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第三章・御巣鷹の尾根


 ■検屍


午前7時。群馬県上野村。

 すっかり陽が上がった村に村内放送が響き渡った。

『こちらは、上野村役場です。本日は、日航機事故の、災害派遣の為、大勢の車両が、村内を、行き交いますので、外出は、控えて戴く様、お願い致します。』

 それを自宅で聞いていた第六消防団副団長・今井氏は朝食を食べていた。

 奥さんが話しかける。

「あなた、今日は畑に行けないねェ‥‥‥。」

「そんなの仕方ないがね!」

今井氏は立ち上がり、窓から外を見る。

「そんな放送、いちいちしなくたって、出るに出れやしないがね。」

 家の前の国道299号線は警察車両・自衛隊車両・報道陣の車で溢れ、あっという間に動かなくなった。

 そんな中、藤岡市方面に向けて二台のタクシーが渋滞に巻き込まれていた。定雄達のタクシーである。

 定雄達は日航の世話役からの連絡で、藤岡市で遺体の引渡しが行われる旨、前橋市のホテルに向かっていた。

 しかし、村の集落さえ抜ければ、あとは道が比較的広いので集落を抜けてからは、スムーズに前橋市までたどり着いた。


 午前8時半。

 墜落現場のヘリポートが完成した。

 早速昨夜から山の斜面に仮安置されている遺体を早急に藤岡市まで届けなくてはならない。

 陸上自衛隊の汎用ヘリ・HU・1H型中型ヘリが着陸し、最初の遺体六体が積み込まれ離陸、そしてその後ろの上空では次のヘリが着陸準備に入っていた。


 ここで第一空挺団は撤収したが、陸上自衛隊はより搬送効率を良くする為、松本の第十三師団の施設隊を派遣し、第二ヘリポートの構築に着手した。


 午前8時半。群馬県藤岡市。

 早朝から藤岡市の市民体育館及び県道を挟んで二百メートル程離れた藤岡市立第一小学校で、遺体受け入れの準備が始まっていた。

 1983年に建てられたばかりの真新しい校舎は騒然となった。


挿絵(By みてみん)

藤岡第一小学校


 第一小学校グラウンドには自衛隊員の手により丸い白線にヘリコプター着陸地点を示す「H」の文字を描いた臨時ヘリポートが二箇所作られた。

 グラウンド脇には、霊柩車と大型トラックが並ぶ。


挿絵(By みてみん)


 霊柩車は急遽全国からかき集められた車両で、警察により「遺族に死を意識させたくない」との配慮で「寝台車」と呼ばれる、一見普通のワゴン車にしか見えない車両に厳選された。

 なお、主にヘリポートから、すぐ向かいの市民体育館迄の搬送作業だが、一応パトカー・白バイの先導が付くが、万が一の場合も配慮し、覆面パトカー用のルーフに取り付ける赤色回転灯が装着された。

 まだ、お盆休みの渋滞に巻き込まれ、遠くからの応援は来ていないが、北海道から九州まで応援が駆けつけ、延べ二百台の寝台車が使われた。


挿絵(By みてみん)


 大型トラックは棺桶を搬送してきたもので、急遽作られたものであった。

荷台のガルウイングハッチが開かれ棺桶が搬出される。

 そして、骨壺も2000個余りが全霊協により発注され、瀬戸物で有名な愛知県瀬戸市より送られてきた。


挿絵(By みてみん)


 一方、検屍場に決められた藤岡市民体育館。

 1971年に建てられた体育館で、デザインが七十年代らしく芸術を意識した作りで、正面から見ると丸い窓が左右に6個あり、入り口からステージまで屋根に傾斜が付いている等、特徴的な外観であった。

 裏には天然芝生が気持ちいい中央公園があるが、元は旧藤岡第一小学校跡地で1983年に作られたばかりであった。


挿絵(By みてみん)

新築当時の藤岡市民体育館(藤岡市役所提供)


 駐車場には各署からの応援のパトカーがズラリと並び、日赤群馬支部や、多野医師会の看護婦がチャーターされた貸切バスで続々到着。 

 主に事件・事故の検死を行う専門医も続々到着した。

 特に今回最も頼りにされたのは歯科医だった。

 まだDNA鑑定が無い時代、バラバラに千切れた遺体の身元を証明するのは歯型が決め手だった。

 遺体搬送第一便が藤岡第一小学校に到着した。

 HU・1H型ヘリの二枚ブレード独特の空気を叩く重低音の羽音が腹に響き、強烈なダウンウオッシュがグラウンドの警官達を襲う。

 グラウンドに着陸したヘリに警察官が簡易棺を持って両側に群がる。

 遺体を包んだ毛布ごと棺に入れている間に霊柩車がバックで寄り、棺を積み込むと白バイの先導で市民体育館に向かう。

 藤岡市藤岡の交差点に白バイのサイレンが鳴り響き「はい、緊急車両、交差点を右に曲がります」とのスピーカーからの声で交差点近くの一般車両全てが停止する。

 藤岡市民体育館前には大勢の報道陣が待機し、停止した霊柩車に群がろうとしたが、警官の制止により遠巻きに見守る。

 四人の警察官に抱かかえられた棺を検屍場に居た警官・看護婦・医師が整列して迎えた。

 体育館に大声が響く。

「遺体搬入!」


挿絵(By みてみん)

 

 ■涙の対面


 午前11時50分。

群馬県前橋市の某ホテル。

 定雄達が宿泊するホテルに日航世話役が訪ねてきた。

「幸子様のご遺体が‥‥‥。」

それを聞いた定雄は分ってはいたが愕然とした。

「やっぱり‥‥‥駄目だったか‥‥‥。」

 定雄はソファーに倒れこむように座った。

 義父が世話役に聞いた。

「で、これから確認に行くんで?」

「いや、日航社員のご遺族様は深夜のご確認になります。」

 それを聞いた定雄は「ギッ」と世話役を睨みつけ、襟首を掴んで壁に叩き付け、食らい掛かった。

「ふざけるんじゃない!幸子は被害者だぞ!幸子が墜落させたみたいな言い方じゃないか?え?何で深夜なんだ!差別してんじゃないぞ!」

 日航世話役は鬼のように睨みつける定雄さんの目を見ながら落ち着いて返した。

「わ、私も日航社員ですが、私も墜落させた訳ではありません。しかし、松原様も、私を日本航空として厳しい視線でご覧になられます。どうか、どうか、分かってください‥‥‥。」

 日航世話役は涙を流して定雄の顔を見つめた。

 義父が間に入った。

「分かります。承知しております。‥‥‥で、何時になりますか?」

「え‥‥‥夜零時、藤岡体育館になります。」

「分かりました。じゃあ、またその時間に。」

「必要な物のご用命がございましたら、またご連絡下さい。」

 日航世話役が部屋をあとにした。

 定雄は、首をうなだれ、ソファーに座り黙っている。

 義父は定雄の肩をポンと叩いて、部屋を出て行った。


 8月15日午前O時。

 定雄達は藤岡市民体育館に到着した。

 明実と母も付いて行こうとしたが、和夫が静止し、通路で待ってるように促した。 

 事故現場の遺体の悲惨さを目のあたりにした和夫は、幸子の遺体の損傷も酷いかもしれないと見たからだ。

 定雄を先頭に体育館に入った。三人共、覚悟していた。

 中に入ると線香の臭いと煙で目が痒くなった。

 体育館は熱気が篭っていて、臭いと併せて気持ち悪くなってくる。

 警察官の案内で遺体安置フロアに入ると、棺がズラリと並び、白い布が被せられ、花束が置いてあった。

 だがよく見ると、どの棺にもその上にビニール袋と張り紙が多数置いてある。

 通りがかりに見ると、袋の中身は衣服や鍵、名刺ケース、腕時計、靴といった身に付けているものが主で、新品同様のスニーカーもあれば、半分が血に染まったTシャツ、レンズの割れた腕時計。

 腕時計の針は午後七時前を指した状態で壊れている。

 張り紙には写真が貼ってある。一見、何の写真か分からなかったが、人の体の拡大写真らしく「盲腸手術跡あり」等書かれていた。

「こちらです。」

 案内された棺は一番奥にあった。

 上には他の棺同様、多数の被服物が並んでいる。

 日本航空の制服、メモ帳、下着と、他に細かい物が並んでいる。

「手にとって見ていいですか?」

「どうぞ。」

 定雄だけ前に出て、確認する。

 緑十字のバッジが目に入った。これは1972年に発生した日航DC8型機がソ連(現ロシア)のシェレメーチェボ国際空港墜落事故の遺族に、今後従業員に付けて業務するようにと言われて付けていたものだ。(2003年にバッジが廃止され、胸の身分証明カード右に表示に変更されている)

 真っ二つに折れたプラスチックの金縁の名札に

「松原 幸子 yukiko matsubara」とあった。

 よく見ると血が付いているようだ。

 名札を持ったまま固まった定雄に警察官が話しかける。

「間違いありませんか?」

「‥‥‥はい。」

 定雄の声が震えた。

「では、ご遺体の確認をお願い致します。」

 警察官が白い手袋をした手で棺の窓を開く。

 定雄と父が覗き込んだ。

「幸子か?本当に?」

 そこには、おでこのあたりが紫色に腫れているものの、真っ白に血の気が失せた幸子の顔があった。

「幸子ォ―!」 

 定雄の悲痛な叫びが体育館に響き渡った。

 棺の上で幸子の名札が入った袋を握り締めながら棺に顔を付けて大泣きした。 

 父は棺に背を向け、悔しそうに歯を食いしばる。

 和夫は、何も言えず、ただ立ちすくんでいた。

「ご冥福をお祈りいたします。」

 警察官は定雄さんが落ち着くまでその場で待った。

 体育館から響く定雄の泣声を聞いた、明美さんと母も修羅場を察して泣した。

 落ち着いたところで、警察官は棺を開け、遺体の損壊状況を説明した。

 死因は脳挫傷で即死だという。後頭部の頭蓋骨が陥没していたそうだ。

 幸子は二階席の乗務員席で乗客方向に操縦室の背面に座っていた。

 体育館から父と和夫が出てきた。

 明実が和夫に詰め寄るが、和夫は明実の目を見ただけで何も語らない。

 明実は和夫の胸に抱きつき、泣いた。


挿絵(By みてみん)

藤岡市民武道館

 

 父は、母と外に出て、隣の武道館の入り口階段に座った。

 父は胸ポケットからタバコを取り出し、火を点けた。

「あなた‥‥‥どうでしたの?」

 父は一呼吸置いて話した。

「いや‥‥‥思っていたよりは酷くは無かった。顔に傷がある位だ。

ただ、左手の人差し指が千切れて無くなっている。見つかったら連絡するそうだが。」

 父は言葉を詰まらせた。

「‥‥‥どうしたの?」

 母が心配になって聞く。

「あんなメチャクチャな現場で指なんか見つからないよ。いや見つかるわけ無いよ‥‥‥。それよりも‥‥‥幸子を‥‥‥生きて‥‥‥返して‥‥‥。」

 父は言葉を詰まらせ、火の点いたタバコを強く握り締めた。

「畜生‥‥‥畜生!」

 父の足元に大粒の涙が零れ落ちる。

 母も父の背中に抱きつき号泣した。

 定雄は、受付で遺体受け取りに必要な手続きを始めた。 

 震える手で、目を真っ赤にしながら黙々と書類を書いた。

 午前九時半。警察庁から朝一番に遺体引渡し許可が下り、裏口から霊柩車で搬送した。

 報道陣が群がると嫌なので手早く逃げるように藤岡市を飛び出し、関越自動車道へ入った。

 関東平野に広がる群馬県の街並みの上をヘリが飛び交っている。

 その時、明実は立ち並ぶ各地の煙突から煙が出ているのを見て、恐らく群馬県近隣の火葬場がフル稼働しているのだろうと思ったという。

 実際は群馬県は工場が多いので全て火葬場の煙突では無いだろうが、現に当時は群馬県南部と埼玉県北部の火葬場はフル稼働だったという。


 この日の午後、通称「ブラックボックス」と言われるボイスレコーダーとフライトレコーダーが回収され、警視庁ヘリ・富士ベル204B型「おおとり二号」によって搬出された。


挿絵(By みてみん)

123便のブラックボックス(日本航空保有 ご遺族提供)


 ■混乱する事故現場の地元


 午後1時。長野県川上村。

 川上村消防団長・遠藤氏は畑仕事をしていた。

 すると、消防指揮車がやってきた。

「三国山付近で報道陣がケガをして助けを呼んでいます!」

 遠藤氏が眉をしかめた。

「またか!もう、仕事にならねぇずれ!」

 事故が管轄外で出動しなかった川上村消防団だったが、この日以来、報道陣の遭難が多発。その度に出動が依頼された。


挿絵(By みてみん)


 三国峠頂上に到着。自衛隊と報道車両以外に普通車が多数停まっていた。

「何だ。こんな遠くから‥‥‥。」

 すると、奥に停まって登山の準備をしている夫婦がいた。

 夫の方が激怒した顔でこちらに来た。

 自分の娘の遺体損傷が少なく、もう少し救難隊が迅速に動いてくれていれば助かったというやり場の無い怒りを消防団達にぶつけて来た。

 遺族の男性は先頭に居た若手の消防団員の襟首を掴み、声にならない怒りで怒鳴り散らす。

 襟首を掴まれた団員が、手を振り解き、この男性の態度に怒り、怒鳴り返した。

 遠藤氏が慌てて止めに入った。遠藤氏は怒り狂った団員を、

もう一人の団員と一緒に力ずくで引き離す。

 男性の妻がその喧嘩を見て、泣きながら主人に喧嘩を止めるように叫び男性はその場で崩れるように膝まつき、泣き崩れた。 

 当たり所がない遺族達の怒りと悲しみの悲鳴の一つであった。


 だがこの時期、川上村はレタス最盛期で、消毒や集荷を半日でも怠ると、たちまち虫の餌食となり、しかも早朝の刈り取りを逃すと新鮮さが失われる。

 誰もがこの事故のせいで疲弊していた。

 この報道陣遭難騒ぎだけでも川上村では農作物数百万の損害が発生した。

 直接遺体を見た人間は少ない長野県川上村であるが、管轄外にも関わらず、現場近く故に否応無しに騒ぎに巻き込まれていた。


 群馬県上野村でも、報道陣による被害があった。

 民宿「谷間」を経営する黒澤義広氏(当時61歳)によると、民宿の宿泊定員20名に対し、報道陣が多数押し掛け、あっというまにそのの二倍以上の人数で一杯になったが受け入れざるを得なかった。

