第一章 日本航空ジャンボ機123便墜落事故
■事故当時の話を求めて
2006年8月11日
日本航空・福岡発羽田行の機内。
「ふ〜ん‥‥‥今の制服って変わったんだね。」
彼女は古いインスタント写真を手に機内のキャビン・アテンダント(客室乗務員)の制服と比較した。
彼女の名は吉川望美(二十歳・仮名)大学二年生。
帝京大学に入学し、母の実家がある熊本へ帰省からの帰りであった。
彼女の母は、元・全日本空輸の客室乗務員・吉川明実(仮名・五十歳)。
松原幸子(仮名・ご遺族様提供)
そして、母の姉は元・日本航空の客室乗務員・松原幸子(仮名)である。
姉妹で当時でいう「スチュワーデス」、しかもお互いライバルだった。
望美の叔母にあたる幸子さんは、もうこの世にいない。
二十一年前の夏。叔母は亡くなった。享年三十歳。
望美が生まれた前年の1985年8月12日。
この日はとても蒸し暑い日だったという。
幸子が乗務していたボーイング747・SR46型機。
機番登録番号JA8119号。
東京発大阪行き123便。
幸子はこの便に乗って群馬県の山中深くに散った五二〇名の犠牲者の一人であった。
墜落推定時刻 午後6時56分。
民家も道路も無い人里遠く離れた夕暮れの山中、誰にも看取ら
なかった死だった。
望美は翌年の1986年6月生まれ。
つまり、事故の起こった1985年8月に懐妊したことになる。
彼女は親族から「幸子の生まれ変わり」と喜ばれた。
だが、彼女はそう云われる度に聞き流していた。
生まれる前に亡くなった叔母に会ったことも無ければ、事故自体、実際に立ち会った訳でも無かったからだ。
その為、特に叔母や事故に興味は無かった。
実感が沸かなかったのは他にも理由があった。
毎年恒例の慰霊登山と慰霊祭に親族は参加していなかった。
吉川一家は事故後、海外に移住したのもあった。
そして、2004年に帰国し、翌年の慰霊登山に望美の父母と妹二人が二十年ぶりに参加した。
この時の話を進学で一緒に居らず、慰霊登山に参加しなかった望美さんが、翌年の帰省でこの話を聞き、自分も行ってみたくなったのであった。
母・明実さんは、娘に対して事故の経緯説明を慰霊登山で知り合った日航機事故に詳しい人に依頼した。それが作者の私であった。
私は、日航機事故の研究で幾度か山を訪れており、その際に知り合ったのである。
明実さんより電話で「会わせたい人がいる」という依頼を受け、
二つ返事で承諾し、新宿のスバル・ビル一階で彼女と待ち合わせをしたが、私は相手の詳細を全く聞いていなかった。
すると、二十歳代前半の女性だったので驚いた。
彼女こそが、幸子さんの生まれ変わりと言われた望美さんだった。
確かに、以前見せて頂いた幸子さんの若い頃の写真に似ていた。
彼女は、まさに幸子さんを現代風にした感じだった。
彼女と、とりあえず喫茶店に入り、彼女が知りたがっていた日航機事故の詳細を、資料を交えて淡々と事故の経緯を説明してあげた。
望美さんの表情は、先ほどの可愛らしい笑顔は消え、真面目に頷きながら聞き入っていた。
その後、彼女はレンタカーで単身群馬県上野村に向かった。
これから記述する話は、望美さんの父母の証言を中心に、私が十年かけて取材した事故に関わった人々の記録を交えて語っていく。
なお、ご本人様のご希望上、一部を除き仮名であることをご了承願いたい。
■事故当日の朝
1985年8月12日午前7時。千葉県千葉市。
幸子は、いつものように夫・定雄(仮名・当時三十一歳)の朝食の準備を済ませてから出勤した。
外には個人タクシーが待機している。
幸子が通勤用に契約した顔見知りだ。
「バタン」という玄関の扉の音で定雄は起きる。
ダブルベッドの横には幸子のぬくもりだけが残り、目玉焼きの匂いがする。
「朝か。うお〜おぉぉぉ!」
定雄もようやく起き始め、眠気まなこで幸子の用意した朝食を食べる。
朝食後、タバコを一服しながらTVを付け、日本テレビのズームイン朝を見ながら新聞を読むのが日課だ。
歯磨きをし、顔を洗い、髪の毛の寝癖を取って、ビジネススーツに着替えながらTVを見る。
「うおっ!やばいっ!もう時間だ!」
定雄は慌ててバッグを持ち、駅へ走っていった。
いつもと変わらない、朝の松原家の一日が始まった。
定雄と幸子は十二年前の1973年、地元・九州の大学で出会い、付き合い始めた。
卒業後、幸子は日本航空に入社し、定雄は、彼女を追って東京周辺に就職した。
幸子は十五年前の1970年に放映されたTVドラマ「アテンション・プリーズ」(TBS系)に憧れて、日本航空に就職した。
この当時はアシスタント・パーサー(スチュワーデスから3年
の昇格役職名)であった。
だが、結婚しているとはいえ、お互い顔を合わせる機会は仕事上、週に二、三回だった。
その為、定雄もなかなか「子供が欲しい」と言い出す機会が無かった。
羽田に到着した幸子はタクシー運転手に、おにぎりを渡した。
「はい、今日の朝ごはん。」
「いつも悪いね、幸子ちゃん。それじゃ行ってらっしゃい。」
タクシー運転手は、白髪の老齢で、幸子さんを永らく担当していた。
いつも明るく優しい幸子の事を、自分の娘のように慕っていた。
ターミナル内を、お盆休みの乗客で混雑する中をすり抜けながら、日航ブリーフィングルームに向かう。
すると、子供達に声をかけられた。
「一緒に写真お願いしま〜す。」
子供達からカメラで撮影をお願いされる。
幸子は笑顔で一緒の撮影に応じた。
ここのところテレビドラマのせいか、記念撮影をお願いされる回数が多くなった。当時は、昨年の1984年に「スチュワーデス物語」(TBS系)が放映されたばかりで、乗客からも人気が高かった。
■離陸
午後五時十二分。
夏の陽の熱射で蜃気楼漂う羽田空港の滑走路に福岡発東京行きの日航ジャンボ機が着陸した。
そのジャンボ機はレジスト(登録番号)JA8119号機。
機体の横には当時の他の日航機と共に、当時、オフィシャルだった茨城県つくば市で開催された科学万博つくば‘85のマーキングを左側面のライン下に描いていた。
乗客の中には、この科学万博目当ての乗客も多数いた。
ターミナルは一杯だったので、空港敷地内の十八番スポットに駐機する旨指示された。
これを「沖止め」といい、バスで乗客をターミナルに送迎する。
乗客が降りたあと、乗員が降り、入れ替わるように清掃が機内に入る。
大きな主翼の下にはタンクローリーが駐車し、「JET・A/1」と呼ばれるジェット燃料が注入される。灯油に近い成分だが空を飛ぶ為、不純物は一切許されない、極めて純度の高い燃料だ。
国内線は、飛行時間は1時間程度だが、余裕を見て3時間分が搭載される。
日本航空デスパッチ(運行管理部)で次にJA8119号機を操縦するパイロットがデスパチャー(運行管理者)に次の行き先の飛行ルートと天候等が告げられる。
行き先は伊丹(大阪)123便、行き先の天候は快晴。
出発予定時刻18時〇〇分。
機長・高濱雅己機長(四九歳)
副操縦士・佐々木裕副操縦士(三十九歳)
機関士・福田博機関士(四十六歳)
同型機コクピット(JA8118 成田航空科学博物館)
今回の便は副操縦士が左側の機長席に座る。747型機長昇格の最終試験である。
副操縦士は既に昨年6月に747型機操縦資格を取得しているが、今回の試験は社内での昇格試験であり、車で言う仮免許とかではなく、立派な有資格者である。
因みに、航空機操縦士免許は多種に分かれており、小型機以上の大型機は機種によって免許が異なる。
佐々木副操縦士は当時の日本航空の主力機・ダグラスDC8型で機長の資格を所有しており、DC8型に関してはベテランである。
同じ頃、ブリーフィング(打合せ)ルームで、パーサーを中心に客室乗務員がボーイング747型の透視図看板を前に打合せを行う。
各人の受け持つ部所が告げられ、機内サービス等の順序、非常時の対処等が改めて確認される。
幸子は前の福岡発の便から引き続き二階席を担当した。
ミーティング終了後、パイロットと合流し、これから乗る便の説明を行い、乗務機に向かう。
午後5時30分頃。
パイロット達は三人で手分けをし、機体の外部点検を行う。その後、コクピットに上がり着座し、三人が各々持ち場に応じたプリフライト・チェック(離陸前点検)を行い、最後にフライトプラン(飛行計画)がINS(慣性航法装置)にインプットされる。
その上で最終的にチェックリストによる再確認が行われ準備完了。
エアポート・リムジンバスがやってきた。
本日の旅客人数 497名・幼児12名 計509名。
乗員・15名 計 524名。
ドアが閉鎖され、乗客全員搭乗の連絡を受けて、トーイング(牽引車、以下トーイング)の準備完了。
客室にシートベルトサインと禁煙サインが光った。
午後6時4分
トーイングが機体を18番スポットから押し出し始める。
車輪が動き始めた。
この時刻が出発時間とみなされる。
因みに十五分以上遅れると「遅れ」の対象になる為、123便は「定刻どおり出発」とみなされた。
