第四章 故郷
ここからの物語は松原幸子さんの生前のお話です。
■地球は青かった
幸子は1954年12月、熊本県大津町で4人兄弟の3番目の次女として生まれた。
結婚前の姓は「遠藤(仮名)」だった。
父は熊本市の熊本大学医学部の教授で、当時世界を震撼させた水俣病の研究に関わっていたので、幸子が3歳の頃から帰りが遅かった。
1961年4月12日の夜、テレビでソ連(現ロシア)が世界初の有人宇宙飛行を行い、飛行士のユーリ・ガガーリンが次の言葉を残した事が報道されていた。
Земля была синяя
(地球は青かった。)
二番目に生まれた兄は野球で疲れて寝てしまい、姉と妹がお風呂からあがり、寝る準備をしていると、一人、幸子は真空管白黒テレビにしがみつくようにニュースを見ていた。
姉が幸子に話しかけた。
「何そのニュース?」
幸子が答えた。
「地球って青いんだって!」
姉が、ふ〜ん、と興味無さげに答えた。
すると3歳になる妹の明実が話した。
「チキュウ?」
幸子が、自慢げに話した。
「地球って、私たちが住んでいる星の事だよ。」
明実が話した。
「うちの屋根が青いから、青かったって言ってるの?」
幸子が困った。
「いや………あのね………姉ちゃん、説明してよ!」
姉が、髪をとかしながら怒鳴った。
「知らないわよ!何の話しとっとよ!」
母が来て、テレビを消した。
幸子が怒った。
すると母も怒った。
「もう夜遅かよ!いつまでテレビ見とっと!」
母が振り子時計に指を差した。
すると父が帰ってきた。
「ただいまぁ〜。」
毎日続く水俣病研究に疲れていた。
幸子は急いでサンダルを履いて、玄関でまだ靴を脱ぐ前の父を無理矢理外に押し出した。
「な、何だ、何ばしょっとよ!」
幸子が夜空に指を差して父に聞いた。
「ね、ね!宇宙って、何処まで続いてるの?」
父が空を見上げながら、困った顔をした。
「あ、あ〜…………、ずっと、ずっと続いてるよ。」
「あのキラキラ光るお星様や星座、行けるの?」
「え?………あ〜、いつか行けるんじゃないのか?」
父はしゃがんで、幸子に目線を合わせて言った。
「お父さんがね、お爺さんになって、幸子達が大人になる頃、宇宙旅行出来ると思うよ。」
幸子が目を輝かせて言った。
「ね、マーガリンさんがね、あの宇宙まで行って、地球を見たら青かったんだって!」
「は?マーガリンが、何?」
母が出てきた。
「幸子!もういいから、ずっと外にいなさいっ!」
父が慌てて幸子を連れて家に入った。
深夜。
皆が寝静まると、幸子はソッと起きた。
母が怪訝な顔をした。
「幸子………何?」
「便所。」
「一人で行けるん?」
「うん、平気。」
幸子は、誰もいない1階の居間に行く。
振り子時計がカッチンカッチン響く中、窓のカーテンを少し開けて夜空を見上げた。
首が疲れるまで、キラキラ光る星を眺め、ひとり空へ想いを馳せながら、そのまま、その場で寝てしまった。
1961年5月。
父は、幸子と明実を連れて自家用車で熊本空港に向かった。
タクシー払い下げの日野ルノーはミシミシと車体を軋ませてトコトコと猛烈な勢いで走る大型トラックが行き交う道を進んだ。
当時の熊本空港は、現在は住宅地だが、戦前は健軍飛行場という名前で、大日本帝国陸軍所属の飛行場で、近くの三菱重工が、爆撃機のテストを行っていたが、戦後米軍に接収されていた。
米軍返還後は、元の三菱重工は陸上自衛隊の航空基地となり、健軍飛行場は熊本県が整備しなおし、1960年に開港したばかりであった。
空港に着くと、父は見送り場に連れていく。
そこには、見送りに来た人々が群がり、手摺の向こうに大きな白い機体に紺青のラインがビシッと入った旅客機が1機、離陸準備をしていた。
全日本空輸(ANA)のダグラスDC-3だった。
ダグラスDC-3とは戦前に設計された旅客機だったが、第二次大戦で全て軍用生産に回され戦後ようやく旅客機として生産がはじまった機材で戦後は世界各地で運用された旅客機の代表であった。
全日本空輸の機体は世界各地で需要が多い為になかなか買えず、世界を周りようやくかき集めた機材であった。
DC-3は、乗客を乗せ、給油を済ますと、後部扉を閉め、車両が離れ、パンパンパンと音を奏でながら、ゆっくりプロペラが回り始めた。
やがて、グォーンと2発のエンジンのプロペラが高速回転し、パイロットが窓から手で合図すると、地上員が輪止めに繋がれたロープを引っ張り、ガラガラと音を立て、DC3のタイヤから離した。
幸子は口をポカンと開けながら見とれ、明実は耳を塞いで父の足に隠れた。
DC-3は、ゆっくり滑走路先端に向かい、滑走路に着くと、さらにエンジンの回転をあげ、滑走を始めた。
