事件で震災時のビルのガラスが危険とされ、ビルの安全ガラスが義務付けられ、さらに、この事件で多数の何も罪もない人々が殺害されたことにより、殺人傷害事件被害者救済法が立ち上がるきっかけにもなった。

 

■初フライト


 1974年9月7日。東京都品川区の総合病院。

 絢香が幸子と共に拓郎を見舞いに来た。

 すると、病室に居ない。

 拓郎の母親がスーツの初老の男性と共に入ってきた。

 母親が立ち止まり、絢香達を見た。

「………どちら様で?」

 絢香が、焦りながら答えた。

「あ、あの………拓郎君の………友達です。」

 母親が驚いた。

「あ、絢香さん?」

「は、はい。」

「いや〜ま!可愛い娘!聞いているわよ拓ちゃんから!いや〜、あのボッケもんの息子がぁ〜、いつもお世話に………。」

「あの………彼は?」

 その頃、拓郎は十円玉を大量に袋に入れ、公衆電話に片手で入れながら、電話をしていた。

 佐賀の田島が心配して手紙を出しており、その返事をしていた。

「マジやべかったよ!スゲー痛かった!全身ガラス刺さっててよぉ。…………おおよ、左翼のバカちんに殺されてたまっかよ畜生め!」

 ふと、見ると、絢香が心配そうに見つめ、幸子が腕を組んで壁にもたれながら、拓郎を見ていた。

「お、悪ィ!またかけるっちゃね!おうよ!」

 車イスをキイキイ鳴らして、絢香と幸子に近づいた。

「おうよ!しばらく!」

 絢香が頬を膨らませ、睨んだ。

 幸子が、車イスの取っ手に手を伸ばし、力強く動かした。

「あいたた!ちょ、静かに動かせよ!イテぇよマジ!」

「あんた、重傷じゃ無かったの!?」

「そうだよ、だから車いすに乗ってタバコ吸いに………。」

 絢香が涙を流して怒った。

「バカ!私がどれだけ心配したと………貴方ってもう!」

 5階の病室に着くと、ベットに一人で上がれなかった。

 4人で痛がる佐藤を無理矢理ベットに放り込み寝かせた。

 絢香が聞いた。

「どうなの?」

「おうよ、生きてるよ!ちょっとダメージ、デカいだけじゃ!」

 スーツの男は、三菱重工の上司だった。

 彼も、左手に包帯を巻いていた。

 上司は絢香に頭を深々と下げた。

「この度は、当社の事件に巻き込んでしまい、大事なご子息様を負傷させ、ご迷惑お掛け致しまして、申し訳ございません!」

 拓郎が真顔になって話した。

「あの………申し訳ないですが、ちょっと、絢香さんと二人きりにして欲しいんです。」

 母と上司と幸子が部屋を出た。

 母がいきなり泣き出した。

 幸子が聞いた。

「………どうされたんですか?」

「あの子、あの性格でしょ?元気に振る舞ってるけど、左手の腱と右足の腱を切られて、耳も左がもぎ取られて………折角………あああ………。」

 幸子が、病室の方を向いた。


 病室では、佐藤が真顔で絢香に話していた。

「ワィなぁ………もう、左腕と右足が動かないし、耳も左が聞こえない、もうまともじゃ無いんじゃあ………こげな、メンドクサイ奴に関わるこたぁ無いと。お前は自分の夢を果たせ。な。」

 絢香が睨んだ。

「どういう意味?」

 拓郎が眉間にシワを寄せた。

「他にイイ人見つけろってんじゃあ………。」

 絢香が拓郎の顔に力一杯ビンタをした。

「拓郎君!何?そんな事だけで私を捨てるの?」

「………。」

「私が、はいそうですかって、帰ると?甘ったれてんじゃねぇよ!」

 絢香が拓郎の枕を強く叩き、拓郎の顔に迫った。

「あんたぁ!九州男児とぉ!なに簡単に人生捨てとっとね!この、バカちんがぁ!」

 絢香は拓郎のベットを泣きながら殴り始め、拓郎の顔に、絢香の涙が飛び散った。

 拓郎は、右腕で、絢香を抱き締めた。

「ごめん………絢香ぁ…………ワイが悪かったとねぇ………。」


 10月。

 彼女達は全員無事訓練を終わり、OJT(On The Job Training)が始まった。

 国内線で2週間、編成外の見習い乗務員として、空を飛んだ。

 幸子は747、絢香はDC-8に乗務した。


 一方で、拓郎は2ヶ月の間に死に物狂いでリハビリを行い、とりあえず歩ける位に回復していた。

 フラフラと、羽田の展望台に一人上がり、絢香の初フライトを眺めた。

 そして、福岡の板付空港では、定夫が幸子の搭乗するジャンボ機の到着をひと目見ようと待ち構えていた。


1975年1月1日。

 

 1971年に新しく移設され大きくなった熊本空港に、全日空の自慢の新型機ロッキード・トライスターが就航した。

 熊本にもやって来た大量輸送時代。

 正月休みで長崎外国語短大から実家に帰った幸子の妹・明実が、トライスターを目を輝かせて見つめた。

 手には、ジャンボ機の前でスチュワーデスの格好をした幸子の写真があった。

(見てて、幸子姉ちゃん………。)


■新型3発機の競合


 1975年夏。  

 日本航空乗員訓練センターに、来年導入されるダグラスDC-10のモックアップが作られた。

 一方で抜擢されたパイロット達と整備士達がアメリカのダグラス本社に出向いて、操縦や整備のレクチャーを受けていた。

 日本航空のダグラスDC-10は、世界初のワイドボディ3発エ

ンジン機として注目されたが、ロッキードも同時期にトライスターを発売。

 日本航空は国内外両方をこなす為、2発機のエアバスA300、747の胴体を短くして軽くした長距離型SP型等、機種選定で悩んでいて遅れを取り、全日空がいち早くDC-10を採用しており、ライバルのトライスターを日本航空へという意見も挙がったが、1972年に何故か全日空は組み立て工程に入っていたDC-10をキャンセルし、急きょトライスターを採用したので、1974年に日本航空はダグラスDC-10の採用を決定した。

 なお、仕様は、整備性を考慮し日本航空の主力・ボーイング747のエンジンをベースに出力向上させたプラット&ホイットニーJT9D・59A型を搭載した40型を採用したが、当時は世界のDC-10の中で日本航空だけの採用で、日本航空専用に作られた機材だったという。

 また、アポロ宇宙計画の技術を生かしたと話題となって人気があった全日空のトライスターに対抗して、まずは国内線に導入する事になった。

 因みに国際線仕様は政府専用機としてもチャーター使用されていた。

 そして、来年の羽田〜千歳、羽田〜福岡線就航に向けて、優秀なクルーの選抜が始まった。

 その中に幸子も選ばれた。


 1975年9月夜 東京・品川区。

 定夫はついに、美容関係品会社に再就職が決まり、東京に出てきたそのお祝いに、幸子と拓郎と絢香で飲み会を行った。

「かんぱ〜い!」

 4人のグラスが静かにチン!と鳴った。

 拓郎がいきなりクックッ、と笑い出す。

 定夫が聞いた。

「どうした?」

「いや、何か、昔に比べておとなしい飲み会になったなぁ?って。」

 幸子が笑いながら言った。

「そりゃもう大人だもん、何時までもバカ騒ぎしないわよ。」

 絢香がフフフと笑った。

 定夫が拓郎に聞いた。

「で、怪我はどうよ?」

「あぁ、走れないけど歩けるし、最初はさ、左耳が無いせいか吐き気が凄かったけど、もう慣れた。」

 拓郎が左手を挙げた。

 プルプル震えていた。

「まるでアル中だぜ、まぁ、利き腕じゃなくてラッキーだったよ。」

 幸子が拓郎に話した。

「絢香と別れなくて良かったね!」

 絢香が拓郎の顔を見た。

「いや、あん時はマジ、まともに生きてく自信無かったよ。でもホラ、痛さと耳のせいで、絶えずボワンボワンしててよぉ………。」

 拓郎が絢香の肩に左腕を、力をかけて、プルプル震えながらゆっくり廻した。

「ふ〜っ、これだけで疲れるわ。でも、絢香だよ!絢香がな、俺を地獄から引き摺り出してくれたんだ。絢香が、あん時な、怒ってくれんかったら、俺、今も病院のベットだったかもな、それか良くて車イスか?………絢香には一生感謝するよ。」