移動の合間にスチュワーデス達は各持ち場の、乗客のシートベルトの着用を確認し、付け方が分からない乗客に親切に対応していく。
トーイングが連結を離し退避する。
その後、AGS(エア・グランド・サービス:地上クルー)が客席窓に向けて整列し見送る。
「スタートNo.3。」
副操縦士がコクピット天井のエンジン点火スイッチを入れると、3番エンジンから始動が始まる。
4発のエンジンが順番に点火を始めた。
エンジン音が安定し、4つの回転計の針がアイドリング位置になった。
コクピット中心のパワーレバーをゆっくり後ろに下げ、パーキング・ブレーキを解除する。
ゆっくりと機体が自走しはじめ、タキシング(滑走路までの移動)を開始する。
金属音が徐々にかん高い音になり、周囲に響き渡る。
タキシングの間に客室乗務員は、救命胴衣を着用し、酸素マスクを手に、スクリーンの映像と一緒に救命胴衣・酸素マスクの説明を行い始める。
午後6時11分
客室のスクリーンやTVの画像が救命胴衣等の説明が終わり、機体下部カメラによる滑走路の画像に切り替わる。
同時に子供達の歓声が聞こえる。
乗務員は一斉に座席に座り離陸に備える。
その一方で、乗客と対面になっている乗務員席から客席の異常の有無を確認する。
高濱機長が客室に挨拶の放送をかけた。
佐々木副操縦士が管制塔から離陸許可を貰う。
・羽田管制塔
Japan Air 123 Cleared For Take O
ff Run Way 15L”
《羽田コントロールよりJAL123便、C滑走路15Lにて離陸を許可する。》
・123便
Japan Air 123 Roger.Clear Take
Off.
《JAL123、了解》
高濱機長が副操縦士に離陸許可を貰った旨を確認。
エンジンの出力を徐々に出してエンジン回転計が60パーセント付近になったところで一旦止め、全エンジンの計器が安定している事をクルー三人全員が確認。
問題が無ければ離陸推力ボタンを押し離陸開始。
自動でエンジンの出力が上がり、ゆっくりと滑走をはじめ、徐々
にスピードが離陸速度まで加速されていく。
機関士が速度計を読み上げ、副機長が呼応する。
「V1!」(緊急停止可能速度)
滑走路先端の向こうの東京湾岸が見えてきた。
「VR!」(離陸可能速度)
副操縦士が操縦桿を引き、離陸した。
離陸と同時に揺れがピタリと収まり、フワリとした感触を得る。
客室のスクリーンは、ねずみ色の着陸痕が多数残る滑走路の先端からオレンジ色に染まった東京湾の海面を映し出す。
同時に車輪が格納された。
ふと、窓の外を見ると、薄曇りの雲の隙間から漏れた夕日が紅く東京の街並みを染めていた。
同型機(成田航空科学博物館)
日に染まったコクピットで三人のクルーは徐々に巡航高度まで
機体を引っ張っていく。
JA8119号は、白い機体を紅くキラキラと輝かせながら、地上の視界から遠ざかっていった。
■異常事態発生
午後6時18分 伊豆大島付近上空。
羽田空港管制塔から、埼玉県所沢市にある東京航空交通管制部(東京ACC・エア・コントロール・センター)に管制が引き継がれた。
・東京ACC
Japan Air 123 Clear Direct Seap
arch.
《JL123、現在位置よりシーパーチ(非義務位置通報点)に直行する事を許可する》
・123便
Roger. Clear Direct. Seaparch.
《了解、これよりシーパーチに直行する。》
水平飛行が始まると、シートベルトサイン・禁煙サインが消灯し、機内の緊張感がほぐれる。
ここで、客室乗務員達は立ち上がり、機内サービスを開始する。
午後6時24分。
神奈川県相模湾上空。巡航高度2万4千フィート(約7千メートル)ボイスレコーダーはこの時間から録音されていた。
注)今回この小説に収録したボイスレコーダー及び交信記録は全てではない。
必要な部分をピックアップしたもので沈黙等や事故機と関係ない交信は削除している。
今回は何度もボイスレコーダーを聞き直し、元ANA・先任機長の安藤肇氏に質問、内容によって7名の同僚パイロット同士で質問を吟味した部分もある。
その為、これまでの訳とは違う部分もある。(プロのパイロットの解釈で、最も現実に近いと思われる訳)
因みに当時は、音声解析は機械的には行われておらず、必ずしも文訳は絶対に正確という訳ではないそうだ。(調査当時は外部非公開で、専門組織に渡すことが出来なかった為)
・客室乗務員(松原幸子?)
「‥‥‥したいとおっしゃる方がおられるのですが〜、宜しいでしょうかぁ?」
・副操縦士
「気をつけて!」
・機関士
「じゃぁ、気をつけてお願いします。」
・客室乗務員
「ハイありがとうございまぁす。」
客室乗務員の最初の言葉は録音されていないので不明であるが、言葉の内容から「乗客からのコクピット見学要請の可能性」があるという。
当時の日航はお願いすれば飛行中のコクピット見学が出来たそうだ。
客室乗務員達が今度は子供達に10cm程の特注ミッキーマウスのぬいぐるみを配り始めた。
日本航空は東京ディズニーランドと業務提携をしていた関係で、ミッキーマウスは日航のキャラクターでもあった。
ぬいぐるみを手に女の子達は喜んだ。
男の子には、日航商事が贈答用に作った1/300スケールのジャンボ機のプラモデルが配られた。
子供達にとって、飛行機に乗った証になる大切な戦利品である。
当時の配布用模型(作者保有)
その時、機内に大きな爆発音が響いたのが録音されていた。
「ドパァン!」
「ビッビッビッビッ・・・・・・・」(客室内気圧低警報)
(1秒後停止)
その時、機内は一瞬にして真っ白な霧に包まれた。
いきなり気圧が変わると空気中の水分が凝固する為だ。
なお、証言によると、この霧はすぐ晴れたという。
客室乗務員達は直ちに乗客に酸素マスク・シートベルトの着用を勧めた。
そして、録音のプリレコーデットアナウンス(緊急時自動放送)が客室に流れ始めた。
『酸素マスクをつけてください。ベルトをしめてください。煙草はお吸いにならないでください。只今緊急降下中です。
Fasten Your Seatbelt. Put Out
Your Cigarettes.This Is An Emar
gency Discend.』
この時、機長は車輪が何らかの故障で飛び出し、その衝撃音と思ったと推測される。
・機長
「佐々木ぃ!」
「何か爆発したぞ!」
「スコーク七十七!」(スクォーク7700・緊急事態信号)
「ギア!(車輪)ギア見てギア!」
・機関士
「えっ?」
・機長
「ギア見て、ギアっ!」
だがこの時、想像を絶する前代未聞の事態が発生していた。
垂直尾翼が吹き飛んだのである。
ジャンボ機は不測の事態に備え、各操舵系を4系統のハイドロ制御(油圧による制御)に分けていたが、配管末端が尾翼破損で4系統全てのライン全てが破壊されていた。
これにより、各操舵系のハイドロ制御油が破損箇所から徐々に抜け始め、ハイドロ制御だけで操作されている操縦系統が全て失われた。
同時刻、埼玉県所沢市。東京ACC。
薄暗い管制室にはズラリと航空監視レーダーが十五台並び、各エリアを管制していたが、そのうちの「T-08関東南A」レーダーより小さく「プー」という警報音が鳴る。同時にレーダー画面には、「JL123」と日本航空123便を
示すブリップ(照点)の下に小さく「EMG」の文字が光った。
EMGは「エマージェンシー」の略で緊急信号の事である。
管制室は他の管制の邪魔をしないよう、そっと静かに直ちに日本航空123便への対応をとる体制にかかる。
当時の東京ACC(所沢航空発祥記念館)
・機長
「エンジン?」
・副操縦士
「スコーク七十七!」
・機関士
「ボディギア!」(胴体側車輪)
・副操縦士
「クロスチェック御願いします!」(同じ測定をしている計器を見比べる)
・機関士
「ボディギア!」
この時、車輪格納庫扉の開を示すランプが点滅したと推定されている。
爆発の振動で格納されている車輪が動き、警報ランプが点灯する事も考えられるという。
福田機関士は、それを見て再度確認する。
・機関士
「ギア・ファイブオフ(車輪五箇所共出ていない。)」
午後6時25分
この時、機関士は、少しずつ低下してゆく油圧メーターが気になっていた。
しかし、一系統ならともかく、四系統全てが同時に下がっていくのを見て不可思議に感じていた。
その一方で、首都防空監視を勤める航空自衛隊・峰岡山第四四警戒隊レーダー(千葉県)も緊急信号を受理。監視が始まった。
高濱機長は、羽田空港に戻ることを選択し、佐々木副機長に右旋回を指示し、東京ACCへ許可を申請した。
・機長
あ〜、
Tokyo JapanAir123, Request
immediate
え〜、
truble Return back to Haneda, Desend and maintain 220, Over.
