第2話 正義裁判
客間は二階に連なっており、一階は広い酒場と食堂になっていた。
その一角に腰かけて、リリスは適当に注文を頼んでいた。
サラは背の高い椅子に座って足をぶらぶらさせながら、シャワーあがりのけだるさを飼い慣らす。そのぼーっとした視線は、リリスに向けられていた。
「どうかした?」
「ううん」
ランプの薄明かりに照らされたリリスの顔は、まるで彫像のように美しい。
凛とした気配を漂わせる彼女は、周囲の景色からまるで浮かび上がるような存在感があった。
リリスは時々、なにを考えているかよくわからないことがある。決してその心の内を晒さないからだ。
自分が母親だと名乗る彼女に甲斐甲斐しく世話をされながらも、サラは時々ひどく彼女を遠くに思うときがある。
どんなに手を伸ばしても、その肌に触れることができても、核の部分には決して踏み込むことはできないのではないか。
そんなことを考えると、決まってサラの眉間にはシワが寄る。
「またなにか、おかしなことを考えているんでしょう」
リリスはサラの心を見抜くようにつぶやく。
口を尖らせながら、サラは首を振った。
「……おかしなことではないもん」
そこで注文が運ばれてきた。
「お待たせ!」
久々の温かい食事の香りを前に、サラの胃が急に主張を始める。
現金なものだと思いながらもナイフとフォークを手にすると、ふふふっ、という笑い声がすぐ近くから聞こえてきた。
給仕の女の子だ。
「また会ったね!」
彼女はアメリアだった。
サラは目を瞬かせて、リリスが微苦笑した。
「ここはあなたの働いている店だったのね。どうりで楽しそうに宣伝するものだわ」
「それもあるけど、いい宿なのは本当だよ」
「ええ、感謝しているわ」
そう言うと、アメリアはちらりとサラに視線を向けてきた。
隠れる場所もなく、サラはそれをまともに浴びてしまう。
好奇心や親切心ではない。なにかを催促するような目配せだった。
いったいなんだろう。
居心地が悪く、サラはとっさに目を逸らした。
アメリアが悪いわけではない。よく知らない人に見られるのは苦手だった。
「そういえばアメリア。変なことを聞いてもいいかしら?」
「もちろん、大丈夫だよ。恋人はただいま募集中ね!」
「早くいい人が見つかるといいわね。そうじゃなくて、この国の王様に会うことはできるのかしら」
「『正義の国』には王様はいないよ」
「そうなの?」
アメリアは種明かしをするように笑う。
「十人の裁判官がいて、その人たちがこの国を治めているんだよ。誰かひとりが間違っても、他の九人がいてくれるおかげで正義が維持され続けるんだ。これってすごいことだと思わない?」
「なるほど、変わった仕組みね。だけど、とても面白いわ」
「ふふっ、そうでしょう?」
にっこりと笑ったアメリアは「それじゃあごゆっくり! あ、これはサービスだよ!」とパンを一切れ多く皿にのせてから去っていった。
サラはほっと息をつく。
「びっくりした」
気が緩んでいるときに他の人に割り込まれると、どうにも息が詰まってしまう。
しかし、彼女が働いている店だったのか。サラはアメリアの後ろ姿を見やる。客たちにも慕われているようだ。
「あたしは大方、そんなところかなって思っていたわ」
パンをふたつにちぎったリリスは、その片方をサラに渡してくる。
「食べたら部屋に戻りましょう。この国は少し視線が気になるわ」
「……うん」
もそもそとパンを口に運びながら、サラは『わたしと違って、リリは本当に綺麗だから』という言葉を食事とともに飲み込んだ。
彼女ひとりならば、どこでだって幸せになれるだろうに。
食堂から出る際に、甲高い音がした。それは近くのテーブルの男性がフォークを落とした音であった。立ち止まるサラの横をすり抜け、リリスがフォークを拾って「どうぞ」と手渡すと、彼女は「ありがとう」と微笑んでいた。
部屋に戻ってベッドに入ると、長旅の疲れからかサラの意識はすぐに闇に沈み込んでいった。
明日の朝も湯浴みができるのが、とてもうれしかった。
翌日は食料や生活必需品の補充のために、ふたりは大通りへと出た。