 当初は各報道がまとめて幾らか宿泊費を支払ったが、時間が経つごとに報道陣が入れ替わり、追加料金は曖昧になり、毎日報道陣の為の食事の為に炊飯器がフル稼働し、妻と共に夫婦二人で不眠不休の対応を行い、洗濯機は止まることが無く、結局二ヶ月のこの騒ぎで洗濯機4台が壊れた。

 最終日には無断で撤退され、しかも各社大勢だったので宿泊費・食費の請求が出来なかった。

 そして、黒澤氏は報道陣が居なくなった後に来た電話料金にひっくり返った。いつの間にか使われ、しかも高額な長距離の長時間通話ばかりだった。

 電話代を支払ったのは、一人の記者が個人的に渡した千円のみ。

 しかし、どこの誰が使ったのか分からないので請求しようが無く、泣く泣く全額支払った。

 この民宿だけで被害総額は70万近く発生した。

 1991年の長崎県・雲仙普賢岳噴火の際も、避難した住宅が不在の間に無断で報道陣基地とされ、同様の損害が発生している。

 そして、上野村小学校では、文集に報道陣に対する怒りを込めた作文を掲載した。

 内容は、週刊誌による「遺体写真全集」に対してである。

 明らかに遺体写真を売り物にしている姿勢が子供たちにも如実にに伝わっていた。

 確かに命がけで真実を全世界に発信するマスコミは大切な存在ではあるが、立場上「モラル」というものを大切にしなければならない。


私が後日取材で現場で記者達に当時の事は今もあるのか訪ねたが、さすがに今はそんな横暴な事はしないと話していたが………。


 午後七時。群馬県 上野村小学校

 現場の山から報告に降りてきた迷彩服の現場指揮官の一尉に、食事が与えられた。

「白米なんて久しぶりだなあ‥‥‥。」

 と、涙を流しながら味わって食べている。

 聞くと、現場では初動部隊は乾パンしか食事がなく三日三晩乾パンだけの食事を余儀なくされていたという。

 

 ■多数の部分遺体


 8月16日。午後2時。墜落現場

 目に見える遺体は回収し尽くしていたが、ヘリポートにはまだまだズラリと搬出を待つ遺体を包んだ毛布が並んでいた。

 やはりヘリによる搬送しか手段が無い状態では、時間がかかるのはやむを得なかった。

 次に埋まっている遺体の捜索が始まった。

 自衛官達は野戦スコップを使って焼け爛れた斜面や、えぐられて土が見えている斜面を慎重に掘る。

 すると、次から次に遺品と共に遺体が発掘される。

 隊員の中には自分達が昨夜寝ていた直下を掘ると遺体が発掘され寒気を催す者も多かったという。

 掘り出される遺体は、完全遺体は無いに等しく、皆バラバラの部分遺体ばかり。

 焼けた斜面の遺体は完全遺体が多い代わりにどれも焼け焦げ、一見焼けた残骸や木と同化していて気が付かれなかったが、遺体捜索で手に取ってようやく判明ものが大半だった。

 木の枝に引っかかっている物体も、すぐ人間と分かるものは既に回収済みだったが、内臓のみや、皮のみが、まだまだ多くぶら下がっていた。

 一方で生存者が居た機体胴体後部の残骸現場は大きな機体の破片が多く、人力で動かせない。

 仕方がないので、後の墜落原因特定の障害にならない程度に切断して撤去することが決まり、警視庁レンジャーが切断任務についた。

 だが、斜面の上に、滑りやすい機体の上での作業の為、命綱を付け、さらに他の隊員が後ろで押さえ、そして機体の残骸が動かないように周囲にいた警察官総出で機体を押さえつけ、エンジンカッターで切断する。

 一歩間違えば大怪我を引き起こす命がけの作業が続く。

切断した途端に跳ね返って怪我をする場合もある。

 調査が終わった大きい残骸は、倒された木の切り株にロープで繋いで、斜面からの落下を防止した。

 警察官達は異臭と疲労で食事をとる気力が無く、あんぱん二個と現場に延ばされた湧き水のみで一日を過ごすという者が大半だったという。

そして、たった3日の現場勤務で、殆どの警官がゲッソリ痩せて目が殺気立って帰って来たという。

 一方で自衛官達には「野戦糧食」という保存が利く食料があり、ふんだんに補給された。

 しかし、彼らも食欲が無い。

 だが食べないと怒られる。自衛官は体力が資本なので「食べることも仕事」と義務就けられている。吐きそうになっても涙を流し、無理やり飲みこまなくてはならない。

 

 警察も自衛隊も3日交代と決められたが、誰もが一時もこの場所に居たくないというのが本音だった。

たった3ひ日というが話を聞いて想像するだけでゾッとする。


上野村臨時ヘリポートから、広島県警からの応援の富士ベル204B型「みやじま」が群馬県警の警官達を乗せて離陸した。

機体はなるべく大勢が乗れるようにシートが外してあり、パイロット以外は皆、床に直に座る。

群馬県警の1人がインターコムによって短いフライトの中、パイロットと会話を交わしたという。

山間から現場が見える。

まだ白煙が立ち昇り、斜面に大勢の自衛官や警官が遺体捜査をしてるのが見える。


航空自衛隊の管制により、上空でしばし待機する。

群馬県警の警官が眼下の焼け野原を見ながらインターコムに口を開いた。

「あの山は墓場だ。520名の墓だ。」

するとパイロットが答えた。

「うちら広島市かてピカドンで街そのものが墓場じゃけん!」

「確かに!」


すると間も無く上空で監視している管制官から着陸許可がおりて降下した。

群馬県警の警官が呟いた。

「戦後40年、今も各地で戦争の遺骨が出る。だが、ここは40年後は何も出ない!その意気込みでやろう!」


 この頃になると、ようやく警察側も墜落現場へ資材や食料・人員を運ぶ為のヘリが必要数確保出来た。

 北海道警察ヘリ・富士ベル204B型「ぎんれい」や、同じく大阪府警ヘリ「おおわし」等、北海道から九州まで、全国の都道府県警からの応援のヘリがかけつけ、さらに海上保安庁からまでベル212型ヘリが応援に駆けつけた。


挿絵(By みてみん)


 しかし、地の利が無い土地での飛行は苦労し、海上保安庁もまた普段の海上任務と異なる山岳地帯の飛行にかなり怖い思いもしたようだ。

 そこで、何故、「群馬県警察には固有の地の利があるパイロットが操縦するヘリが無いんだ」という話が持ち上がったが、既に遅し。

 幾度も群馬県警察はヘリの有用性を県議会で持ち出していたが、いざとなれば周囲の他府県があるから必要ないと突っぱねられてばかりだった。

 しかも、借りたところで群馬県警の都合だけでは使えず、また、派遣した都道府県の都合で帰っていくこともしばしばだった。


 8月17日。午前9時群馬県・上野村小学校。

 職員室に一本の電話がかかってきた。

 電話を取った自衛官が出た。

「はい!こちら十二師!」

「‥‥‥。」

「もしもし?もしもし!」

「あ‥‥‥、あの‥‥‥。」

「はいっ!」

「すみません‥‥‥上野小学校にかけたつもりで‥‥‥。」

 相手はPTA役員の主婦だった。

「いえ!こちらは上野小学校であります!少々お待ちくださいませ!」

 電話に出た自衛官が校長のいる宿直室にやってくる。

「来たぞ‥‥‥来た来た。」

 校長が眉をしかめて呟いた。

 隣の宿直当番教師が、思わず噴出しそうになる。

電話の応対の声が大きく、歩く音もガツガツとジャングルブーツなのでドアの向こうなのに動きが見るように分かる。

 宿直室の扉がトントン鳴り、

「失礼しますっ!」

 と、大声で言ってきた。

 校長が力無しに「はいはい。」と答えると、扉が開き、自衛官が不動の姿勢で言った。

「校長先生殿!お電話でありますっ!」

 見慣れない力が篭った折り目の付いた動きに笑いを堪えながら電話に向かった。

 すると後ろから、さらに大声で報告してくる。

「PTA役員殿からのお電話でありますッ!」

 思わず校長は仰け反り、その自衛官に力なく言い返した。

「いや‥‥‥あんまり‥‥‥そんなね、力まなんで、楽にしててくんねえよ‥‥‥はは。」

 学校の電話は、許可を得て貸したが、まさか自衛官の電話番が付くとは考えておらず、完全に自衛隊に掌握されてしまった。 

 校舎の裏には風呂が設置されていた。

 この「野外入浴セット」は当時、自衛隊はこれに類するものを装備しておらず、この事故が発生した当時にメーカーが偶然開発中で、試作品が無償提供されたのだが大変好評で、以後正式装備し、災害派遣で被災者支援にお馴染の機材となった。


 ■別れ


 午後7時。千葉県千葉市


幸子のマンションでお通夜が始まった。

 外には報道カメラマンが何人か集まっている。

 幸子の遺体は丁寧に死化粧が施され、傷やアザも目立たなくなり、まるで寝ているかのように美しく見えた。

 大騒ぎになるのを避け、身内だけでヒッソリ行われた。


 午後9時。

 マンションが狭いので、定雄だけ残って、親族は妹の明実の自宅やホテルに帰った。

 台所にふとんを敷いて明かりを消すと、リビングに幸子の棺と遺影が、電球式ろうそくにうっすら灯されている。

 寝ようとした定雄だったが、遺影を見て、ふと立ち上がり棺の中の幸子さんを覗き込んだ。

 定雄は棺の蓋を開け、冷たくなった幸子の胸に顔をうずめ、硬くなった細い手を握り締めて泣き続けた。

 テーブルの上には、お通夜準備で端に寄せられた家財と一緒に

、幸子と定雄のスナップ写真が暗がりにぼんやり灯されている。

 悪夢のような一日がまた更けていった。

 

8月18日。墜落現場。


 朝霧がすっかり警官や自衛官の体を湿らし、芯まで冷やし、斜

面の周りを厚い雲が一面を埋め尽くす。

 まるで、天の世界にいるようだ。

  寒さで歯かガチガチ震える。山の上で野宿も限界だ。お盆が明

けると急に秋めいてきた。

 墜落現場の地面はすっかり掘り起こされていた。

陸上自衛隊によって作業用の道が構築され、一斉に並んで地面を掘り返し、そしてまた逆方向へ‥‥‥を繰り返し行っていた。

 危険なので基本は立ち入り禁止区域だったが、この頃になると、警官や自衛官が歩いた踏み分け道を頼りに、遺族も数人が来るようになった。

 面影が残る機体後部胴体の「JA8119」と大きく書かれた

残骸が置いてある場所に必然的に誰もがお供えをして合掌していくようになる。

 この日も何人か4時間近くかけて現場にやってきて、お参りしていった。

 若い夫婦が膝を地面につけて合掌している。

 夫が立ち上がると、妻はその場で泣き崩れてしまった。

「行こう‥‥‥捜索の邪魔になる。」

 夫が妻の手を引っ張る。

 それを見ていた警官が夫婦に寄っていき、話しかけた。

「いや、大丈夫ですから、どうか、ごゆっくり。」

 その様子を横目で見ていた警官の一人が座り込んでワンワンと号泣した。

 疲れのせいもあるが、誰もが感情的に非常に敏感になっていた。

 川上村の航空自衛隊本部から来た隊員達が、その祭壇に大きなものを置いた。

 ナイロン袋に入った大量の千羽鶴だった。

 本部の川上第二小学校児童が自主的に集まって千羽鶴を作り、航空自衛官に託したものだった。

 夕方になると鼻炎持ちの警官が、催涙弾を浴びたがごとく鼻水と涙を流しクシャミをする。

 夜になるといきなり夜冷え、昼になるとまだまだ蒸し暑い。

 

 8月18日。午前10時。

 千葉県千葉市 松原家マンション。

 霊柩車に棺を積み込む際、大勢の人達が集まっていた。

 近所の人達と日航の同僚の客室乗務員が個人的に集結していた。

 定雄が遺影を抱いて霊柩車の助手席に乗り込み出発する。

 霊柩車のエアホーンがマンション周辺に響き渡ると、周囲の人達が一斉に合掌し、カメラマンのフラッシュがバシバシ光った。

 同僚の客室乗務員達が号泣しながら見送る。

「見ろよ、お前の友達が大勢いるぞ。人望厚かったんだなァ幸子は‥‥‥。」

 定雄は遺影に呟いた。

 定雄は、集まった同僚を見て幸子が日本航空でどんな人間だったかが垣間見える思いがして、涙が溢れた。

 見送りの参列の後ろに、幸子の乗る霊柩車に背を向けて号泣する初老の男性がいた。

 幸子が利用していたタクシーの運転手だった。


 午後5時。

マンションに帰宅した定雄達。

 親族達が帰った後、定雄は骨壷の前に座り込んだ。

「こんなに小さくなっちまって‥‥‥もう生き返る事はないんだな幸子。」

 定雄は骨壺をテーブルに置き、まるで幸子がそこで座ってるかのように話かけた。


 8月19日。午前11時。

 幸子の葬儀も終わり、朝から部屋の片付けが行われた。

 夫の定雄は、義両親に幸子の最後に着ていた制服を託した。

 幸子の普段着は、体格の似ている妹の明実に渡された。

 明実は幸子の衣服を抱きしめ、

「姉ちゃんの匂いだ‥‥‥。」

 と、涙ながらに呟いた。

 リビングのオーディオの上には、幸子が会社から貰ってきて大事にしていた日航ジャンボ機の模型が飾ってあるままだ。

 憎き日航ジャンボ機の模型であるが、幸子の大切なものだったので、飾ったままにしておくことにした。


挿絵(By みてみん)