《東京管制塔、JAL123便、直ちに羽田に帰る事を要求する。
220(2万2千フィート・約六千メートル)へ降下し、維持することを要求する。どうぞ。》
・東京ACC
Roger,Approved As You Request,
《了解。要求どおり承認します。》
・機長
Rader Vecter To Oshima Please,
《(伊豆)大島へレーダー誘導願います。》
・東京ACC
Roger, You want right or left turn?
《了解しました。右旋回ですか?左旋回ですか?》
・機長
Going to Right Turn,Over,
《右旋回(内陸回り)で。》
・東京ACC
Right,Right Heading090 Radar V
ecter To Oshima,
《了解、(伊豆)大島へレーダー誘導するので、右、磁石方位090(九十度)で飛行してください。》
・機長
090,
《090了解。》
この直後、機体は角度を強めて右旋回を始めた。
客席内は右に傾く中で悲鳴が上がり、床にドリンクサービスの紙コップが転がり落ちる。
機長は操縦桿を握る副操縦士を睨んだ。
・機長
「おい、バンク(角度)そんなとるなよ、そんなに!」
・副操縦士
「はい。」
だが、なお角度が増す。
・機長
「バンクそんな取んなって云ってんだよ!この馬鹿ッ!」
「(角度)何度あんの!」
機長はこの時、副操縦士が焦って操作が乱雑になったと判断した。
緊急時に急な操作は乗客の不安を煽るだけだからだ。
だが、副操縦士の操縦が荒かった訳では無かった。
操縦桿を幾ら右へ傾けても反応が無かったので強く傾けたからだった。
この直後、機長も副操縦士も機関士の報告に唖然とする。
・機関士
「ハイドロ・プレッシャー(油圧)が落っこちてます、ハイドロが。」
制御油圧メーターの針が全てゼロを指している。
つまり、それは機体の飛行制御を全て失ったことを意味した。
誰もそんなこと信じたくなかった。
4系統あるハイドロがいっぺんに機能を失うなど有り得ないからだ。
747型日航仕様の油圧計
機長はおもむろに佐々木副操縦士に話しかける。
・機長
「今、マニュアル(手動操縦)だからな、マニュアル。」
・副操縦士
「はい。」
・機長
「(角度)戻せっ!」
・副操縦士
「戻らない。」
・機長
「ハイドロ全部だめ?」
・副操縦士
「はい。」
旅客機の操縦桿の動きは、操縦桿に繋がるケーブルが直接動翼を動かすのではなく、ハイドロ油圧を制御する機器に繋がっている。
この機器と動翼はプッシュ・ロッド(操縦棒)で繋がり操縦桿からの動きは油圧を介して操縦棒を動かし動翼に伝えられている。
ハイドロ式では本来、軽い力で操作出来るのだが、あまりにも軽いと操縦感覚が掴み難くなる為、わざとスプリングを入れて操縦感覚を重くしてある。
日航123便の、この時の状態を説明しよう。
まず、飛行機は主翼にあるエルロン(補助翼)を操作しながら垂直尾翼のラダー(方向舵)をペダルで同時に操作することにより左右に旋回し、水平尾翼にあるスタビライザー(水平安定板)とエレベーター(上下操作翼)で機体の前後の安定をさせる。
ここでハイドロ制御油が抜けると前述したものが全てその位置で固着する。
すると、前後左右の安定を取ることが出来なくなるので、ゆっくりと前後左右にふらつきながら飛行してしまうことになる。
さらに、垂直尾翼が消し飛び方向舵が無くなり、主翼の補助翼も利かなければ、左右の旋回も出来なくなる。
つまり、事故機の現状ではエンジン制御のみで、多少制御が利いている程度で自由度が殆ど無い状態なのである。
しかし、垂直尾翼が無くなった事実は機内からは確認できない。
そして全てのハイドロ圧が無くなってもスプリング圧がある為に、重さのある操縦桿は何も連動させる事は出来ない状態であっても感触はさほど変わらず、パイロットは事態を飲み込めないまま、空を彷徨うことになった。
機内の霧はすぐ消えたのは、機内与圧隔壁破損部からの漏れ出した空気よりも、エンジン動力で動作している与圧コンプレッサーから送られてくる空気の方が、はるかに多い為である。
その為、酸欠症状にもならず室温も維持された。
幸子をはじめ、客室乗務員達は携帯酸素ボトル片手に乗客を見回り、酸素マスクがきちんと装着されているか、動作しているか確認した。
東京ACCのレーダーは、なかなか転進する様子が見えない、123便を心配していた。
・東京ACC
Japan Air 123
Confirm You Are Declate Emargency That`s Right?
《JAL123便、確認致します。緊急事態を宣言致しますか?》
・機長
That`s Affirmative.
《はい、その通りです。》
・東京ACC
123 Roger And Request Your Nat
ure Of Emargency.
《123便、了解。どのような緊急事態ですか?》
・日本航空123便
「・・・・・・・。(応答なし)」
午後6時28分
・東京ACC
Japan Air 123
Fly Heading 090
Radar Vector To Oshima.
《日本航空123便、どうしました?(伊豆)大島へレーダー誘導します。090で飛行願います。》
・機長
But! Now Uncontrol!
《しかし、現在操縦不能!》
・東京ACC
Uncontrol Roger Understand.
《操縦不能了解しました。》
この後、地上との交信が時々途絶るようになる。
パイロット達がいう事を聞かなくなった123便を操作するので手一杯だからだ。
コクピット内は絶えず鳴り響く室内室圧警報と頻繁に「プーッ」
と鳴る高度警報音がパイロットの焦りと苛つきを増幅させる。
・機長
「ライトターン!ディセント!(左旋回・降下)」
・副操縦士
「はい!」
・機長
「気合を入れろ!」
・機長
「ストール(失速)するぞホントにっ!」
・副操縦士
「はい、気をつけてやります!」
・機長
「ハイじゃないがっ!」
午後6時30分 静岡県焼津市上空
全く指定位置に向く気配のない123便を見た東京ACCでは、このまま直進し続けて最も近い空港、名古屋空港への着陸が最善では?との提案が浮かんだ。
・東京ACC
Your position
72 Miles to Nagoya,
Can you land to Nagoya?
《現在貴機は名古屋空港から72マイルの位置です。(約115キロ)名古屋に着陸しますか?》
・機長
あ~、Negative!
Request Back To
Haneda.
《あ〜、違います。羽田に帰ることを要求する。》
・東京ACC
All Right.