滑走路を走るDC-3に見送りの人々が歓声をあげる。
DC-3は、滑走路からフワリと浮き上がり、空に舞い上がり飛んでいった。
幸子はただ口を開けたまま去って行くDC-3を見ていた。
父が呟いた。
「どうだった?」
幸子は、呆気に取られて答えなかった。
明実は、父のズボンを引っ張り聞いた。
「ねえ、ねえ、あの飛行機何処に行くの?」
「………東京だよ。」
「トウキョウって、何処?」
「………まぁ、遠いトコだな。」
「うちとここまでより遠い?」
「そうだな。」
父が明実の手を引き、帰ろうとすると、幸子がまだ呆気に取られている。
父が引き戻そうとすると、幸子が空を指差した。
「あれ!あれが来るまで待って!」
父が幸子の示した方を見ると、小さな飛行機が近づいてきた。
黄色い飛行機は2人乗りで、自衛隊のT-6テキサンだった。
テキサンとはアメリカの戦前からある練習機で戦時中に大量に生産され、自衛隊設立時に大量に米軍から戴いた機材であった。
テキサンはキュッとタイヤを鳴らして滑走路に着陸し、目の前を走り過ぎて行った。
幸子の目は、とてもキラキラ輝いていた。
大津町の家に帰ると、幸子は熊本市内の書店で買って貰った飛行機の絵本を、明実と一緒に寝転がりなから、むさぼるように読んでいた。
母が夕食の準備をしながら父に話した。
「貴方ったら、もう〜………。」
父が話した。
「いいさ、幼い頃の興味は、将来に影響する。これからは飛行機の時代だ。僕みたいに研究室に入りびたりの道より、華やかな未来ある道に進んで欲しいんだよ。」
その日の夜。
幸子と明実は真ん中に飛行機の絵本を置いて、寝た。
その寝顔を姉と兄は、ニコヤカに見て、就寝した。
■2001年宇宙の旅
1968年。
この年は世界中が荒れ狂った年でもあり、日本がGNP世界2位の先進国となる等喜怒哀楽が激しい時代だった。
アジアでは泥沼化するベトナム戦争、ヨーロッパではチェコスロバキアの民主化を阻止しようとソ連軍が戦車を連ねて首都プラハを武力占拠した「プラハの春事件」、そしてフランスの左翼学生が決起し大騒動になった「カルチェラタン事件」………。
さらに日本ではカルチェラタンに刺激された学生達が決起した「東京神田カルチェラタン闘争」。
1月25日、長崎県佐世保市では、ベトナム戦争に派遣されたアメリカ海軍原子力空母「エンタープライズ」が補給の為に入港しようとすると、当時過激化した左翼学生がチャーターした漁船でそれを阻止。
そして陸地では佐世保米海軍基地前に多数の左翼学生が集結した。
後の「佐世保エンプラ闘争」である。
原子力空母エンタープライズとは1965年に完成した世界初の原子力空母で世界的に話題になったのもあり、有名なだけに尚更反発が高く、ベトナム戦争のアメリカの悪業のシンボル的な扱いをされていた。
この日、九州管区機動隊と左翼学生が基地前で衝突し、大混乱となった。
なお、当時、警備局長として機動隊の指揮を取っていたのが、後に日航123便墜落事故を担当した、故・河村一男氏だった。
一方で、幸子は中学1年生。
兄にお願いし、4月に公開されたアメリカ映画「2001年宇宙の旅」を見に熊本市に出た。
兄は興味が無く、しぶしぶ付いていったが、彼女は夢中になった。
この映画に出た宇宙船オリオン3型に、当時アメリカ最大の航空会社だったパン・アメリカン航空のマークが入っていたので、幸子は、将来、日本航空の運行する宇宙船に乗務する客室乗務員としての妄想を自分を妄想した。
帰りの電車で幸子が話した。
「ねえ、私が将来、21世紀あの映画みたいに日本航空の宇宙船の客室乗務員になってたら、どうする?」
兄が答えた。
「はい?………もう、お前、その頃は45歳過ぎになるとよ?そんな歳の客室乗務員だって?気が長い話かばい〜!ワハハハハ!」
幸子は真顔で兄を睨み、兄の太股を力一杯つねった。
その年のクリスマス。
幸子にとって最高のクリスマス・プレゼントがテレビで放映された。
アメリカのNASAが1961年に立ち上げたアポロ計画で打ち上げたアポロ8号で撮影した月面映像だった。
人類が始めて他の惑星に接近した瞬間だった。
幸子は、この映像をいつか今に自分自身の肉眼で見れる日が来るであろうと楽しみに想い描いた。
翌年、1969年7月21。
幸子はアポロ11号が人類で始めて他の惑星である月を歩くのをテレビで見た。
ニール・アームストロング船長が世界の人類に中継で話した。
That's one small step for ﹇a﹈man, one giant leap for mankind.