 絢香が、顔を紅くし、拓郎の左手を握った。

「一生?」

「おうよ、一生じゃい!絢香は俺の女神たい!」

 幸子と定夫がクスッと笑った。

 帰り、幸子と絢香二人で、寮に歩いて帰った。

 絢香が呟いた。

「良かったね、松原クンが東京に住んでくれて。」

 幸子が、少し落ち込んだ顔をした。

「私………定夫くんの人生変えちゃった………。」

 絢香が答えた。

「それの何処が悪いの?」

 幸子がため息をついた。

「私で本当にイイのかな?と思って………。」

「どうして?」

「私は、夢を追う女よ?将来は日本航空の宇宙船のスチュワーデスになるんだって………だから頑張ってるのに………定夫さん、そんな私を仕事を棄ててまで追いかけてくるなんて………。」

 絢香が真顔になった。

「幸子は何?松原クンの事、嫌なの?」

 幸子が絢香を見た。

「違うわよ!私のせいで定夫クンの人生狂うのが恐いの!好きだから尚更そう思うの!」

 絢香が声を荒げた。

「松原クンの事、愛してるのね!」

「そうよ!」

「だったら、一緒に幸せになるようにしたらいいじゃないの!」

 二人は立ち止まり、絢香が幸子の襟首を掴んだ。

「あのね、夢を追う少女!そんな貴女が好きで、わざわさ東京に来てるのよ!なのに、幸子、何なの?もう手遅れなんよ!責任持って松原クンの面倒みんしゃい!」

 幸子が唖然とした。

 すると、絢香が泣き出した。

「私ね、私に関わった全ての人、皆、幸せになって欲しいの!

私………私!幸子も松原クンも大好き!だから、だから一緒に………ムニャムニャ………。」

 絢香はいきなり歩道に立ち崩れ、寝てしまった。

 幸子がため息をついた。

「飲み過ぎよ………絢香。」

 幸子は仕方なくタクシーを止めて、寮まで帰った。 

 幸子は足がおぼつかない絢香を介抱しながら、部屋に歩いた。

「絢香………判ったわよ、ゴメンね。」

 

 翌朝。

 幸子は、絢香が二日酔いで仕事に支障をきたさないか心配で、見に行くと、普通に起きて歯磨きをしていた。

「あ、幸子〜、おはよ〜!昨日は楽しかったね!また皆で遊ぼ!」

 幸子は苦笑いしながらホッとした。

 幸子が出勤しようと玄関に行くと、管理人のおばさんが、呼び止めて、電報を渡した。

「ゼンニックウ アケミ ニュウシャ ゴウカク」

 幸子が笑顔で外の空を見つめた。

(明実………。)

 すると、もう1枚電報があった。

「サチコニハ マケナイヨオダ アケミ」 

 幸子の笑顔が消えた。

(明実いぃ………!)

                        

■黒いピーナッツ

 

 1976年2月4日 アメリカ合衆国・ワシントン。


 上院にて行われた外交委員会多国籍企業小委員会で、日本を揺るがす大事件が発覚した。

 前大統領・リチャード・ニクソンが、地元のテキサスの企業・ロッキード社を倒産から救い、大量に発生する失業者を助けろと議会で訴え、多額の救済金を計上したが、その金は殆ど日本に裏金献金として渡っていた事が発覚。

 

 議員が証拠として提出した領収書には日本から輸入した千葉県産ピーナッツが一粒100万円として計上された記載がされており、「一粒100万円のピーナッツという最高級品があるのか?」と、まくし立てた。

その金は貿易商の「日本の首領」と言われた男を通じ、田中首相に渡り、川崎重工で開発しようとしていた海上自衛隊の純国産哨戒機をキャンセルさせ、ロッキードP-3C哨戒機をライセンス生産する方向に変えさせ、さらに、全日空にDC-10の発注をキャンセルさせ、ロッキード・トライスターを採用させたという事が浮上してきた。

 この件に関し取材していた日本の無所属フリーランサーの記者や、関係者が事件疑惑浮上後に行方不明になる等、「疑惑」は「確信」へと変わり、さらに他の国でもロッキード柄みの汚職が発覚し、オランダではF-104スターファイター戦闘機、イタリアではC-130ハーキュリーズ輸送機に不正採用が発覚。

 日本で「裏の首領」と言われた男とは、児玉富士夫というかつて戦前は満州で貿易商を営んでいた男で、裏で日本の諜報員としても活躍し、戦後はいち早く日本に戻り、今度は日本を占領したアメリカ軍と手を組んで戦後の日本の経済発展の為に幅を利かせていた。

児玉は事件発覚後、病気として家に閉じ籠り、報道陣と野次馬に連日包囲され、家に向かって罵声が飛び、軒先に「そんなに好きならくれてやる!」と、ピーナッツをばら蒔く人も現れ、警備の為に機動隊が家を包囲し、今度は「犯罪者を警察が善良な市民の税金で守ってやがる!」と罵声が飛び交った。

 その騒ぎの中、調布飛行場にて、右翼の某男性俳優が第二次大戦時の海軍飛行服を着用し、模造刀を握りしめ、頭に日の丸の鉢巻きを巻いてパイパー製単発自家用機をバックに報道陣の撮影に応じ、その後男は自家用機に一人乗り込み離陸。