《了解。》
羽田を選択したのは、目的地と違う場所に降ろすと、乗客を、他手段を用いてでも目的地まで行く補償を行うなど大混乱になる為である。
(運行予定〔ハンドリング〕が狂う)
そうなると、その代替準備に多大な人員と時間が必要となる為、出発地の羽田が近いのなら羽田に戻って、代替機を用意した方が、効率が良いからである。
・東京ACC
「あ~了解しました。え〜、これから日本語で話して頂いて結構ですから。」
・機長
「あ〜、はいはい。」
普段、航空法により、交信は国際語である英語となるが、緊急
時は母国語の交信でも可能となっている。
この時、機体は静岡県焼津市上空を起点に急激に内陸に向かい
始める。
益々安定感が無くなった機体はダッチ・ロールを描いてフラフラ飛び続けた。
ダッチ・ロールというのは、丁度8の字を書くように飛ぶ姿をいう。
異常発生から約五分経過。
乗客は静まり返っていた。
神に祈りを捧げ続ける乗客。
子供の手をシッカリ握り、何とか不安を少しでも取り除こうとする親。
そんな中で、自分が亡くなった後もすぐ身元が判明するようにする乗客、家族にメッセージを残そうと備えた乗客も多数存在した。
手持ちのメモ帳や、会社の商談用ノートに言葉を書き遺す者、会社の封筒に遺書を記入し、運転免許を挿入する者、座席に設置された紙製のゴミ袋の余白、時刻表の余白に書き遺すものもいた。
絶望感溢れる乗客の姿を見て、スチュワーデス達はどんな思いだったのだろう。自分自身にも死の恐怖が襲うが、その怖さを押し殺して気丈に振るわなければならない。
乗客の不安を少しでも和らげる為に。
午後6時31分
コクピットの機内電話が鳴った。最後部エリアからだ。
・機関士
「後ろの方ですか?・・・・・・・え〜と、何が壊れているんですか?」
福田機関士は機長に電話内容を報告した。
・機関士
「あのですね、荷物のですね、一番後ろですね、荷物の収納スペースのところが落っこってますね。これは降りた方がいいと思います。」
コクピットは一旦、沈黙に包まれた。
客室後部では、事故発生時、天井の内張りがラバトリー(トイレ)を中心に一部剥がれ落ちたという。
午後6時33分
コクピットに客室後部からの第二報が入る。
・機関士
「R5のマスクがストップですから。緊急降下したほうがいいと思いますね。」
・機長
「はい。」
この時、R5ドア(右側五番目の扉)に位置する客席の酸素マスクが破損していることが判明した。
スチュワーデスは、この座席に携帯酸素マスクを用意した。
・機関士
「マスク、我々もかけますか?」(コクピット内のマスクは操縦の妨害にならないよう自分で出して装着する。)
・機長
「あぁ。」
・副操縦士
「かけたほうがいいです。」
・機長
「・・・・・・。」
・機関士
「オキシジェン(酸素)マスク、出来れば吸ったほうがいいと思いますけど。」
・機長
「あぁ・・・・・・。」
ここで疑問に思うのは、本当に酸素マスクが必要な状態に陥っていたかである。
結局最後まで機長達三人はマスクをした形跡が無かったそうだが、
高濱機長はどのような判断で装着しなかったのか。
恐らく、最初に前述したように後部の圧力隔壁破損により抜け出る空気よりも、吸い込み側の与圧装置から送られてくる空気の方が勝っており、それで酸欠になる恐れがある状態では無かったのではないか?との事である。
事故当時の実験結果では4PSiで尾翼が破壊されるとある。
飛行機は、高空を飛ぶ際、大気圧が薄くなり、1cm程膨らむ。
その為、高空に耐えうるよう作ってはあるが、只でさえ膨らんでいる中で、内部からいきなり過度に空気を送られると吹き飛んでしまうのである。
だが、胴体そのものに損傷が無い場合は尾翼を吹き飛ばしたとされる4Psiの圧力より、エンジン動力により絶えず供給されている与圧がその約二倍の9・3Psiある為、客室内に急減圧があったとしても一瞬のことだという。
最初に客室減圧警報が1秒で停止しているその1秒が急減圧発生から立ち直りまでの時間だという。
因みに客室減圧警報が出るのは1万5千フィート(4500m)からだそうで、室内は、多少酸素は薄いが、健康体なら問題が起こらない気圧で、予告警報である。
つまり、高度2万フィート(6000m)飛行ではあるが、与圧装置が生きていたおかげで、室圧はギリギリ保たれていたと考えられる。
因みに、機長がボイスレコーダーの録音で怒り口調なのは「冷静さを欠いた酸欠の証拠」と言われた事もあるが、逆に酸欠だと算数の1+1も出来ない程に朦朧となり、さらに酷くなると本人が知らないうちに静かに死んでしまう。
2005年8月14日に発生した、ギリシャのヘリオス航空墜落事故がいい例だ。この時の事故は与圧装置の異常で機内にいる人間、客室乗務員1名を除く乗員乗客121名全員が気が付かないうちに酸欠となり、そのまま自動で飛び続け、唯一異常に気が付いて酸素マスクをした客室乗務員がコクピットに入り助けを呼ぼうと試みたが異常な動きに気が付いて緊急発進してこの機に追いついたF-16戦闘機のパイロットに事態が伝わった時にはもう遅く、燃料切れで墜落、全員死亡というものであった。
酸欠については航空関係者だけでなく、燃料タンク、地下等、酸欠の恐れのある職場で働いている方なら解るだろう。
つまり、酸欠だったら、そんな指示を出すことすらままならない。
まず間違いなく酸欠ではない。
怒り口調というのは職人によくある口調で、特に当時は航空関係なら旧日本軍航空隊の先輩に散々鍛えられた創立間もない頃の
自衛隊出身者なら、なおのこと特に珍しい存在ではない。
高濱機長は、今でも厳しいと評判の海上自衛隊航空隊出身で、退官時は教官だった。
従って、当時の高濱機長はごく平凡な優秀なイチ機長であったと断定する。
これは一般的な仕事でも職人気質な方は珍しくないので、分かってもらえるだろう。
因みに高濱機長は教える時は厳しいが丁寧で判り易く、普段は優しく後輩からの評判は良かったという。
午後6時35分
羽田空港の日本航空内に設けられた、123便対策本部より、123便へ社用無線連絡が始まった。
・日本航空羽田空港(以下JLHND)
「十八時二十四分に大島の三十マイル・ウエスト(四十八キロ西)
で、エマージェンシー・コールを東京ACCが傍受したということですが?」(女性従業員)
・機関士
「ジャパン・エア・東京、
え〜。ジャパン・エア、
あ〜、え〜とですね、
今、あの、
R5の、
ドアが、
あの〜、
ブロークン(壊れる)しました。
え〜、それで〜、え〜、
今、ディセント(降下)しております、
え〜。」
この連絡を受けた日航側が、「R5ドアが脱落し、機体後部のどこかが損傷したのでは?」という憶測をたてた。
・JLHND
「了解しました。
キャプテン(機長)インテンション(希望)としては、リターン・トゥ・トオキオ(東京に戻る)でしょうか?」
・機関士
「え?何ですか?」
・JLHND
「羽田に戻ってこられますか〜?」
・機関士
「え〜。」
「ちょっと、待って下さい。
今、エマージェンシー・ディセント(緊急降下中)しておりますので、
もう一度、あ〜、
コンタクト(連絡)しますので、え〜。
このままモニター(監視)しておいてください。」
・JLHND
「了解しました。」
富士山が機体右側の下に見えてきた。
あかね色に染まった美しい富士山だった。
・機長
「頭(機首)下げろ。」
・副操縦士
「はい。」
・機長
「もう少し頭下げろ。」
・副操縦士
「はい。」
・機長
「両手でやれよ!両手で!」
片手でスラスト・レバー(エンジン制御レバー)を握っていた副機長を叱咤する。
この時、福田機関士が提案を出した。
・機関士
「ギアダウン(車輪)したらどうですか?ギアダウン。」
これは、車輪を出して、空気抵抗を増やし、スピードを落とす手段である。
・機長
「出せない!ギア降りない!」
・機関士
「オルタネーターでゆっくり出しましょうか?」
オルタネーターとは非常用に使う電動モーターの事で、これにより通常の自由落下式で降ろすより車輪をゆっくり出すことが出来、機体のバランスを崩さない配慮が取れるが、それでも車輪を下ろすと、五箇所全ての車輪が同時に降りる訳ではなく、箇所によって時間がずれる。
その為、スピードは減速出来たが、バランスが崩れ、勝手に右旋回をし、その場を一周した。
◼️緊急着陸を目指して
午後6時40分。
その頃には、山梨県大月市上空に来ていた。
最初の考えとはだいぶズレたが、一応、東京に方向を向けることに成功した。
パイロットが123便と格闘している際、東京ACCは状況把握の為、二度呼び出したが応答が無かった。
この為、東京ACCは、123便の為に無線周波数134.0を用意し、123便に周波数切り替えを勧めたが、返答が無いので已む無く逆に、現在東京ACCで管制している全ての航空機の周波数を変えるよう指示した。
・東京ACC
All Station, All Station,Excep
t Japan Air 123 And Contact To
kyo Control Change freqency 13
4.0 and keep silent until furt
her advised.
