悲しい人形と壊れた人間の街
白い壁にだらんと寄り掛かった人形が、それまで閉じていた口を突然小さく開いた。木製の体から何か悪いものを追い出すかのように、そのまま顔のバランスを大きく崩して目一杯に口を開け、しばらくして気が済んだように口を元のように閉じた。
大輔は人形を眺めて、もう一度そのあくびのようなものを待っていたが、人形は元々の使命を思い出したかのように、ただそこに置かれているだけだった。壁がくりぬかれただけの窓から、始まったばかりの朝の謙虚な光が滑り込み、人形の顔に小さな影を作っていた。異様さがようやく大輔に染み込むと、大輔は人形を手に取って立ち上がり、ぼろぼろの靴をひっかけて外に出た。
黄色や桃色の建物に挟まれた石畳の道を歩き、存在意義を疑うほどに短い石のトンネルを抜けると、商いの雰囲気が少しだけ加わった。道の両側から幼い子供のようにひょっこりと顔を出した丸い看板が、小さな影を建物の壁に落としていた。
クロワッサンの描かれた看板が見える前に、甘い匂いがふんわりと触れてきた。大輔は少し歩幅を大きくしてパン屋に向かい、薄緑色のドアをからんと開けた。橙色の光が詰まった店内は、片側にパンが行儀よく並び、その逆側には三つのテーブルが置かれていた。店主の定雄は大柄な体を小さくしてパンを並べ、一番奥のテーブル席には斉藤という名字の老夫婦が隣り合って座っていた。
「夜が明けたばかりだというのに、ずいぶん朝早くからやっているんだね」大輔は定雄の背中に話しかけた。「いつもより何時間も早いから、まだやっていないかと思っていたよ」
「ここは夜中でもやっている」定雄はパンを並べる手を止めた。
「夜中にクロワッサンを買う人はいるのかい?」
「いるわけないだろ」
「じゃあ、なんで店を開けているんだい?」
「パンが焼けるからだ。捨てるのはもったいないだろ」
「夜になる前にパンを焼くのをやめればいいじゃないか」
「それは俺にとって非常に難しいことだ。夜は何の前触れもなく突然俺の前に現れる」
定雄はカップにコーヒーを入れ、クロワッサンと一緒に大輔に渡した。
「毎朝ここのパンが冷たい理由がよく分かったよ。ところで、訊きたいことあるんだ」
「なんだ」
「今朝、僕の人形があくびをしたんだ」大輔は手に持った人形を顔の体の前に掲げた。「突然、口を大きく開けて、しばらくして閉じた。どういう訳だか分かるかい?」
定雄は目を細めた。「それは人形作りに訊いたほうがいい」
「そういえば、人形を渡された時に何かあったらすぐに来いと言われていた」
「とにかくパンを食べだら人形作りの家に行ってこい」
「そうするよ」
大輔はクロワッサンが載った小さな皿とコーヒーカップを持ってテーブル席に移動した。
「おはよう、二郎さん、絹子さん」
斉藤夫妻がにこにこしながら白くなった頭を同時に下げた。
「お二人はいつもこんな朝早くからいるの?」
「大体はいますよ」二郎が言った。「君はいつもよりずいぶんと早く来ましたね」
「人形があくびをして、何となく家を出て来たんだ」
「ほう」二郎が頷いた。「君はこの町に来てどれくらいになりますかな?」
大輔は少し考えてから「三ヶ月くらい。確か三十歳の誕生日に来た」と答えた。
「そうですか。君を初めて見た時は本当に疲れ果てていました」
「ここに来る前、とても長い距離を歩いて、その間に難しいことをたくさん考えていたんだ。そういえば、あの日もここでパンを食べた」
「ずいぶん元気になったみたいね」絹子が目尻の皺を深くして言った。
「三ヶ月、ほとんど何もしていないからね。昼も夜も大抵は座っているし、考えることは何もない。疲れさせる物事は僕に一切近寄らなくなった」
大輔はクロワッサンをちぎって口に入れた。優しい甘さが口に広がり、鼻から心地よい香りが抜けた。苦いコーヒーを一緒に飲み込むと、体の真ん中が少し温かくなった。
「人形作りはもう起きているのかな」
「大丈夫。窓をノックすればすぐに出てきますよ」二郎が答えた。
「前から気になっていたんだけど、この町の人はみんな人形を持っているの?」
「彼が人形を作って、町に住む人に渡すんです」
「何で人形を渡すんだろう」
「それも彼に訊くといい」
ガラスの外を見ると、石畳の道は先ほどよりも少しだけ光の反射を強めていた。
大輔は最後のパンの欠片を口に運び、残りのコーヒーを流し込んだ。
「二郎さん、絹子さん、ではまた」大輔は立ち上がり、空になったコーヒーカップと小皿を片付けた。「定雄さん、行ってくるよ」
店主の定雄は軽く手をあげた。
外の空気にはいくらかの温かさが芽生えていた。道の先に繋がる空はしっかりとした青色になり、小さくちぎれた雲がゆっくりと空を横切っていた。
大輔はパン屋を出ると通りの先にある人形作りの家に行った。淡い色をした他の建物と違って、その家の壁だけは真っ黒だった。窓の内側には重そうな赤いカーテンが掛けられ、中の様子は全く見えなかった。
大輔がコツコツと窓を叩いたが、中で誰かが動く気配は見当たらなかった。しかたなく道を眺めながら、その場で待つことにした。道にいる数少ない人は、特に目的も無い様子でゆらゆらと歩いていた。色あせたシャツを着たような建物は、一見明るいが良く見ると色の奥にたくさんのひびが刻まれていた。町には全体的にくたびれた印象があった。
突然、窓の中にある赤いカーテンが下から持ち上げられ、眠そうな顔が現れた。
人形作りはぼさぼさの髪を肩の上まで伸ばしていた。顔の部品は不気味な程形の良いものが揃えられ、それがきりっとした輪郭の中に最適に配置されていた。三十歳は超えていると思われる肌だったが、健康的な艶があった。人形作りは窓を開けると「こんな朝早くに来るなよ」と不機嫌そうに言った。
「何かあったらいつでも来いって、あんたが言ったんじゃないか?」