 線香の臭いが染み付いた二人のスゥイート・ルーム。

 窓を開け換気しながら定雄は一人、呆然とタバコをふかした。

 義父がテレビを点けると日航機事故のニュースをやっている。

 未だ遺体が見つからない遺族達が、毎日日航がチャーターしたバスで駆けつけ、部分遺体の入った棺を次から次に開けて遺体を食い入るように見続けているという。

「幸子姉ちゃん、まだマシな方だったんだねえ。」

 明実が呟いた。

 すると、ニュースは事故調査委員会の発表に切り替わった。

 ボイスレコーダーを一旦、文書化されたのが公表されたのだ。

 文章を見る限り、何が起こったのか分からないまま墜落していった様子だ。

 機長達が必死に最後まで頑張ったことがようやく証明された。

 そしてさらに、乗客の「遺書」も公開された。


挿絵(By みてみん)

当時の時刻表裏の余白に書かれた遺書(日本航空コピー、ご遺族提供)


 揺れる機内で「死」が確定したも同然の絶望感の中で、少しでも家族に想いを残そうと必死に書かれた遺書の数々。

 幸子が二階席でどんな思いで乗っていたかを思うと、皆、静まりかえり、涙が零れ落ちた。

「怖かっただろうにな。」

 義父がため息をついて、台所のテーブルに座りタバコを吸い

始めた。

 とてもやりきれない思いが、部屋を包んだ。

 母が目を真っ赤にして震える声で言った。

「明実、今の仕事、これからも続ける気?」

 全日空の客室常務員の明実は、何も答えなかった。

 夫の和夫は不穏な空気を察し、慌てて外に出ていった。

 

 義両親が九州の実家に帰る。

 事故以来、旅客機の予約キャンセルが相次ぎ、どこの空港もガラガラ状態なのに、あえて両親は日航の、しかもジャンボ機を使う便に乗って帰った。

 幸子が、どういう職場で仕事をしていたのか見たかったからだ。

 定雄は義両親を羽田まで車で送った。

 義両親の乗った日航ジャンボ機が離陸していく。

 その後も定雄はひとり最終便の日航機の離陸まで一人ポツリと羽田に離着陸する日航機を見つめ続けていた。

「幸子の職場なんて、今まで気にしたこと無かったな。」

 夕焼けが空港ターミナルと日航ジャンボ機を染める。

「丁度、この時間だったな。」


 後に全日空にて独自にフライトシュミレーターに事故機の飛行データを入力し操縦したところ、無事着陸可能だった。

 但し、条件は「機体の破損状況を全て把握していること(飛行中、内部から確認不能な垂直尾翼の破損状況も含む)」と、「着陸地点にとても広大で、平坦な障害物の無い場所があること」で実際、日航123便は「生還不能だった」という結論に達した。

 仮に海上に出ても、ろくに制御が利かないのであれば不時着水は不可能でもし海上に不時着水していたら遺体すら回収出来ないような状態になっていたであろうと推定された。

 

 ■群馬県警察・現地詰所設営


 8月20日。墜落現場。

 この日、事故現場で宿泊しながら遺体回収を行っていた自衛隊及び応援の群馬以外の警察、関東管区機動隊員は、かなり発掘される遺体も少なくなったので撤収した。

一方、群馬県警察の依頼で業者によるプレハブ小屋の建築が始まった。

 場所は生存者がいた北斜面の、群馬側からの登山口付近。

 山小屋は8月23日に完成している。

 遺体捜索終了後に取り壊す予定だったが、上野村が山の森林復旧作業に使いたい旨、払い下げて欲しいと申請してきたので、無償で払い下げられた。

 その後、一棟が後に常時一般開放され、遺族の休憩所となった。

 陽が高く昇る頃には快晴になり、すると腹に響く「ドドドドド」という二基のローター音を響かせて川崎KV107Ⅱ型バートル大型ヘリが埼玉方面から轟いてきた。

「自衛隊か?」警官達が空を見上げると、違うようだ。

、白い機体に赤と青のラインが入ったエアーリフト社の民間機だった。

 この大型ヘリコプターは元々、アメリカのボーイング社で軍用ヘリとして開発されたものだったが、民間需要も考慮して旅客仕様も作られていた。

ライセンス生産を行っていた川崎重工でも作られたが、運行

費用が高く、主にチャーター便に運用されていた。

 ヘリが近づくと、報道カメラマンが一斉にヘリにカメラの砲列を向ける。

「ケッ!また、お偉さんが空から呑気に視察かいね。お気楽なモンさねェ。」

 警官の一人が、そう呟いて空を睨むと、カメラマンの一人が話してきた。

「あれ?知らないですか?ご遺族が乗っているんですよ?」

 遺族達はヘリの窓から食い入るように地上を覗き込んだ。

 やがてヘリの窓が開けられ、順番に花束が投げ出された。

 遺族からの叫び声が地上にわずかに響いた。名前を呼んでいるようだった。

 空から落ちてきた花束を警官が集めて祭壇に飾った。


挿絵(By みてみん)

現在も残る当時の詰所


 ■自衛隊前線基地撤収


 8月22日。

長野県川上村・川上第二小学校。

 夏休みが終わった十八日から、自衛隊と生徒達の共同生活が続いていた。

 修羅場と化した現場から帰った隊員達は、温泉の帰りに、いつも小学校児童の合唱コンクールの練習を聞いていた。

 山ひとつ隔てて地獄と天国の往復。

 隊員達は、小学校児童達の歌声を聞きながら、それぞれが思いに浸った。

 辛かった現場。

 彼らは多数の無残な子供達の遺体を見た。

 食事を頬張りながら涙する隊員。

 タバコをふかしながら天を見つめて黙っている隊員。

ジープに乗ったままハンドルに顔を伏せてる隊員の顔から大粒の涙がしたたる。


 航空自衛隊は20日に、ほぼ九割の遺体が回収されたので、任務縮小となり、22日、小学校を撤収し、毎日一名づつ泊り込みで宿直してくれた教職員達に挨拶に来た。

 そして、折角のグラウンドと体育館を占領してしまい、迷惑をかけた児童達にお礼をしたいと、生徒全員に航空自衛隊のカレーライスが振舞われることになった。

 隊員総出で支度を開始し、白いエプロンを着けた隊員が調理を始める。

 トラックで移動出来る「野外炊具」と言われる大型調理器で次から次にジャガイモ・ニンジンの皮を剥き、玉葱を切る。

 大きなジュラルミン製の受けに山ほど乗っかった豚のこま切れを隊員三人がかりで「おらよ!」と、煮だった鍋に放り込む。

 授業中の児童から「美味しそうな匂いがしてきた!」 と、声があがる。

「お昼は自衛隊のお兄ちゃん達がカレーをご馳走してくれるそうだぞ!」

 と、教師が言うと児童たちから歓声が上がった。

 お昼のチャイムが校舎中に響き渡ると、児童たちは担任教師の先導で体育館に向かう。

 ステージ前に並んだ自衛官の前に、大きな鍋がズラリと並び、体育館中にカレーの匂いが充満していた。

 児童たちは一斉にお礼の言葉をかけると、並び始めた。

 白い紙皿にカレーライスが振舞われる。

「みんな!おかわりあるからな!遠慮なくおかわりしてくれよ!」

 児童達が楽しそうに食べ始めた。

 食べる場所は決まっていなかったので、皆好きな場所で食べた。

 ある隊員と仲良し女の子グループ達が一緒にグラウンドの片隅で食べていた。

「こんな大盛り、食べきれないよ〜。」

「でも何で、自衛隊の人って、男の人が料理しているの?普通、女の人が料理するじゃない?変なの〜。」

 一緒にいた自衛官が返事に困った。

「でも、美味しいよ!」

 その言葉に自衛官は顔を真っ赤にして

「ありがとう」と呟いた。

 すると目の前に元気盛りな男の子が

「おかわり!おかわり!」

 と、叫びながら体育館に走っていく。


その中の1人にこの小説の作者の妻も居た。

 

全児童が休みの8月25日。

航空自衛官浜松基地隊員総出で校舎の清掃を開始。

川上村体育館に必要資材と人員を残し、航空自衛隊は撤収した。

 撤収したあとの校舎は、鉛筆一つ動かされていない事故前の状態で復元されヘリコプターや車輌で荒らされたグラウンドも整地された。

自衛隊が隅々までキチンと清掃していったのを見て教員達は驚き、「児童の模範」として称え、現在も語り継がれている。


 8月27日。

群馬県上野村・上野小学校。

 上野小学校は、この日が夏休み最終日。

 当時の夏休みは地方によって異なり、標高が低く比較的暑い群馬は少し長めだった。

 この日、朝から自衛隊トラックが集結し、大勢で道具を降ろす。

 床ワックス機と大量のワックス缶、雑巾等の掃除用具だった。

 陸上自衛隊・第十二師団は総出で校舎の清掃を始める。

 校舎の窓は全てグラウンドに持ち運ばれ、全てを一枚一枚丁寧に磨き上げ、校舎内はワックス機の音が鳴り響き、トイレも隅から隅まで磨かれた。

 ひととおり、グラウンドが片付くと、今度はロードローラーで丁寧にグランドを整地し、軍用車のコンバット・タイヤが多数付けた轍が消えた。

 野戦厨房や野外入浴セットが設置されていた場所は消石灰が撒かれ、消毒が施された。

 夕方、ビッカビカになった校舎に神田校長は言葉を失った。

 昨日まで戦場の前線基地と化していた校舎は、夏休みの地獄が嘘だったかのように夕日を浴びて綺麗に輝いていた。

「今までのご無礼、大変お詫び申し上げます。ありがとうございました。」

 師団長と部下が校長に深々と頭を下げ帰っていった。

 師団旗と赤地に四連の金の桜花が入ったプレートを掲げた国防色のワゴン車が、夕暮れの中を去っていくのを見て頼もしく思えた。

 校長は静まり返った校舎の廊下を、スリッパをペタペタ鳴らして職員室に向かう。

 夕暮れの日差しが窓から入り込みピカピカに輝く廊下を眺め、呟いた。

「居なくなったら居なくなったで寂しくなるもんだあねぇ~‥‥‥。」

 神田校長は、違憲の軍隊・自衛隊を快く思ってはいなかったが、この事故で自衛隊に対する見方が変った。

 有事の際の、自衛隊の大切さを実感した。  

 この事故で多数の未来ある児童達が命を奪われた。

 その児童達の分も含め、川上村・上野村の児童たちは力一杯に生きて、人生を楽しみ、時には苦しみ、現在に至っている。

 私の妻もその一人である。


 ■仕事にならない

 8月23日。東京。

 定雄は久しぶりに出勤した。

 会社の事務所で、朝の挨拶で定雄が挨拶した。

 しかし、頬がすっかりコケ、やつれ果てた定雄を見て誰もが心配した。

 机に座った定雄は、溜まった書類を整理していた。

 しばらくして、定雄の机の電話が鳴る。

「プルルルル、プルルルル、プルルルル‥‥‥。」

 電話に出ないので、不審に思った同僚が定雄を見ると、うつろな表情で書類を持ったまま固まっている。

「松原さん!電話!」

 慌てて定雄は電話を取ろうとしたが、机上の書類の山と、事務用品を、うっかり手に引っ掛け床に散らばしてしまう。

「お待たせ致しました‥‥‥。」

 ふと、定雄が見ると、同僚が電話を取ってくれていた。

 床に散らばった書類を片付け始めると、同僚達が寄ってきて手伝ってくれた。 

 お昼休みに皆で近くの牛丼店に行くと定雄は、牛丼に全く手を付けず、呆然としている。

 昼休みが終わり暫く経つと、上司が定雄さんを個室に呼び出した。

「はい。」

「松原君、大丈夫かね?」

「はい、‥‥‥なんでしょう。」

「‥‥‥。」

 上司がタバコを吸い始めた。

「松原君、ちょっと有給取って旅行でも行ってきなさい。」

 定雄は、上司の顔を見て詰め寄った。

「大丈夫です!仕事させてください!」

 上司が声を荒上げた。

「仕事になってないだろうが!」

 定雄は黙ってしまった。

「いいかい、俺はね、会社の為に言ってるんじゃないんだ。君の為に言ってるんだ。自分の顔、鏡で見たか?凄いやつれ果てて見るに絶えないんだよ。皆心配しているんだぞ。一週間ばかり、温泉にゆっくり浸かって、美味しい物食べて、綺麗な風景見て、な?元気な顔して会社出てきなさい。」

 定雄は已む無く無期限休暇を取る事にした。

 

 ■乗客名簿に無い遺体発見


 8月24日。

 地中から人型の小さな遺体が発見された。

 人間の割には小さい三十センチ位の遺体だったので、事故に巻き込まれた猿の遺体と思われたが、一応、鑑定に回された。

 だが、鑑定に回したのは大正解だった。

 実は、六ヶ月目の胎児で、事故の衝撃で母親のお腹から飛び出した遺体であった。

 報道では「五百二十一名目の犠牲者」と報じられたが、まだ生まれていなかったので正式に「一人の人間」とは認められず、あくまで「母親の部分遺体」として扱われたので、被害者人数に加えられなかった。

 住民票も、死亡確認書も無い、かわいそうな遺体の為に父親は「巧」と名づけ、個別に弔った。

 それを聞いた、茨城県の住職・皆川良誠氏は気の毒に思い、今もこの胎児の為に一ヶ月に一度、慰霊の園に供養に訪れ、正月には、特大の餅を作り捧げている。


挿絵(By みてみん)