特に水と保存食には、リリスはお金を惜しまなかった。少しでも綺麗な水、少しでも栄養価の高い食べ物を買うために、何件もの店を回った。
陽も頂点にのぼる頃には、リリスだけが持ってきたリュックはいっぱいになっていた。
「すごいね、リリ」
「うん?」
「みんなすごく安い値段で売ってくれているし、みんな親切だね」
サラがかすかに笑みを浮かべると、リリスは髪をいじりながら煮え切らない表情をしていた。
「……まあ、そうね。いい国なんでしょうね、ここは」
「どうかしたの?」
リリスの視線の先を追うと、通りの石を拾って袋に詰めている者たちの姿が見えた。きっと掃除をしているんだろう、とサラは思った。とても楽しそうだったのが、なんだか不思議だったけれど。
「……ううん、それよりも、見つからないわね」
「お薬のこと?」
「ええ」
「どこにでもあるものじゃないもんね」
そう言いながらも、サラは無意識に自らの胸を撫でる。なんだか息苦しさが増したような気がした。
リリスは顎に指を当てて思案する。
「やっぱり裁判城にいって、直接その裁判官という人たちに聞いてみるしかないのかしら」
「……あんまり無茶はしないようにね、リリ」
「もちろんわかっているわ」
どうせ無茶をする気なんだろう。リリスは平然と嘘をつく。
それを知りながらも、言葉に出してもらえると少しだけホッとする自分がいて、サラはもやもやとした気分を持て余す。
するとリリスに眉間を指で撫でられた。
「また変な顔をしているわよ」
「服は着てるんだから、いいでしょ」
「そういうのを、へりくつって言うのよ、お姫様」
サラは頬を膨らませた。
リリスが酒場に入っていくのを見送って、サラは近くの商店の壁に背中を預けていた。
教育衛生上悪いところに娘を連れていきたがらないリリスは、ずいぶんと過保護だなとサラは他人事のように思う。
通りを歩く人たちを眺めて時間を潰していると、ひとりの男が近づいてきた。
「おお……そこのお嬢ちゃん、ちょっといいかい?」
「え……?」
恰幅のいい男性だった。
サラは背中を壁に押しつけながら、その男を見返す。
彼は笑顔を浮かべているが、サラはなぜか強い圧迫感を覚えた。
「僕にもお嬢ちゃんと同じぐらいの年頃の娘がいたんだけど、魔物に食われてしまったんだ。もう少しその顔をよく見せておくれ」
「……あ、あの」
泣き笑いのような表情で近づいてくる彼の言葉は、嘘ではないのかもしれない。
だが、そんなことを言われても困る。自分は自分なのだ。
誰の面影を重ねられても、サラにできることはなにもない。
あまりにも唐突すぎる。
「君は、旅人だろう?」
「え、はい」
怯えるサラに彼は手を差し伸べてきた。
開いた手がサラの眼前に突き付けられる。
「なあ、よかったら……、もし君が望むなら、うちの娘にならないか? 男手ひとりで君を育てることになるが、決して不自由はさせないと誓おうじゃないか」
初対面の男にそんなことを言われて。
サラは小さく首を横に振った。
なぜ自分がずっと彼に怯えているのか、そのときようやくわかった。
細めた目の奥が、笑っていないのだ。
怖いと思った。
「……ご、ごめんなさい!」
サラは男の腕をすり抜けて、走り出した。
「あっ、待ってくれ! 僕は善意で君を――」
追いかけてくる声を振り切るように、サラは両足を動かした。
見慣れない通りを右へ左へと走ると、今自分がどこにいるかもわからなくなる。
しばらく走って息を切らしている最中。母親に助けを求めればよかったのだと気づいた。
しかし、はたしてそうだろうか。
彼は『善意』であると言っていた。
その申し出を断るために、母親の言葉に泣きつくというのは、なにか違うような気がして、サラは胸を押さえる。
動悸が激しい。
「なあ、そこの娘さんや」
「え……?」
路地で荒い息をついている最中だった。
背を丸めた老婆が、籠に入った花を突き出してきた。
視界に飛び込んできた赤い花を前に、サラは息を呑む。
「でも、別にわたし……」
「いいだろう? 花の一輪ぐらいさ。躊躇せずに買っておくれよ」
老婆の物言いには、ある種の強引さが付随していた。
花の色は毒々しいほどに赤い。
サラは身を引く。
「お金……、持ってないし……」