(この一歩は、一人の人間にとっては小さな一歩だが、人類にとっては大きな一歩となった。)
幸子は、この言葉を聞いて、もっと理解したいと英語を猛勉強し始めた。
そして、体力も付けようと、部活でテニス部に入った。
■アテンションプリーズ
1970年8月23日。
テレビでTBS系の地元局・RKK熊本放送で夜の「不二家の時間」のドラマ枠で、「アテンション・プリーズ」が放映された。
日本航空が初めて全面協力した客室乗務員を中心としたドラマだった。
高校1年生になった幸子と、中学2年になった明実は2人で、この時間はテレビを占拠した。
2人は夢中になって無言で見ていた。
父が彼女らの後ろで、当時の日本航空の客室乗務員のミニスカートに見とれていると、母が父の尻を力一杯つねった。
当時、一番上の18歳の姉は、高校卒業後、熊本市の老舗のデパート・大洋デパートの衣料品売り場に就職していた。
兄は部屋に籠り、父の後を継ぐべく熊本大学医学部を目指して猛勉強に励んでいた。
1972年春。
幸子は長崎外国語短大に入学し、寮に入るため家を出た。
母が心配そうな顔で注意した。
「幸子〜!一人暮らしになるかって、生活乱さないでよ!」
英語の勉強に励む傍ら、アルバイトし、家計の負担を少しでも減らそうと、喫茶店で働いた。
1973年6月の夜。
幸子のアルバイトする喫茶店に若い男性4人が店に入ってきた。
ジャズのレコードが静かに流れる店内にガタガタと彼らが座る音が響き渡る。
幸子が応対すると、一人の男が幸子を見た。
男は、他の友人と幸子が注文を取って去った後、小声で話した。
「すげ〜………あの娘、可愛いな!」
友人達がが答えた。
「何だよ、このエロ男爵!ワハハハハ!」
「う〜ん、童顔だねぇ。」
「セクシーだな、お前、彼女居ないんだろ?アタックしてみろよ!」
彼女に惚れた男は、長崎大学4年の松原定夫だった。
「バカ、いきなりハントするわけにイカネーだろがよぉ………。」
幸子がコーヒーを持ってきた。
定夫がいきなり話しかけた。
「あ、あの!」
「あ、はい、何か?」
「あの………追加注文を。」
「はい、お伺い致します。」
「え………と、君。」
幸子が真顔になった。
「え?すみません、何でございますか?」
定夫が顔を真っ赤にして話した。
「すみません!間違えまして!ごめんなさい!」
幸子がクスっと笑って去って行った。
定夫が友人達に呟いた。
「いや、あれ、まぁ………ははは。」
友人の一人、佐藤拓郎がメニューで定夫の頭を叩いた。
「お前よぉ………バカ!センス無ぇな。時間をかけろよ。」
「ど………どういう感じ?」
「常連になって、顔見知りになるんだよ!」
定夫達は、以後、この喫茶店の常連客になった。
幸子がいる土日の午後には必ず悪友の拓郎の自慢の車、シルバーのいすゞベレット1600GTの太いエキゾースト音を響かせて田島と桑原4人で来店した。
夏が過ぎ、秋になり、やがて、11月を迎え、定夫達と幸子はすっかり仲良くなった。
いつもカウンターを占めていた彼等は、幸子が暇な時等に笑いながら会話をするまでになった。
1973年11月29日昼頃、熊本市。
大洋デパートの被服売り場に勤める幸子の姉は、いつも通り仕事をしていた。
これから、阿鼻叫喚の地獄が始まるのも知らずに。
■大洋デパート火災
1973年11月29日 熊本市 大洋デパート。
このデパートは1952年に完成し、当時は熊本最大のデパートであり、熊本市繁華街のシンボル的な存在だった。
当時は改装工事を行いながら営業していた。
午後1時15分。
偶然、従業員の一人が、従業員専用になっていた2階から3階の階段踊場から、白煙が流れ出ているのに気がつき、他の従業員と確認したところ、2階と3階の踊場に置いてあった寝具の段ボールが火だるまになっていた。