 報道陣は「悪い冗談だ」と笑っていたが男は管制塔に「天皇陛下万歳!」と無線に怒鳴った後に、児玉の家に突入し爆発炎上する事件を起こした。

誰もまさか本気にしていなかったので調布飛行場で笑いながら煙草を吸いながら寛いでいた報道員達は話を聞いて誰もが驚いた。

 当時は右翼派から児玉は戦後の日本の為に尽くした男として慕われていたが、この事件発覚で愕然とした者も多かった。

 日本では2021年現在でも史上最悪の汚職事件として伝えられている。


 そんな荒れた時期に明実が全日空に入社し、毎日、全日空本社には報道陣が集まっていた。

 熊本の両親が心配していたが、明実は「業務とは関係ない」と割りきり、訓練に励んだ。

 一方で、日本航空では7月1日からDC-10の国内運行を開始し、幸子も業務に就いた。

 この年の7月27日。

 田中前首相が逮捕。

 日本初の首相経験者逮捕に国内は震撼した。

 そして、ついに全日空社長も逮捕され、社内の雰囲気が暗くなっていった。


 10月初め。

 幸子と明実が久しぶりに品川の喫茶店で話した。

「………明実、なんか入社早々、大変ね。」

「………うん………でも、仕事には直接関係無いし。」

 明実は沈んだ顔をあげ、幸子に微笑んだ。

「それより、私、やりたい事があるんだけど。」

 幸子が明実の目を見た。

「私と姉ちゃんで、スチュワーデスの格好で写真撮りたいの。」

 幸子が笑った。

「判った!でも会社の服だから、お互い上司に許可を得ましょう。」

 明実がルンルン気分で帰る後ろ姿を見て、幸子が微笑んだ。

 一週間後、二人の上司は笑いながら撮影を承諾し、さらに気を遣ってお互いの主力機をバックに撮影を行った。

 両社の広報が来て広報誌撮影のプロが撮影し、両親に贈る手続きをしてくれた。

 何とも不思議な悪ふざけに皆が笑いながら参加した。

 全日空側も暗い雰囲気が吹き飛び、撮影を終えた二人を拍手で迎えた。

 明実の教官と先輩が腕を組んで壁に、もたれながら苦笑いしていた。

 日航の上司の一人が笑いながら二人に話した。

「有り得ない撮影だが、面白かったな!ハハハ!」

 明実が帰り際に、幸子に話した。

「見て!トライスターが私達を見て笑ってるみたい。」

 幸子がトライスターを見上げた。

「このコは悪くないもんね!良いコだよ!でしょ?姉ちゃん!」

 幸子は笑顔で頷いた。


 ロッキード・トライスターは、最初は汚職の象徴として睨まれたが、機体そのものは優秀かつ、先進的だった。

 この機体が業界に与えた影響は良くも悪くも強く、現在もこの「機体の欠陥」による事故は無い。

 しかし、この汚職事件により評判が悪くなり、トライスターは派生機種も作られず、ロッキード社は旅客機製造販売から撤退した。

現在はメンテナンスに困るので引退機は随時スクラップ処分されている。


挿絵(By みてみん)


 因みにロッキード社が、高い技術を持ちながらもこのようなリスクを負い、汚職に走ったのは理由があった。  

 1960年代始めにジョン・F・ケネディ大統領の「世界の警察構想」で、大型輸送機を造り、ロッキードC5ギャラクシーが採用され、ボーイング案は却下された。

 しかし、ギャラクシーはアメリカ空軍のみの定数しか採用されず、一方でボーイング社は民間機の747ジャンボに造り直し大成功。

 1960年代中盤には泥とジャングルのベトナム戦争で必要とされた「空飛ぶ戦車」をアメリカ陸軍に依頼され開発し、戦闘ヘリ・AH56Aシャイアンを開発したが、量産寸前にベトナム戦争の疲弊化によりコストが高い為と、ライバルのベル社提案のAH1ヒューイ・コブラの方が安価だった為にキャンセルされた。

 アポロ計画の宇宙船が唯一の頼みだったが計画は終了し、今後の収入を得るために、アポロ計画の技術をふんだんに使った旅客機・トライスターを作ったが、ジェット旅客機のシェアは既にダグラスとボーイング社が独占していた上、採用したエンジンの会社・イギリスのロールスロイスも倒産し、待ったなしの崖っぷちに追い詰められた末の汚職事件だった。


 因みに全日空機として造られている最中にキャンセルされた、ダグラスDC-10は、行き先が無くなったのでトルコ航空に割引価格で交渉販売され引き渡されたが、貨物ドアロックの構造不良により離陸直後に貨物扉が開いて墜落、乗客334名乗員12名全員が死亡する事故を起こした。(1974年3月3日トルコ航空パリ国際空港981便墜落事故)

 日本航空の機体は事故後の機体だったので改良されていた。

 この事件が無ければ全日空は日本国内で、この機材による日航ジャンボ機墜落事故に匹敵するような大事故を起こしていた可能性があったのは皮肉であろうか。

 

■国際線


 1977年5月昼頃。羽田空港ターミナル。

 幸子は千歳便終了後、後輩の300期台生・鈴木清美と喫茶店で昼食を食べていた。

 

 すると背後から幸子の肩を誰かがポンと叩き、振り向くと、同期の矢島咲子と竹下洋子が立っていた。

「幸子!久しぶり〜!」

 三人ははしゃぎながらハイタッチした。

 幸子が聞いた。

「何処行ってたの?」

 咲子が答えた。

「私はパリ。」

 洋子が答えた。

「私は香港よ!」

 幸子は、驚いた。

「国際線訓練受けたんだぁ!いいなぁ!」

 咲子が、顔をしかめた。

「結構大変よぉ、機内の時間長いし〜、時差ボケで訳判らなくなるしさぁ〜。」

 洋子が笑顔で話した。

「でもさぁ、休み多いし、海外で休暇で遊べるしぃ!」

 幸子が語った。

「実はね、私も秋に受けようかな?と思って。」

 洋子が幸子の手を掴んだ。

「そうよ、そうしなよぉ!今のうちだけよぉ!」

 咲子が話した。

「私達が今度、色々教えてあげるね!」

 

 彼女たちが去って行くと、清美が聞いた。

「先輩………国際線って大変なんですかぁ?」

「うん………休みは多いし、海外で遊べるけど、大変といえば大変かな?」

 当時も今も女性客室乗務員の勤続年数は5年前後と短い。

 客室乗務員は若くなくてはならないという規定は無いが、やはり女性特有の理由で辞める人が多い。

 また、国際線の場合、休みが多く、海外で遊べる機会が多い一方で、空中勤務が長く、時差ボケもあるので体力が続かないと難しい職場でもある。

 しかし、地上勤務や教官として会社に残る者も多く、退職して子供が落ち着き、再び仕事に就く際も、航空会社に戻って教官になったり、英語の教師、美容関係等、老いてもなお職には困らず、やはり客室乗務員というのはエリート美人集団とも言える。


 1977年9月27日。

 羽田〜香港〜マレーシア〜シンガポールの715便、ダグラスDC-8・62型(JA8052)に、竹下洋子が勤務し、マレーシアのクアラルンプール国際空港に着陸しようとしていた。

 しかし、この日は、大雨で視界が悪い中、着陸待ちで上空待機していた。

 機長が無線で着陸許可を受けたが、目視出来ないので、計器とレーダー誘導のみの着陸になる。(VOR/ADF進入)

「よし、次だ、着陸するぞ!」

 普通は着陸前に現在地を確認するのだが、機長は会社に燃料節約を推進をするよう言われており、確認せずに速やかに着陸準備に入った。

 しかし、これは社内規定違反であり、通常はコーパイ(副操縦士)が注意しなければならなかった。

 だが、当時は60年代に激化した組合運動の再燃を懸念した会社が職種や地位で組合を分離させ、結託させないようにしていたので上司ある機長に対し組合も違う部下の副機長や機関士が注意出来る雰囲気で無かったので黙認されてしまった。

 一方で機内では、シートベルトサインと禁煙サインが点灯し、洋子が先輩のアシスタントパーサーと共に担当エリアの点検を行った。

 シートベルトがうまく出来ない乗客のベルトを丁寧に取り付け、静かにテーブルを仕舞い、安全を確認したところで、乗務員専用シートに座った。

 対面で乗客を見渡す位置にあるシートで、前に座る白人の女の子が洋子に話しかけてきた。

sister You're very good-looki

ng(お姉さん達、綺麗ね)

 洋子がアシスタントパーサーの顔を見ると、笑顔で頷いた。

 洋子は笑顔で答えた。

Thank you. You are also beautiful lady.(ありがとう。貴女も美しいわよ。)

 女の子は、生え換わり中の白い歯を見せニコリとし、隣の父親が、笑顔でお辞儀した。

 すると、コクピットからいきなり悲鳴が響き、洋子とアシスタントパーサーが驚くと、機内に強烈な振動が響き、乗客達が絶叫した。

 機体は空港手前7.5キロの丘のゴム畑に、滑走路だと思い込んだまま降下し、墜落した。

 ・搭乗者 乗客 69名 乗員 10名 

 ・死者 乗客 26名 乗員 8名

 

 この事故は、着陸寸前のゴム畑への墜落だった為、半分以上の乗客43名と乗員2名が負傷したものの助かった。

 だが、洋子は即死だった。

 その日の夜、羽田で悲報を聞いた幸子は驚いた。

 福岡で泊まりになった絢香も、深夜に悲報を聞いて驚いた。

 しかし、悲報は、これだけでは終わらなかった。


 翌日9月28日。

 パリ〜インド〜タイ〜東京行き472便。DC-8・62型(JA8033)

 矢島咲子が乗務していた。

 咲子はインドのムンバイ空港を離陸後、黒ブチ眼鏡の男の乗客に睨まれた。

(私………何か怒らせたのかな?)

