訪問者
東の空が明るく輝く時間になると高く連なる山々の厚い雪はキラキラと輝き、溶け出した水は川へと向かい深く、どこまでも果てしなく広がる森を潤す。
枝に小鳥が止まり、差し込む朝日がスポットライトのようにあたれば清らかな乙女のような声でさえずり唄いだす。
一羽、また一羽と。
いくつもの季節が巡ろうとも木々は生命のたくましさを誇り、緑緑しく葉は茂る。燦々と照らす陽に森の木々は、むせ返るような美しさをそこら中に漂わせていた―――それは、生命の輝き。
森を揺り籠に、落ち葉の音は子守唄に。ここで生きることを選択した者達は、したたかに森を利用し何代と命を繋いでいく―――それも、生命の輝き。
変わることのない永遠がある風景の名は―――常盤の森と呼ばれた。
その森の中心に一本の巨木がそびえる。人々は、その巨木を常盤樹と呼んだ。
物語の誕生と共に芽吹き、生み出された物語を肥料とするかのように大きくなり今も成長し続ける幹は、どんなに空を見上げても雲に阻まれ高さを知ることは出来ず、大人が何百人と囲まなければ手をつなげないほど太く、そのたたずまいは見事なものだった。
「常盤樹の王、失礼致します。アラー殿をお連れ致しました」
森のはずれにある高い丘の上に建つ白亜の城、最上階のバルコニーで近衛隊長の報告を背中に受ける常盤樹の王。
「アラーとな?・・・おぉ、昨日の旅の者か。あい、わかった。通すが良いぞ」
森へ眼を向けたまま振り向くことなく、人に命令することに慣れた口調で近衛隊長へ命じる。
その顔にはイタズラ好きの少年のような笑みがこぼれていた。
重厚な扉が開けば[アラー]と呼ばれた女が、一番に眼にするものは最奥の壁に施された紋章だろう。
古より分かたれた光と闇の世界。
決して交わることはないけれどもコインの表裏のように互いを必要とながら存在する二層の世界の王として君臨する王家の証。
案内された女が畏怖するのは初めて眼にする紋章か、我が寵妃か。そう考えれば笑わずにはいられなかった。
「アラー殿、光栄にかしずくがよい。王の許しがでたぞ。粗相のないようについてまいるのだ」従者に伴われて真紅の絨毯を歩く女は、宝石や飾りがブラブラと揺れる金の刺繍で縁どられたエキゾチックな衣装を着ていた。
まるでこの場所に不似合いな踊り子の姿。
高天井と同じ高さの大きな窓からは明るい光がたっぷりと取り込まれ、真白の壁に反射すれば外と何ら変わらない採光を謁見の間にもたらす。
真紅の絨毯の続く先に飾り気のない玉座が二つ。
そのうちの一つの玉座には王妃の姿があった。肌は抜けるように白く、ハシバミ色の長い髪は手が行き届きツヤツヤと美しい。
だが、それ以上に美しいのはその瞳。
星の煌めきを瞳の奥に閉じ込め、一瞬として同じ色ではない光彩は見るものの胸をざわつかせ虜にする。瞳に魅せられたアラーは、吸い寄せられたかのように玉座へ向かう。その足取りは夢遊病者のようにフワフワとしていた。
ある程度、玉座へと近づいた所で従者の足が止まるとアラーはその背中に顔を打ちつける。衝撃で我にかえるとすぐに片膝を付き頭を垂れた。
これ以上、失礼のないようにひたすら声がかかるのを待つ。
するとしばらくして「もう、お加減はよろしいのですか?」と王妃の澄んだ声が響く。まるでハープが鳴りだしたかのような柔らかく優しい空気が謁見の間に広がる。
思わず顔を上げたアラーだったが慌てて頭を下げて答えた。
「はい。王妃様には倒れた所を助けて頂き看病までも・・・本当にありがとうございました。これからまた旅立ちますので先ずは、ご挨拶をと思いまして」
そこへ常盤樹の王が、バルコニーから戻り玉座へと座り込む。柔らかな空気が一転し緊張感のあるものへと変わる。
「あ~。そう堅くならなずともよい。ところで、かなり衰弱したようにみえたがもう良いのか?まだ回復してないのなら遠慮せずとも休んでいても良いのだぞ?」
「私の様な旅の者には勿体のぅお言葉です。ですが、仲間が待っていますゆえ急がなければなりません」
そう言ったアラーは懐に手を入れ、模様細工の施された小さなガラス瓶を取り出す。
「王妃様。王妃様にはこちらを受け取って頂きたいのです」
ガラス瓶を王妃に良く見えるようにと頭より高い位置で掲げたアラー。
「感謝の気持ちと言っても・・・こんなものしかありませんが」
下げている頭を申し訳ないとばかりに、更に床につかんばかりに下げたアラーに王妃は『頭を上げなさい』と優しく声をかけた。
「困った時は、お互い様ですからお気持ちだけで充分です。それに離れていてもその小瓶に施された細工が見事なものだと解ります。それは、アナタの大切な物ではないですか?どうぞ、再びその胸にしまいになって下さいな」
だが、どうしても受け取って欲しいアラーは「お願いで御座います」と頑なに言い続け、瓶を引っ込めようとしない。どうしましょうと困まり果てた王妃は、常盤樹の王に視線を交わしてお伺いをたてた。
二人のやり取りを見ていた常盤樹の王は「うむっ」と一つ頷き、王妃の代わりに従者へ指示を出す。
「では、私が特別に許そう。これ、妃の元へ」