慌てて、従業員達はバケツリレーを行い、消火に努めたが、もう手遅れであった。
他の従業員が「どいて!どいて!」と、消火器を持ってきた。
彼は火に構えて消火器を向けたが、出なかった。
メンテナンスされていなかったのである。
その従業員は床に消火器を捨て、退避し、3階入口の防火シャッターの閉鎖スイッチを押した。
後ろでは既に従業員達による避難誘導が行われていた。
悲鳴があがる中、ゆっくりとシャッターが閉まる。
「早く、早く、閉まれ!」
しかし、シャッターは、更に閉鎖口を無視して置いてあった寝具の詰まった段ボールを押し潰し、途中で止まった。
それを見た従業員達が、潰された段ボールを引き抜こうとしたが、シャッターのモーターがガッシリ押さえている。
しかもシャッターの口から白煙がモクモク出て、とても引き出せず、従業員達は諦めて逃げた。
当時、改装工事だったのでスプリンクラーの水栓は閉鎖され、火災報知器は電源が落とされていた。
致命的な事に、平常館内放送を受け持つオペレーションセンターは火災の発生した三階にあり、そこは既に全員避難して無人になっており、館内放送によって建屋全域に危険を知らせる手段は絶たれていた。
その為、2階は騒ぎを知らなかった。
工事の都合で階段の防火シャッターが元から閉鎖されていた。
3階から逃げてきた人々の騒ぎで、ようやく事を理解した人々は、従業員の誘導により、避難を始めた。
そして従業員達は人垣を掻い潜りながら他の階に生声で直接避難を呼び掛けに行ったのであった。
幸子の姉も4階で、お客の避難誘導を行っていた。
3階は既に寝具売り場の商品に引火し、黒煙に包まれ階段でもそこを通過して下には行けなかったので、7階の上の屋上に向かった。
するとパパッと一気に全ての照明が消え、館内が暗闇に包まれた。
昼間だったが、商品陳列の都合で窓は殆んど塞がれ、外の光は殆んど入らなかった。
幸子の姉は、暗闇の中、焦げ臭い臭いと多数の悲鳴にまみれながら避難誘導を続けていた。
結局大洋デパートそのものからの119番通報は無く、黒煙が上がるのを見た向かいの店から通報があった。
7階建の繁華街のビル火災の為、前年の1972年に発生した日本最悪のビル火災、大阪市・千日デパート火災もあったので、事態を重く見た熊本市消防本部は、市内全域の梯子車に出動指示を行った。
熊本市内は、消防車、救急車十数台によるサイレン音がけたたましく響き渡り、騒然となった。
大洋デパートに辿り着いた消防車が、警官の誘導で側に避けた一般車両と野次馬の列の間をゆっくりとサイレンを鳴らして現れた。
周囲は警官の笛の音と、消防車各車両のPTO(動力伝達装置)を作動させ、ディーゼル音が響き渡った。
午後5時半。長崎市。
幸子が喫茶店のアルバイトに出勤した。
すると、カウンターでマスターと定夫達がテレビを見ていた。
店主は幸子に話しかけた。
「大丈夫かい?これ。君は地元っとね。」
幸子はテレビを見て、ショルダーバックを床に落として顔に両手を当てた。
幸子は実家に電話をしたが、姉の安否は解らず、父と兄が現場に向かってまだ連絡は無いという。
マスターは、レジから金を出して幸子に手渡した。
「早よ行ったてぇ!」
一方、定夫の前に悪友の佐藤が車のキーを叩き付けた。
定夫が拓郎の顔を見た。
「九州男児見せたれ!」
定夫が困った顔をすると、佐藤が立ち上がった。
「幸子さん!こいつが車で駅まで送るとよ!」
定夫が焦った。
「い、いや、でも、オレ!」
拓郎が定夫の脇を掴み、強引に立ち上がらせた。
「デモもゲバ棒もネェ!早よう、行ったってえ!」
定夫と幸子は拓郎のベレットに押し込まれ、2人で長崎駅に向かい、出発した。