 咲子が手帳を取り出し、マイクで、タイへ向かう旨の説明を始めたところ、先程の黒ブチ眼鏡の男がシートベルトを外し、懐から黒光りする拳銃のようなものを取り出し、乗客に向かって叫んだ。

「ウオオー!」

 乗客が怯えて悲鳴をあげると機内のあちこちから絶叫と悲鳴が響き渡った。

 咲子はマイクと手帳を落とし、絶句した。

 一人の男が、咲子の襟首を掴み、壁に叩きつけた。

「コクピットの扉開けろぉ!早く!」

 咲子は涙目になり、首を横に振った。

 男はいきなり咲子を投げ捨て、咲子は乗客の上に被さるように転んだ。

 他の男がアシスタントパーサーから鍵を奪い取ると、アシスタントパーサーは、男の背中に飛び付いたが、振り向き様に顔面を強く殴られ、血を周囲にばら蒔きながら倒れた。

 コクピットに目の細い小柄な男が迫り、倒れている咲子を起こし、咲子の頭に銃を突き付けた。

「ゴリッ」と音を立て、咲子の頭に銃口が食い込んだ。

「コクピットぉ!開けろぉゴラァ!」

 咲子はインターフォンを使うと、機長の声がした。

「どうした!何があった!」

 すると、男は咲子を突き飛ばし、インターフォンに怒鳴った。

「開けろぉ!ゴラァ!女を殺すぞ!」

 沈黙の中、咲子が怯えた顔で犯人を見つめる。

 コクピットの扉が「カチャ」と静かに開いた。

 すると、突然副機長が飛び出してきて、犯人に殴りかかった。

 腰を抜かした咲子の前で副機長は犯人に馬乗りになり、バチバチ犯人の顔を殴り続けた。

「だぁ!ゴラァ!………野郎っ!」

 すると、他の犯人が、叫び声をあげながら、副機長の顔面を蹴り飛ばし、副機長が血を撒きながら倒れ、咲子の顔に飛んだ。

 咲子は、副機長を守るように抱きしめると、殴られた男が倒れた副機長の腹を何度も何度も執拗に蹴り始めた。

「てめ………この………くそたらぁ!死ね!死ねェ!」

 副機長は、鼻と口から血を流し、3本線を肩に付けた白いワイシャツに血が飛び散る。

 咲子が叫んだ。

「止めてぇぇぇ!!」

 男は咲子を睨み、咲子も涙目で睨み返す。

 すると、犯人のリーダーらしきの男が「止めろ!」と怒鳴り制止し、犯人達はコクピットに入って行った。


■ダッカ・ハイジャック事件


 1977年9月28日にインド上空で発生した427便ハイジャック事件は日本赤軍という過激派によって行われた。

 

 日本赤軍とは1969年に結成された左翼学生グループで、力による革命を唱えており、山梨県の「福ちゃん荘」でダンプカーを使い、警視庁庁舎や首相官邸に突入し、首相を人質に逮捕された同志を解放しようと訓練を行っていたところ、あまりに大胆な訓練が目立ち過ぎ、地元民に通報され(大菩薩峠事件)、最初のメンバーの大半が逮捕され弱体化し、少数になると猟銃やダイナマイト略奪や銀行強盗等をするようになり、やがて海外で武装組織に訓練を受けてから日本に戻り、武装蜂起を目的とするようになり、海外に進出した。

 なお、日本航空は日本赤軍に3度ハイジャックされている。

最初は有名な日本初のハイジャック事件、1970年の「よど号事件」、2件目はボーイング747(JA8109)が1973年にドバイでハイジャックしたもののリーダーが手榴弾を失敗して爆死し、指揮官不在になった犯人グループは全員釈放退避させた上で機体を爆破し逃げられた事件。

 ダッカ事件は3度目で、2度の経験を経て、かなり手慣れていたという。

 犯人達はDC-8の操縦方法を把握していた。

 機長が犯人達を見ると、リーダーらしき大人しい男以外はマスクを被り、客室の制圧に向かって行った。

 機長は、犯人達に内緒でムンバイ空港に帰ろうとすると、リーダーの通称「20番」が止めた。

「止めなさい、我々はDC-8を熟知している。知らないと思って下手に動くと大変な事になりますよ。」

 機長が操縦桿を止めて、リーダーの目を見た。

「判った!じゃあ言うことは聞くから、頼むから人に危害を加えるのは止めてほしい!」

 もう一人が機長のハンズフリーマイクを取り上げて怒鳴った。

「グダグタ抜かしてんじゃねぇぞ!殺すぞゴラァ!」

 リーダーが男を睨んで黙らせた。

 リーダーは、男に手を差し出し、機長から取り上げたマイクを渡した。

「All passenger's、あ〜………、Under c

ontrol of Red Army Hidaka unit.

え〜、乗客の皆さん、この飛行機は、日本赤軍日高隊により制圧されました。なお抵抗する者に対し、容赦なく制裁を加えますので、今後は我々の指示に従ってください。」

 咲子と副機長は、空いている客席に座らされ、副機長は黙って犯人達を睨んでいた。

 リーダーが機長に行き先を指示した。

 バングラデッシュのダッカだった。

 機長は焦った。

 当時、日本航空はバングラデッシュに航路はなかった。

 それどころか、バングラデッシュは不安定な国家状況下で定期便を持つ航空会社自体皆無に等しかった。

「無理だ!ダッカなんか着陸したこと無い!」

 リーダーは地図を渡した。

 地図は丁寧に印が付けられており、解りやすかった。

「ダッカ・インターナショナル・エアポート。滑走路9千フィート、南北に走っている。この機材なら管制指示が無くとも着陸可能だ。他に質問は?」

 機長が、無言で燃料計を見ると、リーダーが呟いた。

「燃料が足りないと、本来の目的地のタイにも行けませんね。」

 機長は犯人の鋭い指摘に反論出来ず、ただ従うしか無かった。

 犯人達は乗客乗員が抵抗しにくいように男は窓側、女は通路側に移動させ、女性客数人を使い、乗客の荷物を運ばせ、入口を塞いだ。


 犯人達は手際が大変良く、約束はシッカリ守った。

 その「約束」とは逆らうと容赦なく制裁を加える事で、女性客だろうが容赦なく何度も殴り飛ばし、鮮血が乗客の頬に飛び散り、誰もが従わざるを得なくなった。

 事件発生直後、427便より、ハイジャック信号・スクォーク75が発せられた為、すぐに事件が発覚し、昼前には日本でも報道された。

 羽田の日本航空は昨日の墜落事故の対応に追われている最中に発生したこのハイジャック事件とダブルでの対応に追われた。

 福岡から帰った幸子達が唖然としている。

 対策本部は警察庁や外務省の官僚も出入りし殺気立っていた。

 報道陣が幸子達にぶつかりながら対策本部へ向かう。

 幸子が対策本部にコッソリ向かい、中のホワイトボードに、咲子の名前を見つけた。

 幸子が先輩のアシスタントパーサーに呼びつけられた。

「ダメ!面倒な乗務員だって言われて目を付けられるわよ!」

「でも………。」

「気持ちは判るけど、関わらない!知らない顔してなさい!」

 幸子は渋々去っていった。

 乗務員室はとても暗い雰囲気に包まれ、皆がテレビのニュースを注視していた。


 午後2時31分。バングラデッシュ・ダッカ国際空港。

 空軍が管理していた空港は、只でさえ国内情勢不安定な中、国際問題になる海外のハイジャック機など受け入れたくなく、バングラデッシュ側は着陸を断固拒否したものの、一時間旋回を続けた後に強行着陸してしまったので、軍隊を派遣し427便を武装兵と装甲車で包囲した。