「例えば、『困ったことがあればいつでも言ってね』と近所のおばちゃんが言ったとするだろ」人形作りは大量の髪に手を入れ、頭をごしごしと豪快に掻いた。「寝静まった夜中に、そのおばちゃんに電話を掛けてみろよ。近所で悪口言われるぞ」
「でもさっきパン屋であった斉藤夫妻が『朝早くても大丈夫』って言っていた」
「じいさん達は別だ。老人達には全力で敬意を示すべきだ」人形作りは優しい目をした。「ところでお前は何の用で俺を起こしたんだ?」
「もらった人形があくびをしたんだ。どうゆう訳だか教えてくれないかな?」
人形作りは大きくため息を吐き、ついでに「入れ」と言うと、入口の鍵を開けた。
中は薄暗かった。完成した人形も、作りかけの人形も見当たらなかった。生活がなされている様子も一切なかった。八畳程度の部屋の真ん中に、大きな木のテーブルが置かれているだけだった。人形作りはテーブルに沿って置かれた小さな椅子に腰掛けた。
「お前の人形があくびをしたんだな」
「そうなんだ」大輔も椅子に座り、手に持っていた人形をテーブルに置いた。
木製の人形は純朴な顔をして大輔を見ていた。
「お前はあくびを取られたんだ」
「あくびを取られた……」大輔は無意識に首を傾げた。「人形に?」
「そうだ。人形にあくびを取られたんだ」
「ちょっと待ってよ。僕はもうあくびが出来ないってこと?」
人形作りは楽しそうに頷いた。「お前があくびをすることはもうない」
「なんだって人形が僕のあくびを奪うんだ?」
「この町にいる人形は、持ち主が捨てたいと思った観念を引き取る。観念というというよりもっと人間の根本的なものと言ったほうが適切かもしれないが」人形作りは人形の頭を指で撫でた。「こいつらはいつも辛いものを受け取っちまう」
「ちょっとよく分からないんだけど」
「お前は疲れ果ててこの町に来た。体も心もぼろぼろに疲れていた。お前は心底『疲れ』を憎み、疲れを取り除きたいと思っていたはずだ。そして、人形はお前から『疲れ』という観念を取り上げた」
「それは『疲れ』という言葉に対するイメージが持てなくなったということ?」
「もう少し根本的なことが出来なくなったんだ。人間の脳は、体や精神が疲労した状態と『疲れ』のような大雑把なイメージを繋ぎ合わせて保持している。だから体や精神がある状態になると、それに繋がっているイメージが呼び起されて、何となく『疲れている』と人は感じるんだ。お前はその脳の処理そのものを失った。だからいくら体がずたぼろになっても、脳はそれを『疲れ』と認識しない。言っていることは分かるか?」
「たぶん」大輔は小さく頷いた。「僕は、何というか、体の疲れを『疲れ』と感じなくなった」
「そんなところだ」人形作りは小さく笑顔を作った。「ただその影響はもう少し大きい。つまり『疲れ』に連鎖する脳の指令が発生しなくなるんだ。お前、このごろ寝ているか?」
「寝ていない」
「つまりそういうことだ。人間の脳は『疲れ』を認識すると、体を休めるように、例えば寝ろと指令を出す。お前の脳は『疲れ』を認識しないから、寝ろと指令することもない」
「確かに数日前から寝ようという気分になったことがない」
「そしてここからがお前の質問の答えになる」人形作りは椅子の背もたれに体を預けた。「人形は人から辛いものを受け取り、代わりに不必要になった人間の機能をもらうんだ。お前の場合、人形はお前を苦しめていた『疲れ』を受け取り、寝なくなって不要になったお前の『あくび』をもらった。そういうことだ」
「僕は『睡眠』という機能も失ったのかな?」
「それはたぶん失っていない。お前にとって『睡眠』は不要なわけではなくて、脳がお前に睡眠をさせていないだけだ」
「それにしても」大輔は息を吐いた。「何かを無くすことは少なくとも良い気分ではないね」
「それは身勝手な発言だ。人形がお前から取り除いたものは、お前を楽にさせた」
テーブルに腰掛けた人形の口が大きく開き、ゆっくりと閉じた。
「これが僕のあくび……」不思議と笑いのようなものが小さく込み上げた。「ちなみにパン屋の定雄さんや斉藤夫妻も何かを失ったの?」
「ああ。パン屋は『時間』の観念を失くした。時間を感じなければ焦りも無い。そして終わりもない。店を閉められないから、客が来ない夜中も店を開けている」
「そういうことだったんだ」
「斉藤夫妻の人形は『悲しみ』を受け取り、泣くことを奪った」
大輔は自分の人形の顔をじっくりと覗き込んだ。薄暗い光が照らす人形の顔は、よく見ると疲れている様にも見えた。それでも単なる物であることに変わりはなかった。
「あんたはこの町の人達を楽にするために人形を作って渡しているのかい?」
「それは違う。この町の人間にとって人形は一部なんだ。鼻みたいなものだ。俺はそれを与えている」
「この町の人達は、人形が無ければ生きられないということ?」
「もう少し軽いものだ。例えば、お前が鼻を持っていないとする。お前は匂いのない世界で生きる。すると世界の感じ方がだいぶ違うだろ。それと同じで、人形が無ければこの町を正確に感じることが出来ないんだ」
「その人形が、何のために人の観念や機能を奪うんだい?」
「人形は人間を調整している。つまり人間を町に適したものにするんだ。人形によって住民は町を正確に感じることができるし、町にとって適切な人になる。なんとなく分かるか?」
「なんとなく」
「お前は人形のあくびを見ても腰を抜かさなかっただろ」
「確かに。何か変だと思うのに時間がかかった」
「それはお前が町を正確に感じているということだ。人形のおかげでな」
「今ようやく気付いたんだけど……」大輔は人形作りの目を覗いた。「なんだかずっと違和感があったんだ。その正体がようやく分かった。あんたは町に馴染んでいない」