皆川良誠氏(2006作者近影)

 

 ■最後のローラー捜査作戦


 8月28日。

群馬県上野村。

 20日には自衛隊が現場から完全撤収し、警官の数も千人から四百人に縮小し、27日に、正式に「大規模遺体捜索終了」となった。

 だが、現場の警官に納得しない者が多数おり、最後に、もう一度ローラー作戦で見てみようという事になった。

 そこで、上野村の消防団、そして隣の万場町の消防団も動員され、大規模なローラー作戦を開始した。

 警察官がトランジスタ・スピーカーで指揮をする。

全員が一斉に小型スコップや手掘りで前進しながら掘り進める。 

焼け焦げた小銭、曲がった車の鍵、キーホルダー等細かい遺品が出てくる。

 さすがに大きなものは出てこなかったが、ミイラ化した皮膚の破片や炭化した骨片が多数発見された。


挿絵(By みてみん)

持ち主不明のフォルクスワーゲンのキー(日本航空保管・ご遺族提供)


 ■一時見舞金


 8月29日。

千葉県千葉市。松原幸子のマンション。

 定雄は長期無期限休暇を貰い、会社を休んだ。

 部屋の床には、ビールの空き缶が幾つも転がり、灰皿は吸殻で一杯。

 カーテンを閉め切った薄暗い部屋で定雄は、遺影に向かってブツブツ独り呟いていた。

 すると、玄関のチャイムが鳴り、定雄は「ビクッ」として玄関の方を向いた。

 尋ねてきたのは日航の世話役だった。

 世話役は、定雄の亡霊のような顔に驚き、

「大丈夫ですか?」

 と、声をかけたが定雄は無表情で「どうぞ。」と部屋に招き入れた。

 床に散らかる空き缶を足でガシャガシャ蹴飛ばしてどける。

 食卓で二人は対面して座った。

 定雄が切り出す。

「なんですか今日は?」

「あ、あのですね、一時見舞金が出ることになりまして‥‥‥。」

 世話役がバッグから現金百五十万円と書類を取り出した。

 黙って定雄は受け取った。

 世話役が帰った後、定雄は、百五十万万円の札束を見つめた。


挿絵(By みてみん)


「‥‥‥。」

 そのまま定雄は食卓に突っ伏したまま寝てしまった。

 起きると、もうカーテンからの日差しは無く、夜になっていた。

 ふと、目の前にある札束を見つめる。

「こんなもん、貰ったって幸子が生き返るって訳じゃないよな‥‥‥。」

 そう思うと、膓が段々煮えくり返ってきた。

 定雄は、おもむろに札束を握り締め、玄関に投げ飛ばす。その時、電灯の紐に手が引っかかり部屋が急に明るくなった。

 怒りが爆発した定雄は、食卓を蹴っ飛ばし、リビングのソファーをひっくり返し、本棚の本を次から次に鷲掴みにして投げ飛ばした。


「うおおおおお!」


 部屋に定雄の怒りの雄叫びが響く。

 すると、オーディオの上にあった、日航ジャンボ機の模型が目に入る。

「‥‥‥この野郎ォ!」

 定雄は、おもむろに幸子が大事にしていた日航ジャンボ機の模型を鷲掴みにし、天高く振り上げ、床に叩きつけようとした。

 だが、模型を持つ手が止り、震えたまま、定雄は固まった。

 冷静に部屋を見ると、自分が怒りで散らかした本や札束が舞い、ビール缶が床一面に散乱している。

 定雄は、自分が情けなくなり、その場にしゃがみこみ、日航ジャンボ機の模型を抱きしめたまま、号泣した。

「ごめんよ‥‥‥ごめんよ‥‥‥幸子ォ‥‥‥許してくれえ‥‥‥。」

 

 ■幸子の面影


 9月1日。

 事故現場は立ち入り禁止で、一応、登山口に通じる道は警察によって検問が行われてはいたが、遺族を制止出来なかった。

 だが、ついにこの日、遺族の一人が亡くなってしまう。

 登山しようと入口に差し掛かると昔のトロッコ列車の為に作られた石垣が崩れ、頭に命中し亡くなったという。

 その為、これまで注意だけだった乗客遺族の強行登山は完全に禁止となる。


 この日、定雄は一人旅に出ていた。

 幸子とかつて行った伊豆の温泉旅館。

 静かな雰囲気が好きだった。

 ましてや、世間は夏休み明けだったので、定雄しか客がいなかった。

 だが、その静粛が、益々定雄を追い詰めていった。

 外の空気を吸おうと海岸に出た定雄。

 人気が殆ど無い海岸で一人しゃがみこむ。

 遠くで若い夫婦の家族連れが楽しんでいた。

 小さな子供が「キャッキャ」言いながら海岸で波と戯れている。

「子供か‥‥‥。」

 定雄は幸子と早めに子供を作っておけば、こんなことには‥‥‥と後悔し、再び悲しみが襲う。

 悲しかったが、涙はとっくに枯れ果て、出てこなかった。

 いつの間にか夕方。誰も居ない夕暮れの海岸。

 夕日に輝く海を見ながら、定雄はゆっくり立ち上がった。

「幸子‥‥‥。」

 波打ち際に来ると、そのまま前進。まるで地続きのように海へ、

海へ歩いていった。

 すると、通りかかった地元の漁師達が、服を着たまま一人、海の中を沖へ歩いていく定雄を見つけた。

「おい!あいつ!なんか、おかしいぞ!」

「こら!なにやってんだ!」

 定雄は反応せずに、段々と肩がつかって、ついに頭しか見えなくなった。

「バカヤロー!」

 漁師三人が海に入り、定雄に追いつこうと泳いだ。

 無理やり皆で暴れる定雄を引っ張って、砂浜に引きずりだした。

「なにやってんだ!死ぬ気かい!」

 漁師達が怒る。

 定雄は、ずぶ濡れのまま、海岸にへたりこんだ。

 何も返事をしないので、仕方なく駐在所に連絡し、定雄を保護してもらった。

 駐在が定雄に職務質問した。

「あんた、自殺する気だったのかい?」

 定雄は、弱々しく答えた。

「‥‥‥あのまま‥‥‥死ねたら‥‥‥よかったですねェ‥‥‥。」

 定雄は駐在の判断で、警察署に連行され「自殺志願者」として落ち着くまで留置所に入れられ保護された。


 9月2日。午後一時。

 和夫は定雄の身元引き受け人として静岡県警から連絡を受け、一人定雄の拘留されている警察署へ迎えに自家用車を走らせた。


 十日ぶりに会った定雄の変わり様を見て和夫は言葉を失った。

 無精髭を生やし、髪は乱れてバサバサ。綺麗好きで几帳面な定雄が、ここまで追いつめられていたのかと思うと辛かった。旅館に残りの代金を払い、定雄の車は地元の自動車ディーラーに陸送を手配し和夫の車で帰路に就いた。

 出発から三十分、沈黙していた定雄が呟いた。

「子供‥‥‥作っておけばよかったよ‥‥‥。」

 定雄がようやく口を開いた。

「子供‥‥‥作っておけば、幸子だって仕事辞めざるを得なかったからなあ。そうすれば死なずに済んだ‥‥‥。」

 和夫が困った顔で何気に答えた。

「ああ‥‥‥。そう‥‥‥かもな。」

 定雄はムッとした顔で和夫の横顔を睨んだ。

「和夫君、君だって人事じゃないだろう。明美さんだって全日空の客室乗務員だし、このままでいいのか?」

「まあ‥‥‥いずれ‥‥‥な、ははは。」

 和夫が話をそらすと定雄は声を荒上げた。

「いずれだって?飛行機事故なんかいつ起こるか分からないだろう。もし、もしだよ、明実さんが乗ってる全日空機が今だってどこかに墜落するかもしれないんだぜ!」

 和夫は、目の前にあったパーキングエリアに急ハンドルで入り、

急ブレーキで車を止め、定雄を睨んだ。

「あのさァ、定雄君、例えでもそんなこと言っちょし!」

「でもさ、事実だろ?飛行機は上空で壊れたら、あとはもう助からないじゃないか!逃げられないじゃないか!」

 和夫は拳でハンドルを強く叩き地元の甲州弁で怒鳴った。

「だから飛行機乗んなってのか?おう?だったら他の乗り物はどうよ!な?歩いてたって車に撥ねられるこんもあんじゃんな!家から一歩も出れんってこんじゃんな!!」

 定雄も顔を真っ赤にして反論する。

「そんなこと言ってるんじゃない!和夫君は、明実さんと子供をさっさと作って、専業主婦に専念させた方がいいって言いたいんだよ!客室乗務員なんか危険な仕事よりもさ!」

 和夫はリアシートのビジネスバックを取って怒鳴った。

「おめぇよ!幸子さんの事、理解してたんか本当に!」

 定雄が怒った。

「してるさ!決まってるだろ!この世で最も理解してるさ!」

 和夫はバッグから新聞を取り出して定雄さんの膝に叩きつけた。

「読め!」

 定雄は、その新聞を広げた。

 すると、「夕刊フジ8月28日号」に山下運輸大臣がインタビューで、偶然事故機が123便に使用される前の便で飛んだ福岡発羽田行き366便に乗っていたことが書いてあった。

 そして、「松原幸子さんという客室乗務員がいて‥‥‥。」と書いてあった。

 定雄は血相を変えて新聞を閉じた。

「読めや!こん野郎!」

 和夫が青筋立てて怒る。

 定雄は、初めて証言された、幸子の亡くなる二時間前の姿を読んだ。


「二階席に乗った山下運輸大臣(当時)は、客室乗務員の松原幸子さん(三十歳)が事故被害者名簿に載っていた事に非常に心を痛めたという。何故なら、彼女にとって私が最後に長々と世間話をした乗客だったろう・・・彼女がサービスのお茶を持ってきた時、私が出身地を尋ねたら、私の妻と同じ出身地だったので、意気投合して思わず三十分も彼女と話し込んでしまった。着陸前に、彼女が日航ジャンボ機のプラモデルを渡してきて『お孫さんにどうぞ』と言われた時は嬉しかった。羽田に着いてからも彼女は私の重い荷物を一階まで運んで見送ってくれ、なんて優しい娘さんだろう‥‥‥。」

(夕刊フジ 1985年8月29日号より)


 定雄は、一旦目を逸らした。

 一息ついて続きを読む。


「その後、私の乗っていた飛行機が次の便で行方不明になったのを知り、またか!と思った。かつて私は日航機で怖い思いを二度させられた。だが、事故機名簿に彼女の名前を見て‥‥‥落ち着いたらご主人にお目にかかって報告したい。」


 定雄は、新聞を握りしめ、黙ってしまった。

 和夫が話しかけた。

「スチュワーデスって仕事はさ、そこらの仕事と違って、厳しい訓練と猛勉強の末にようやくなれる仕事なんだ。俺ら外部の奴がしゃしゃり出て、簡単に『辞めろ』なんて言えるようなモンじゃないんだよ。好きじゃないと出来ない仕事だ。それに、毎回楽しそうな顔して帰ってくる明実を見てるとこっちも嬉しくなるし。確かに事故は怖いけど‥‥‥な。どうせ、若いうちしか出来ない仕事なんだから、そろそろ潮時かと思ったときに、自主的に子供作って引退してもらえばいいと、俺は思ってるよ。」

 定雄は、自分の知らない幸子の姿を知り、ショックだった。

 分かってやってるつもりだったのに、全然、幸子の事を分かってやってなかった。もっと分かって、理解してやりたかったと後悔した。


 ■墜落原因の判明


 9月6日。

 今まで事故機の修理がずさんだった事をボーイング社は一切認めず、「日本の事故調査委員会は経験・知識不足だから、アメリカの調査に全てを委ねなさい」と云ってくる始末で、日米の事故調査委員会に摩擦が生じ始めてきていた。

 しかし、ここにきてようやく、ボーイング社独自で「修理の際に、何らかの間違いがあった可能性が高い」と認めた。

 内容は、圧力隔壁の修理の際に、シアトルから持ち込んだ補修パネルが何故か寸法が足りず、仕方なく 足りない分を継ぎ接ぎし、しかもボルトも短く、結果的に一列分のリベットが無い状態になっていたのだった。

 このせいで耐久性が従来よりも格段に落ち、飛行中に破断したとの見解となった。

 日本航空は激怒したが、では何で日航は七年間気がつかなかったのか?