 犯人は入口に爆弾を仕掛け、電源車を要求した。

 要求はすぐ通ると思っていた犯人は、機長の無用な操作を阻止する為に自機のエンジンを切らせたが、それが原因で大変な事態になった。

 熱帯のバングラデッシュでエンジンを切るとどうなるか。

 エンジンが止まると空調が止まり、旅客機は只の密閉された鉄のカプセルになる。

 あっという間に機内は蒸し風呂になり、機内は暑さと息苦しさでパニックになり、犯人が焦った。

 電源車がまだ来ない。

 其ほど長い時間では無かったようだか、熱帯の中に密閉された狭い鉄のカプセルに大勢人を閉じ込め快適な訳が無く、犯人達が銃を向けると「殺せ!今すぐ殺せぇ!」と怒鳴り声をあげる乗客もいた。

 すると、咲子が、ボヤける視界の中で、緊急用酸素マスクを射出し、全員が慌てて酸素マスクに手を出し、ひとまずパニックは治まった。

 なお、このまま酸素マスクも無く放置した場合、確実に死者が出る事態になっていたという。

 

 その日の夜。

 寮を出て同棲を始めた絢香が沖縄から帰って来ると、拓郎がテレビを睨んで鬼の形相を浮かべていた。

「この、ゲス野郎共め………。」

 右手の拳の下のテーブルには、握り潰して粉々になったタバコが散らばっていた。

爆弾テロに遭って以来、只でさえ大学生活を邪魔した過激な左翼に対する拓郎の恨みは相当なものだった。

 

 翌日。

 幸子は休みで、寮から定夫と待ち合わせ、定夫の勤務が終わるまで定夫のアパートで、テレビでハイジャック事件を見ていた。

 すると、犯人の要求が報道され、幸子は驚いた。

 

 日本で収監中の同志10人の釈放と、現金600万ドル。

 

身代金も小国の年間の国家予算に匹敵する凄い金額だが、その釈放する囚人の顔ぶれも凄かった。

 赤軍メンバーだけではなく、思想と関係無い凶悪犯2名、更に拓郎に重傷を負わせた三菱重工本社爆破事件の犯人の一人のテロリストの女性、大道寺あや子も含まれていた。

 幸子は呟いた。

「………そんなの釈放出来る訳無いじゃない。」

 翌日午後6時半。釈放犯と身代金が、厳重警備の中、羽田空港に到着した。

 幸子は千歳からの帰りの便で、上空から空港ビル周辺に沢山の赤色回転灯を見た。

 空港ビルに釈放を抗議する人達が集まり、機動隊に押さえられいた。

 その中で、幸子は見慣れた顔を見た。

 拓郎が激怒して杖をふり回し、空港入口に向かって怒鳴り散らしていた………。

 拓郎は機動隊2名に、取り押さえられながら叫んだ。

「ゴラァ!大道寺ぃ!見ろぉ!わいを!わいを貴様んが、こげな体にしたんじゃあ〜!出てこい!同じ目に遭わしたらぁぁ!」


2006年8月12日 慰霊の園


 拓郎は、絢香が望美に話をしているのを横で黙って聞いていたが、重い口を開いて呟いた。

「あの時は、本当に悔しかった。何で大勢を、関係の無い人を殺害して、私をこんな不自由な体にした奴をだよ、釈放して自由にしてやるなんてさ、何の為に法律っていうのがあるのかね………またコイツらに殺される犠牲者が増えるだけだと思ったよ。まあ、大勢人質を取られているというのは判る。妻が、乗務していた飛行機だっら、とは思うがね。やっぱ、今も納得はいかないね。」

 すると、ふと、拓郎は、話をそらした。

「絢香、あのよ、よく考えたら、望美ちゃんに幸子さんの話以外の話してどうすんだよ、いいんだよ、俺達の話は!大体、望美ちゃん、興味が無いだろうがよ!」

絢香が、焦って、望美の顔を見た。

すると、望美は真顔で話した。

「いえ、幸子おばさんが生きていた頃のお話を聞きたいんです。ですから、当時のお話をされると、かえって生きてきた時代が見えてきて理解し易いので、どうかこのまま話を聞かせてください。」

 絢香は安堵の溜息をついて、また話始めた。

 

 1977年10月1日 早朝。


 幸子と絢香が久し振りに羽田空港で勤務時間が被った。

 二人は空港ビルの窓から22番スポットを睨んだ

 22番スポットは、ライトアップされ、特別便のDC-8・62

型(JA8031)が待機していた。

 機体は朝焼けと、パトカーの赤色灯が反射していた。

 ダッカ国際空港へ、政府交渉人と、持ちやすいように3つの袋に分けた身代金、そして、6人の釈放犯が乗る。

 絢香が、特別機を憎悪の目で睨んだ。

「おかしいわ………こんなの………罪の無い人を300人以上も痛い目に遭わせた女が、国の許可で自由になるなんて。おまけに私達の大事な機材を使って!」

 絢香が拳を窓に叩きつけ、歯を食い縛り、悔し涙を流す。

 幸子が話しかけた。

「絢香、判るけど、今はそんな顔しちゃダメ!そろそろブリーフィングが始まるから………行こう!」

 絢香は黙って頷いた。


 当時、ハイジャックされた便は日本人だけではなく、国際便だったので外国人も多数乗機しており、しかも偶然当時のアメリカ・カーター大統領の知人1名が乗っており、福田赳夫総理は「人命は地球よりも重い。」と語り、犯人の要求を飲む形となった。

世界中から「日本は自動車だけではなくテロも輸出した」と罵倒されたものの、アメリカは日本を支持し、犯人が要求したドル札での身代金支払いに協力した(両替のみ)。

 しかし、事はスムーズに運ばず、まずは特別機に警察特殊部隊を同行させ、ハイジャック機に派遣しようと考えた。

 当時は極秘部隊で、1972年の「あさま山荘事件」を教訓に結成され、秘かに自衛隊に紛れて訓練をしていた。

 後のSATである。

 因みにこの特殊部隊の初陣は1979年の「大阪三菱銀行籠城事件」が初陣といわれているが、正式に活躍が報道され存在が公になったのは1995年の全日空函館空港ハイジャック事件だった。

 だが、バングラデッシュは独立したばかりの貧しい国で、国内での外人による流血戦闘を嫌い、あくまでも誰も痛めずに大人しく国から出ていって欲しかった。

 日本赤軍側も、あくまでもバングラデッシュが日本を説得してくれる事を望み、直接対話は拒否した。

 そして、日本政府代表もオブザーバーとして、バングラデッシュからは犯人に直接話すのは拒否し、まずはバングラデッシュと日本政府代表で大きな壁があり、交渉は長引いた。

 現場では日本政府代表・石井一氏は、犯人が先に人質を解放すれば、要求を飲むとしたが、一方バングラデシュ代表・空軍司令官マムード氏は、犯人が約束したのだから、先に日本が要求を飲むべきだと衝突した。

 一方、ハイジャック機の機内は、電源が接続され、エンジンはアイドリングのまま維持され、一応地獄の熱せられた鉄のカプセルは逃れ、食料も配布され、乗客乗員も落ち着いたが、循環式トイレがいつまでも使える訳がなく、流れる水は処理しきれなくなった黒い糞尿まみれの水となり、決して快適では無かった。