しかし、定夫は教習所で免許を取って以来、運転するのが初めてで、ギアをガリガリ鳴らし、ガックンガックン車体を揺らしながらフラフラと道路に出て、驚いた他の車が急ブレーキをかけ、ホーンを鳴らされ、また定夫のギアチェンジが遅く、エンジン音をグオングオンと響かせながらトロトロ去って行った。
他の車のドライバーの怒鳴り声が響いた。
「ゴラァ!何ばしよっとよ!」
田島と桑原が拓郎の顔を見ると、顔面蒼白で、震える手でタバコに火を点けていた。
「なに、壊れたらまた親父に買ってもらうたい。丁度飽きてきた処ばい………。」
彼の背中が寂しかった。
定夫は暫く経つと、ようやく運転に慣れてきて、幸子もホッとした。
駅まで20分。
定夫は腕時計を見て焦った。
幸子が話した。
「松原さん、焦らなくて大丈夫、安全運転で行こうね。」
しかし定夫は額に冷や汗、ハンドルを握る手も汗ばんでいた。
急がなくてはという焦りと狭い車の中で好きな人と隣りあって狭い車の中で二人きりというのが、余計に緊張を増幅させる。
そして前の車が遅い。
丁度、退勤ラッシュの時間帯。
前の車が黄信号でゆっくり通過し、定夫の車は赤になった。
定夫はアクセルを踏んで突破した。
すると、真後ろから赤い光が差し込み、サイレンが響いた。
「前のベレット、左に寄せて止まりなさい。」
幸子は顔に手を当てた。
パトカーが前に止まり、警官が一人降りてきた。
定夫が、冷や汗まみれで事情を説明すると、警官がパトカーに戻り、もう一人と相談し、無線に話をしている。
警官が戻ってきた。
「誘導の許可が下りたから、付いてきなさい。」
定夫は、パトカーの先導で駅に向かった。
パトカーの指示で、一般車両が道を開け、左右に止まる車が、付いてくる定夫と幸子の顔を直視する。
幸子は顔を隠して、うずくまった。
長崎駅に着くと、警官が笑顔で降りてきた。
定夫が警官に礼を言うと、警官が幸子に話しかけた。
「県警本部からの連絡で、君のお姉さんは無事救出されたのを確認し、病院から兄と一緒に自宅に帰ったのが確認されたよ。」
幸子が驚いた。
「間違いありませんか!」
「うん、父と兄が確認してるとの事だよ、一応、交番で電話してきなさい。」
幸子は手で口を抑え、嬉し涙を流しながら交番に案内された。
運転席で安堵する定夫に、もう一人の警官が話した。
「今度は許さんとよ!事故って君らが怪我したら、更に困った事になるっちょね!」
定夫は、始末書のみサインを要求された。
幸子が車に戻ると、目を真っ赤にして笑顔になっていた。
「松原さん………ありがとう。」
定夫は無言で頷いた。
帰り道、落ち着いた幸子が笑い始めた。
定夫が横目で幸子を見ると、幸子は話した。
「なんか、パトカーに先導って………私達夫婦で、産気づいたと思われてたかな?」
定夫が顔を紅くし、信号待ちで呟いた。
「あの………こんな時に、大洋デパートで悲惨な事になってる時に、何だけど………今度、二人で映画でも………。」
幸子が答えた。
「今回のお礼に、映画に付き合ってあげるね、私の奢りで。」
定夫が照れて、目を反らした。
<大洋デパート火災>
前年1972年に発生した大阪千日デパート火災を受け、防火設備を充実させるよう消防から指示が出ていた矢先の事故。
火災原因は特定されなかった。
火元の三階から七階まで延焼し、死者103名、負傷者124名を出す大惨事となった。
大洋デパートはその後倒産したが、建物はリフォームされて倒産後も他社が営業し、2014年まで存在していた。
■長崎大学学協
1973年12月1日 午後 長崎市。
定夫達のグループは、いつもの喫茶店に出掛けた。
定夫がカウンターを見ると、マスターが呟いた。
「今日から暫く彼女は来ないよ。」
定夫が驚いた。
「えっ?何故?」
「この前の大洋デパートの亡くなったお客さんの中に、高校の同級生が居て、葬式に行くって。」