修理立会いは行わなかったのか?「責任のなすり合い」と批判され始めた。

しかし、修理箇所の手抜きは外観では判断できず、まさか航空機の大事な構造物をメーカーが手抜きする訳がないという先入観も手伝い、検査に合格してしまったのだった。

 ボーイング社は日本にある日航、全日空機、そして日本貨物航空機も含めた全ての747型機に対し改修を行った。

 圧力隔壁をとてつもなく頑丈な構造に追加補修を行い、垂直尾翼から空気圧が来て破壊されないように内部点検口が開閉可能な扉で蓋がされ、操縦油圧四系統の配管も遮断弁が設けられ、万が一の破損でもオイルが抜けないようになった。

 しかし、本当に手抜き修理による事故だったのか、今現在も異論が唱えられており、日本航空機長組合・乗務員組合・遺族の中では「再調査希望」の声があり、日本航空本社も残骸及びボイスレコーダー等の証拠品を、再調査開始次第いつでも提供するとしているが、再調査の動きは2011年2月現在もなく、世間では一般的にこの事故は「未解決」とする見方がされている。

 つまり、どういうことかと云うと、例えば1979年に一時飛行禁止措置(耐空証明取り消し)されたダグラスDC10旅客機の例がある。

 1972年に貨物ドアが破損し墜落しかけた事故で、欠格という事でリコールを出そうとしたが、当時ベトナム戦争で経済が疲弊していた為に当時の政治的圧力で握りつぶされ放置されたがその後、1974年にトルコ航空所属機の墜落事故に発展してしまった。

 調査で欠陥があるとされたにも関わらず、意図的に放置したとして世界中の全ての同型機が対策を終えて類似事故を起こさない保証が出来るまで飛行禁止にされ、同機を保有している航空会社は多大な損失を被った。

 そこで、世界の顔であるボーイング747型機そのものが欠格だったらどうなってしまうかである。

 それを避ける為に事故の結論を747そのものではなく事故機固有のものとする結論を出来るだけ早期に出し、世界的に大損害を被るのを阻止したのでは?という見方もある為である。

 現に2001年のハイジャックした旅客機そのものをテロリストが操縦し、乗客乗員もろとも爆弾の代わりとして用いられた9・11テロではアメリカ本土全土が数日間飛行禁止になった損害は膨大なもので、このテロの飛行禁止措置が世界中の物流経済に多大な影響を与え、世界各国の航空会社数社が倒産、日本も2003年の日本航空と日本エアシステムの大合併劇があったが、このテロの影響が強かった。


挿絵(By みてみん)

圧力隔壁

挿絵(By みてみん)

機体後部

挿絵(By みてみん)

奥多摩山中で発見された尾翼の一部

挿絵(By みてみん)

当時の運輸省調査タグ

(いずれも日本航空保管 ご遺族提供)


 ■遺族や生存者に対する誹謗中傷


9月15日。

千葉県千葉市。松原家マンション。

 あの新聞が発行されて以来、自宅へのいたずら電話や誹謗中傷の手紙が大量に舞い込み、定雄はさらに疲弊した。

 定雄は二、三日会社に出たが、会社にも来る嫌がらせの電話や手紙に耐え切れず、退職届を出したが上司の一存で受理されずに、再び無期限休暇が与えられていた。

 遺族に対する嫌がらせは、機長をはじめとする乗務員遺族だけではなかった。

 運行中の機内での客室乗務員や、窓口での嫌がらせも多発した。

 その一方で、乗客遺族にも嫌がらせが多発した。

 主に金に関する皮肉が多く、金が絡むと、こんなに人間汚くなるものかと思うほどの罵詈雑言が浴びせられた遺族が多数いた。

 たとえ、億・兆単位のお金が入ったって大事な人は永久に帰って来ない。

 この事故のせいで一家離散した家庭や社長の死やブレインの喪失、仕事遅滞による契約破棄等で倒産した企業もあった。

 また、4人の生存者も加熱する報道に巻き込まれ、病室でも落ち着かない毎日を強いられ、ケガが直っても、後遺症や悪夢に悩まされ、さらに報道の追跡、金からみの嫉妬に悩まされた。

 そして生存者の一人は事故前に婚約していたが、結婚直前の事故で子宮が破壊され、子供を産めない体になってしまった。

 

 ■墜落現場の復旧作業


9月17日。

群馬県上野村・本谷分校跡。

 本谷分校跡はかつて林業で栄えた時代にあった校舎で、林業の事業縮小後に廃校になった場所である。

 ここに、朝日航洋株式会社のヘリコプターが五機集結した。

 この会社は墜落当日も活躍し、現場に近い長野県北相木村の山中に作られた高圧電線工事用のヘリポート跡を活用し報道陣を支えた為、現場を熟知していた。

 今回は日本航空と群馬県警の依頼で、墜落したジャンボ機の残骸や、大量のゴミを搬出する為に依頼されたものだ。

 木っ端微塵になったとはいえ、ジャンボ機はエンジンも一機だけでも当時、日本で最もペイロード(貨物吊上可能重量)が大きかったフランス製エアロスパシアルAS322「スーパー・ピューマ」ですら持ち上げられない重量で、しかも、事故検証で後日再度組み立てるので壊して運搬することも許されず、難航すると思われた。


挿絵(By みてみん)


 しかし、結局仕方が無いので後の捜査に困らない範囲で切断や分解が認められ、出来るだけ壊さないように分断されてから緩衝材で包んで木枠に入れられ搬送された。

 梱包は地元の「多野林業」で行われた。

本谷分校跡に降ろされた残骸は重機運搬用トレーラーに積まれ、パトカーの先導で東京都・調布飛行場の航空技術研究所に運ばれた。

 なお、群馬県警の依頼で運ばれたのは事故原因と考えられたエンジンと機体後部のみで、事故調査委員会の証拠押収品として搬送された。

 その他の主翼等の残骸や座席・貨物コンテナその他は日本航空に引き渡された為、群馬県警とは別契約で十月から始められ、羽田の日本航空整備倉庫に保管された。

 その後、10月13日より営林省が破壊された山林の損害賠償を日本航空に請求した分で、現状復帰作業が行われた。

 主に倒木等の搬出や、土砂崩れ防止のネット取り付け、沢の水質調査等であり、営林省の立会い調査に合格して作業が終了したのは10月22日であった。


 ■見つかった指


9月28日。

群馬県藤岡市・藤岡市民体育館。

 この日までに身元が確認されて遺体が引き渡された数は五百十五体。

 残りはあと五人分となった。

 遺体の惨状は、遺体収容総計が乗員乗客の死者五百二十名に対して千七百二体もあったと云えばどんな状態なのか、ご理解して戴けると思う。

 もう遺体の引き取りを断念して引き揚げた家族もいれば、全く見つからなく、指一本でも構わないと毎日尋ねてくる家族、あの世で歩けないからと見つからない手や足を捜しにくる家族もいる。

 そういった遺族の為に検屍係は毎日、朝早くまで地道な検屍を続けていた。

 しかし、いつまでも市民体育館を使ってる訳にもいかず、遺体も少なくなったので前橋の機動センターに移動することになった。

 最終日の28日。この日も夜遅くまで検屍を行っていた。

 ドライアイスで冷凍保存していた遺体を少しずつ溶かしながら慎重に調べていく。大人の女性の指だった。

 腐食しかけて、しかも、ふやけているので慎重に指紋を取る。すると千葉県警から送られてきた資料の中に該当指紋があった。

 当時、犠牲者が各都道府県に散在していたので、各都道府県警察に依頼し、被害者乗客乗員の住まいや自家用車等から指紋や髪の毛等をサンプルとして採取していた。

 指は事故機の客室乗務員、松原幸子の唯一欠損していた左手人差し指と断定された。

 

 9月29日朝。

 松原幸子の妹・吉川明実の自宅。

 夫・和夫は、朝食を食べながらテレビを見ている傍らで明実は全日空の客室乗務員の制服を着て、化粧をしていた。

 すると、電話が鳴り明実が出る。

 熊本の自宅からだった。

「えっ!幸子姉ちゃんの指が見つかった?よくあんな現場で見つかったね!」

 その言葉を聞いた和夫の手が止った。

「仕事?いいよ、休むから。で、定雄さんには?」

「それが、電話、何度かけても出ないんだよね‥‥‥。」

 和夫も急遽仕事を休み、まず定雄のマンションへ向かった。

 マンションの駐車場に、定雄の車、黒の三菱ギャランΛターボが埃を被って停まっていた。いつも風景が映るほどテカテカに手入れしてあるのに。

「‥‥‥。」

 嫌な予感がした和夫は、明実に自分の車、フォルクスワーゲン・

ゴルフのキーを渡し、一人で群馬に行くように言った。

 明実の乗る車を見送った後、和夫は単身、定雄のマンションに向かう。

 ポストには新聞が詰まり、入りきらずに床に置いてある。

 郵便受けもビッチリと手紙が山となっている。

 管理人にお願いして部屋を開けてもらうと、暗く、静まり返っている。

「まさか‥‥‥。」

 恐る恐る入っていくと、誰もいなかった。

 トイレにも風呂にもいない。

 とりあえず心配なので警察に行方不明者捜索願いを出したが、すぐ、それらしい事案が発覚した。

 二十キロ離れた森林公園で、二日前に身元不明の首吊り自殺体が見つかっていたのだった。

「あの馬鹿野郎‥‥‥なんてこった‥‥‥。」

 和夫の口から思わず漏れた。

 とりあえず、自殺遺体の保管された病院へ向かった。


 午後1時。

群馬県藤岡市。

 検屍場が藤岡市民体育館から前橋機動隊センターに移ったので、藤岡警察署に指を預けて検屍場が移動していった。

 明実は、小さな桐の箱に入った指を確認した。

 指は、丁寧なファンデーションでの化粧が施され、大切に扱われたことを物語っていた。

「こんな小さなものまで、丁寧に‥‥‥姉も喜んでいるでしょう。ありがとうございました。」

 検屍官に深々と頭を下げて、指を大事に持って帰ろうとしたその時だった。

 藤岡警察署の事務の女性が走ってきた。

「吉川様、お電話です。千葉の警察署から。」

 明実は事務の女性の深刻な表情を見て悪寒が走った。物凄い嫌な予感がした。

 高速道路に飛び乗り、和夫が待っている千葉の病院までかけつける。

 着いたのは夕方だった。

 明実は警官に遺体安置所に導かれ、靴音が冷たく響く暗い地下の廊下を歩いた。

 和夫が、警官と話をしながら待っていた。

 重い鉄の扉を開くと、遺体が安置されていた。

 すえた臭いと線香香りが充満している。何度この臭いを嗅いだか。

「顔‥‥‥見てもいい?」

 和夫は静止した。 

「本当に‥‥‥定雄さん?」

 和夫は黙って頷いた。

 明実は悲しみと怒りが同時に込み上げ、涙しながら遺体に向って怒鳴り散らした。

「いくら姉ちゃんと仲がよかったって言ったって、自殺することないじゃないのバカァ!」

 明実は、しゃがみこんで号泣した。

 松原定雄(享年三十一歳)。

両親は既に鬼籍に入っており、一人息子で身寄りは無かった。これで松原家は全滅してしまった。

 

 雨が降ってきた。

 主のいなくなった定雄の愛車。三菱ギャランΛターボ。自慢の車だった。

 埃が雨で流され、持ち主の綺麗好きな性格を示すかのごとく、ワックスの利いた黒い車体を多数の大粒の水滴が転がる。

 まるで持ち主が亡くなったのを悲しむように。

 もう、この車で仲良く出かける夫婦はいない。

 誰も居なくなったマンションの部屋。幸子の最後の声が残っていた留守番電話の録音テープと、幸子が大事にしていた日航ジャンボ機の模型が、遺影と一緒に食卓に丁寧に並べてあった。

 二日後の朝。

 定雄の遺体が死化粧を施され棺に入れられると、明実は、桐の小箱を手に握らせた。

 幸子の指だった。

 特別に許可を貰って一緒に弔った。

 秋の澄んだ、どこまでも蒼い空に、定雄は幸子の指を届けに、あの世へ旅立って行った。

 

 ■旧藤岡市民体育館の最後


 9月30日。

藤岡市民体育館。

 群馬県警察によって清掃して返還されたが、腐食した大量の遺体の腐食臭が完全に染み付き取れず、しかも全国的に「遺体検屍場」として知られた為、已む無く取り壊しが決定された。

 最後の役目は合同慰霊祭だった。

 1971年完成。この種の建造物としては短い、わずか十四年の寿命だった。

 その後、跡地に藤岡市民ホールが建てられ現在に至る。

 一緒に建てられた武道館と、隣のNTTビル、道を挟んで藤岡市公民館、そして藤岡市藤岡交差点の歩道橋が当時からの面影を残し、公民館敷地内に慰霊碑が建てられている。

 そしてヘリポートだった藤岡第一小学校は殆ど当時のままだが、あの日が嘘のように児童のはしゃぎ声が響き渡っていた。


 ■地上に降りた天使


10月の初め。

全日空・ロッキード・トライスター、羽田発那覇行き。

 明実の今日の職場だった。

 そして、最後の空の職場だった。

 明実は、後輩に「ラバトリー点検してくるね。」と伝えてトイレに入った。

 そこで彼女は静かに聞こえないように嘔吐した。

 あの事故以来、生理も来なくなり、気が滅入っていた。

「参ったなァ‥‥‥精神的にきているのかな?」

 明実は上司のチーフパーサーに具合が悪い旨を伝え、今日は那覇で病院に行き、明日帰る事にした。


 翌日夜。和夫が帰宅した。

 すると、明実が深刻な顔をして待っていた。

「おう、ただいま。」

「おかえりなさい。ちょっと来て‥‥‥。」

 明実の様子がおかしい。

 リビングのソファーに二人で座った。

「どうした?」

「私ね‥‥‥飛行機降りたの。地上勤務になったの。」

 和夫は怪訝な表情をした。また何か悪い事が起こったのか?と思ったからだ。

「なんだ、なんだ?今度は何があった?」

 明実が和夫の目を見て答えた。

「だって、妊娠していて、スチュワーデスなんか無理でしょ?」

 和夫はビックリして、のけぞった。

「で‥‥‥いつだ?」

「妊娠二ヶ月だって。だから来年六月の予定よ。」

 和夫は立ち上がって喜んだ。

「やった!マジかい!よくやった!これでオレも父親か!すげえ!いや〜、参った参った!ウハハハハハハ!」

 喜ぶ和夫に明実が聞いた。

「‥‥‥二ヶ月前って何があった?」

 和夫は突然の質問に考えた。

「幸子義姉さんが亡くなった日だろ?」

 明実は和夫の手を握り、嬉しそうに答えた。

「きっと、幸子姉さんの生まれ変わりよ!」

 喜ぶ明実の手を慌てて振り解き、和夫は答えた。

「何言って‥‥‥おいおい、偶然に決まってらァ!偶然だよグーゼンッ!ははははは!便所行ってくらあ!」

 和夫はそのままトイレに行ったが、トイレに座りながらジックリ考えた。

 夏から暗い話ばかりだった中で、久しぶりに心から喜べた日だった。 

 あとは翌年の春の誕生を心から楽しみにするばかりだった。


 12月1日。羽田空港。

 全日本空輸・羽田空港客室乗務員第二課会議室。

 吉川明実は、妊娠により体調が優れなくなったので依願退社願いを提出し、この日が最後の勤務だった。

 夕方。デスクワークが終わり会議室に呼び出され入ると、突然同僚達が「パン、パン!」とクラッカーを鳴らした。

 明実の頭に紙吹雪が舞った。

「ご懐妊おめでとう!」

「今までご苦労様でしたァ!」

 明実の同僚が皆で祝福した。

 後輩が、綺麗な花束を持ってきて明実に手渡した。

「良いママになってくださいね!また、落ち着いたら来てください。」

 明実は、嬉し涙を堪えきれず、後輩の客室乗務員も泣いた。

 課長より滞空証明書を受け取り、ビルを出ると明実は振り向いた。

(滞空証明書は生涯勤めた空の時間を示す。)