人形作りはふっと笑った。「そうだ。俺は自分の人形を持っていない」
「なぜこの町にいるんだ?」
「ここは町じゃない」人形作りは大輔に見せつけるように大きなあくびをした。「俺はもう少し寝る。お前と違って俺は疲れるし、眠くなる」
人形作りは奥の戸を開けて、別の暗い部屋へと消えていった。
大輔は取り残された部屋でぼんやり部屋の細部を眺めてから外に出た。視界に入ってきた町の景色は、霧がかかっているわけでもなく、焚き火の煙を風が運んで来たわけでもないが、白みがかった幕を町に被せたように微かにぼやけていた。その景色の中にいる人はどれも何かを欠いていた。石畳の道を歩く人も、道沿いにある石のベンチに腰掛けている人も、見た目はごく普通だが人間が持つ雰囲気にしては何か物足りなかった。
ぼやけた町に比べると、人形作りの家にあった物や話されていた言葉はくっきりし過ぎていた。全てにしっかりと存在感があった。町を覆う空気とあの家の中に詰まった空気は、どこか明確に違うように感じた。
大輔は石畳みの道を少し歩き、道沿いにある適当なベンチに腰掛けた。ついさっき思い出した過去の匂いが消えなかった。町に来る前の記憶が、まるで他人事のような気軽さでぽこぽこと思い出されていた。大輔は少し迷ったが、静かに過去を想い起こすことにした。
二十歳になる直前、大輔は祖父母の土地に移り住んだ。祖父母はその地でとうもろこしを作っていたが、何年か前に亡くなり、その土地は大輔に引き継がれていた。広大な土地は長い間放置され、すでに畑としての機能を完全に失い、無差別に雑草が覆い茂っていた。
境目が見えないほどの広い土地の真ん中に即席の小さな小屋を作って生活を始めると、土地を半分にする線を描くように、土を真っすぐ掘り起こし始めた。数日で手の皮はぼろぼろに剥げ、皮膚は真っ黒に焼けた。三ヶ月経つと、それは一本の道になった。道が出来ると大輔は馴染の男仲間に村を作ろうと呼びかけた。九人の仲間が集まり、まずは自分達の家を建てることにした。しばらくして、ほとんどの部分が木で出来た不器用で温かみのある十件の家が道沿いに並んだ。そして道の突き当りには少し大きめのレストランを作った。
大輔以外の九人の男達は広大な土地を耕して野菜を育てた。一人が一種類の野菜を担当し、競い合うように質の高い野菜を作り出した。彼らは自然の声に耳を澄まし、ただ野菜のことだけを考えて日々を暮していた。
大輔は仲間が作った野菜を買い取り、レストランで料理して客に出していた。幼い頃から身に着けていた調理の技術は、仲間が情熱を注いで育てた野菜の美味さを最大限に引き出し、その味の評判は近隣の街にあっという間に広がった。定常的に客が集まるようになると、昼間畑仕事をしている仲間が毎晩レストランを手伝うようになった。女性客が多く、男達は手伝いをしながら気に入った女性を情熱的に口説いた。
レストランを初めて一年が経つと、七十人程度入るレストランの席が毎晩簡単に埋まるようになった。畑で野菜を育てる男達がレストランを手伝うことは無くなり、代わりに九人の女性が働いていた。全て村に住む男達が結婚した相手だった。
大輔にはしばらく恋人がいなかったが、二十五歳の時に幼馴染の紗希と恋愛を始めた。大輔は八歳の時からずっと紗希を想い続けていたが、その時が十年ぶりの再会だった。
紗希はある日の閉店間際に突然レストランに現れた。大人びた美しい顔立ちの中に子供の頃の純粋な笑顔を微かに浮かべ、滑らかに縁取られた体には女性的な魅力を漂わせていた。
紗希は隅の席でゆっくりと料理を食べ、大輔の仕事の終わりを待っていた。客が全て店から出た後、大輔は紗希の向いに座って緩い会話を始めた。三つほどの言葉を交わすと、それまで心に抱えていたものよりずっと大きな恋が訪れた。和太鼓のように響く鼓動は無駄な思考を消し去り、紗希を求める体が今にも勝手に動き出しそうだった。大輔は想いのままに紗希に愛を告げた。自分の中にある深くて大きな感情を、出来るだけ細かく正確に伝えた。何十分もかけて、数えきれないほどの言葉を並べたが、自分の気持ち伝え切れた気がちっともしなかった。紗希はたまに照れたような笑みを溢しながら大輔の言葉を聞いていた。長い長い告白をしてから、最後にもう一度「愛している」と言って大輔は口を閉じた。
紗希は静かに涙を流してから口を開くと、「私もあなたのことがずっと好きで好きでたまらなかったのよ。今あなたが話してくれた気持ちと同じくらい、私はあなたのことを想っている」と言った。
大輔は椅子を蹴とばして立ち上がり、紗希を力一杯に抱きしめた。心臓が一人で踊り出しそうなくらい鼓動が高鳴っていた。紗希の体の柔らかさや温もりを十分に噛みしめてから、大輔は紗希と唇を合わせた。二人は何度も前歯をぶつけながら激しく唇を重ね、服を脱いでお互いの体を押し付けるように抱き合った。まるで相手の体を自分の中に押し込めようとしているかのように、力いっぱいに互いを抱き締めた。
陽が顔を出した時に二人はようやく体を離し、もう一度愛を語り合った。
大輔と紗希はその日に結婚を決めた。
何組かの夫婦に子供が生まれ始めた頃、大輔はその地を「麦色の村」と名付けた。
麦色の村に住みたいという人が村を訪ねて来ると、大輔は快く受け入れて地平線が見えるほどに広がった畑の仕事を手伝わせた。村ではかなり大量の野菜が収穫できるようになった。大輔は村で収穫した野菜を「麦色の野菜」という名を付けて近隣の街で売ることにした。レストランが野菜の評判を高め、「麦色の野菜」はかなり高い値段で買われた。毎朝、七台の大きなトラックが大量の野菜を村の外に運んでいた。