4人は、がっかりした。
「なに、来週、元気な顔して来るよ!それまでは色気の無い俺で我慢してくれ。」
4人は渋々、コーヒーを飲んだが、皆、沈んでいた。
すると、定夫の顔を見て、拓郎が話した。
「てっきり、お前が先走り過ぎたかと思ったぜ。」
田島が、拓郎の頭をメニューで叩いた。
すると、喫茶店の扉をガシャーン!と強く開けて、3人の若い男が入ってきた。
扉のベルが乱暴にチリンチリン鳴り響く。
そして、男達は両脇に座る定夫と田島を力ずくで押し退け、拓郎の後ろ襟首を猫を持つように引っ張り上げ、立ち上がらせた。
「おい!貴様ん!今年に入ってから、集会に参加しんと、どげんつもりっちゃあ!」
長崎大学学生協議会(以下学協)のメンバーの幹部達だった。
彼らは左翼学生(全共闘)らが、1968年に長崎大学をバリケード封鎖し、学業を阻止した事に怒り、実力で封鎖解除し学園解放を訴えた集団で、「右翼派」若しくは「体育会系」「民族派」と呼ばれていた。
当初は武装無しで左翼学生を殴る蹴るして鎮圧していたが、左翼学生が機動隊との闘いで角材等で武装し始めたので、彼等も武装し、事あるごとに大乱闘を繰り返した。
その為、機動隊も過激武装組織として彼等も睨み、機動隊とも衝突してきた。
だが、長崎大学を始め、この動きは熊本大学に波及し全国に広がった過激化した学生運動の鎮静化に繋がり、警察の実力介入を避けたい学校側は黙認し右翼学生が左翼学生に殴りかかる乱闘になっても警察に通報しなかった。
しかし、1970年に発生した三島事件で逮捕された盾の会幹部が学協と考えが似ており、憂国の意で決起した彼らに対する裁判が注目されたが、1973年に有罪判決が下り、一気に全国に波及していた学協が、やる気を無くし、崩壊寸前の時代だった。
「きさん!(貴様!)皆が日本を憂えて立ち上がらんとぉ、これから、どげんするばい!」
拓郎が襟首を掴む幹部の手を振りほどき、怒鳴った。
「しぇからしか!(うるさい!)もう左翼の連中もおらんと!三島先生も散って、盾の会も消えて、これ以上なにするっと!わいも此れから職に就いて生きていかんとならんたい!何時までも憂国ゴッコなんぞ、してられんたい!」
「それで、きさんは、こげな所で茶ぁすすってんかぁ!その軟弱な精神にヤキ入れたらぁ!来いっ!」
その時、黙っていたマスターがいきなり手に持っていたマグカップをカウンターにガシャーン!と投げつけ怒鳴った。
「あんたら、これ以上営業邪魔すっと、警察呼ぶとよ!」
幹部の一人が佐藤に怒鳴り散らす幹部の肩に手を置いた。
「あ〜………いい、もういい、我々に今必要なのは、やる気のある人物たい。」
彼等が去って行くと、佐藤は溜め息をついて、席についた。
定夫が聞いた。
「まだ、そげなこつ、やってたのか?」
拓郎が鼻息を荒くして話した。
「違うわ!高校の時、左翼連中のアジ演説で勉強邪魔されてムカついたから、彼奴らの民族派に入ったんじゃ!でもよぉ………うちら入学した後は東大安田事件の後だからさ!闘う奴等居なくて、いっつも街頭で地味にアジ演説とビラ巻きとステ貼りばっかでよ!終いにゃ何もしとらんのにケーサツに目ぇ付けられて!
あのバカ騒ぎ連中に報復してやりたかったのに!やってられっか!俺は勉強したいだけじゃ!」
(・アジ演説………街頭演説。当時はドカヘルにタオルに軍手、トランジスタ・スピーカーを腰に演説していた。アジるという。
・ステ貼り………ステッカー貼り。ビラを各地で貼る事。当時は駅前やビルの壁、電柱に貼っていた。今は違法行為。)
マスターが、笑顔で四人にサンドイッチを差し出した。
「………え?誰頼んだ?」
皆が顔を合わせた。
マスターが話した。
「あんたら、毎回、少ない小遣いでうちの店来てるんでしょ?