 ビルに「全日空」の文字が茜色に染まっていた。

 冬の冷たい風が体に染みる。

 後ろで、甲高いジェット音が響き、日航ジャンボ機が離陸していく。

 日航123便と同型機のボーイング747SR46型だ。

「‥‥‥あの日も、あんな感じで飛んで行ったんだね。幸子姉ちゃん。」

 日航機は、白い胴体を夕焼けに照らして、あっという間に高空に舞い上がり、飛行機雲だけ残して夕暮れの空に消えた。

 そして、間を置いて離陸して行った滑走路に、自分の職場だっ

た全日空のロッキード・トライスターが着陸灯を輝かせて着陸してくる。

 両機共、80年代の日本を代表していた機体だ。

 全日空契約の明実が利用しているタクシーが来た。

 夕暮れの首都高速。明実は走るタクシーの車窓から、群馬方面を陽が沈むまで見つめ続けていた。

 後にこの全日空・羽田空港客室乗務員第二課の入る向かいの空港設備管理ビル二階に、日本航空・安全啓発センターがあり、123便の残骸と身元不明の遺品が展示され、あの事故の凄まじさを伝えていた。

 ここには日本航空社員だけでなく、全日空の社員も訪れている。

(2014年移転。)


 ■財団法人・慰霊の園 設立


 12月18日。

 群馬県警察機動隊センター。

 ついに身元が確定出来なかった部分遺体485体。

 12月20日に荼毘に付されることが決定されたので、群馬県警はこの日最後まで残存遺体と資料を見比べた末に業務を終了した。

 身元が判明した被害者は520名のうち518名。

 2名は手がかりが無く、何も得ることが出来ないまま終わってしまった。

 だが、全身が発見されたのは192名。

 残る326名は、手や足等の部分的な遺体のみでの発見だった。

 485体は部分や性別等に細かく分別され、二十日、群馬スポーツセンターにて上野村主催で群馬県内の各火葬場で荼毘に付され、79壷にまとめられた。

 翌21日。群馬会館大ホールにて日本航空主催で供養式が行われ、荼毘に付され、上野村に引き取られた。

 上野村が引き取った理由は明治三十五年に制定された「行路病人及び死亡人取扱法」に基づいたもので、「身元不明の死亡人が発見された際は、発見地の地方公共団体が永代弔う」ことになってる為である。

 だが、これは放浪の旅人や、自殺者に適用されるもので、大型航空機の墜落事故等の外部からの大量死を想定したものではない。

 普通であれば、その市町村のお寺の墓場にある無縁仏に埋葬されるが、世界的な大事故であるので、そう簡単には済ませられない。

 しかし、人口千五百人程度の上野村には重荷すぎる。当然、上野村の費用だけでは補えない。

 その為、「日航機事故」に関しては上野村と全く違う組織として切り離した「財団法人・慰霊の園」を設立し、運営する事にした。

 その財源確保の為、政府予算会議出席で東京に行く際に、日本航空に財源の相談を行った。

 結果、日本航空が十億円、その他、上野村・群馬県・犠牲者が所属した企業からの浄財・全国からの寄付、機長等乗員遺族の寄付の二億円、合わせて十二億円が用意出来た。

 慰霊の園の所在地は、山中深くの事故現場だと、行けない人も大勢出てくると予想され、村の集落内に設ける事とし、上野中学校の近くの土地を村民から寄付して貰い確保出来た。

 墜落現場までの道は、事故直後から遺族が登り、死者まで出しているので整備しようと考えたが、遺族からは「気楽に誰でも来て欲しくない、面白半分に肝試しで来て欲しくない」との意見があったことから、遺族と話し合い、元から存在した営林整備用の林道行き止まりから道路を2キロ延長し、そこからは登山歩道として整備する事に決まった。

 だが、整備するには、国有林の為、営林省の許可が無いと何も出来ない。

 許可なく木の一本切ってはいけないし、踏み分け道すら作ってはいけない。

 そこで営林省に工事と事故現場の整備の許可を依頼した。

 すると、本来この手の認可は非常に時間がかかるのが定番だが、内容が内容なので異例のスピード認可がなされた。

 あとは、雪解けの翌年四月からの着工を待つばかりとなった。

 年末、雪が積もる墜落現場近くの林道に、現場に向かってポツリ、ポツリと足跡があったという。

 蒼い空が広がる晴れ渡った冬山の足跡は、どことなく哀愁を感じさせた。


 翌年1986年2月17日。

 財団法人・慰霊の園が県議で認可され十九日に発足した。

 4月19日。

 墜落現場は名も無い場所だったので、上野村・黒澤村長が「御巣鷹の尾根」と正式に命名した。

 御巣鷹山とは、墜落現場近くの山で、本当は隣の、長野・群馬県境に位置する高天原山の山麗の系列で、御巣鷹山は関係無かったが、墜落現場判明の際に広く知れ渡った為、その山の名前を取って名付けられた。 

 事故翌月に、報道で高天原山に訂正されたが、周知されずにその後も未だに「御巣鷹山」と紹介されている事が多い。

 

 そして慰霊登山道や、慰霊の園の工事が始まった。

 七つの業者に分担させ、一周忌に間に合うよう急ピッチで進められた。


挿絵(By みてみん)

慰霊の園に立つ慰霊碑


 ■新しい生命 


 1986年6月2日。東京都練馬区。

 事故機の客室乗務員・松原幸子の妹夫婦、吉川家。

 夜七時半、明実は夫の和夫とテレビを見ていて思わず大笑いしたその時、明実がつぶやいた。

「あ‥‥‥。」

 和夫が明実の顔を見た。

「どうした?」

「破水‥‥‥したみたい‥‥‥。」

 和夫が動揺した。

「破水!破水だって?破水すると‥‥‥ど、ど、どうなるんだ?」

 明実が苦しみ始めた。

 ジワっと明実の座る座布団が濡れ始めた。

 和夫は明実の指示でタオルを出来るだけ沢山持ち出し、明実があらかじめ用意していた入院用バッグを持って、駐車場に走った。

 苦しむ明実を車に乗せると、急いで、しかも振動を与えないように走った。

 運よく、信号にも捕まらず、渋滞にも合わずに着いた。

 産婦人科病院へ着くと、明実を看護婦に委ねて、公衆電話で電話をかけた。職場の上司へ、明日は休む旨伝え、義両親に連絡しなければならない。

 するとテレホンカードが無くなり、仕方なく受付でありったけのお金を十円に両替して貰い、九州の義両親に電話した。

 電話している最中に十円玉を床にばら撒き一人、お祭り騒ぎになってしまった。

 病室では明実が今まで見たことが無い位、苦しみ悶えていた。陣痛である。

 とりあえず、腰をさすってあげ、励ます。

 あまりに苦しそうなので看護婦を呼ぶと、「我慢するしかない」と言われ、必死に励まし続けた。

 

 翌日朝6時。

 明実は分娩室へ運ばれた。

 もうすぐ、初めて、自分の子供を見る。

 自分は父親になるんだ。ドキドキしながら分娩室に入った。

 和夫は明実の手を握り締め、応援した。

 看護婦さん達も励ます。

「頑張って!もうすぐだから!」

 明実の苦しむ顔が痛々しい。

「あ‥‥‥あ!あー!」

 明実の苦しむ声が止んだと同時にか細い声が聞こえた。

「ほ‥‥‥ぎゃ‥‥‥ほぎゃ、ほぎゃ!」

「おめでとうございます!」

 赤ちゃんを看護婦はタオルで綺麗に拭いて、明実の枕元に置いた。

「私の‥‥‥赤ちゃん‥‥‥。」

 明実が泣き出した。

 和夫は目に涙を浮かべて明実の手を強く握った。

「よく頑張った!明美!ありがとう!」

 元気な女の子だった。

 あの事故から十ヶ月。姉が事故で亡くなって、義兄の定雄が自殺してしまい‥‥‥。

 二人の命と入れ替わりに新しい命が誕生した。

 まだ一周忌も迎えてないので「おめでとう」というのは厳しいが、「おめでとう」という言葉が、やはり出てしまう。

 事故直後の懐妊に、女の子の誕生。

 親戚一同は、「幸子の生まれ変わりだ」と喜んだ。


 1986年6月3日午前9時36分 生誕 

 命名・吉川 望美


 

 ■一周忌


 1986年6月。

長野県川上村。

川上村婦人会で三国山登山口の定期清掃を行った。

 その際、道脇から多数の軍手やビニール手袋が見つかった。

「あの事故で自衛隊が使ったものかねえ‥‥‥。」

 主婦達がそう話しながら拾い続けた。 


 8月1日。

群馬県上野村。

 この日、墜落現場にて「昇魂の碑」の除幕式が行われた。

 陸上自衛隊・第十二師団が設営した元・第二ヘリポート跡入り口である。

 上野村村長であり、慰霊の園の理事長でもある黒澤丈夫氏が執筆を行った文字が刻まれている。

 その裏には祭壇小屋がある。

この小屋は群馬県警察が撤収の際に墜落で生じた倒木を利用して作ったもので、それまで雨ざらしだった供え物をここにまとめた。

 そして、山に訪れた遺族がこの小屋に犠牲者の思い出の写真を飾り始め、今も建物が強化されて残っている。

 土砂崩れ防止用に植えられた芝生ネットに包まれた墜落現場のあちこちに木製の墓標が立ち並ぶ。

 これは、上野村が警察の遺体回収資料を基に建てたもので、遺体発見場所に近い道沿いに並べられている。

 この現場にある幾筋もある道や湧き水の取水口は、陸上自衛隊が水分補給用・遺体洗浄用に作ったものであった。


 8月3日。

 上野村楢原集落に建てられた「慰霊の塔」の除幕式及び、身元不明遺体の納骨式が行われた。

 現在の「慰霊の園」に建てられた慰霊の塔は群馬県出身の石彫家・半田富久氏によって設計され、現場に向かって合掌する手をイメージしたものだ。

 中心に立ち、碑の奥に見える納骨堂を見ると、その直線上八キロの地点に墜落現場があるように設計されている。

 政府各大臣をはじめとする関係者や遺族の見守る中、納骨堂に納められ、扉が閉められた。

 なお、現在も扉が開かれる時がある。

 それは、新たに遺骨が見つかった時である。

 事故から28年経過した今もなお、御巣鷹の尾根では残骸、遺品、そして遺骨が、雨の後等に流されて出てくる時がある。


 ■日本航空社員殉職者遺族の慰霊登山


 8月3日夕方。

東京都練馬区。

 事故機客室乗務員・松原幸子の妹・吉川家自宅。

 両親が九州から出てきて上野村で宿泊し、慰霊登山に行く予定だったが急に中止して明実の家に帰ってきた。

 明実は、義両親に何故帰ってきたのか聞いた。

 母は黙って泣き始めた。

「なに?泣いているだけじゃ、分かんないんだけど?」

 父が言葉を選びながら、ゆっくり話し始めた。

「‥‥‥日航社員遺族は、もう上野村に行かないことになった。」

 明実が怪訝な顔をして声を荒上げた。

「何で?日航社員が何だって言うの?」

「いや、ほら、乗客遺族への対面もあるだろ?だから、皆で決めたんだ。」

 明実が怒った。

「何で?お姉ちゃんが何で悪いの?たまたま乗務していただけじゃない!乗客遺族が来るな!って言ったの?」

 父が慌てて怒りを静めようとする。

「違う!誰も何も言ってない!誰も来るなって言ってない!立場が立場だから遠慮してるだけだ!」

 明実は泣きながら興奮した。

「お姉ちゃんは、ただ乗ってただけじゃない!お姉ちゃんだって被害者なのに、定雄さんだって自殺しちゃったのに!家庭壊されて、その上何よ!」

 大声で怒る明実の声で赤ちゃんが驚いて泣き始める。

 母が慌てて、赤ちゃんを抱き、あやし始めた。

「お父さん!明実もお産後なのに興奮させちゃだめ!」

 和夫が職場から帰ってくる。

「ただいま‥‥‥何の騒ぎだよ〜‥‥‥義父さん、義母さん?何でいるの?慰霊登山は?」

 明実が泣き伏せているのをみて和夫が驚いた。

「ちょ‥‥‥何?何があったの?」

 