住み始めてから七年が経つと、土を固めた道沿いには三十件を超える家が建っていた。道の縁には色とりどりの花と緑の草が植えられ、穏やかなパン屋や喫茶店を始める者もいた。「麦色の野菜」は村の名を世に広げ、村に訪れる人の数は増々多くなった。麦色の村は以前に比べて豊かになったが、村の住民は顔に乾いた泥を付け、ちっぽけなことで大きな笑顔を作り、相変わらず陽気に暮らしていた。大輔と紗希には男の子が一人産まれ、大希と名付けた。大輔と紗希は大希を間に挟んで、毎晩のように長い時間をかけて愛を語り合った。
村での生活が八年目に入ったある日、村の生まれから村に住んでいる古い仲間の新垣が大輔を呼び出した。
「この頃、村がうるさくないか」新垣は言った。「植物の声が聴こえにくくなくなっている」
二人は広大な畑の縁に立っていた。緩い風が植物の頭を撫でながら進み、穏やかな音を立てていた。どこにも姿が見えない虫が不確実な未来を嘆くように、精一杯の声で鳴き続けていた。改めて見ると、その場所は涙が出るくらい美しい場所だった。
「あんなに荒れていた地がこんなに豊かになったんだ」大輔は言った。「それなりに失うものもある。それが大事なものかどうか、ということだよ」
「植物の声は大事だ。俺達はその声を聞いて、美味い野菜を作れるようになったんだ。賑やかさから生まれたうるささなら俺は何も言わない。むしろ俺は元気な村を望んでいる。だけどこの頃のうるささは何か変だ。人々の笑い声やダンスの足踏みや道端の音楽の他に、別の良くない音が混じり始めている」
「その正体は分かるのかい?」
「全く予想もつかない」新垣は目を瞑った。「農家の俺達は音を何より大事にする。常に耳を澄まして風に紛れた声を探しているんだ。だから皆この異常さに気付き始めている。早いうちに何とかしたほうがいい」
「分かったよ。調べてみる」
大輔は次のレストランの定休日に村の道を何度か往復した。子供は朝から散々な方向に走り回り、大人は忙しそうに土の道を歩いていた。すれ違った人々は大輔と明るい挨拶を交わし、少し余裕があれば簡単な冗談を言った。昼飯時になると、家々の前にテーブルが並び、そこで賑やかな食事がとられていた。日に焼けた男達は一杯だけビールを飲み、幸せそうな顔で生野菜に噛りついていた。
山際から光が漏れ始めてから山の裏側にその光が全てしまわれるまで、土の道にはずっと太陽の光が当たり、その道の上では活気ある生活が送られていたが、夜になり家々から黄色い光が漏れてくると、道から人の姿がぴたりと消え、昼の陽気さからは考えられない程の不気味な静寂が現れた。レストランが開いている日はもちろん、定休日でも普段は賑やかなはずの夜の村が、電源を切られたラジオのように静まり返っていた。大輔は耳を澄まして静寂の中に音を探したが、風が何かに当たる音だけが耳に入り込んでくるだけだった。
その振動は突然体の奥底に伝わってきた。全身の神経を集中させると、地面の下に微かな揺れを感じた。遠くの地で出来上がった振動が、地を伝ってようやく届いたという感じだった。大輔は土の道に耳をつけた。
「何をしているの?」背後から紗希の声がした。
大輔は顔を上げた。「何か振動を感じない?」
「何も感じないわ」紗希は大希の頭を撫でながら言った。「夕飯の時間よ」
「分かった」大輔は立ち上がると、大希の頬を指で突き、紗希に唇を合わせた。
翌朝、大輔はとうもろこし畑に行き、新垣に会った。
「何か感じたか」新垣が言った。
「昨日、いつもより夜が静かだった」大輔が言った。「そして妙な振動を感じた」
「そうだ。俺もそれを感じた」新垣が声を潜めた。「それで何が起きているのか調べてみたんだ。そしたらまず村が静かだった理由が分かった」
大輔は黙って新垣の言葉を待った。とうもろこしの茎がわさわさと揺れていた。
「気付かなかったのか?」新垣は顔を強張らした。「半分以上の住民が村にいなかったんだ」
「え?」
「村の手前側の家、つまり途中から住み始めた奴らの家の中が空っぽだったんだ」
「夜に皆で出掛けていた、ということ?」
「奇妙過ぎるだろ。俺はどうも嫌な予感がして見張っていた。すると、いつもなら寝ているような時間に、村の連中がひそひそと帰って来た。俺は一人の男を捕まえて訳を訊こうとした。奴は俺の顔を見て気まずそうな表情を浮かべた」
「気まずい?」
「そうだ。俺は強引にそいつの家に上がり込んで話を聞き出した。すると大変な事実が判明した」
「なんだか話が大げさだね。この村に大変なことなんて起きやしない」
「深刻な話だ」新垣は左右を一度見渡してさらに声を潜めた。「新しく道路が出来るらしい。トラックが六台並んで走れる大きな道路だ。その道路はこの村の真上を通る」
「この土の道がコンクリートで固められてしまうと言うこと?」
「この村が丸ごとコンクリートで固められるということだ。昨日村にいなかった奴は隣街に呼ばれていた。工事について説明を受け、隣街への移住を勧められたらしい」
「さっぱり分からない。ここは全て僕の私有地だよ。どうしてここが道路になるんだ?」
「俺にはそこら辺のルールについてはよく分からない。ただ道路の説明の後に、参加した奴らは小難しい文書に署名を書かされたようだ。なかなか強引だったらしい」
「もしかして昨日感じた振動の正体は道路工事かい?」
「その通りだ。すでに工事は始まり、小さく強引な騒音をこの村に届けている」新垣は一度口を閉じ、目から力を抜いた。「道路は確実にこちらに伸びてきている」
大切な軸が折れてしまったかのように過去は生々しい実感を失っていた。過去の物語に心が溶けることはなく、ひたすら客観的な記録が流れるだけだった。
大輔は石畳の道沿いに置かれたベンチから腰を上げた。目に見える映像は、白い布に写された白黒映画のように、静かで何かが欠けていた。太陽はずいぶん高い位置にいた。太陽も、湖に浸かっているかのように光の具合が幾分弱いように感じた。