《全飛行中の航空機、日本航空123便を除く全飛行中の航空機は、周波数134.0で東京管制局と交信せよ。なお別途指示があるまで、沈黙を維持されたし。》
この指示を聞いた機のパイロット達はどう思っただろうか。
この頃になると、指揮・管制塔交信を行っていた高濱機長は佐々木副操縦士と共に操作を行った。
そして福田機関士が電動で各部の操作及び計器確認を行った。
機長は通信を機関士に任せ、副操縦士と共に操縦桿を握り始めた。
機長は予想以上の重い機体の動きに驚いた。
だが、その原因が、垂直尾翼が無くなったからというのは最後まで分からなかった。
垂直尾翼が吹き飛ぶなんて事故例など、これまで試作機では類似の事故はあったが、1966年初飛行以来、十九年もの世界的実績のあるボーイング747で起こるとは想像もつかない事態であった。
この十九年の間、同型機が墜落した原因は皆、人為的ミスかテロだった。
一歩譲ってテロだったとしても、客室・貨物室を爆破されるなら分かるが、垂直尾翼だけ部分的に破壊するテロというのも妙だ。
操縦桿を握った機長の焦りが声から伝わってくる。
・機長
「頭下げろ。」
・副操縦士
「はい。」
・機長
「パワー!」
「重たいっ。」
「頭下げろ!重たい!」
「もう少し頭下げろ!」
・副操縦士
「はい。」
・機長
「下がるぞ。」
「重たい。」
「いっぱいやったか?」
・副操縦士
「いっぱい、舵いっぱい。」
・機長
「あ〜〜っ、重たいっ!」
「舵」とは、垂直尾翼に付いている方向舵の事である。この「舵」
が吹き飛んで無くなったとも知らず、必死で操作している。
午後6時45分。
一旦姿勢が落ち着くと、機長は改めて東京ACCに交信した
・機長
「JAL123、アンコントロール!(操縦不能)」
東京ACCのレーダーに映る123便はアメリカ極東空軍・横田基地がある東京都福生市に向かっていたので、米軍基地に協力が要請された。
米空軍は直ちに、横田基地の滑走路を空け、消防・救急を待機させると同時に、岩国海兵隊基地から通常輸送任務で横田基地に向っていたC130H輸送機に123便のサーチ・アンド・レスキュー(捜索・救助)を命じた。
・米空軍横田基地管制塔
Japan Air 1-2-3 Japan Air 1-2-
3 Yokota Approach On Guard, If
You Hear Me,Contact Yokota 12
1.5
《JAL123便、JAL123便、こちら横田アプローチ。聞こえたら周波数121.5で応答せよ》
・JAL123便
「・・・・・・。(応答なし)」
この頃になると、返答する余裕が無くなった。
午後6時46分
神奈川県相模原市郊外上空
佐々木副操縦士が、どの辺に来ているのか窓から地上を見下ろした。
・副操縦士
「え〜。今、相模湖まで来ています。」
高濱機長は一呼吸置いた。
・機長
「・・・・・・これは駄目かもわからんね。」
「ちょっと・・・・・・。」
コクピット内は絶望の空気に包まれた。
午後6時47分
もうすぐ東京上空。
機長は東京ACCに誘導依頼を行う。
・機長
Ah̶Request Rader Vecter To Han
eda Ah--Kisarazu
《あ〜、羽田!木更津へのレーダー誘導をお願いする!》
・東京ACC
「Roger(ここから日本語)了解、しました〜。ランウェイ22(22番滑走路。C滑走路の意味)なので、ヘデイング090(磁石方位九十度)をキープ(維持)してください。」
・機長
「ラージャ。」
・東京ACC
「現在、コントロール出来ますか?」
・機長
「アン、コントローラブル(操縦不能)、・・・・・・・です。」
・東京ACC
「了解。」
・東京ACC
Japan Air 123
Contact Tokyo Control,
あ~、
Tokyo Approach 119.7
《JAL123、こちら東京ACC,(無線)周波数119・7でコンタクト(交信)せよ。》
・機長
119.7 Roger.
《119・7 了解!》
ふと気が付くと、交信の間に高度がガックリ下がっているのに気が付く。
高度約2万フィート(6千メートル)でかろうじて維持してきたが、ここでガックリと、1万フィート(3千メートル)、五千フィート(千五百メートル)まで下がっていた。
東京都青梅市上空。
深い奥多摩の山々が連なる場所だ。パイロットの目の前にその尾根や高圧電線が迫ってきた。
慌てて機長は無線周波数調整を後回しにし、指揮を再開する。
・機長
「おい、山だぞ!」
「ターンライト!(右旋回)」
「山だ!」
・副操縦士
「はい!」
・機長
「コントロール取れ!」
「右ィイ!」
「ライトターンッ!」
2人は冷や汗だくだくで、操縦桿を力一杯右に握りながらスラスト・レバー(エンジン出力制御レバー)を握る。
客室は、大きな機体の動きに想像を絶する恐怖に包まれていただろう。
それでも、なお、スチュワーデス達は乗客を安心させようと必死だった。
その思いがこの時の機内放送から伝わってくる。
機体の振動か、恐怖で震えてるのか、一部途絶えながらも気丈に優しく話す声が痛々しい。
因みにこの声は機体最後部担当の放送だそうだ。
・スチュワーデス(客室乗務員)
「お客様へ!・・・・・・ 高度はだいぶ降りてます!
もうすぐ酸素は要らなくなります!
赤ちゃん連れの方、背に、頭を、座席の背に頭を支えて・・・・・
・してください!
赤ちゃんは、シッカリ抱いてください・・・・・・。
ベルトはしていますか?テーブルは戻してありますか?確認してください・・・・・・。
着陸の際は、あの〜・・・・・・予告無しで着陸する場合が・・・
・・・。
地上との交信は繋がっておりますので・・・・・・。」
青梅市上空で、尾根を越えれば、あとは目の前に米空軍横田基地、だだっ広く続く関東平野の平面な東京のコンクリート・ジャングルの向こうに羽田空港がある。
しかし彼らは必死で、3人総出で連なる山を飛び越えていくのが精一杯で、どんどん羽田とは逆方向の深い山中に引き込まれて行った。
・機長
「山にぶつかるぞっ!」
・副操縦士
「はい!」
・機長
「ライトターン!」
「マックパワー!(エンジン出力全開)」
ここで、機関士が後ろから出力レバーに手を出し、操作を手伝い始めた。
・機関士
「がんばれェー!」
福田機関士はレバーに願いを込めるように叫ぶ。
午後6時48分
高濱機長が力みながら必死に山を跳び越す。
・機長
「ハー、ハー、ハー、ハー、ハーッ!」(荒い呼吸)
「パワーァ!」
「ハッ、ハァッ、ハァッ、ハァッ。」
「あ〜。駄目だ。」
「ストール!(失速)」
「マックパワー!マックパワー!マックパワーッ!」
「ストール!」
・警報音
「ピッコーン、ピッコーン、ピッコーン」(失速警報)
(この警報音が沈黙の中、約1分近く続く)
・機長
「はい、高度落ちた。」
・副操縦士
「スピードが出てます!スピードが!」
・機長
「どーんといこうや!」
・副操縦士
「はいっ!」
・機長
「頑張れっ!」
この「どーんと行こうや」の言葉は永らく機長遺族を苦しめた言葉だ。
乗客遺族がこの言葉を文章で見て「ふざけるな!」と激怒したのだ。
だが、実際に録音を聞くと、ふざけて云ったのでは無いのが分かる。
佐々木副操縦士に対する励ましの言葉だったのだ。
その言い方は、とても力強く、新人を励ます言葉でもあったが、
自分自身に対する戒めであることが分かる。
つまり、「あきらめるな!」という事だ。
同じ言葉でも、実際に聞かないと伝わり方がまるで異なる一例だ。
午後6時50分
山梨・埼玉県境上空
・機長
「マック!(エンジン出力全開)」
「頭下げろっ!」
・副操縦士
「はいっ!」
機長はメーターパネルに向かって叫ぶ。
・機長
「頑張れ!頑張れ!」
・副操縦士
「いまコントロール一杯ですっ!」
ここで、福田機関士が提案を出した。
・機関士
「パワー・コントロール(エンジン出力調整)がいいです。パワー・コントロールさせてください!」
福田機関士は4つあるエンジンの出力を別々に調整し、機体をコントロールしようと試みたのだ。
午後6時51分
・副操縦士
「フラップ(高揚力装置)は?」
・機関士
「下げましょうか?」
・機長
「降りない!」
・機関士
「いえ、あの〜オルタネート(電動)で。」
・機長
「オルタネートしかないか!やっぱり!」
・機関士
「え〜、オルタネートです。」
フラップ(高揚力装置)は翼を湾曲させて空気抵抗を増やし、浮力を増す装置で、主翼後縁にある。
・機長
「頭下げろ!」
ここで、フラップを電動で出しながら、エンジン出力調整を手伝う福田機関士を見て怒鳴った。
・機長
「他はいい!あんた自分のことやれ!」
この怒鳴り声でふと余所見をした副操縦士は操縦桿から、ふと片手を離す。
高濱機長が睨んだ。
・機長
「両手で!」
・副操縦士
「はい!」
・機長
「頭下げろ!」
「はいパワー!」
おもむろに、福田機関士が、パワーレバーを握る。
・機関士
「フラップ出てますから今!」
・機長
「あぁ!」
「頭下げろ!」
「つっぱれっ!」!