たまに奢ってあげるから食べんさい。」
四人は、それを聞いた瞬間、「頂きやす!」と、食らいついた。
図星だった。
彼等は幸子に会う為だけに、食事を節約してまでコーヒーを飲みに来ていたのだ。
マスターが、彼等を見て、フフッと笑った。
拓郎が定夫のサンドイッチに手を伸ばし、定夫が叩いた。
「おい、その玉子サンドよこせ!」
「はぁ?俺のだぞ!」
「うるせ〜、車貸しただろが。」
「それとこれとは話が違うとよ!」
「オラ、キュウリやるから。」
「しぇからしかぁ〜!きさん!」
その日の夜。
幸子は沈んだ顔で実家に帰った。
沈黙する茶の間で、6人家族が久しぶりに揃ったのに、ただ振り子時計の音が、カッチンカッチン響いていた。
母が、塞ぎこむ姉に話した。
「大洋デパート、これからどうすっとね?」
姉が呟く。
「………判らない。」
大洋デパートからは続々と遺体が搬出され、マネージャーが悲鳴をあげて頭を抱えたという。
<三島事件(1970年11月15日)>
作家の三島由紀夫氏が、自身で結成した国防支援組織「盾の会」幹部を連れて、陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地の総監室を訪問し、会談中にいきなり刀を振りかざして占拠。
驚いた自衛隊幹部が総監室に突入したところ、真剣による猛烈な反撃に遭い、睨み合いになった。
三島は自衛官を建物前に集めるよう要求し、自衛官達に建軍クーデターを呼び掛る演説を行った。
趣旨は、毎日のように発生する過激派学生の乱闘は、軍が無くなり、徴兵で日本男児を育成する仕組みが無くなり、規律を重んじる若者が消えたからだと嘆いており、自衛官幹部との会談で幹部からは理解を示されていたが、なかなか起こらないクーデターに痺れを切らし実力行使に出た。
しかし、集結した一般の自衛官達には殆んど趣旨を理解されず、逆に自分達の幹部を傷つけた暴漢として見られ猛烈に批判の罵声を浴びた。
決起の呼びかけに誰も賛同しない事を悟った三島は、総監室で「盾の会」の幹部1名と共に割腹自殺してしまう。
■初デート
1974年1月中旬。
幸子はアルバイト先の喫茶店で、ウキウキしていた。
定夫達が来て、あからさまに笑顔を見せた。
定夫達がカウンターに座り、幸子が注文を取ると、定夫に封筒を差し出した。
拓郎らが、「ヒュ〜!」と言うと、幸子が人差し指を口に立てて、舌を出した。
定夫が、冷や汗をかき、顔を真っ赤にしながら封筒をしまった。
拓郎が定夫の肩を叩いた。
「頑張れよ!」
と、手を卑猥な形にして定夫の顔に向けた。
定夫は、意味が解らず、ただ頷いた。
幸子はコーヒーを配ると佐藤の尻を力一杯つねり、お盆で顔を抑え、カウンター裏に戻った。
さらに、両脇の友人二人がメニューで佐藤の後頭部を叩いた。
マスターが注意した。
「メニューで叩くの止めんしゃい。」
二人が申し訳無さそうにメニューを仕舞った。
佐藤が話した。
「そうだよ!いつもメニューで叩きやがって!暴力反対だ!」
マスターがコップを拭きながら呟いた。
「違うよ、メニューが心配とね!結構高いんよコレ。」
カウンターに皆の笑い声が響いた。
一月末。
長崎駅で待ち合わせした、幸子と定夫は、スウェーデン映画「叫びとささやき」を見に行った。
19世紀のスウェーデンの四人姉妹を描いた映画で、北欧の美しさと、家族愛を描きつつ、亡くなった姉妹の一人を巡ってのサスペンス・ホラー風の映画だった。
映画の後、2人は夕暮れの中、稲左山の夜景を見に行った。
長崎ロープウェイから街を眺めた。
定夫は照れて、ロープウェイの壁にへばり付いていると、幸子が被さり、外に指を指した。
「ねぇ、あの辺りが学校かなぁ?喫茶店見えるかな?」