従者が懐よりレースのあしらわれた布を取り出し手へ広げる。アラーより小瓶を受け取ると軽く磨き、王妃へと恭しく手渡された。王妃が手に収めた瓶は、模様細工の面が陽に反射しキラキラと光り、かざしてみれば中には液体が入っているのが透けて見えた。
「これは、一体何でしょうか?」
中身を尋ねる王妃にアラーは、ニコリと微笑む。
「この世界にない素晴らしきものを運んでくる、と伝え聞いております。百聞は一見に如かずです。どうぞ、フタを開けてご覧になって下さい」
王妃は、言われるままアラーの言葉に従いフタを開ける。徐々に熱を帯び始めた小瓶は、布越しでもほんのりと温かくなっていく。次第にゆっくりと水蒸気のような〈もや〉が、小瓶の口から漂い始めた。眼の前に立ちこめる〈もや〉をしばらく眺めていた王妃だったが、いきなり液体が火傷しそうな熱を発し小瓶が熱くなる。
「・・・嫌です。熱い!」
あまりの熱さに驚いた王妃は、慌てて小瓶を床に放り投げてしまう。だが、不思議な事に床に落ちた小瓶にまだ中身が充分に残っているのが見えるのに床に一滴も零れ落ちはしない。
「ゲーム。楽しいゲームの始まりです」
アラーは、静かに呟く。
この言葉を聞き取ったかのように中身の液体が、一気に沸かしたようにブクブクと動いた。もうもうと〈もや〉を吐き出し、かなりの勢いで室内を薄く漂う。こうなると謁見の間ににいる誰もが、得体のしれない不気味さを感じ始めた。
少しばかり眉を顰めながらも常盤樹の王は、場を和ませようと愉しげに聞こえる口調でアラーに皆が聞きたいであろう質問を投げかける。
「アラー殿。して、これはいかなる趣向かな?」
「ゲーム。楽しいゲームの始まりです。ゲーム、楽しいゲームです」
さっきと同じ台詞を繰り返すだけのアラーの真意を探ろうと常盤樹の王はアラーの瞳を覗き込む。その瞳には先程までの輝きは感じられず、どこまでも暗い闇に捕らわれていた。
(これは!)
王の背中に冷たいものが這ったかと思えば、一瞬にしてこめかみから一筋の汗が流れた。
「いかん!瓶の蓋を戻せ。その女も城より追い出せ!!急ぐのだ」
立ち上がり語気強く指示すれば、兵士達は戸惑いながらもアラーを素早く取り囲む。だが、アラーは怯える素振りもみせなかった。それどころか、アヒャハハハと甲高い声で笑い出し始めたのだ。
「もぉう遅いわ。何もかもな。ヒャハハ」
謁見室内に漂っていた〈もや〉が天井の一カ所に集まりだす。
常盤樹の王は〈もや〉の間に一対の眼を見た気がして眼を凝らして見つめている。その間も〈もや〉は、ぐるぐると天井で渦を巻きながら集まっていき、小さな動物のような姿になった。まるで犬のようにぴょこぴょこと飛び跳ね、じゃれていたかと思うと一気に天井を駆け下り窓枠をくぐり抜け、バルコニーへと躍り出ていく。
だが、陽の下に姿を晒せばグネグネと苦しそうにうごめき始め、黒い塊へと変わり始めた。やがて、塊は徐々に大きくなり形をとっていく。
不気味さに誰も動けない中、常盤樹の王がバルコニーへと駆ける。その塊は巨大な体躯に艶やかな黒檀色の毛並みを持った魔獣へと姿を変えていた。憎しみに赤く膿んだ眼、黒々とした鋭い爪、低く喉を鳴らせば白い牙が鈍く輝く。
(こやつ・・・狼か?)
かなりの敵意をむき出しに一歩、二歩と近づいてきた獣は喉が潰れんばかりの咆哮をあげた。鼓膜がビリビリと震える程の耳をつんざく咆哮に、その場にいた誰もが恐怖で身体が凍りついたように動けなかった。
獣が地を蹴り飛び掛かる。白い牙が常盤樹の王の眼前に迫る。
しかし、終に常盤樹の王が襲われることはなかった。
魔獣が寸前で、跡形もなく消え去ったのだ。我に返った常盤樹の王が「一体、何なのだ」と呟きながらバルコニーから素早く周囲を確認する。辺りを見回すが、どこもおかしいところは見当たらない。空は青く輝き、風は穏やかに常盤樹の葉を揺らし、静かに森を包んでいる。一見するといつもと同じ風景に見えた。
だが、不安が常盤樹の王の胸をなで、感覚全てが警告を鳴らし続ける。張りつめた緊張の中、小さな変化も見逃ぬよう森を眺め続けた。
「どこだ。何かが・・・おかしいのだ。どこだ」
いつまでも厳しい顔で森を眺め続ける常盤樹の王に、王妃も心配してバルコニーへ出てきた。
「あなた?」
常盤樹の王の背中に手を添え二人が見つめあった時、一陣の風が吹きぬけた。
「おぉ、参られた。あの御方が、あの御方が参られたわ!!」
兵士達に取り囲まれたアラーが声を張り上げ叫ぶ。その顔に歓喜が溢れていた。風は、段々と強いものへと変わり木々をその度に大きく揺さぶり続けていた。風に煽られた黒とも紫とも区別のつかない雲の塊が押し寄せ、空を侵食し始める。抜けるように青かった空は、ゆっくりと色を失い大地に影を落としていく。
いち早く変化に気付いた森に生きる者達は、木々の間や住みかに隠れ、何かに怯えるように身をよせあっていた。そして、空が完全に色を失った頃、恐怖に彩られた低い声が響きわたった。
『我の声を聞け。おとぎの者達よ。幸せな結末なぞ滅ぶがよい。この世界は、今より我のものになるのだ』