これで、7千フィート(約2000m)の低空を走り幅跳びのごとく、山麗を飛び越えていたのが、上昇し、1万五千フィート(約4000m)に到達した。
□123便の最期
午後6時53分
埼玉・長野県境 三国峠付近
一旦飛行は安定し、下には夕闇に暮れていた山麗の深い林がすっかり見えなくなり、延々と広がる黒い山のシルエットの中に、所々、灯の光がキラキラ光始めていた。
気が付くと、現在の場所が何処なのか分からなくなっていた。
一方で、東京ACCでは、無線周波数切替依頼を了承してから一切の返答が無い123便に再度呼びかけを開始。
米空軍横田基地も一度も呼びかけに応じない123便を非常に心配し、1分置きに呼びかけを続け、基地の滑走路も全て閉鎖し、消防車を始めとする基地内の全ての緊急車両を滑走路端に待機させ、123便の突然の緊急着陸に備えていた。
・東京ACC
Japan Air 123 Japan Air 123 To
kyo.
《JAL123、JAL123、こちら東京。》
・機長
あ~、
Japan Air 123,Japan Air 123,Uncontrol.
《あ〜、ジャパン・エア123、ジャパン・エア123、アンコントロール。》
・東京ACC
「123了解しました。」
・米空軍横田基地管制塔
Japan Air 1-2-3
Japan Air 1-2-3
Yokota Approach Control
On Guard. If You hear me. Squawk 5423 Contact Yoko~ta.
《日本航空123便、日本航空123便、聞こえたら(無線を)5423にセットせよ。》
・JAL123便
「・・・・・・。」
・東京ACC
「ジャパン・エア123、ジャパン・エア123、周波数119てん7、119てん7に変えてください。」
・機長
「はいはい119.7。」
・副操縦士
「あ、はい、え〜No.2。」
・機長
「119.7?」
・副操縦士
「はい」
・東京ACC
「ジャパン・エア123!出来ましたらワンワンナイン・てん・セブン!(119・7)に変えてください。」
午後6時54分
・羽田空港東京進入管制所
Miting.If You Reading,If You R
eading Come Up Frequenty 119.7
Or, We Are Already Openly Fre
quency Tokyo Approach Out.
《聞こえていれば周波数119・7で交信せよ。または東京アプローチの、他の周波数でも結構なので直ちに交信せよ。どうぞ。》
・機関士
「ジャパン・エア123、え〜。ワンワンナイン・てん・セブン!
(119・7)セレクトしました〜。」
・機長
「リクエスト・ポジション!(現在位置照会)」
・機関士
「ジャパン・エア123、リクエスト・ポジション?(現在位置を教えてください)」
・羽田空港東京進入管制所
Japan Air 123 Your Position 5
Ar-5 45Miles North West Of Han
eda.
《JAL123、位置は・・・・・・あ〜、5・・・・・・45マイル羽田の北西。》
(羽田空港から直線で北西約72キロ)
・機関士
「ノースウエスト・オブ・ハネダ・・・・・・。あ〜、え〜、何マイルですか?」
・羽田空港東京進入管制所
「はい、その通りです。こちらのレーダーでは55マイル・ノースウエスト、あ〜、熊谷から、あ〜・・・・・・25マイル、ウエストの地点です、どうぞ。」
(埼玉県熊谷市から直線で西に40キロ地点)
・機関士
「はい、了解。」
123便は、三国峠を越し、長野県川上村上空にさしかかった。
この時、折角上昇した高度も、機体の安定を維持する為の操作で徐々に低下し、高度は8000フィート(約2800m)を下回っていた。
川上村は標高1000m〜1500mの山々が連なる日本で有数の標高の高い場所である。
つまり、この上空を高度2800mで飛ぶという事は、平地で高度1000m位の低空を飛行をしているのと同じである。
川上村郊外の森林が123便のすぐ下に広がる。
・機長
「フラップ降りるね?」
・副操縦士
「はい、フラップ10。」(フラップを10度下げた状態)
・羽田空港東京進入管制所
「JAPAN AIR 123 日本語で申し上げます。こちらの
方は、あ〜、アプローチ(進入)いつでもレディ(可能)になっております。なお、横田と調整して横田ランディング(滑走路)もアべイラブル(いつでも着陸可能)になっております。」
・機関士
「はい了解しましたぁ。」
・機長
「頭上げろ!」
「頭上げろっ!」
「頭上げろっ!」
・副操縦士
「ずっと前から支えてますっ!」
・スチュワーデス(機内放送担当最後部エリア)
「・・・・・・からの交信は、ちゃんと繋がっております・・・・・・・・」
・機長
「おい!フラップ止めな!」
・副操縦士
「は、はい!・・・・・・。」
・機長
「止めなっ!」
ここでフラップを降ろし過ぎて失速したのだろうか?誰のか分からないが悲鳴が入っていた。
・?
