四話 不思議の国Ⅰ
眩い光が収まった瞬間、ゾロアが目にしたのはピンク一色の景色だった。ここが『部屋』だと気付くのにそう時間はかからなかったが、次いで理解した現実が彼の常識を一変させた。
それは小さいのか、大きいのか。判別に困るが、ここは前者としよう。
そうした場合、ゾロアの体が小さくなっているということが分かる。何せ、ゾロアの体に対して部屋の広さが異常なのだ。部屋の広さに限らず、置かれている家具など全てが常識外れのサイズで以ってゾロアの前に立ちはだかっていた。
もしゾロアが通常のサイズならば何も疑問に思わない部屋の広さと家具のサイズだっただろう。
これを数値で示すならば、ゾロアが『1』に対して、他の全てが『30』といったところ。
奇妙な光景が思考を埋め尽くす。
ピンク一色の目に悪そうな部屋。まるで少女が夢に見るようなメルヘンの顕現とでも言える。そこに放り込まれた自分の体は推定30分の1にまで小さくなっている。
と、そこで更に気付く。傍に、ラグナの姿が無いことに。
ピンク一色の中に黄金があればすぐにでも気付くだろうが、どこにも彼女の姿は見当たらない。
意識を集中させ、ラグナとの繋がりを辿る。
「…………感じ取れない、か」
ゾロアとラグナは700メスル(他世界ならばメートルなどと呼ばれる長さの単位)以内であれば、離れていても互いの位置を明確に感じ取れることが出来るし、力の発動も可能だ。
しかし感じ取れないということは、それ以上距離が離れているか、契約が途切れている。とは言え後者である可能性は無い。ラグナの位置こそ分からないが、彼女が存在していることは分かる。
つまり、この奇妙な空間のどこかに、ラグナは存在しているはずだ。
ゾロアが見つめるのは、扉。別の部屋に繋がる巨大な扉だ。
近付き、何も起こらないのを確認し、扉を押してみた。
「重っ……」
僅かに、ほんの僅かだけ動く感触があった。しかしそれ以上は重すぎてびくともしない。
ならば、とゾロアは扉から距離を取った。
ラグナが居ない今、《王権法》は使えないが、ゾロアには『魔法』がある。
有する属性は水、煌炎、闇。この場に於いて用いるべき魔法は、
「――『死刑・水斬首の侯爵夫人』」
ゾロアの周囲を逆巻くように出現した大量の水。うねり、増して、扉と同じ高さの水柱となったそれを操作し、大きくしならせて扉へ叩きつけた。要は圧倒的物量による殴打である。
流石にこれほどの衝撃なら通れる程度の隙間を生むくらい可能だろう。
そう思った直後、ゾロアの体は『己が発動した魔法』によって吹き飛ばされた。
即座に理解。あの扉が魔法を反射したのだ。
魔法を消し、態勢を立て直して着地。無言で聳え立つ扉を睨み付けた。
……まずはこの空間を知るところから始めなければならないか。
☆ ☆ ☆
黄金髪の少女ラグナはピンク一色の部屋で喚いていた。
「にゃー! 目が痛い! ピンク! それになんか小さいぞー!」
極小化した体。まっピンクの部屋。相対的に巨大な家具。
近くにゾロアの姿も気配も無くただ一人。
両手を挙げて奇声を上げている自分の滑稽さに殺されそうになる。
精神を落ち着かせて、ふと思う。
ゾロアと離れ離れになったのはいつぶりだろうかと。
彼が生まれた時から観察していたし、対面した五歳の頃から十三年間共に居た。
その間、ここまで離れたことは一度として無かっただろう。
互いに人間の枠から外れた者同士、 手を取り合ってきた。
互いに離れたくないとさえ思っていた。
――どこからか溢れたこの寂しさは、初めての感覚だった。
「……戦勝の神だって寂しい時は寂しいんだぞぉ…………」
「ならお姉さんが一緒に居てあげよっか?」
「ッ!?」
突如隣に出現した気配。
フリルドレスを纏った金髪の少女――アリス・ドゥオ・キルマリア。
ラグナは飛び退こうとしたが腕をアリスに掴まれ、そのまま床に叩きつけられた。
見た目からは想像できない膂力。床には放射状にヒビが入ったが、ラグナに外見的な傷は無い。
「びっくりした? びっくりしたあ?」
人ではない『レガリア』である彼女に通常のダメージなど意味を成さないということを知っていたからこそ、アリスは加減無しにラグナを叩きつけていた。