大輔は何となくクロワッサンの看板を目指していた。
「人形作りには会えたか?」三人の客がパンを持って並んでいたが、定雄は手を止めて大輔に話しかけた。
「会えた。寝起きでかなり不機嫌そうだったよ。それより、お客さんが待っているよ」
定雄はちらりと人の列を見た。「人が待つと何か不利益があるのか」
「一般的にはあると思う」
「確かに何度か怒られたことがある。でも俺にはどうしても怒っている理由が理解できないんだ。だからまた同じことを繰り返す。終いには客が怒らなくなった」
「確かにここでは誰もが焦っていない。諦めている」
「そうだ。お前も人形作りから話を訊いたんだろ。人形が取り上げてくれないものは、自分で諦めればいいんだ。俺は時間を人形に取られ、客はこの店では時間を諦める」
大輔は曖昧に同意を示してから、定雄との会話をやめて斉藤夫妻のテーブルに座った。
「二郎さん、どうやら僕は疲れを失い、それによって必要なくなったあくびを人形に取り上げられたらしいんだ。へんてこな話だけど、なぜか違和感なく事実を受け入れられた」
「そうですか」
「斉藤夫妻は悲しみを失ったと聞いたけど、それは喜ばしいこと?」
「それはとても難しい質問です」二郎は目を伏せた。「私達はどうやっても取り除けない悲しみを抱えていました。本当に辛かった。いっそ死んでしまおうとも考えていました。そんな時にこの町に住み始めて、私達は悲しみを感じる心を失くしました。ずいぶん楽になったと思います。だけど、いつも何か物足りない気分になります」
定雄が雄介の前にコーヒーカップを置いた。「俺も話に交ぜてくれよ。他の客は帰った」
「定雄さんは時間を失くしたんだよね。それで幸せになれたの?」
「幸せだ」定雄は即答した。「時間を失くしてみると、人間が如何に時間に踊らされているかが分かる。時間を考えないと生きることは本当に楽だ。お前は何を失くしたんだ?」
「疲れを失った」
「そうか。それは良かったな」
「なんだか心から喜べないんだ」
「失くした物を惜しいと思うのは人間の通常の機能だ。心配するな」
「それとも少し違うんだ。なんと言うか、過去の記憶の中にある疲れも無くなってしまったみたいで、自分の記憶に対する実感が薄くなっているというか、思い出が軽くなったというか。自分の過去が僕から飛び出てふんわり浮いているような――」
「私の話を少しさせてもらえますか」二郎が穏やかに口を挟んだ。
「もちろん。どうぞ」
「私達夫婦は年老いてから息子を一人授かりました」斉藤二郎は微笑んでいた。「その息子は二十歳の時に自殺をしました。私達はずいぶんと大きな悲しみに苦しめられた……、と思います。ここに来て悲しみを失って楽になりましたが、過去の記憶から感情が消えて、実は息子のこともうまく思い出せません。息子は本当にいたのか、と考えることもあります」
「二郎さん」大輔の感情が鈍く揺れた。「息子さんがお二人の記憶の中でそんな風になっていることは、おそらく悲し過ぎる」
「そうかもしれないが、私にはそれがちゃんと理解できません」
「お二人は涙も失ったと聞いたけど……」
「我々の人形は……」二郎はにこやかに言った。「いつも涙を流しています」
「二郎さん、絹子さん」大輔は順番に二人と視線を合わせた。「息子さんとの思い出を取り戻そう。そうしないと、失ってはいけないものを失ってしまうと思う」
斉藤夫妻は不思議そうな目で大輔を見ていた。
「大輔」定雄が言った。「今日のお前の言葉は妙に明瞭な響き方をする」
「たぶん僕はまだ完全にはこの町に馴染み切っていないんだ。人形作りの所に行って、過去のことを想い出していたら、この町の異様さをはっきりと感じた」
「お前が言っていることは、意味はなんとなく分かるが、俺には理解が出来ない」
「とにかく」大輔はもう一度斉藤夫妻を見た。「人形作りのところに行こう。彼なら人形に奪われたものを取り戻す方法を知っているはずだ」
「しかし……」
「行きましょう」大輔は斉藤夫妻の手を持ったまま立ち上がった。
斉藤夫妻はお互いに見合って首を傾げた後に、ゆっくりと腰を上げた。
人形作りの家の赤いカーテンは開けられていた。中を覗くと、大きな作業台が重くひっそりと置かれ、必要以上の暗さが詰め込まれていた。大輔の後ろには、斉藤夫妻が手を体の前で重ねて静かに立っていた。
大輔が窓を叩こうとすると、突然人形作りの不機嫌な顔が現れ、窓が開けられた。
「一日の朝という短い時間に、何で同じ奴が二回も現れるんだ?」
「お願いがあって来たんだ」
人形作りは大輔の背後を覗いた。「二郎さんと絹子さんじゃないか。元気だったかい?」
「おかげさまで。体は本当に元気ですよ」
「それは良かった」人形作りはまた大輔に視線を戻した。「お前のお願いというのは、もしかして斉藤夫妻に関係があるのか。そうだとしたら相談にのってやる」
「もちろん斉藤夫妻に関係がある」
「あがれ」
大輔と斉藤夫妻はコトコトと足音を立てながら中に入った。人形作りは、中央の作業台の周りに、肘掛と背もたれが付いた大きめの椅子を二つ、それと腰掛けを二つを並べた。大輔と人形作り、そして斉藤夫妻が適当な席に着くと、人形作りが「話せ」と言った。
「斉藤夫妻が失ったものを取り戻したい。その方法を教えて欲しいんだ」
「ほう」人形作りは腕を組んで目を細めた。「俺は何年間かこの町の人間達を見てきたが、そんなまともなことを言いに来た奴はお前が初めてだ」
「僕はただ斉藤夫妻が失ったものが大き過ぎると思うだけだよ」
「お前は町の住民としては成立していないが、普通の人間としては成立している」
「それは喜んだほうがいいのかい?」