夜8時。

 暫くして、ようやく落ち着いた。

 赤ちゃんは泣き疲れ、グッスリ眠り、母と明実は呆然としている。

 明実が、やつれた表情でボソリと呟いた。

「‥‥‥もうヤダ。‥‥‥こんな国‥‥‥もうこの国から出て行きたいよぉ。」

 和夫はソっと黙って家を出て行き、友人に公衆電話で連絡して飲みに行き、この件を愚痴った。

「日本を出て行きたいだと!‥‥‥全く‥‥‥困ったなあ。」

 友人が思いついた。

「あのよ、それも手段の一つじゃねえのか?」

「?‥‥‥どういう事よ?」

 友人は、香港で日本語学校に勤める事を勧めた。

 当時香港は日本ブランドや日本スタイルがブームとなり、日本語学校も大好評で、講師不足に悩まされていた程だった。

「気晴らしに暫く香港に住むって手もいいんじゃないか?香港は英国領(当時)だから、英語の需要もある。奥さん、全日空のスチュワーデスだったから英語出来るだろ?」

 和夫は曖昧に頷くとグラスの氷を回しながらボソっと呟いた。

「香港‥‥‥ねェ。」

 翌朝8月4日。

群馬県上野村。

 台風の影響で昨日夕方に第一回慰霊登山会が中止された。

 已む無く殆どの遺族が登山を断念した。

 だが、一部の遺族七組が強行登山を敢行した。

 降りしきる大雨、風が強くなる中、日本航空の世話役が登山口入り口で待ち伏せし、登ろうとする遺族達を静止し、泥まみれで土下座までしたが、強風と大雨で世話役の声は空しくかき消され、遺族達は無言で山奥へ入っていった。

 その後、この世話役の一人が、「山を管理したい。」と希望し、

日航本社の意向を無視して独自に同僚と共に山の管理を始めた。

 それに対し、遺族からの励ましの声もかかり、始めは乗り気で無かった日航本社も、後に「業務の一つ」と認めたという。

 現在、その方は15周忌に定年を迎え、後輩が後を継ぎ、現在に至る。

 

 ■海外移住


 正午。

東京都練馬区。

事故機客室乗務員・松原幸子妹夫婦・吉川家の自宅。

寝室で授乳している明実に和夫が昨日考えた事を言ってみた。

「香港?」

「そうだ。気晴らしにどうかな?と思ってさ。」

「子供は?」

「いや、旅行じゃない。仕事で。」

「和夫さん一人で?」

「いや、皆で。」

「仕事は?」

「いい仕事があるんだ。」

 明実はとりあえず話を聞いてみた。

「‥‥‥今、分かんない。考えておくね。」

義両親がリビングでテレビの上野村の中継を見ていた。

 和夫が、義両親に近づき、話しかけた。

「あの‥‥‥お話が‥‥‥。」

 義父が答えた。

「どうした?改まって。」

 和夫は恐る恐る海外移住の意思を打ち明けた。

「明実と、子供連れて香港に移住するって言ったら‥‥‥。」

 義母がそれを聞いたとたん困った顔をして泣き出した。

 義父が、唖然とした顔で和夫を見つめた。

和夫は慌てて弁解しようとしたその時、明実がズカズカやってきて、おもむろにテレビを消した。

「明実!」

義父が思わず呼び止めた。

 すると明実は、怒った。

「こんなニュース見る必要ない!」

 唖然とする三人に続けて言った。

「もうイヤ!慰霊祭にも出られない、登山も許されない!だったら、こんなニュースだって関係ないじゃない!子供の教育にも悪いじゃないっ!」

 明実は子供の寝ている寝室に戻っていった。


 義父母が九州に帰った翌日の夜。

 義父から和夫宛に電話が来た。

「‥‥‥香港の話、どうなった?」

「いや、やっぱやめときます。すみません、ははは‥‥‥。」

 暫く沈黙の後、義父が聞いた。

「明実は‥‥‥どうだ。」

「‥‥‥殆ど奥の部屋に篭ってテレビも見ないで子供の面倒見てますよ。」

 義父は一呼吸置いて和夫にお願いした。

「和夫君。君に任せる。君と明美の決めた事に、わしらは一切、口は出さん。明美と孫を幸せにしてやってくれ。」


9月末。

 和夫と明実は生後三ヶ月の望美を抱いて香港に旅立った。

 赤ちゃんは生後一週間から旅客機に搭乗可能だが、物心がついて動き回るようになるとかえって厄介だ。

 丁度いい感じで旅客機に乗れた。

 日本航空の制服を見ると辛くなるので、あえて日航を避け、香港のキャセイ・パシフィック航空を選び、日本を後にした。

「幸子姉ちゃん、さようなら‥‥‥。」

 明実は窓越しに見える日本本土に向けて呟いた。

 これから知らない外国での生活が始まる。

 外から見る日本。

 次に帰る時は、堂々と上野村に行きたい。

 そう願った。


挿絵(By みてみん)


第5章 失われたものと得たもの


 ■群馬ヘリポート設立


 これまで、ヘリは必要な時に、近隣の県に頼るという考えだった群馬県は日航ジャンボ機墜落事故でヘリコプターの有用性を痛感した。

 その教訓から今まで県議会で否決していた群馬県警察航空隊設立と併せ、群馬ヘリポートの建設も認可した。

 1988年8月25日、悲願の群馬ヘリポートが前橋市に作られ、現在、関東でも重要なヘリポート施設として機能している。

 群馬県警航空隊はベル206L3型ロング・レンジャー「あかぎ」を保有し、大勢の山岳遭難者を救う。

 なお、2008年、二十年目を迎え、初代「あかぎ」は海外に売却され、ヨーロッパで山岳救難に定評が高い、イタリアのアグスタA109K2型二代目「あかぎ」に更新され現在に至る。


 ■日本側のボーイング社過失致死捜査


 1988年8月、墜落現場の鑑識にあたった警官も含む群馬県警察本部の刑事が成田からアメリカ・シアトル州にあるボーイング社・エバレット工場に旅立った。

 ボーイング社の事故機修理を行った作業員に事情聴収をする為である。

 しかし、この旅は空しく、空振りで終わってしまった。

 アメリカでは群馬県警察の警察権は一切無視され、「作業員の名前は古い話だから分からない」の一点張りで追い返されてしまったのだった。

 事故現場の鑑識課長も真っ先に初めてのヘリからのホイスト降下で恐怖と戦いながら墜落現場に降り立ち、あの戦慄的な現場の斜面を這って歩き、年末まで必死に山を捜索していた。

 だが、アメリカでは只の旅行者扱い。

 彼らはとても悔しく、心から犠牲者に大変申し訳なく思ったに違いない。

 一方でボーイング社も金銭的には謝罪の意向を示しており、遺族への賠償金等を8割負担している。


 11月25日。

 群馬県警は前橋地検に「業務上過失致死」で書類送検を行った。

・日本航空・12名(会社上層部や機長、整備責任者等)

・運輸省(現・国土交通省)・4名

・ボーイング社 作業員2名(但し当人所在名称一切不明)


 1989年元旦。 

日本航空は昨年完全民営化を果たし、機体を新カラーにしてフレッシュさと清潔感を出して、日航ジャンボ機墜落事故のイメージを払拭しようと努力がなされていた。 

5月29日。新塗装に彩られた「JAL」ジャンボ機がお披露目された。 

だが、一方で123便の墜落原因になった一九七八年の大阪しりもち事故を起こした機長が心情的に参ってしまい、責任を感じてひっそりと自殺している。


 ■日本航空123便墜落事故裁判


 11月18日

 群馬県・前橋地検前で、日航機123便墜落事故過失判決。

「不起訴」

 これを見た多くの遺族が落胆した。

 周囲に沢山のカメラのフラッシュと遺族の悲痛な声が響いた。

 不起訴の理由は「証拠不十分」だった。

「事故の経緯と、状況を見る限り、起訴された日本航空社員、運輸省は過失があったとは認められない。已む無い事故であった。」

 というのが判決だった。

 まず、圧力隔壁の修理後から事故までの点検だが、点検項目には無かった。

 そして、修理後の立会いは「外観的」には問題は無かった。

 更にボーイング社社員(不詳)は、過失はあるが事故から7年前の行為で、過失致死の時効は5年目の事故2年前に切れており、起訴は出来なかった。

 だが、大勢がこの判決に納得がいかず、再審にかけられることになった。

 翌年の1990年8月12日午前零時。

 再審も空しく過失致死の時効が成立した。

 この年、2割のビジネス客が会社指定で日本航空をやめて、他交通手段(新幹線など)を利用するようになったという。

 一方で、ライバルの全日空、日本エアシステムも減収し、航空会社自由化後は国際線の採算路線だけが唯一の支えになっていった。


 ■事故機同型機のその後


 1988年4月。

 事故機と同型で生産時期も近いボーイング747SR46型が2機退役した。

 1973年に導入された初号機JA8117号と二番機JA8118号。

 この機体は747型機の中で最も頑丈に作られている為、引退後は貨物機として使いたいという交渉があった。

 だが、この最初に引退した二機は特殊な運命を遂げる。

 初号機JA8117号は本当に問題が無いのか実際に使って確認する意味も含め、アメリカのNASA(連邦航空宇宙局)に引き取られ、スペースシャトル運搬機に改造された。

 スペースシャトル運搬機とは、宇宙からの着陸能力はあるが、自力で離陸出来ないスペースシャトルの為に、ジャンボ機の背中に特製の超大型リフトを使って乗せて運搬する機体である。

 こちらはNASA採用から23年経過した2012年、スペースシャトル廃止に伴い同時に勇退した。

 2番機のJA8118号機はボーイング社が買い取り、エバレット工場敷地内の実験場に送られ、徹底的に経年破壊試験に供された。 

 これまで、人的要因でしか墜落したことの無かったジャンボ機。

 747の型の中で最も頑丈と言われるSR型、しかも疑惑のJA8119号・123便の機体と同一機体なので、わざわざJA8118号を選んで破壊実験を行う意義は大いにあった。

 この実験後、機体の前部の胴体が最も大きい部分を輪切りにし、細切りにしたものが、イギリスの博物館に納められ、コクピット部ともう一つの輪切り部分が成田の航空科学博物館に納められた。

 なお、機体そのものは2013年現在もボーイングの工場にある。

 この実験結果は、1990年に登場する新型ジャンボ機・400型に生かされた。

 最新の電子装備が施され、外観上の変化は少ないが中身は大進化し、従来型を「クラッシック」400型は「ハイテクジャンボ」と呼ぶようになった。

 ここで問題の垂直尾翼だが、日航123便の教訓を生かし、圧力隔壁は外観上でも頑丈になったことが分かる程、徹底的に見直し設計が施されている。

 日本航空には1990年4月1日に初号機JA8071号が導入され、民間航空会社となってからの新デザインのカラーリングを纏い、「テクノ・ジャンボ」と呼んで、新世代の日本航空をアピールした。

 因みに日本航空は123便の事故以来、SR型に対し疑心暗鬼になり、早期に引退させたという説があるが、実は単に経年による引退である。

 現に、最初の機体二機が引退した後は、二階を大型にして乗客数をより増した300SR型「ストレッチ・アッパーデッキ」を導入している。

  

■日航ジャンボ機墜落事故が遺した生還劇


 1989年7月19日。 アメリカ・アイオワ州。

 ユナイテッド航空232便・ダグラスDC10型機が飛行中に第2エンジンのファンブレードの一部が経年劣化の亀裂により破断し、エンジンに吸い込まれ第二エンジンが爆発。

 構造上、尾翼下に配置されたエンジンだったので尾翼と油圧制御パイプが破断。操縦不能になった。

 この事態にパイロットは慌てたが、よく考えると、同じ事例があることを思い出した。

 日航ジャンボ機123便墜落事故の操縦不能になった経緯である。

 当時、アメリカのパイロット達は、この不可思議な日航機墜落事故に注目し、「私が高濱機長だったらどうするか?」といった研究が個人的に行われるのが流行っていた。

 だが、当機のアルフレッド・C・ヘインズ機長は、まさか自分がそういう事態に陥るとは想像もしていなかった。

 ここで異常を察知した男が乗客に居た。

 ユナイテッド航空の教官デニス・E・フィッチ。

 非番で乗機していたが、心配になり操縦室に行くと、絶望的なコクピットの光景に唖然となった。

 だが、デニスも日航機事故を個人的に研究していた一人で、皆で力を合わせて着陸させようと操縦に加わる。

 全くいう事を利かなくなったDC10機を操作する術はもはや、きめ細かなエンジン操作しかなくなったが、幸いにも偶然、スーゲートウェイ国際空港が直線上にあったので、そこに緊急着陸を試みた。

 異常事態を知った地元マスコミが決定的瞬間を撮影しようと空港に詰めかけ、232便が現れるのを固唾を飲んで待っていた。

 強引に着陸した232便はスピード制御が利かずに通常の速度の2倍で滑走路に着陸。

 その衝撃で胴体が真っ二つに破断され、火達磨になって着陸してしまい、滑走路に残骸をばら撒きながら転がった。

 乗客296人中、炎上した後部の111人が亡くなったがコクピットのクルーを含む185名が生還。

 日航ジャンボ機墜落事故の残したブラックボックスの公表データがなければ、誰も生還することは無かったかもしれない。

 因みにアメリカのNASAでは日航ジャンボ機事故のような飛行中の機体破損が発生しても普通に生還できる航空機を開発。近年完成したという。


■ヘリコプターの夜間救難活動の危険性


 1993年7月12日午後10時17分。

北海道渡島・檜山地方。

檜山地方沖にある奥尻島付近を震源にマグニチュード7・8の大地震が発生。

 この時、地震そのものの被害は少なかったが、大津波が発生し、

震源地に近い奥尻島青苗地区の集落が大津波に襲われた。

 当時、航空自衛隊で、世界初の全天候型を謳う救難ヘリ・三菱シコルスキーUH60J型「レスキュー・ホーク」が採用されたばかりだったが装備されているのは赤外線暗視装置で、人や船など熱源のある物体を大まかに確認出来るようにはなったが、ハッキリと山の稜線や高圧電線等の障害物まで確認出来る訳ではなく、陸上での夜間救難活動はまだ困難であった。

 だが当時奥尻島には、常駐警官が一人しか居なかった上に、消防車も殆どが津波で破壊され、急を要した。

 そこで、警官はパトカーで高台に登り、本土の江差警察署に無線で必死に救難隊の応援を要請した。

 北海道警察本部は何とかしようと、札幌市・丘珠空港の北海道警察航空隊より夜間飛行が出来ない富士ベルB204B型ヘリ「ぎんれい」(JA9095)で危険を承知で応援隊を乗せて奥尻島に出動させた。