 空調があるとはいえ、永く座っていると尻が蒸れる。

 さらに、コレラ騒動まで発生し、機内は一時騒然となった。

 犯人らはコレラ患者を急いで機内から降ろした。

 そして、コレラ患者の座っていたシートに機内サービス用のウイスキーを消毒剤代わりに撒いたあと、隣に座っていた日本人女性客の頭に大雑把に残りのウイスキーを降り注いだ。


 午後5時頃。

 コレラ騒動も治まり、咲子が呆然としていた。

 すると、犯人達はコクピットに白人の男性1人を連れて、扉を閉めた。

 暫くしてコクピットから物凄い怒りを込めた怒鳴り声が響いた。

 コクピットでは、犯人がバングラデシュに日本に対し要求を飲まないと、この白人男性を殺すぞと要求していた。

 だが、石井氏が無線に割り込み日本語で説得したとたん、犯人が激怒したのだ。

 あくまでも日本政府との直接対話はしないと宣言したのに、無理矢理割り込んで来た為だった。

 白人の頭に突きつけられた拳銃が機長の頭に向けられた。

「出せぇ!あの特別機にぶつけろ!」

「本気か!出来るわけないだろ!」

 犯人が目を血走らせ、唾飛沫を飛ばしながら怒鳴った。

「早く出せぇえ!」

 已む無く機長は従い、ジェットエンジンが急に回転を上げ、ガクン!と動き始めた。

 咲子は怒鳴った。

「皆さん!シートベルトを!早く!」

 機内が騒然となり、咲子もシートに座り、ベルトを締めた。

(神様………神様………。)

 管制塔からバングラデッシュ側がハイジャック機に無線で今直ぐ止まるよう呼び掛けたが、犯人は、「これから起こることは全て愚かな日本政府のせいだ!」と一蹴した。

 バングラデシュの空港車両や軍の車輌が阻止しようと八方から群がるが、止まる気配の無いハイジャック機に危なくて近寄れない。

 その時、バングラデシュ側からのマムード氏の必死の声で懇願する無線を聞いたリーダーは真顔になった。


 Please don't break an importa

nt airport in our country! Bec

ause I'm poor, our country can

't correct it! Because I ask,please stop!please!please!

(我が国は貧しいから、この空港を破壊されたら再建する力は無いんだ!立ち直れなくなる!頼むから止めてくれ!お願いだ!)


 リーダーは機長に叫んだ。

「もういいです!止めてください!」

 ハイジャック機は止まり、機内は安堵に包まれた。

 咲子は、乗客達を見て、深い溜め息をついて、気絶しそうになった。

 その後、急に止めたのでエンジンが止まり、また灼熱地獄が訪れ、もはやこれまでと、交渉が人質一部解放の線に流れ始めた。


<ダッカ・ハイジャック事件> 

1977年9月29日〜10月3日

 10月3日に乗客の半分・男性客のみを人質のまま、コクピットクルーは交代の上、中東各国に亡命飛行に出るが、各国に拒否され、中には戦闘機がスクランブル発進し断固拒否した国もあり、アメリカやイスラエルを嫌う中東の国なら趣旨を理解してくれると信じていた犯人達はショックを受けたという。

 最後にアルジェリアで、一切責任は取らない事を条件に着陸が許可され、犯人達は黙認され逃走、現在も国際指名手配中。

 犯人の中にはあさま山荘事件でサブリーダーだった板東國夫が居た可能性が高いと見られている。(レバノンに居ると言われている。)

 なお、乗客乗員はアルジェリアに保護され、無事ハイジャックされた機体に乗り帰国を果たしたが、機体は内装が全て交換になってしまったという。

 

■国際線資格


 10月5日 

 3日に釈放されて帰国した咲子は暫く入院した。

 幸子が見舞いに来た。

 咲子はすっかり疲弊して、頬がこけ、目もうつろだった。

「どう?体調は?」

「暫く無理かも………毎日あのハイジャックが夢に出ちゃって。」 

「シッカリ休んでね。」

 咲子は、弱々しく笑顔を見せた。

「うん、遠慮なく休ませてもらうわ。」

 幸子が花瓶の花を入れ換えた。 

 すると、咲子が呟いた。

「洋子………私が日本に居ない間に亡くなったって?」

 幸子が黙って頷いた。

 咲子が呟いた。

「洋子の分も、頑張っていかないとね………。」


 暫く、洋子に対しての想いの沈黙が続いた。

 