「喜ばなくていい。ある意味この町が正常なんだ」人形作りは目を尖らせた。「人間は与えられた環境の中で都合よく生きられるように、進化の中で様々な機能を獲得してきた。だけど、その環境は日々変化する。お前が産まれた日の世界と、それから三十年経った今の世界はずいぶんと違うだろう。その変化に適応するために、通常人間は学習をして能力を高める。だけど、学習じゃ追いつかない場合もある。例えばどんなに頑張ってもお前は鰓呼吸が出来ないだろ。その場合は人間として持っている機能を変更する必要がある。この町の人形はそれをやっているんだ」
「産まれた後に簡易的な進化をしているということ?」
「まあ良く言えば、そう言うことかもしれない。人形が町と人に合わせて進化をコントロールしている。進化と言ってもほとんどの場合は要らないものを失くすだけだけどな」
「僕は疲れを、斉藤夫妻は悲しみを、パン屋は時間を失った。僕らは別々の進化をしたということかい?」
「細かく言えば、人は個人毎に別々の環境の中で生きる。そして人は各々別の生きる目的を考える。だから人間に一律の進化を与えることなんか出来ないんだ。一人一人に合った進化がある。話を戻すが、この町で失ったものを取り戻すということは、言わば退化を意味する」
「楽に生きることを目的にした進化なら、斉藤夫妻が悲しみを取り戻すことは退化になるかもしれない。でも人間は楽を目指した進化なんかするべきじゃない」
人形作りは声を出して笑った。「お前は面白いことを言う。この町を全否定したな」
「町を否定する気も肯定する気もないけど、斉藤夫妻はこのままじゃいけないと思う」
人形作りは目を柔らかくして斉藤二郎を見た。
「二郎さん。あんたは大輔の言っていることをどう思う?」
「正直よく分かりませんが、私達を助けたいと言ってくれるなら助けてもらいます」
絹子は横で優しく微笑みながら頷いた。
「大輔、本人達は全く目的を理解できていない。それでもお前はやるか?」
「僕は取り戻したい。勝手かもしれないけど」
「お前はここに来たばかりの斉藤夫妻を知らないから、そんなことが言えるんだ」人形作りは声を重くした。「朝、絶望的な記憶の目覚めと共に涙が零れ始め、太陽がいくら朗らかな光を当てても涙が乾くことはなかった。夜は真っ暗な闇の中でより深い悲しみに埋もれ、ようやく眠れた先では地獄のような夢が待っている。それが毎日続いていた」
大輔は黙っていた。
「お前がしようとしていることは、斉藤夫妻をあの辛い日々に戻すということだ」
「でも悲しみが無ければ息子のことをうまく思い出すことは出来ない」
「それは斉藤夫妻にとってどんな不都合があるんだ?」
「このままでは息子のことを忘れてしまう。どんなに辛くても大事な人の記憶を失ってはいけない。理由はうまく言えないけど、僕はそう思う」
人形作りは落ち着いた目で大輔を見ていた。瞳孔から人形作りの視線が入り込んできて、脳みそを隅々まで覗かれているように感じた。「お前も大事な人を失ったのか?」
「何人も失った」
「そうか」人形作りが顔に笑みを戻した。「お前の気持ちはよく分かった。初めに言った通り、大輔が言っていることは至極まともなことだ。それに若者が老人を救うことは大変良いことだ。斉藤夫妻が失ったものを取り戻す方法を教えてやる」
人形作りは立ち上がって、奥の戸を開けた。
戸の向こう側は闇に黒ペンキを塗りたくったように真っ暗だった。
「この奥にもう一つ出入り口がある。今は見えないけどな」
「あるけど見えない……」
「そうだ。俺が大輔と斉藤夫妻をこの中に入れて戸を閉める。すると、もう一つの出入り口になる扉を視覚で認識できるようになる。それを開けばいい」
「ずいぶんと変わった仕組みになっているんだね」
「俺からみたら普通の仕組みだ。町の外では別の感覚が必要になる。だから暗闇の空間で今の感覚を閉じて、それから必要な感覚を呼び起こす。すると扉が見える」
「よく分からないけど、それはこれから実際に起きることなんだね?」
「そうだ。今理解する必要はない」人形作りは斉藤夫妻に視線を向けた。「二郎さんと絹子さんは何か質問はあるかい?」
夫妻はにこにこして首を横に振った。
「じゃあ続けるぜ」人形作りは闇の空間を指さした。「奥の扉を開けると、長い下り階段がある。その階段を下ると、大きな道路沿いにバス停があるから、そこでバスに乗る」
人形作りは口を閉じた。大輔は言葉の続きを待ったが、話が続く気配はなかった。
「バスに乗るだけで元に戻るのかい?」大輔が言った。
「違う」人形作りは呆れたような顔で首を振った。「バスに乗ってからは自分で考えて行動するんだ。うまくいけば元に戻るし、そうでなければ元に戻らない。俺は可能性を与えるだけだ。それ以上のことは何も出来ない。早く入れ」
「今すぐ入るの?」
「当たり前だろ。一度町に戻ると何かとぼやけるんだ。気持ちの鋭さが失われる。今出ないと、二度と同じ気持ちにはならないかもしれない」
二郎を見ると、二郎はにこやかな表情で絹子の手を握っていた。
「行きましょう」二郎が立ち上がり、ほとんど同時に絹子も立ち上がった。
「二人とも元気でな」人形作りが心配そうな顔で声を掛けた。
斉藤夫妻はコトコトと謙虚に靴を鳴らしながら闇に向かって歩き出した。二人は互いの手をしっかり握っていた。何度か顔を見合わせては微笑み、歩調を合わせて前に進んだ。二人の足が同時に闇に入ると体の半分が闇に飲み込まれた。もう一方の足が完全に闇の空間に踏み入れられると、二人の体の全てが闇に隠れた。
「大輔も早く行け」人形作りが声を張った。
大輔は声に引っ張られるように体を持ち上げ、小走りに闇に向かった。そして、下手な想像が脳を襲う前に両足を闇に踏み入れた。
底抜けに暗かった。暗いという表現が正しいのかも分からなかった。視覚が光を捉えることを止め、音と匂いが失われ、そして空気や服が肌に触れる感覚がなくなった。自らの実体すら感じることができなくなり、自分が存在することに自信が持てなくなった。