 しかし、奥尻島は津波で破壊された街から立ち昇る炎以外は停電で見えず、奥尻空港に強硬着陸を試みるも、停電の上、地震で破壊されて何も見えず、結局断念。

 航空自衛隊・千歳基地からも前述した最新型UH60J型救難ヘリが出動したが、結局は赤外線カメラで火炎を遠目で確認することしか出来なかった。

 しかも唯一見えた市街地の火災区域は住宅に設置されたプロパンガスのボンベがミサイルのごとく飛び交い、低空で接近するには危険であった。

 ヘリに装備されたサーチライトも、一点しか照射できず、また日航ジャンボ機墜落事故当時と同然の辛酸をなめることになってしまったのであった。

 その後、陸上自衛隊はHU1H型汎用ヘリとOH6D型観測ヘリにナイトビジョンゴーグル対応のコクピットに改装を施したヘリで夜間山岳飛行訓練を実施したが、今度は視野が狭くなり空中でお互いのローターに接触し、墜落。パイロット・搭乗者全員が死亡するという事故を起こしてしまった。

 現在、陸上自衛隊・航空自衛隊・警察航空隊にて夜間山岳飛行訓練が続けられてはいるが、2011年の東日本大震災でも夜間救難飛行は困難で殆ど実施出来なかった。

 2015年の茨城県常総市の小貝川決壊で、陸上自衛隊のヘリ救難活動の映像を見ると、昼間でも住宅街は電線が邪魔をして活動は困難であることが判る。

 あの状況で夜に同じように活動出来るのか?と言われると出来ないと思う。


因みに今回取材した各救難隊員達は異口同音でハッキリ言った。

「もし、命令を聞かないで勝手にやれなんて言ったら、平気で暗闇の山中だろうが何だろうが行動を起こすだろう。しかし、無理して要救助者の上に墜落して、救う側も助けられる側も被災したら意味がない。その為に命令というものがある。」

 彼らは今日も、要救助者目指して、命がけの救難活動を繰り返している。


■助けられる側から助ける側へ


 1995年1月17日 午前5時46分。

 兵庫県神戸市。

 突然の大地震が兵庫県南部を襲った。

 絶対安全と言われ続けていた高速道路や新幹線路線が崩壊し、

神戸市を中心とする街並みのビルが音を立てて崩壊し始め、木造家屋が密集する地区で大火災が発生し、恐れられていた大都市の大地震がついに発生してしまった。

 国道は大渋滞が発生し、鉄道は寸断され、兵庫県南部は孤立した。

神戸市は防災ヘリを1978年から独自に配備しており、この震災で大活躍した。

以後、各都道府県が防災ヘリを急速に導入し始めるきっかけにもなった。


 そんな中、不眠不休で活躍する看護師の中に日航ジャンボ機墜落事故の生存者がいた。

 テレビで墜落現場から自衛隊ヘリで吊り上げられるシーンを生放送され、全国に感動を呼んだ中学一年の少女だった。 

 一緒に事故機に乗っていて亡くなった、看護師の母の後を追って看護師になったのだ。

 あの墜落事故で重傷を負った彼女は、厳しいリハビリを乗り越え元気になり、今後は亡くなった母のように困った人を助ける側になると誓い、頑張ったのだ。

 このニュースは全国の人々の感動を呼んだ。

 現在、彼女は趣味のマリンスポーツで知り合った男性と付き合い結婚し、幸せに暮らしている。


 ■生まれ変わりと云われて


 2006年8月12日。

 日航ジャンボ機墜落事故から21年が経過した。

 午前8時。藤岡市から1台のレンタカーが上野村を目指していた。

 事故機の客室乗務員・松原幸子の生まれ変わりと言われた吉川望美。

 幸子の妹の娘、あの事故の翌年に生まれた長女である。

 上野中学校グラウンドの臨時駐車場に車を止め、現場までの無料バスに乗ることにした。

「ここが、ママが来た学校なんだ‥‥‥。」

 横目で校舎を見ながら、坂道を百メートル程登ると、慰霊の園があった。

 報道陣の車や黒塗りのハイヤー、駐在所のパトカーが並び、本で見せてもらった慰霊の塔が見えた。

 慰霊の塔の前には白い大きなテントが張ってあり、事故発生時間一時間前から慰霊祭を行うという。

 慰霊の園は綺麗な砂利が一面に敷き詰めてあり、雑草もなく、とても事故から二十一年経過したとは思えない程、綺麗に管理されていた。

 入り口近くに二階建ての木造の管理事務所があり、そこに喪服を着た人が数人いた。

 受付だろうか?

 とりあえず、これからどうすればいいか分からなくなり、喪服姿の人に聞いてみた。

「あの‥‥‥すみません‥‥‥御巣鷹の尾根に、松原幸子のお参りをしたいのですが、どうすればいいでしょうか?」

 その人は日本航空の世話役だった。

 世話役は、望美を事務所に案内して、管理人に墓標を確認してもらう。

 数字とローマ字で表示してある。

 警察が遺体回収の際に作ったリストが使われているという。

 地図を見せて貰ったが、いまいちピンと来ない。

「登山道の途中に、地図が入った箱があるから、その地図貰って登ればいいや。あとね、日航さんが、御巣鷹のあちこちにいるから、分からなかったら案内して貰いなさい。」

 バスが来た。花束を大事に持って、乗り込んだ。

 あの事故から暫く経った近年、墜落現場の地下五百メートルに東京電力が世界最大の水力発電所を作り、その為に整備された道だという。

 しかし、トンネルを抜けてからは舗装はされているが、道は狭くなり、所々崩れたり、大きな落石があった跡があちこちに見えた。

 両側が、うっそうとした林に囲まれている。

「こんな山奥だったんだ‥‥‥この深い山をパパが事故現場求めて彷徨ったんだ。」

 慰霊の園事務所の話では、二年前の二○○四年まで登山道入り口から現場まで歩いて一時間近くかかった。

 上野村の街から車で登山口まで二十キロ、さらに徒歩一時間。大変な所に墜落したものだと思った。

 吉川家が昨年登山した際に登った、今の短い登山口に通じる車道は本来、沢の土砂災害防止ダムを作る為に作られたもので、ダム完成後は閉鎖する予定だったという。 しかし遺族も高齢化し大変なので、二○○六年に工事用ルートを改めて完全に整備して旧登山道を閉鎖し、徒歩二十分で行ける様にした。


挿絵(By みてみん)


 登山道入り口には報道陣が集まっていた。

 すると、杖が沢山置いてあった。

 あの、墜落遺体検屍で修羅場と化した藤岡市のボランティアが杖を手作りして市立美九里小学校の生徒達が心を込めたメッセージを杖に書いたそうだ。

 あの地獄のような話しか聞いていない御巣鷹の尾根。

 でも、周囲の皆の優しさに包まれた雰囲気は、和みさえ覚えた。

 これが、本当にあの戦慄の現場だったのだろうか。

 登山道の斜面がきつい。普段、山なんか登ったことが無いから足の筋肉がひきつる。

 でも、高齢の男性がスタスタと登っていく。

杖をついた老人をかばって登る家族連れに、子供を背負って登る父親。

 下りから来る人は、誰もが必ず「こんにちは」と挨拶してくれる。

 すると、急に道がV字になった。

 V字を曲がるとプレハブの山小屋があった。警察が建てた小屋だ。

「ご苦労様で〜す。」と、小屋の前で明るく飲み物を配る人達がいた。

 日航の世話役の方だった。

 世話役の方に叔母の墓標の位置を聞いた。

 すると、上に「昇魂の碑」というのがある広場があり、さらにその上だという。

 キツい坂を登ると、周囲の斜面に木の柱が沢山並んでいて、人々

が花と線香をあげて拝んでいた。

 警察や自衛隊がその方の遺体を発見した場所に建てた各々の墓標だった。

 墓標は木で出来ていたが、中には立派な墓石のもあった。

 よくみると、玩具やぬいぐるみがお供えしてある墓標が沢山ある。

 大勢の子供達の墓標が点在する。

 広場に出た。人が大勢集まっていた。

 ここは、自衛隊が作ったヘリポートだった場所だ。


挿絵(By みてみん)


 するとホラ貝の音色が響き渡った。

 見ると、「昇魂の碑」と書かれた碑の前で、お坊さんがホラ貝を吹いていた。

 お坊さんは、碑の前にしゃがみ、力強くお経を唱え始めた。

 広場の人達が、お経に合わせて合掌し、黙祷し始めた。

 望美も合掌する。

 お経が終わると、お坊さんは広場のベンチに置いてあったバックパックを背負い、山を降っていった。

 バックパックにはラミネートされた紙が貼ってあった。

「羽田空港より群馬県御巣鷹の尾根へ供養行脚」と書いてあった。

 この人は、皆川良誠さんと言って一九八九年から二週間に一度、欠かさず上野村に供養に訪れ、毎年事故があった日に羽田空港から御巣鷹の尾根まで歩いて供養している。

 山にアコーディオンの音色と合唱が響いてきた。

 群馬県前橋市のボランティアで、毎年この山で演奏をしている。


挿絵(By みてみん)


 泣いている人は誰もいなかった。

 ここに訪れる人達は、誰もが優しい顔をしていた。

 さらに上に上がると、小屋があった。これも警察が建てていったものだそうだ。

建築当時は木の骨組みにブルーシートを張ったものだったが後に日航社員と上野村により補強されている。

 まだ墓標すら無かった頃に、遺族や周囲の村人があげていったお供えをこの小屋に集めたそうだ。

 小屋の中には写真がいっぱい貼ってあった。

 どれも古いカラー写真で、日付は事故前の物ばかりで、亡くなった方々の生前のスナップ写真だった。

 中には愛車との記念写真や、結婚式の写真や写真つき年賀状が貼ってあった。

 この中に、ママと叔母の写真があると聞いたので探してみたら、あった。

 写真のママと叔母はとても若かった。丁度、今の望美位の年頃だった。

 そのさらに上には、焼け爛れた太い木があった。

 よく見ると、折れて焼けた木の幹が沢山あった。

 木の周りで年配の方が話をしていた。

「よくまあ、二十一年も腐らずに残ってるもんだねえ。」

「あ〜、木はね、炭になると腐らねぇで、いつまでも残ってるもんだがね。」

 他にも、半分焼け爛れた白樺の木が今でも元気に育っていた。傷跡が痛々しいが、生命力の強さを感じる。


挿絵(By みてみん)


 頂上付近に「バツ岩」と呼ばれる、機体のコクピットがぶつかって破壊した大きな岩があると聞いていたが、そこに大きな岩があり、スプレーでX印がつけられていた。

 このバツ岩を行くと、叔母が乗務していた二階席の飛び散った場所=叔母の墓標があるところだった。


挿絵(By みてみん)


 墓標があった。

 墓標には「故・松原幸子」と書かれていた。

 本当にあったのでショックだった。まるで自分の墓を見た気分だった。

 叔母のことなど、この歳まで気に留めたことすら無かったのに、実際に亡くなった場所を見つけみると、立ちすくんでしまった。

 すると、望美は墓標の前にへたりこんで、涙が出始めた。胸の奥が熱くなり、涙が止らなかった。

 望美さんに心から悲しさと悔しさが溢れ出た。

「松原‥‥‥さん?」

 後ろから急に話しかけられ、ビクっとした望美が振り向くと、中年の女性が立っていた。

「あ‥‥‥脅かしてごめんなさい‥‥‥後ろ姿が松原さんに似ていたので、つい親族様かと思って‥‥‥。」

 望美は、この中年女性の胸元に思わず顔をうずめ、泣いた。

 中年女性は望美の頭を撫でて、優しく話しかけた。

「‥‥‥泣きなさい。泣いてあげなさい‥‥‥。」

 望美が落ち着くと、その中年女性と一緒に広場のベンチに座って休むことにした。

 望美が話した。

「‥‥‥すみません、いきなり泣きついてしまって‥‥‥。」

「え?あ、別にいいのよ。泣きたいときは泣くのが一番よ。」

「‥‥‥ところで‥‥‥あの‥‥‥。」

「あ、私?松原さんの同期の佐藤絢香と申します。」

「同期?叔母の?」

「叔母?あ、おばさんに当たるんだ。」

 絢香はあの事故以来、幸子の墓標を毎年、世話していた。

「私、叔母が亡くなった後に、叔母の妹に当たる母から生まれたんです。」

「いや〜‥‥‥ごめんね、泣いてる最中に話しかけちゃって。あまりにも幸子に似ていたものだから‥‥‥。」

「そんなに似てますか?」

「ええ、なんか幸子と話してるみたい。あなたのように美しい方だ

ったのよ。声や話し方、しぐさまで似てるわ。」

「‥‥‥佐藤さんも、客室乗務員だったんですか?」

「ええ、今はもう結婚してだいぶ前に辞めたけどね。今日はひとり?」

 望美は静かに頷いた。

 絢香は一呼吸置いて話した。

「あの時はホント、辛かったよねぇ。あの時を思い出すと、今も泣けてくるわ。」

 絢香が空を見上げると沢山のしゃぼん玉が飛んでいた。

 すると、広場でアコーディオンの伴奏に合わせて子供達が「しゃぼん玉」の歌を歌い始めた。

 子供達が作ったシャボン玉は、御巣鷹の尾根一杯に散らばり、蒼く、どこまでも突き抜けるような夏の空にキラキラ輝きながら消えていく。

 望美さんがシャボン玉を見つめながら話した。

「ここって‥‥‥何か不思議と心が落ち着きますね。」

 絢香は答えた。

「そうね‥‥‥あの事故に関わった皆さんが、心を込めて御巣鷹の尾根を守り続けているおかげかもねぇ‥‥‥。」

 望美が聞いてみた。

「あの、幸子おばさんって、どんな人だったんですか?」

 綾香は、自分が知る限りの幸子の話を語り始めた。



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