幸子が紙袋を出した。

「咲子が居ない間に、制服が新しくなったの。国際線の咲子達の上司が渡してくれって………。」

 咲子は、ガバッと起き上がり、カーテンを閉めて着替えた。

 咲子はヨロヨロしながらカーテンから出てきて、幸子に新制服姿の自分を見せた。

「どお?似合う?カッコイイよね!………洋子にも見せたかったな………。」

 幸子はニコッとして頷いた。

 すると看護婦が入ってきた。

「矢島さん!あなた、安静にしてなきゃダメでしょ!全くもう!」

 咲子は慌ててパジャマに着替えた。

 咲子が呟いた。

「………私はいいけど、幸子は彼氏居るんだよね?」

「うん。」

「彼氏、国際線反対しない?」

 幸子は黙った。


 翌日。

 出社すると、国際線乗組員室から呼び出された。

 咲子のマネージャーが面会した。

「遠藤さん、君、こんな事件や事故があった後になんなんだが、国際線の訓練受けないか?」

 幸子が困った顔をした。

 マネージャーが話した。

「来年、成田空港が開港する。なのに事故で貴重な人材が失われ、しかも、国際線を辞めたいという乗務員が増えて困ってるんだ。君はとても優秀と聞いている。どうかな?」

 幸子は元気に承諾した。

 だが、幸子は熊本の両親から電話で心配されていた。

 国内線専門だからと、はぐらかしたが………。

 幸子は寮にも3年住んで古株になってしまい、同期は誰も居なくなり、引っ越そうと思っていた矢先だったから丁度いいかも?と考えた。


 10月9日。

 定夫に国際線に誘われたと、うち明けると、やはり良い顔はしなかった。

 しかし、帰り際に定夫は走って追いかけてきて、幸子の腕を掴み、話した。

「幸子さん!僕も引っ越したいと思ってたんだ。この際一緒に新しい家探そうか?」

 幸子は意地悪な顔で呟いた。

「一緒?一緒に住んで、私をどうするつもり?このスケベ!」

 定夫は「はぁ?」という顔をすると幸子が笑いながら走り出した。

 定夫が追いかけた。

「一緒に住みたいと言っただけじゃん!何だよスケベ!って!それが彼氏に言うセリフかぁ!」

 二人は抱き合って笑い合った。

「私、部屋、汚くするよぉ。」

「俺が掃除するから!」

「国際線だから疲れて八つ当たりするよぉ。」

「俺の事、好きなだけ叩けよ!」

 幸子は定夫の目を見つめた。

「叩くなんて、かわいそう。」

 二人は抱き合って熱いキスを交わした。

 取り敢えず引っ越しは国際線訓練を終えてからにすることになった。

 候補は千葉市だった。

 新宿勤務の定夫と成田勤務の幸子との中間にしてみた。

 幸子は11月から羽田の日本航空乗員訓練センターで、後輩の鈴木清美と共に国際線訓練を受けた。

 新たにC・I・Qを受講する。

 通関手続き(Costoms)出入国手続き(Immigration)検疫手続き(Quarantime)の略。

 各国の空港により手続きや法律が異なるので、日本航空が寄港する全ての空港を覚える。

 ルート・インフォメーション(日本航空の国際航路や時刻)を学び、新たに国際線機材の727、747、DC-8、DC-10を学ばなくてはならない。

 国内線で慣れていても、国際線はまた新たに覚え、頭と体に叩き込む事がいっぱいあるのだ。


 1978年2月。

 幸子と清美は無事、国際線訓練を合格した。

 一方で、絢香は、国際線は佐藤に反対され諦めた代わりに、国内線のアシスタントパーサー訓練を受け、合格し、1978年2月に拓郎と結婚した。

 結婚式に出席した幸子と定夫が、二人の晴れ姿を見つめた。

 拓郎と絢香はとても幸せそうだった。

 定夫は、二人の顔に自分達の顔を重ねて想像した。


 2月中旬。

 幸子は職場で咲子に会った。

「来たよ!咲子!」

 咲子が笑顔で出迎えた。

 咲子はダッカ事件以来、すっかり元気になっていた。

「次は、アシスタント・パーサー、どっちが先になるかな?」

 幸子が笑顔で頷いた。


 3月。

 幸子と定夫が千葉市で同棲を始めた。

 幸子は新たな成田空港に想いを寄せた。

 一方で、成田市付近では、不穏な空気が漂っていた。

 間もなく完成の空港付近では、千葉県警機動隊が包囲して空港を守っていた。

 日本の他の空港ではあり得ない、物々しい雰囲気だった。

 

■成田闘争


 1978年3月20日 千葉県千葉市。

 

 幸子と定夫が住む賃貸マンションに、長崎時代の友人、桑原が遊びに来た。

 2月の佐藤の結婚式以来だったが、幸子は絢香と話してばかりで、桑原とはあまり話が出来なかった。

 幸子は定夫とビールを飲む桑原に聞いた。

「そういえば、桑原さん、長崎県警だったよね?何で千葉に来たの?」

 桑原の顔が真顔になった。

「九州管区機動隊の応援で、成田警備に来たんじゃ。」

「成田の警備?開港記念に政治家の警備とか?」

「違うよ、成田闘争知っとお?」

 幸子と定夫はニュースではよく聞くが、詳しくは知らなかった。

 桑原が酔った勢いもあり、成田闘争について語り出した。


 成田闘争とは1960年代に旅客機がジェット化・大型化され、特定人物の移動手段だった旅客機利用が一般化し、羽田空港が込み合って来たので、新空港の計画が立ち上がった。

 最初は都心に近く、だだっ広い畑が続く成田の富里地区が選定されたが、地元の猛反対を受け、撤回された。

 しかし、羽田空港では、1966年は羽田空港自体の欠陥では無いが、羽田空港由来の航空事故が相次いだ。


・全日空60便727型羽田沖墜落(2月4日乗客126名乗員7名全員死亡、原因不明)

・カナダ航空402便DC-8墜落(3月4日乗客63名乗員10名、うち16名生還 原因は濃霧による着陸ミス)

・BOAC英国航空911便707墜落(3月5日乗客113名乗員11名全員死亡 原因は乗客サービスで航路を逸脱し富士山に接近しすぎ強力な乱気流で瞬時に機体が分解。)


 これを機にと、成田空港建設は絶対という雰囲気が国会に浮上し、次は三里塚にお鉢が回った。

 三里塚には、宮内庁管理の御料牧場があり、これさえ使用許可が下りれば、残りの住民は富里よりずっと少ないので用地買収が比較的楽。

 そして、この案は、宮内庁が牧場を譲渡したことにより、スピード可決し、1966年7月4日、閣議決定をした。

 しかし、対象になった三里塚・芝山地区に了解を得ずに決定したので住民が激怒したが、政府は待ったナシの緊急要件とし、強行買収を行い始めた。

 それに対し、当時、過激化してきた左翼学生が住民を応援し、国の横暴に対し徹底的に闘うと宣言。

 住民も青年行動隊を結成し、反対派学生と結託した。


 1968年2月26日の成田市営グラウンド集会で初めて住民・反対派学生と機動隊が衝突、大乱闘になったのが始まりで、以後、全国的に散発的だった過激学生闘争に対し、ここでは、ほぼ毎日延々と闘争が永く続いた。


挿絵(By みてみん) 


 1971年9月16日、強制執行開始。

 機動隊は住民達が立て籠る団結小屋や、反対して「一坪運動」と称し、土地を住民から一坪ずつ買い取った反対者や社会党議員を排除し始め、そこに反対派学生の集団が駆けつけ衝突。

 学生たちは待ち伏せで反撃を行い、東峰十字路にて応援に来ていた神奈川県警機動隊員3人を撲殺。

(東峰十字路事件)

 反対派は、もはや警官の殺害も辞さないという雰囲気になっていた。


 1976年、第二次強制執行開始。

 ついに建設が強行され、機動隊に守られた多数の重機が音を立てて三里塚に集結し、高齢の住民が柱に自らを縛り、絶対立ち退かないと宣言する中で機動隊により易々排除され、木の上から降りない住民は警告の上、重機で住民ごと引き倒し、全国に広く日本政府の横暴を知らしめようと住民が作った反対派の象徴だったラジオ塔は、クレーンにより住民ごと引き倒され、住民そのものの力は押さえつけられたが、反対派学生達は闘い続けた。


 1977年5月6日にA滑走路が完成し、日本航空の国際線用747で離着陸テストが行われたが、住民と反対派学生が大量の廃タイヤに火を点け、黒煙でテストを妨害した。

 さらに住民と反対派学生が金を集め、一億円を出して、滑走路先端に鉄塔を構築し、離発着を妨害しようとしたが、機動隊に突入され、催涙弾と放水を浴びせられ、鉄塔に立て籠る反対派ごと重機で引き倒された。


 1978年3月。

 成田空港は完成し4月の開港準備に追われていた。

 滑走路は当初3本の予定だったが激しい反対運動で建設が計画通りに進まず、結局滑走路は開港迄にA滑走路の1本しか出来なかった。

 

 1978年4月1日開港に向けて、反対派集団は、最後の闘いに挑もうと、「3・30阻止闘争」が計画され、砦では、盗んだ成田空港の建設図面を囲み、空港破壊の準備が行われていた。

 一方で、警察庁は応援に警視庁及びエンプラ闘争や九大闘争等で実績がある九州管区機動隊を中心に全国から1万4千人を集め、千葉県警機動隊を支援した。


 1978年3月25日夜。

 機動隊は、下水配管から空港敷地内に進入しようとした反対派集団を発見し追い出した。

 その後も数人の反対派が浸入しては機動隊員達の怒号が響いた。

 マンホールから出てきた反対派に警官達は銃を向け、大声で追い払う等、学生と警察の小競り合いが各所で繰り広げられた。


 翌日。朝9時頃。

 大勢の赤ヘルメットを被った群衆が、全国から空港近くの廃校の更地に続々集まり、4000人に及ぶ大集会を始めた。

「我々は、残念ながら空港建設を許してしまった!しかし、この空港を建設するに至り、政府は大勢の人々を泣かし、故郷を略奪した!我々は、たとえ負けても最後まで闘う意思を全国に見せてやろうではないか!」

 大勢の反対派集団が合唱する革命歌「インターナショナル」が成田空港周辺に響き渡る中、桑原中隊長は部下達と共に空港に通じる路地の警備に当たった。

 すると、白い2tトラックが1台向かって来た。

 部下達が空港工事の車かと思いながら手を振ると、止まらない。

 加速してきたトラックを止めようとすると、そのまま突っ込んできて突破された。

 トラックは、会社の名前が無造作にスプレーで消してあり、ドラム缶が積んであった。

 無線では、他にもドラム缶を積んだ2tトラックが検問を突破し、追跡する旨の指示が流れた。


挿絵(By みてみん) 