ラグナはそれを理解すると同時に、体から強張っていた力を抜く。
現状、なにをやってもアリスには勝てないことを認めたからだ。
「あれ? もう終わり?」
「……私を壊しに来たの?」
「んーん、違うんだなあこれが」
アリスはラグナを離すと、聳え立つ椅子の脚を軽く小突いた。すると椅子は一瞬の内に縮小、通常のサイズに変化し、そこに腰掛けたアリスは両足をパタパタさせながら、
「君とお話がしたいなあって」
「……なにを」
立ち上がったラグナはアリスを睨み、返ってきた感情を窺えぬ瞳に肩がぶるりと震えた。
「ここはね、お姉さんが持ってる空間なの。『不思議の国』っていうね」
「一体何者なの、貴方達は」
「君と同じ人間の枠に収まらない存在。今はそのくらいしか教えたくないなあ」
「じゃあ話って何?」
「せっかちだなあ。でも許してあげる。お姉さんが君に聞きたいのは――」
アリスが何を言いかけた時、空間に大きな衝撃があった。轟音と地鳴り、空間が想定以上のエネルギーに対して崩壊を始めようとしているような、悲鳴にも似た衝撃だった。
何が起こった? ラグナは考えながら周囲を見渡しても何も起こっていない。
「なに?」
「始まったみたい、始まっちゃったみたい」
「だからなにが――」
「殺し合い」
即答で言い切ったアリスの声には一切の感情が失せていた。
「この空間はお姉さんの空間。だからお姉さんの好きに作り替えられるし、全てを観測できる。この部屋は裏表に分かれていてね、ここは表。第二の英雄は裏に居て――」
アリスがぱちんと指を弾くと、宙に何かの光景が浮かび上がる。
それは裏の光景。ここには居ない、しかしここに居る『二人』の姿が映し出されていた。
「――これから、殺し合うの。自分自身とね」
一人はゾロア。
そして、もう一人は――褐色の肌をしたゾロアだった。
「人間とレガリアと魔人の血を受け継ぐただ一人の存在。そんな彼には、彼から魔人の部分だけを抽出して形成した自分自身と殺し合ってもらいまーす♡」
「――――」
「どうしたの? どうしちゃったのー?」
「……これ、魔人部分のゾロアが倒されたら、どうなるの?」
「人間である彼の中から魔人の血が失せる感じだよ」
それは実に喜ばしい――とは言えない。
かつてラグナは、ゾロアの中にある魔人の力を押さえつけていた。それはいわば全力の半分を封印するに等しい行為。封印を解いたのは、彼に出生の真実を明かした時だ。
宿敵――アンラ・マンユを斃すには、《十王戦勝》の力を最大限引き出す必要があったから。
そうでもしないと扱いきれないのが《十王戦勝》というレガリアなのだ。
――なら、もし魔人の力が失われたら?
ゾロアは二度と、《十王戦勝》の全力を扱うことが出来なくなる。
ラグナは、暗い空間でゾロアに耳を通じて聞いた言葉を思い出す。
『第二の英雄、キミたちの力は少しばかり危ういのでな。こちらで『異能顕現力』に制限を付けさせてもらった。解除はしない。自力で解除する分には構わないがな』
危険視された《十王戦勝》の力。それはおそらく『覚醒』の黄金剣の力のことだろう。
つまり『覚醒』に再度至ることさえできれば、事態を打破することが可能かもしれない。
そう考えた二人は、『共闘して首謀を討つ』という計画を秘めていたのだ。
殺し合わなくてもいい。何も失うことはない。各世界の英雄の知人までもが巻き込まれるという事態にこそ陥ったが、それでもこの計画は揺るがない。――はずだった。
だが。
もし魔人の力が失われたら。
ゾロアは、二度と『覚醒』に至れなくなってしまう。
計画が瓦解する。――殺し合いを回避、出来なくなってしまう。
「あ、そうそう。お姉さんが聞きたかったのは――」
アリスが歪なまでに口角を吊り上げ、眼を三日月のように変形させ、少女の面影を完全に消し去った凶悪な表情で、無慈悲に言い放った。
「――上手くいくと、バレてないと思った? って話。あはは、アハハハハハハハハハハ、ばっかじゃないの。理法則すら断ち切る黄金剣への対処が制限だけなわけないじゃない。黙って見ていなさい。戦勝の模造神に、絶望を教えてあげる。勝利という名の絶望をね」