定夫は、いつもは大人しい幸子がはしゃぐ姿を初めて見た。
幸子の体の温もりが、いとおしく感じた。
展望台に着くと、やはり冬なので寒い。
ベンチに二人で座ると、定夫は思いきって、幸子の肩に手を回した。
幸子は、定夫に寄り添った。
「暖かい………。」
長崎の夜景は冬の澄んだ空気で一層輝いていた。
定夫が呟いた。
「幸子さん………特別な人………いる?」
幸子が、両手で定夫の頬を挟んで、目を合わした。
「やだぁ!居たら、映画で終わりだよぉ!」
定夫が、幸子の顔に初めて真正面で接近した。
定夫が、口を尖らせ、ゆっくり迫ってきた。
幸子が真顔になった。
幸子は定夫の口に人差し指を差した。
「だぁめ!まだ………。」
定夫は慌てて顔を正面に向けて手を離した。
幸子は、離れた定夫にまた寄り添った。
「松原さん………就職は決まったの?」
定夫が答えた。
「うん、福岡のフェリー会社の事務だよ。」
幸子が、定夫の手を強く握りしめた。
「私………日本航空。東京の羽田よ。」
定夫が、慌てて幸子の顔を見た。
幸子が、呟いた。
「もう、春になったらお別れだね。」
定夫が顔を伏せた。
幸子が、笑いながら話した。
「がっかり?私達はまだ若いのよ、私だって、これからだし。」
定夫が呟いた。
「………君と一緒になりたい。」
幸子がゆっくり答えた。
「友達じゃ………ダメ?………私、空を飛ぶのが夢だったの。
だから、まだ誰とも交際するつもりは無いの。」
定夫がゆっくり幸子の顔を見た。
幸子は定夫の顔を不安げに見つめていた。
「私………松原君に友達になって欲しい………一番の………。」
定夫が、幸子と目を合わした。
「判った!僕らは友達さ、かけがえのない。」
幸子は黙って頷いて、定夫に寄り添い、定夫も幸子を包んだ。
1974年3月。
定夫達四人は最後の喫茶店に来た。
幸子はバイトを辞め、この四人と最後のお別れパーティを開いた。
店にクラッカーが、鳴り響いた。
拓郎が立ち上がり、大声で話した。
「皆の新しい社会人として旅立ちを祝福し、乾杯!」
皆が「ウォ〜ぃ!」と云いながら乾杯し、佐藤が席についた。
幸子が皆に聞いた。
「皆は何処に行くの?」
拓郎が自慢気に話した。
「東京の三菱重工だよ〜ん!船を造る仕事さ!」
田島が話した。
「僕は、佐賀の不動産屋、親父の跡を継ぐんだ。」
桑原が話した。
「僕は長崎県警。暴れん坊の拓郎のヤローを逮捕してやろうと思ってさ!」
皆が笑った。
マスターが、来た。
「君らが居なくなると寂しくなるよ。」
拓郎が答えた。
「いや、造船関係で長崎にも来ますから、それまで店潰さないよう、頑張ってくだせぇ〜!」
マスターが苦笑いしながら佐藤の頭をメニューで叩いた。
「ちょ、ちょっと!メニューで叩くなって言うとっとぉ!」
皆が幸子を見た。
「アテンション・プリーズってやって!」
定夫が慌てて止めた。
幸子が答えた。
「まだ入社してないのに出来ないよぉ。」
拓郎が話した。
「ふりだけ!マネだけ!冥土の土産に1つ!」
田島が話した。
「なんだ冥土って?お前死んだのか?」
幸子が、困った顔で立ち上がり、当時流行だった加藤茶の台詞で答えた。
「………ちょっとだけよぉ!」
幸子が、照れながらテレビドラマのアテンション・プリーズの真似をした。
皆が顔を真っ赤にして笑った。
定夫は顔を伏せ、耳を真っ赤にして黙っていた。
幸子が怒った。
「なによぉ!恥かかせて!」
皆が笑う中、田島が話した。
「いや、マジ、可愛い!やべ、惚れちまった!松原!幸子さんをくれ!」
定夫が顔を真っ赤にして顔を上げて田島を無言で睨んだ。
「バカちんがぁ!冗談だよ!彼女に殺されちまうわぁ!」
桑原が話した。
「俺………日本航空だけ使うわ。」
こうして、学生時代は幕を閉じた。