「あ〜っ!」
・機長
「フラップ!そんなにフラップ下げちゃ駄目だ!」
・副操縦士
「フ、フラップアップ!フラップアップ!フラップアップ!フラッ
プアップ!」
・機長
「フラップアップ?」
・副操縦士
「はい!」
この時、123便の第一目撃集落の川上村・神山から隣の居倉の集落に向かって突っ込む寸前に、急上昇して、群馬県上野村方面の山に消えて行った。
川上村集落のすぐ後ろにそびえ立つ峰は、群馬県・長野県の県境で、尾根を越せばすぐ群馬県だった。
夕暮れに染まった飛行機雲を伸ばしながら123便はフラフラと山奥深くに入っていく。
失速寸前まで落ちた速度は姿勢を立ち直す為に回したエンジンのパワーで一気に600キロまで加速しながら機体を右に傾げていく。
周囲には文明の明かりは全く見えなくなり、果てしなく続く暗闇の樹海がコクピットの目前に迫る。
機長は青筋を立てながら叫ぶ。
・機長
「パワー・・・・・・パワー!」
・副操縦士
「いや・・・・・・。」
・機長
「フラップゥ!」
・副操縦士
「あげてますっ!」
・機長
「ストールするぞっ!」
「頭あげろ・・・・・・・頭上げろォ!」
「パワー!」
・747型機の警告音声
「ビリリッ!」(地上接近警報)
「シンクレート」(降下率注意)
「ウアウア!プルアップ!」(上昇せよ)
「ウアウア!プルアップ!」
「ウアウア!プルアップ!」
警告音声が響き渡るコクピットでクルー全員の顔がひきつる。
高濱機長が絶叫した。
・機長
「もうー、駄目だっ!」
・747型機の警告音声
「ウアウア・プルアップ!」
・衝撃音
「ドッガシャッ!」
・747型機の警告音声
「ウアウア・プルアップ!」
「ウアウア!プル」
・衝撃音
「ボーンッ!・・・・・・グワワワワワワワッ!」
午後6時56分26秒
ボイスレコーダー録音終了。
この後も、各管制からの呼びかけが続いた。
123便が管制塔に最後に残した言葉は「あ〜っ!」であった。
この叫びの主は特定されていないが、交信中だった福田機関士と思われる。
因みに、パイロットの間では「ウアウア、プルアップ」という音声警告は訓練、若しくは警告動作テストでしか聞かないという。
何故なら、この音声警告が出た時は無事に帰還できない可能性が高い為である。
午後6時57分
・米空軍横田基地管制塔
Japan Air 1-2-3 Japan Air 1-2-
3 Yokota Approach,Control Of G
uard.If You Here Me, Come Up 121.5
《JAL123便、JAL123便、こちら横田アプローチ。聞こえたら周波数121.5で応答せよ》
■目撃情報の多い村
少し遡る午後6時55分頃。
長野県川上村は、レタスを代表とする高原野菜の産地として有名で、夏場は休み無しのフル稼動で朝一時から夜八時で働き、アルバイトも多数いる。
特に当時は東京の大学生の高額アルバイトとして人気が高かった。
この日、川上村の秋山という集落で、川上村消防団長・遠藤岩雄さん(仮名・当時四十五歳)が、東京からアルバイトに来た、甥の男子大学生(当時二十一歳)と共に、集落から高台にある畑で、農作業をしていた。
「ゴウン‥‥‥ゴウン‥‥‥」
背後の山から雷が聞こえる。
遠藤氏は、そろそろ夕立が来そうだから引き揚げる旨を甥に伝えた。
すると、雷の音がどんどん大きくなる。
「?」
と思い、ふと振り向くと巨大な白い飛行機がすぐ近くに飛んできた。
「何だ!自衛隊め!バカヤロゥ!あんなデカイ飛行機で低空掠めやがって!うるせぇだよ!」
甥はとっさに説明した。
「おじさん違うよ!ジャンボ機だ!日航の旅客機だよっ!」
「そんな訳ねェや!何でこんなとこ飛ぶ用事あるだい!」
日航123便だった。主翼の赤と緑の翼端灯を輝かせ、機首を下に向けながら、千曲川沿いの集落に向かって飛んでいく。
あまりの大きな音に帰宅途中の少年野球の子供達が大騒ぎし、千曲川沿いの県道を走っていたトラクターや軽トラックが慌てて止まり、集落の家からは住民が飛び出して空を見上げた。
この時、機体はその第一目撃集落の川上村・秋山から隣の居倉の集落に向かって突っ込む寸前に急上昇して、群馬県上野村方面の山に消えて行った。
遠藤岩雄さん(仮名)が当時の場所で説明する(作者近影)
川上村集落のすぐ後ろにそびえ立つ峰は、群馬県・長野県の県境で、山並を二つばかり飛び越せばすぐ群馬県だった。
夕暮れに染まった飛行機雲を伸ばしながら123便はフラフラと山奥深くに入っていく。
遠藤氏が自分の畑から日航機の向かった群馬県方面を見ると、最後に見たところから左に離れた場所からキノコ雲が沸き上がったのを目撃した。
当時、川上村で多数の目撃者がいたが、墜落直後のキノコ雲を目撃したのは、高台にいた人達だけであった。
だが、墜落音はしなかった。
高い山に囲まれた中で落ちたせいだと思われる。
甥がつぶやく。
「お‥‥‥おじさん‥‥‥。」
遠藤氏が聞いた。
「あの飛行機よ、人が乗ってたんずれ?」
甥が答える。
「沢山乗っていたと‥‥‥思うよ‥‥‥。」
遠藤氏が聞き返す。
「沢山って‥‥‥何人位ぇずれ?」
甥が頭を傾げながら答えた。
「多分‥‥‥三百人以上は乗れると思うけど、お盆だしね。」
遠藤氏は一呼吸置いて考えた。
「‥‥‥帰るぞ!」二人は慌てて帰宅する。
歩道脇には子供達が空を指差しを騒いでいた。
軽トラの窓ごしに
「さっきね!ジャンボ機がね‥‥‥。」
と、いう会話が聞こえた。
神山の自宅に戻って、遠藤氏は慌てて茶の間に入る。
おもむろに茶の間のテレビを見たが何もニュースが無い。
遠藤氏が奥さんに聞いた。
「さっき、凄いデカい飛行機が、この集落かすめていったの見たか?」
奥さんが答えた。
「あ〜、うん‥‥‥さっき、来たね。凄い音立てて、煩さかったね〜。」
遠藤氏が人差し指を指して力強く言った。
「その野郎が、どうも裏の山に落っこちたらしいんだ!」
「えっ?」
奥さんは、話が飲み込めず、唖然とした。
遠藤氏は、そのまま茶の間に座り込みTVを睨み、近くに村内電話を引き寄せた。
各組織の動き
午後7時。
茨城県・航空自衛隊・百里基地 第七航空団
日航123便を緊急信号受信直後から追っていた航空自衛隊は、独自判断で、緊急体制当番で待機していた第三〇五飛行隊のF4EJファントム戦闘機二機を長野・群馬県境の行方不明地点に急行させた。(故・式地豊二尉リーダー)
午後7時19分。
米空軍のロッキードC130H型輸送機が現場らしき炎を発見。航空自衛隊も午後7時21分に、現場確認。横田TACAN(無線位置標識)より磁方位300度・32マイル(約51キロ)と測定結果を送った。
午後7時26分。
報道各社に「日本航空123便が、レーダーから消えた」の旨の第一報が入り、まずTVやラジオが速報で伝えた。
特にTVは視聴率が最も高いゴールデンタイムだったので大勢の国民がこのニュースを確認した。
長野県川上村大字秋山。消防団長・遠藤家。
NHKが7時のニュースの終わり際に速報を読み上げた。
「新しいニュースが入りました。羽田空港の空港事務所に入った連絡によりますと、午後六時に羽田を出発しました大阪行きの、日航ジャンボ機の機影が、レーダーから消えたもようです。」
遠藤氏が甥に聞きなおす。
「おい、お前、確か、日航ジャンボ‥‥‥とか言ってたよな?こいつの事か?」
「‥‥‥多分?」
甥は自信無さ気に答えた。
遠藤氏は立ち上がると村内電話で由井宗佑村長に電話をかけ、消防団の呼集を行うか確認した。
ふとTVをもう一度見ると、NHK特集が始まったが、途中で番組が中止され、日航ジャンボ機行方不明の臨時ニュースに切り替わり、事の大きさが伝わってきた。
「479名が乗った日航ジャンボが長野・群馬県境で行方不明という情報が入りました。」(注・人数は速報当時)
川上村・秋山の長野県警察・川上村駐在所・秋山分駐所にニュースを見た多数の住民が集まり、電話が絶えず鳴り響く大騒ぎとなった。
川上駐在所の管轄の臼田警察署から、県警本部に連絡が入り、早速、対策本部が設けられ情報収集が開始された。
遠藤消防団長は役場で群馬県にカラマツの苗を提供している産業課長・藤原先吉氏と目撃した場所に行った。
そこで、「間違いなく群馬県」と証言したという。
一方、群馬県上野村。
テレビを見た住民達が窓を開け、夜空を眺めた。
上野村に普段は飛んで来ることが全く無い航空自衛隊の戦闘機と米軍の輸送機のエンジン音が響き渡っている。
事故の事を知らず「飛行機がうるさい」と苦情の110番をする住民もいた。
事故機は上野村集落を通過せず、しかも墜落音も振動も山に阻まれ聞こえていなかったので、誰も気にしていなかった。
午後7時45分
長野県庁内にある長野県警本部に数台の機動隊バスが入ってきた。