僕はそこにいたのか。世界は本当に存在しているのだろうか。
言葉が巡り、そして意識が途切れた。
「大丈夫ですか」
やまびこのような遠い声が聴こえた。
「これは人の声?」自然と口を開き、声を出していた。
「そうです」
「穏やかな声。僕はこの声を穏やかだと感じる」視界に薄っすらと二郎の顔が見えた。「あなたは二郎さん。その笑顔を僕は穏やかだと感じる。僕はここに存在している」
「確かに存在しています。少なくとも私には君の姿が見えます」
薄暗い空間に立っていた。目の前には木製の重そうな扉があり、扉の縁から金環日食のように光の線が漏れていた。大輔は体の重さを感じ、床から足に伝わる反力を感じた。
「僕はずっと立っていたの?」
「ずっと立っていました」
大輔は白い半袖シャツから伸びた自分の腕を軽く上げてから、黒い綿ズボンを履いた足を少し持ち上げ、それらの重さをじっくりと確かめた。
「ところで二郎さん達は大丈夫だったの? 僕はなんだか溶けて無くなってしまったような感覚だった」
「私達も闇に入った瞬間はそんな風になりました。だけど、ずっと手を握っていたから、何となく隣の存在を感じて、すぐに元に戻りました」
上下薄緑のおそろいの服を着た斉藤夫妻は、まだ手を繋いでいた。
「僕も一緒に手を繋いで入れば良かった」
「そうですね」二郎が微笑んだ。「それより扉を開いて下さい。私達には無理なようです」
大輔は大げさな扉の前に立ち、取っ手に手をかけた。軽く引いてみると、かなりの重さを感じた。大きく息を吸い力一杯に扉を引くと、ジリリと音が立ち、両開きの扉の中央から光の線が現れた。光の線は徐々に太くなり、途中から光の中に青空が見えてきた。
青色の空には不揃いの雲がいくつか浮かんでいた。空の奥から来る強力な光が顔の肌を熱くさせた。空間に光がいきわたると、壁も天井も地面も全てが石を重ねて作られていることが分かった。人形作りの家に繋がるはずの扉は当然のように消えていた。
扉から外に出ると、ところどころに雑草が顔を出す八畳程度の石畳の地面が広がり、その周囲を腰の高さ程度に積まれた石の壁が囲んでいた。一部壁の無い部分には石の階段が下に伸びていた。階段の両側にも石が積まれ、その外側には針葉樹が広がっていた。
「ここを降りるのですか?」二郎が階段を覗いた。
「見た限り階段を降りるしかないみたいだ。ずいぶん長い階段なので、ゆっくり行こう」
大輔は一歩階段を下りた。階段は見た目以上にでこぼこしていて、足元が落ち着かなかった。足に蹴られた小石が何十段も下に転がり落ちていくと、胃に冷たい氷を流し込んだかのように、恐怖が下腹部を締め付けた。二郎と絹子は手を握り合って階段を下り始めると、すたすたと大輔を抜いて先にいった。
途中、騒がしい鳥の声が聴こえて振り返ると、深緑色をした数十羽の鳥が階段の上の方を埋め尽くしていた。鳥達は巣を荒らした敵を追い払うように、こちらに向かって叫び続けていた。半分辺りまで下ると、階段の根元にようやく道路が見え始めた。終わりに近づくと、空気の中に微かな埃っぽさが加わり、鼻から吸い込む息に重たさを感じた。ゆらりとした風が吹くと、コンクリートから熱気が舞い上がった。
階段が終わり、道路に足を降ろすと、靴の下から激しい熱が伝わってきた。周りを見渡すと、道路の数十メートル先に簡単な屋根を四本の棒で支えただけの小屋が見えた。
大輔と斉藤夫妻は、道路の脇の歩道を歩いてその小屋に行き、気休め程度に出来た影の中に身を置いた。小屋の前には、石の重りと木の棒で出来たバス停の標識があった。棒の先端に付いた丸い看板には「石作り神社」と書かれていた。時刻表のようなものはどこにも見つからなかった。大輔は仕方なく車が流れる上流に視線を向けてバスを待った。全ての車が轟音を立てて恐怖を煽っていた。
しばらくして中型のバスが速度を緩めながら、バス停に向かって来た。
「バスが来たよ」大輔がそう言うと、二郎と絹子は微笑みながら頷いた。
バスが完全に停止してガタガタと扉が開くと、冷えた空気がバスから降りてきた。二郎と絹子が先に乗り込み、最後に大輔が続いた。バスの中は、二人掛けの席がびっちりと二列で奥まで並んでいたが、他に乗客は一人もいなかった。
「あの……」大輔は運転手に話しかけた。「言いにくいのだけど、お金を持っていないんだ」
「どこに行くつもりだ?」紺色の帽子を被った三十半ばの男性が興味無さそうに言った。
「それがよく分からないくて」
「行先も金も無くてバスに乗ったのか?」
「僕達はバスに乗ることが目的なんだ」
「変な客だな」運転手はボタンを押して扉を閉めた。「まあ、俺も誰も乗ってないバスを運転することに嫌気が差し始めていたんだ。正直言うと、金をやってもいいから誰かに乗ってもらいたかった。空っぽのバスって意味が無いだろ」
「そういうことなら僕達がバスに乗る」
「頼むよ」運転手は前方を向いた。
斉藤夫妻は最後列の一つ前の席に座っていた。大輔は最後列に一人で座った。
「バスに乗るのは久しぶりです」二郎が言った。
「あの町にはバスどころか車もないからね」
バスはゆっくりと発車した。ある程度速度が落ち着くと、静かな景色が窓の外に流れ始めた。片側三車線の道路の両側は深い色をした森だった。太陽は真上から強い光を送っていたが、木々の間には闇が続いていた。たまにトンネルに入って抜けても同じような森が続いていた。
大輔は体の力を抜いて、延々と続く木々を見ていた。連続した単純な風景は、すぐに眠気を誘い始めた。瞼が閉じかけた時、過去の記憶がふと沸き起こり、感情が大きく揺れた。それでも瞼は重みを増していき、大輔の意識を遠くに運んでいった。