 

 桑原が、部下の運転するパトカーの助手席に乗り込み追った。

 長崎からはるばるフェリーで送り込んだ長崎県警のクジラ・クラウンは、タイヤを軋ませ、高らかにサイレンを鳴らして追尾した。

 因みに当時の刑事ドラマでお馴染みの「ファンファン」というサイレン音は、警視庁に住民に「煩い!」と苦情が入った為、救急車の電子サイレンを早くして音を下げた物に変更された。これは警視庁独自の装備であり、他の他府県のパトカーは今の「ウー」というサイレンだった。

 なお地方にはまだ電子サイレンは普及しておらず、桑原のパトカーはモーターサイレンの重々しい音を奏でていた。

 追い付くと、交差点でトラックは止まっており、男が1人ドラム缶に火を点けて走って逃げた。

「あの野郎!」

 桑原が無線連絡をし始めたところ、道路脇から数人がパトカーに走り寄り、火炎瓶を投げつけた。

 バックして逃げる桑原のパトカーに二人が走って追いかけてきて、バールでパトカーを殴り付け、ガラスが粉々に割れる。


挿絵(By みてみん) 


「わぁぁ!至急、至急!長崎9号、現在襲撃されている!」

 すると、福岡県警の多重無線車から指揮が入った。

「威嚇発砲許可する!発砲せよ!」

 桑原が、腰のニューナンブ38口径拳銃を取り出し、割れたフロントガラスに2発発砲すると、暴徒達は逃げて行った。

 その後も無線は絶えず怒号が響き渡り、あちこちで銃声とサイレンが鳴り響き、管制塔の周りから黒煙が上がり始めた。

 空港の航空機用消防車がサイレンを鳴らして桑原の後ろから来た。

 ボンボン燃え上がるトラックを、報道カメラマン達が撮影している。

 空港消防車は、凄い勢いで、トラックを消火した。

 桑原はパトカーを管理塔に向かわせ、降りると、他にも小型トラックが敷地内で炎上し、脇には、人が1人丸焦げで転がっていた。

後に聞いた所、暴徒が火を点けた際に自分自身に燃え移ったそうだ。

 消防車が、トラックに放水しながら、消防隊員が一人降りてきて消火器を2台抱えていた。

 桑原が焼ける遺体に消火器を散布すると後ろから怒号が上がる。

 振り向くと、赤いヘルメットにマスクをした男にバールで殴り付けられ、その場で倒れた。

 桑原は、痛さで起きれず、寝たまま管理塔に走り込む赤ヘルメット軍団を、うつろな目で見ていた。

「中隊長!しっかりしてください!」

 知らない他の所属の機動隊員二人に担がれ、管理塔の壁に寄りかかると、火だるまの警官が玄関から飛び出してきて、倒れた。

 周囲の機動隊員が、警官の火を消している。

 桑原は立ち上がり、フラついた足で玄関に行き、襲いかかる赤ヘルメットを柔道技で倒した。

 誰かが叫んでいる。

「管制塔!管制塔!まずい!今そっちに10名程向かっている!」

 桑原は、さらに他の男にバールで殴り付けられ、その場に倒れて気絶した。

 

 桑原が目を覚ますと、揺れるパトカーのリアシートで寝ていた。

 

 運転している部下が話した。

「大丈夫ですか?今、後方に運びますから!」

 桑原が慌てた。

「馬鹿!いい!俺は大丈夫だ!止めろ!」

 パトカーが路肩に止まった。

 桑原がパトカーを降りようとすると、背中に痛みが走った。

 痛みを抑えながらパトカーから降りると右手が言うことを利かない。

「だから言ってるじゃないですか!重傷ですよ!」

 桑原が部下を睨むと、汗が頬をしたたり、左手で拭くと、血が付いていた。

 汗ではなく、頭部が打傷による血だった。

 

 気が抜けて崩れるようにパトカーのリアドアにもたれ、管制塔を見上げると、赤旗がぶら下がり、書類が舞っていた。

 割れた管制塔の窓から反対派が書類を撒きながら歓声をあげている。

 部下が話した。

「やられましたよ………管制塔が奴等の手に陥ちました………。」

「何いぃ!」


挿絵(By みてみん) 


 管制塔屋上には管制官達が逃げ、不安げに体を縮め、助けを待っていた。

 管制塔の周りには何機もヘリが舞い、警察ヘリが屋上の管制官達を助けあげようと近づいていた。

 すると後ろから爆発音が轟き、真新しい舗装路を大勢のかけ声を挙げ、自作のドーザーブレードを付け、窓に金網を施した4tトラックを先頭に暴徒が四方に火炎瓶を投擲しながら大勢で侵攻してきた。


挿絵(By みてみん) 


 桑原と部下が絶句した。

 二人は腰のピストルを構えた。

「止まれぇ!貴様らぁ!止まるんだぁ!」

 空にパン!パン!とニューナンブ拳銃の38口径弾の威嚇射撃の銃声が響く。

 二人は全弾を撃ち尽くすまで発砲した。

 乾いた38口径の音が、これ程頼りなく聞こえた日は無かった。

暴徒達は全く怯まず迫ってきた。

 部下が唖然とする。

 桑原が銃を仕舞い、部下の腕を掴み、道路脇に逃げた。

 パトカーはトラックのドーザーブレードに突き飛ばされ、さらに荷台から火炎瓶を投擲され爆発炎上した。

 トラックは管制塔ゲートに体当たりして火を噴いた。

 その後、蜘蛛を散らすように反対派が空港敷地内に突入し、あちこちで火の手が上がった。

 桑原と部下は、あまりの過激さに唖然とした。

「な、なんて奴等だ………。」

 成田空港周辺では大勢が機動隊に対し投石を行い、特型警備車が放水で蹴散らしながら、倒れた暴徒を機動隊員が次々に逮捕していったが、その隙を狙い、少数部隊が空港に突入していた。

 最終的に2万人近くがこの闘争に参加したと見られている。

 

 夕方に警察が管制塔に突入、奪還したものの、管制塔機器は全て破壊されていた。

 管制塔奪還から暴徒は引き始め、夜には自然に解散・沈静化したが、空港設備のダメージは大きく、開港は延期になった。

 この闘争で空港は28億円(当時)の損害を出したという。

(当時管制塔に突入し逮捕され裁判で提示された賠償対象金額)


 4月5日。

 幸子と定夫のマンションに、桑原が来た。

 頭に包帯をし、右腕を首に吊った状態で、痛々しかった。

 その姿を見て幸子は絶句した。

 定夫が話した。

「お前!どうした!やられたのか!」

「ああ………ここまで酷くなるとはなぁ………。」

 定夫と桑原がビールを交わした。

 桑原が呟く。

「明日、羽田から帰ることになった………。」

 すると桑原はツマミを持ってきた幸子にいきなり土下座した。

「すまん!………守れなくて………済まなかった………。」

 幸子が困った顔をして、桑原に寄り添った。

「私に土下座されても………仕方ないじゃないの、あなたのせいじゃない!やめて、そんな事。」

 桑原は男泣きし、定夫が、桑原の肩をポンと叩いた。

 因みに開港後も反対派の闘いは続き、開港阻止闘争程の規模ではないが暴動が幾つか単発的に発生しており、滑走路妨害鉄塔やバルーン設置、さらに空港拡張防止に断固退去拒否等、今も小規模ながら続いている。

 その為今も成田空港の警備は厳重で、今も日本の他の空港の警察とは比較にならない警備体制で、千葉県警では成田空港専門の機動隊が配備されている。

 その為、成田空港は今も完成出来ず、羽田空港が拡張されて2010年に羽田が国際空港に復帰し、成田と振り分けて分散化している。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