六話 不思議の国Ⅲ
「殺さずに捕えようか。英雄の慈悲だ、喜べよ」
ゾロアスターは口元に歪んだ笑みを張り付け、壁の如き弾幕へ漆黒のガントレット――掌を翳した。そこから広がったのは薄黒い膜のような、弾幕を悉く無効化する防御壁。
《十王戦勝》――第三の化現《黄金飾の白馬》。そこに黄金の輝きは微塵も在りはしないが、その力で間違いない。
絶対防御膜を前に、斉射を止めたアリスは大きく舌打つ。
「英雄の中ではお前が一番早熟なようね、興奮してお姉さん濡れちゃうわッ!」
ドレスの袖口からこぼれ出る無数のトランプは無数の剣へ。周囲を漂うそれを二本手に取ったアリスはスカートを翻しながら駆け出す。
接近したアリスが剣を振る下ろすと周囲の剣も連動してゾロアスターを襲撃。しかし彼女の太刀筋には剣の心得など微塵も感じない子供の遊戯。だが遊戯でも数が数では立派な脅威だ。
対してゾロアスターは虫を払うような仕草で腕を振るう。そこから生じた突風の魔法がアリスの周囲を漂う剣を吹き飛ばし、僅かに動きを止めた少女の懐に拳を潜り込ませた。
「俺よりお姉さんなら、まあ殴られても文句は言わないよな?」
「黙りなさい、よッ」
撃ち出された漆黒の拳は束ねられたトランプに阻まれ――しかし。
ゼロ距離で放たれた漆黒の神威砲撃がトランプ諸共アリスを包み込んだ。
直後、奥の壁に衝撃。尋常ではない威力を孕んだ一撃で叫ぶ暇なく壁まで吹き飛び激突したアリスへゾロアスターは容赦なく神威砲撃を撃ちこむ。
殺す気はないなど、嘘かと思うほどの追撃の嵐。
「ほら、そう簡単には死なないだろう。何せ世界間の道を繋ぐほどの力を持っているんだ、この程度で死ぬ程度であるわけがない。まあとは言え、殺す気になれば殺してしまうが」
彼の笑みに、やはり本来の彼の面影はない。
漆黒に輝く彼女も同様に。
「さて。分かっているとはいえ、その頑丈さは驚愕モノだな」
土煙の向こうで、立ち上がる小さな影。ドレスをぼろぼろにしながらも目立った傷を負っていないアリスは、射殺す眼光でゾロアスターを睨み付けていた。
「あーあ。ドレスが台無し。どうしようかなどうしようかな、殺せない相手と殺り合ったところでお姉さんには得がないのよねえ」
「遊んでくれるんだろう?」
「ごめんねえ、英雄と遊べるなんて言ったお姉さんが馬鹿だったなあ」
「……、」
猫撫で声とは裏腹に、眼光に宿る殺気の色に淀みは無い。
まるで、本当は殺せるんだ、そう言わんばかりの眼だ。
「手を抜いているなら心外だな。お前たちの目的は英雄を殺すこと――」
「違うわよ。英雄は英雄でしか殺せない。これはお姉さんでも変えられないのぉ。だからまあ君達三人の英雄は、英雄の友に殺されはしない。だから敗北の道は取れない。つまり殺すしかない。どこまで行っても英雄には勝利しか許されない。敗北を許されるのは、勝利しか許されない英雄同士の戦いだけ。矛盾って言葉があるでしょう? それと同じ」
「ほお、だがいいのか? そのような秘密をバラシても」
「秘密なんかじゃないわ。むしろ後に教えて絶望させるつもりだったって感じ」
てかお喋りはもういいやとアリスは言うと、眼光を僅かに緩ませる。
刹那、ゾロアスターは頭上から襲い掛かる何かの攻撃を間一髪回避。
後方に飛びのいた彼が見たのは、巨大な影。自分の十数倍はある巨大な生物。
血のように紅く鋭く逆立つ体毛に覆われた巨躯、同色の牙を剥き出しにするそれは、
――猛獣。四足で聳える、腹を空かせた猛獣猛獣だった。
「チェシャ、ちょっとアレの相手をしててちょうだい。雑に歪まされた『不思議の国』を治すまでのちょっとでいいわ。なんらな腕ぐらい食べても――黒いのは英雄の付属品だから」
目視すら困難な速度で突っ込んできた猛獣――チェシャの一撃を防御したゾロアスターは、先刻の因果応報か、奥の壁に衝突――しかしその顔には、酷く歪んだ笑みが張り付いていた。
☆ ☆ ☆
「本能の獣、ではないな。知性はある程度有しているようだ」
赤き猛獣チェシャの動きを見て、ゾロアスターはそう呟く。
この猛獣は攻撃と回避、そこ加えて受け流すという戦法を取る上に、ゾロアスターが行使する王権法に対しても一定の対処法を得て、更なる攻防へと繋げている。
彼の世界に蔓延っていた魔物とは段違いの強さを誇る、謎の生物だった。
天から振り下ろされる猛獣の両腕を、昏きグリーブ《疾き鋭牙の駱駝》の瞬間移動で躱し、移動先に指定したのは背後ではなく、更に天である。四足歩行のチェシャに対して背後に回るというのは気の利いた不意打ちにならず、むしろ強力な蹴りが待ち受けていることは自明の理。
ならば『飛べない獣』にとって有効となるのは、奴より高き天の他ないだろう。
「アイツはどこに消えた?」
漆黒の神威砲撃を猛獣の背に叩き込みながら、ゾロアスターは周囲を見渡す。
あの女の姿が何処にも無い。この空間を治すと言っていたが、チェシャの襲撃と同時に見えぬ何処かへ姿をくらませたのだ、少なくとも劣勢だったであろうことは間違いない。
背から黒翼を生やして滞空する眼下で、チェシャが唸るように牙を見せて威嚇している。
「お前はあの女に随分と飼いならされているようだな。先刻の武具の召喚術と言い、あの女の力は操ることに長けているのだろうか。ふむ……魔法とも王権法とも感覚が異なるのも気掛かりだ」
思い起こせば、この空間に連れ込まれる直前に顔を合わせた人間たちから感じる力も、ゾロアスターが感じたことのない未知の感覚であった。中には、王権法と似た匂いを発するものらもいたが全く同質とは考えにくい。
別次元の世界。別次元の力。別次元の、世界の英雄。
勝利しか許されない、英雄同士の殺戮劇。
意図が見えない。
そもそも、世界に戻れるのなら意図などどうでも良いのだが、どの道『勝利しなければ』戻れないのだとすれば、分からないまま戦うのも気持ち悪いものだ。
現在のゾロアスターに善性は無い。ゆえに全てを殺戮することに躊躇は無い。
しかし、だからこそ、絶対悪が『踊らされる』という現状にも、納得など行くわけがない。
「俺は、お前みたいに飼いならされるのはごめんだよ。むしろ全て、俺の下にひれ伏すくらいが、ちょうどいいと思わないか? お前ら程度の悪、俺の前にはあまりにも無力だ」
ゾロアスターは、両腕に漆黒のガントレットを纏う。
右手で、左手を強く掴む。引き抜くように、昏き光を肩口から零しながら。
腕そのものを引き抜くようにして、唱える。
「――《光輝を染め覆う絶対戦勝の混沌剣》」
引き抜かれるは、漆黒で周囲を塗りつぶす必滅の剣――の、はずだった。
直後に引き起った事象には、ゾロアスターですら驚愕の目を見開く他は、なかったのだ。
――取り、戻す……ゾロアを…………ここには他の、英雄だっているんだから……。