第3話 罪と罰
「正義……裁判……?」
そこは漏斗状になった部屋だった。
中央の台を見下ろすように、聴衆席と祭壇が設置されている。
この部屋の最下層にて、サラは青い顔で上界から注がれる光を仰ぎ見ていた。
彼女の問いに答えるものは、誰もいない。
代わりに、小槌が木の皿を叩く音が響いた。
「では監察官よ、前へ」
粛々たる声に導かれて、ひとりの少女が前に出る。
黒い髪をなびかせながら歩いてきた彼女もまた、黒衣を身にまとっていた。
「はい、裁判官」
「えっ……」
彼女はアメリアだった。
サラはよろめきながら立ち上がる。まるで鳥かごに閉じ込められたような姿で、黒髪の少女を見上げた。
「どうして、こんな」
アメリアは手元の紙を眺めながら堂々と言う。
「被告サラは十七という年齢にもかかわらず、その心に一切の正義を宿していないことが今回の調査で明らかになりました」
「……え?」
今、彼女はなにを言ったのだろう。
嘲りの声が降る。
「なんて恥ずかしい女だ」
「心に正義がないなど」
「この国に立ち入る資格など、最初からなかった」
聴衆たちが好き勝手を言っている。
サラは後ろと前を交互に見やった。
なぜ自分が糾弾されているのかわからない。
だが本当の悲劇の始まりは、ここからだった。
黒衣のアメリアが述べる。
「それでは、彼女が犯した悪行について、証人を交えてお話をしようと思います」
サラの見上げる先、視線が合った。
アメリアはまるで奴隷を見るような目をしていた。
証人は聴衆席にいた。
最初に立ったのは、この国に入る際にサラたちの荷物を見聞した門番のひとりだった。
「彼女は同行人に荷物をすべて詰めさせて、自分は高みの見物とばかりに突っ立っておりました。その怠惰な振る舞いは、まさしく悪の所業と言えましょう」
あちこちのささやき声が強くなった。
そのどれもがサラを責めるような口調だ。
そんな……、とサラは左右に首を振った。
「違う、違う……。だって、いつもリリがやってくれるから、わたしは……」
糸のように細いサラの声は、悪意に満たされたこの部屋において、どこにも届きはしなかった。
アメリアが次の人物を呼ぶ。
それはサラにとって顔も覚えていない男性だった。
「その金髪の娘のことはよく覚えています。私がフォークを落としたのに、素知らぬ顔で通り過ぎていったのです。はっきりとその場を見ていたのにもかかわらず、ですよ。他者へ対する思いやりのなさに、私はゾッとしてしまいました。このような冷徹な娘を見たのは、初めてです」
違う、とサラは叫びたかった。
だが、喉の奥から声が出ない。
胸が締めつけられるように痛む。
息苦しさが増してきた。
激しい頭痛と、心臓の痛み。そして聴衆たちの軽蔑の罵声に耐えながら、サラはじっと唇をかみしめる。
「では次」
アメリアが促すと、さらにもうひとりが立つ。
彼の顔は覚えていた。
「このご時世です。旅から旅というのは、大変な苦労を伴うものでしょう。だからこそ私は彼女を自分の娘にしてあげたかった。亡き娘の分まで幸せにしてあげたかったのです。温かいスープを与えて、綺麗な服を着せてあげたい。私は心からそう思ったのです」
恰幅のいい男性は、心から悔しそうな顔をしていた。
腕を振り、叫ぶ。
「その善意の申し出を! あろうことか彼女は邪険にして、この手を振り払った! 涙のひとつすらもこぼさずに、まるで化け物を見るような目で! 逃げ出す彼女の後ろ姿を見つめながら、私は絶望を味わいました! まさかこんなことが! こんなにもつらい目に遭わされるだなんて!」
男は両手で顔を押さえ、煩悶する。
その目には涙が光った。
「私は娘だけではなく、この心の善意まで亡くしてしまいそうでした! もしこの国のみなさまが優しくしてくださらなければ、首を吊ってしまっていたかもしれません! ただひたすら真面目に生きてきただけの私が、このような仕打ちを受けるいわれはあるのでしょうか!?」
いいや、ない! と聴衆の誰かが言った。
彼らの熱にサラは怯え、体を震わせる。
ここに自分の味方はひとりもいないのだと、サラは確信した。
「その女の心には、間違いなく魔物が潜んでいます! 正義がなく、ただひたすらにおぞましい姿をした魔物が! あの化け物を早く退治してください! もう見ているだけでもこの胸が張り裂けそうだ!」
その後も証言は続いた。
花を売りつけようとしてきた老婆が、サラに押されて怪我をしたと言って金切り声で叫んでいた。
道行くサラを見た男は、彼女のせいで自分が妻と仲たがいをしてしまったと主張した。サラの美しき姿は男を惑わせる毒牙であると。
サラはただうつむいたまま、時が過ぎるのを待った。
そして最後に証言したのは、アメリアだった。
打ちのめされたサラを見下ろしながら、彼女は悠然と微笑んでいた。
「サラさん、あなたは私がいろんな手助けをしてあげたのに、その善意を当たり前のものとして享受していましたね?」
「……」
「その傲慢な態度がどこから来るか、教えてあげましょうか?」
祭壇から降りてきたアメリアは、ゆっくりとサラに近づいてくる。
カツカツと足音を鳴らしながらやってきたアメリアを見上げるサラの目は、恐怖で染まっていた。
今度はいったいなにをされるのか、なにを言われてしまうのか。