それは嘘だった。
サラは、リリスからいくつかの貨幣を渡されている。決して少なくはない量だ。
面倒事を避けるために言ったサラの言葉は、見抜かれた。
「どうしてそんな嘘を言うんだい、ええ!?」
「えっ……」
腕を掴まれた。
年老いた女の形相が、サラを責める。
「あんた、お金をもっていないはずがないだろう! こんな老いぼれのために少しのお金を払うのも惜しいって言うのかい!? たかが花一輪だろう! あんたの心に正義はないのか!?」
サラは目いっぱい体をよじって逃れようとする。
なんなんだ、この国は。
誰も彼も、どうしてこんなに人の心に土足で踏み入ろうとするのか。
自分はただ、放っておいてほしいだけなのに――。
サラは老婆を思わず突き飛ばす。
転んだ老婆は地面の上に花をぶちまけながら、苦悶の声を漏らす。
「いた、痛……」
「あ、あの、わたし」
老婆は手のひらをすりむいているようだった。
そんなつもりではなかった。
怪我をさせるつもりなど。
「ご、ごめんなさい……!」
大きく謝ってから、サラは再び走り出す。
胸の鼓動は先ほどよりも大きく響き、まるで体内を内側から破壊しようとしているようだ。
苦しい。目の端に涙が浮かぶ。
母親のもとへ戻らなければ。
薬を置いてきたことを後悔した。
足がもつれて転ぶ。
痛みをこらえながら起き上がろうとするサラを、手招きする少女がいた。
「こっちに!」
アメリアだ。
「ここなら安心だよ」
「……はい」
通りの空き家にかくまってもらって、サラは座り込みながら膝を抱いていた。
今さらながら、自分が母親無しでは生きていけないのだという事実に直面し、暗澹たる気分になっていた。
外の世界はこわい。生きていくだけなら、あの宿の一室ぐらいのスペースがサラにはちょうどいい。
誰もいない村でひとり暮らしていけたらいいのに。
だが、この胸を苛む痛みが、それを許してはくれないのだ。
「ねえ、サラさん」
「……」
サラは顔を持ち上げる気力もなく、その呼び声を聞き流す。
が、ふとした奇妙な事実に気づいた。
どうして自分の名前を、彼女は知っているのだろう。
リリスが勝手にしゃべったのかな、とそんなことを思った直後。
「なにか私に言うことはないの?」
氷のような冷たい声が降ってきた。
今までとはまるで違う。
これが本来の彼女の本性なのかもしれないと思うような、そんな声だ。
顔をあげたサラの目に映るのは、人形のように表情が抜け落ちたアメリアの顔だった。
なぜそんな顔をするのか、わからない。
なぜそんな、わたしをひどく責めるような顔を――。
「ここまでしてあげたのに、あなたは一度もありがとうと言わないのね」
「……え?」
アメリアがその手にもったなにかを振り下ろしてきて。
「あなたみたいな悪い旅人は、いらないわ――」
サラの意識はぷつりと途切れた。
水面に泡が浮かぶように、意識が浮上してくる。
初めにサラを襲ったのは後頭部の痛み。
存在を主張するかのように、ずきずきと疼いた。
ここは、と目を開く。
するとたくさんの光がサラを照らしていた。
とても眩しい。
「な、に……?」
光に包まれて、前が見えない。
だが、無数の人の気配を感じた。
やがて少しずつ光に目が慣れてくると、そこは広い室内であることがわかった。
目の前には祭壇のようなものがあり、十人の人間が座している。
彼らは皆、黒い服をまとい、顔が見えないように頭から布をかぶっていた。
目の場所にある穴から爛々とした光が覗けており、サラは思わず「ひっ」とうめく。
さらに振り返ると、そこにはたくさんの人々の姿――。
扇状に広がった席に座る彼らは皆、サラをじっと見つめていた。
その眼差しには、強烈な敵意を感じる。
サラは後ずさりしながら、自分の身を抱いた。
彼らの中央にいるサラは、まるでさらし者にされているようだ。
ここは、いったい――。
「よろしい」
祭壇の中央に座るひとりの男が、その手に小さなハンマーのようなものを握りながら、宣言した。
「それでは、これより『正義裁判』を始めよう」
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