彼らは長野県警所属の関東管区機動隊で、この日、軽井沢に保養に来た皇太子殿下(現・天皇陛下)の警備に当たり、帰ってきたところであった。
彼らはバスを降りると一息つく間もなく、「とりあえず、目撃通報が多数ある川上村に向かえ」という命令を受け、とんぼ帰りで、国道18号をまた戻っていった。
一方、長野市の県警警察学校にある山岳救助隊が臼田町グラウンドを目指し、装備一式と投光車を引き連れて出動。
そして普段、交番任務等「警ら」と言われる所謂「街のおまわりさん」が緊急時の機動隊員「第二機動隊」として集結命令が下った。
松本管内にて派出所の巡査が暴漢に刺殺された事件が発生して緊急配備中の時だった。
彼らに「またかよ‥‥‥。」の言葉がつい出てしまう。
それは、この近年、大規模災害の出動事案が続いたからだ。
1984年9月14日の「長野県西部地震」
1985年1月28日の「犀川スキーバス事故」
同年7月26日の「長野市地附山地滑り災害」
地附山地滑りに至っては、発生からまだ二週間あまりで、老人ホームが完全に潰され、26名死亡のうち、まだ行方不明者捜索の段階で大忙しの最中だった。
長野県警は近隣県警にも応援已む無しの体制で、隣の群馬県警察へも出動要請を検討し始めた。
群馬県警察本部も、いつ長野から応援要請があってもいいように、群馬県前橋市の県警本部に対策室を設け県内全機動隊の集結準備を始めた。
この時はまだ群馬県側は自分達の管内で起こった事故とは思っていなかったのである。
午後8時。
長野県内で県警同様大忙しだった陸上自衛隊松本駐屯地・第十二師団隷下・第十三普通科連隊にも防衛庁が航空局から「災害出動要請」を受理し、出動命令が出された。
そして群馬県相馬原駐屯地にある陸上自衛隊第十二師団・第十二偵察隊の一部を出動させ、先遣隊とした。
警察の先遣隊としては、長野県臼田警察署が本部とは関係なく、
独自で110番通報を受けた直後にぶどう峠をパトカーにて捜索。
そして三国峠を半分管轄に持つ埼玉県警・秩父署のパトカー、及び機動隊が警察庁の指示により派遣。
群馬県警は松井田署を中心とするパトカーが現場近くと思われる碓井峠・十国峠に急行した。
午後8時半。千葉県船橋市薬円台。
この街には陸上自衛隊最強の隊員達が集結する習志野駐屯地・第一空挺団がある。
当時現役だったB氏に名前を伏せる条件で今回取材させて頂いた。
習志野駐屯地からお盆休暇中の隊員に呼集がかかった。
まだ第一空挺団に出動命令はかかっていないが、山岳地帯の車両が通行困難な場所とのことで、いずれ呼び出しがかかる可能性が高いと独自で集結をかけた。
■悪夢の始まり
この日本中が未曾有の大事故の可能性が高くなった日航機行方不明のニュースに釘付けの中、まだニュースを知らないものも居た。
123便、客室乗務員・松原幸子の夫、定雄である。このニュースが流れる間、彼は帰宅の電車で、うとうとしていた。
いつものようにマンションに帰宅すると、真っ暗な部屋の片隅で、留守番電話のランプがチカチカ点灯していた。
「さて‥‥‥と。」
定雄は部屋の電気を点け、重いビジネスバッグをソファーに置き、スーツを脱いでネクタイを緩める。
「ふ〜っ。」
ようやく家に帰った安堵感と、ネクタイを緩めたことの安心感に
つかりながら、留守番電話のスイッチを押した。
『ピー!9件・です。』
定雄は怪訝な顔をして思わず留守番電話に振り向いた。
「何だよ、9件も。」
定雄はタバコに火を点けた。
(留守番電話1件目)
『8月12日午後1時12分。
ピーッ!‥‥‥ガヤガヤ‥‥‥もしもし、幸子だよ〜ん。今日は帰り遅いけど、寂くても泣くんじゃないよ〜!ばっはは〜い!‥‥‥ガチャ』
「ばか、誰が泣くかっての。」
定雄は苦笑いした。
(留守番電話2件目)
『8月12日午後2時36分。
ピーッ!あ、もしもし、吉川(幸子の妹)だけど、今、熊本からお父さん達、うちに遊びにきてるからね、顔出して。それじゃ。ガチャ。』
「そうか。それじゃ幸子が戻ってきたら顔出すかな。」
(留守番電話3件目)
『8月12日午後7時10分。
ピーッ!ガヤガヤ‥‥‥あ!もしもし!日本航空です!大至急ご連絡ください!‥‥‥ガヤガヤ‥‥‥連絡ついた?いや、こっちは‥‥‥ガチャ』
日本航空から同じ内容の連絡が3分置きに続く。緊迫した声と、
後ろの騒ぎが聞こえる。
定雄は真顔になり、タバコを消して聞き入る。
(留守番電話9件目)
『8月12日午後7時48分。
ピーッ!あ、日本航空ですが、松原さんが、業務されている便がですね、現在行方不明になっています。至急ご連絡ください、………そっちいいから、早くタクシー会社に連絡………ガチャ』
定雄はくわえていた火を点ける前の煙草を床に落とし、手に持っていたセブンスターがパラパラと音を立て、床にばら撒かれた。
定雄は頭の中が真っ白になり、言葉を失った。
慌ててテレビを点けると、各民放が通常番組に日航機行方不明のテロップを流している。
唖然とテレビを眺めた。日本テレビの「ザ・トップテン」が司会の、堺正章氏の紹介の後、緊迫したニューススタジオからの中継に変わった。
テレビを見入っていると、突然インターホンが部屋中に鳴り響き、定雄は全身を震わせて驚いた。。
ドアを開けると、Yシャツにネクタイ姿の初老の男性が待っていた。
「あの、松原‥‥‥幸子さんの、ご主人様で?」
彼は、幸子さんの通勤用タクシーの運転手だった。
自宅でニュースを見ていたところ、日本航空から幸子さんのご主人を送迎するよう依頼を受け、駆けつけたのだ。
日航に電話すると、事故現場に比較的近い群馬県藤岡市の中学校に東京近隣の、乗客の肉親の控え所を設置したという。
午後9時。
タクシーのカーラジオで随時ニュースを確認しながら単身、群馬県に向かった。
国道十六号沿いの街の灯を眺めながら「なあに、元気な姿で逢えるさ!」と信じながらも、タクシーの後部座席の灰皿は、あっという間に一杯になり、タバコを持つ手は震えが止まらなかった。
■県境に集結
この頃、墜落現場は目撃者の多い長野県川上村と北相木村の間と報道され、陸上自衛隊・松本駐屯地第十二師団第十三普通科連隊は北相木村に集結した。
長野県警機動隊は、臼田町に到着し、そこからは交通機動隊・臼田分駐隊の白バイが先導し、現場と思われる南相木村を目指した。
乗客の肉親は、最初は群馬県藤岡市に集められたが、事故現場の情報が長野県北相木村となると北相木にも待機所が設けられ、結果として時間差で現場を挟んで二手に分かれたことになる。
午後9時。
米空軍横田基地から依頼を受けた米陸軍座間基地の陸軍救援隊がベルUH1H型汎用ヘリで、ロッキードC130H型輸送機の誘導の元、墜落現場に辿り着いた。
UH1H型ヘリに搭乗していた米軍座間基地所属の特殊部隊が現場に降下する準備を始めた。
その時、駆けつけた航空自衛隊の救難ヘリ・川崎バートルV107Ⅱ型と現場指揮航空機のMU2J型と交代し、米軍機はその場を立ち去った。
米軍機は米軍司令部から、直ちに自衛隊に全てを任せ、速やかに現場から引き揚げる旨伝えられた。
後ろ髪引かれる思いで米軍機は去ったが、航空自衛隊の航空機とヘリが来て交代したので、「もう大丈夫だろう」と思ったそうだ。
しかし、うまくはいかなかった。
この直後、墜落現場付近に500キロボルトの高圧高架電線がある事が判明。
ニュースを見た電力会社が警告の通報を行い、うかつに高度を降下できなくなってしまった。
航空自衛隊のバートル救難ヘリは、一個千ワットを誇る胴体側面の4個のサーチライトを照らし、球形で首を伸ばして外の風景を覗けるようになっているバブル・ウインドウから隊員が血なまこで現場を見据えるが、爆発炎上の黒煙に阻まれ何も見えない。
結局、彼らは航続距離の長い事を生かして「空の灯台」として現場に留まり地上からの救援を誘導し続けるしか方法が無かった。
後に、この事実を知った現場に行った米兵達は非常に落胆したという。
午後9時半。
既に午後9時15分に123便に搭載された3時間15分の燃料が尽きている。
これで少なくとも「飛行」は不可能と確定した。
羽田空港の日航123便行方不明対策本部は記者会見で正式に「墜落」と公表した。
墜落から2時間。
あれだけ大きな飛行機が墜落したのに、墜落機を見ても墜落した瞬間を見た者も音を聞いた者もおらず、110番通報も川上村発以外は不確かなものばかりで、しかも米軍機・航空自衛隊戦闘機・航空自衛隊ヘリの位置情報は半径5キロというアバウトなもの。(航空機が普通に飛行する分には許容範囲の誤差)
現場は誤認や勘違いで長野県川上村・佐久市・軽井沢、群馬県上野村と半径30kmに渡り錯綜し、益々混乱するばかりだった。
最も遠い情報は、現場から直線で30km離れた碓井峠で、実態は碓氷峠バイパスで、事故で炎上するトラックだった。