己の胸を抱くサラの腕を無理矢理掴んで、アメリアは口元を吊り上げた。
「あなたは自分が美しいことを知っている。だから、他人の善意を当然のものだと思って受け入れることができるんですよ」
「ち、……ちがう……」
サラの儚い抵抗はアメリアの憎悪の視線に潰される。
「その金色の髪! 男を誘う淫らな美貌! いやらしく張った胸に、細い足! 白い肌! それだけの恵みを与えられながら、お前は!」
アメリアはサラの髪を掴んだ。
血走った眼と醜く歪んだ顔がサラを覗き込む。
「心に巣食った悪逆に身を任せたのよ! 指の先までもが悪に染まってしまったのね! この私をも見下しているんでしょう! その美しさを汚されるのは、どんな気持ちかな!? ねえ、教えてちょうだいよ!」
どんな気持ちかと問われれば、サラはもうやめてほしいと心から願っていた。
放っておいてほしい。
誰も、わたしにかかわらないで。
自分が悪いのは、もうわかったから。
それ以上わたしを責めないで。
それ以上わたしに近づかないで。
そうしなければ、あなたたちが。
あなたたちが死んでしまうのかもしれないのよ――。
「被告サラ」
アメリアがスッと離れてゆく。
サラは暗い瞳で光の先を見つめた。
十人の裁判官がサラを見下ろしていた。
「なにか言いたいことは、あるか?」
胸の痛みはさらに激しさを増す。
息が苦しい。
どんどんと発作が強くなってきた。
一刻も早く、薬を飲まなければ。
この胸から、病が漏れ出てしまうかもしれない。
そうしたら、大変なことが起きてしまう。
目の前は、もはや赤く染まっていた。
サラは唇を開く。
力なくうなだれて。
「……ごめんなさい」
他人の善意を足蹴にしてしまって、こんな自分でごめんなさい、と。
なぜ自分が生きなければならないのかもわからず、サラの瞳から一筋の涙がこぼれた。
その場が静まり返る。
そして、判決が下された。
「被告サラには、罰を与える」
それは。
いったい。
苦しむサラに、裁判官は言った。
「死刑だ」
サラは目を見開いた。
「え?」
ゴッと衝撃が後頭部から鼻の奥へとかけて抜けていった。
痛みは遅れてやってきた。生ぬるい液体が髪を伝って流れ落ちてゆき、それは己の血であるとすぐにわかった。
サラは思わず振り返る。
そうして信じられないものを見た。
先ほどまで座っていた聴衆たちは今、立ち上がっている。
各々がその手に石を握り締めて。
サラは自分がなにをされたのか、理解した。
「……うそ」
男も、女も、次々と石を投げてきた。
最下層のサラめがけて、嬉々として。
サラは身を丸めて頭をかばった。全身を石が打つ。あまりの痛みに思わず声が漏れた。
痛い。痛い。痛い。痛い。
聴衆たちはもはや隠しもせずに笑っていた。
その哄笑までもが、サラの耳には届いていた。
「この瞬間が、やめられない!」
「悪人にこの手で罰を与える!」
「ああ、ああ、この快感のために生きているんだ!」
「正義の名において、悪逆に死を!」
言葉とともに次々と石を投げつけられた。
投石死刑という名の罰が、サラには与えられていた。
荷物をしまわなかっただけで。
スプーンを拾わなかっただけで。
ありえない申し出から逃げ出しただけで。
お礼を口にしなかっただけで。
それが殺されるほどの罪なのか。
そうか、それならば。
サラは考えることもやめて、ただ目を閉じて。
そのときだった。
激しい音を立てて、聴衆席のほうからなにかが降ってきた。
それは蝶番の吹き飛んだ扉だった。地面に落ちてバラバラに砕けた。
石はいつしか止んでいた。
サラはゆっくりと頭を持ち上げた。
かすむ目の先に、ひとりの女性が立っている。
輝くような銀髪をした少女。
リリスが。
「迎えに来たわ、サラ」
まっすぐに手を差し出しながら、温かく微笑んでいた。
助けにきてくれたのだ。
サラの全身から力が抜けた。
拍手が生まれた。
それは戸惑うサラにではなく、扉を蹴破ったリリスへ向けられていた。
聴衆たちは笑顔だった。
そのうち、ひとりの男がリリスへと歩み寄った。
「すばらしい、彼女を助けに来たんですね」
「ええ、もちろんよ」
「こんなところへ、たったひとりで……、なんて勇気のある方だ! 貴女こそが真の正義の持ち主です!」
男は笑顔で叫ぶ。
「あんな悪魔のような女を助けに来る、その心の美しさ! 我々は彼女が『正義の国』の模範的な住人であると宣言します! さあ皆さま、新たなる仲間の誕生に、今一度大きな拍手を!」
拍手は大雨のように激しさを増した。
「そうよ、リリスさんのような方がいてくれれば、私たちもよりいっそう正義を強く信じていられるわ」
アメリアもまた、リリスの登場に微笑みを浮かべていた。
サラの見ている前、万雷の拍手に包まれている少女は、とても遠い存在であるように思えた。
歓声の中、リリスはうっすらと微笑む。
「そう、あたしが正義なのね」
「ええそうですとも、ちゃんとお礼を言えるようなあなたこそが――」
リリスは天使のように微笑みながら。
礼を言った。
「ありがとう」
リリスの目が赤く染まった次の瞬間、彼女は刀を抜き放った。
魔手抜刀術。人類の敵対者たる魔物を倒すために生み出されたその斬撃が、男の首を刎ね飛ばした。
次回更新:4月29日21時更新