頭から厚い雲を被っているかのように、「麦色の村」には薄暗く湿っぽい雰囲気が漂っていた。ある日の夜、十五人ほどの住民が大輔の家に押しかけて来ると、三年前に村に住み始めた沢崎という四十代半ばの男が大輔の正面に立った。「今日はお願いがあって来たんです」
「何でしょうか?」大輔は穏やかに答えた。
「道路建設の件はご存じでしょう。道路が出来ればこの村は無くなり、我々は住む場所が奪われてしまう。新しいところに住むお金もない。だから我々は家の土地を売りたいと思っているんです」
大輔は家に押し寄せた人達を見渡した。村に来てから日が浅い住人ばかりだった。
「ここは僕の土地で、その土地を無料であなた方に貸しています。だからあなた方が土地を売ることは出来ません」
「でも我々は今の土地に自分達で家を建てて、ずっとそこに住んでいきたんですよ。我々は土地に対して投資をしてきた。我々にも土地に対する権利があるはずだ」
「申し訳ないですが、その権利はないと思います」大輔は即答した。
「あなた達は何か勘違いしているんじゃないですか」隣にいた紗希が強い口調で言った。
「女は黙っていろ」沢崎の声が急に尖った。
紗希は男達を睨んだ。「あなた達は土地に対して何一つの権利も持たないし、あなた方から私達が何か文句を言われる筋合いはありません。出て行って下さい」
「どうせこの村は潰れるんだ。今からいろいろ考えておいた方がいいと思うけどな」沢崎が顔を歪め声色を変えた。「このままだと村の形だけじゃなくて人も皆壊れちまうぞ」
沢崎達は乱暴にドアを開けて出て行った。
大輔は椅子に座ってはしばらく考えてから、家を出て村を歩いた。土の道を柔らかく踏みつけながら村の様子をじっくりと眺め、空気の香りを噛みしめた。村を半分過ぎると、息苦しくなるような不快感が湧きおこった。村独特の爽やかさが失しなわれ、ねっとりとした感情が浮遊していた。村の形は少しも変わらないが、人の表情が別人のように変わっていた。山から吹きこんできた静かな風は、ろくでもない会話が作り出した濁った雰囲気によって透明感を失った。その場所にいる人々が求めている物は、新鮮な野菜や、泥がついた笑顔や、村に響く元気な挨拶ではなく、数字で表すことが出来る分かりやすい利益だった。子供を笑わせることや老人を喜ばすことに脳を働かせることは無くなり、誰かを騙すことにひたすら頭を使っていた。村の半分は「麦色の村」ではなく、全く別の集合体になっていた。
その集合体に住む人達は、途中から住み出した人々だった。始めから一緒に住んでいる仲間は村の奥半分に家を構え、これまでと何も変わらない生活を送り、村の誕生から続く空気感を保っていた。麦色の村は見えない壁で二つに割れ、その壁は空気感の行き来を完全に遮っていた。村の道を歩いていると、その村を分ける境界線を越えたことをはっきりと肌で感じた。空気に溶け込んでいるものがまるで別々のものだった。
大輔は何回も村の道を往復し、深刻な状況を肌で理解した。日が沈んでから家に戻り、橙色の光を灯して椅子に座ると、まるで汚水が悪臭を放つように言葉に出来ない不快感が体に充満した。思考に集中したが、脳は解決策らしきものを導かず、少しも望んでいない未来の想像を繰り返し頭に浮かばせた。
突然、大希の泣き声が耳に差し込んできた。
「あなた……」紗希は泣き叫ぶ大希を胸に抱え、口を震わせていた。「畑が燃えて……」
絶望は瞬時に理解できた。大輔は椅子を転がして立ち上がると、畑が見える奥の部屋に走った。不自然な熱と、鼻を突く匂いを感じた。とうもろこし畑が黒い闇の中で煌々と燃えていた。人間の背ほどある緑色の茎が、茶色に変わり、次々に腰から倒れていた。それは人間が倒れ死んでいく様子と大して変わらなかった。倒れたとうもろこしは姿が無くなるまで燃え続けていた。
背後で何かが割れた大きな音がした。絶望によく似合うその音は、心をどんと重くした。
元いた部屋に戻ると、ガラスの破片が床やテーブルに飛び散り、血の付いた黒い石が床に落ちていた。窓には鮫が口を開けたようなギザギザした穴が空いていた。
紗希は大希を自分の胸に押し付け、割れた窓に背を向けていた。後頭部からは赤い血が頭に染み出していたが、紗希は柔らかい表情で大希の頭を撫でていた。
「頭から血が出ている」大輔は紗希に言った。
「大丈夫よ。それより道のほうからも煙の匂いがする」
割れた窓から熱が流れ込んでいた。それに混じる微かな煙の匂いは、何か大事なものの破滅を感じさせた。
外に出ると、道の突き当りに大きな炎が見えた。レストランが炎に包まれ、その存在を失いかけていた。
道には仲間達が呆然と立ち尽くしていた。叫びとなった怒りや悲しみは大きな炎に飲み込まれ、空しい余韻だけを残していた。土の道には、湖の底の汚泥のように黒くて汚い憎しみが溜まっていた。
積み重ねた時間を馬鹿にするように、レストランは一瞬で無になった。村を作った十人の男とその家族は、良い生まれ変わりを祈るような目でその最期を看取っていた。黒くなった燃え跡は、食事を楽しむ人の笑顔も、飛び交った冗談も、そのどの記憶とも繋がることはなかった。黒い残骸は、人間の遺骨と大して変わらない悲しみをまといながら横たわっていた。
「おい、原住民」
その声はその状況に全く不釣り合いな浮ついた声だった。声の元には沢崎が立っていた。
「沢崎……。何しにし来た?」新垣が重い声を出した。
「原住民が出す悲壮感を見に来たんだ。ちなみに俺達は元から住んでるあんた達を原住民と呼んでいる。農業しかしないし、頭も悪いからちょうどいい」
「まさか……、お前が火をつけたのか……」
「俺がやったんだ」沢崎は口端を持ち上げた。「俺はあんたのとうもろこし畑を手伝ってやった。火をつけて燃やしちまう権利くらいはあるだろ」
「ふざけるな……」新垣の体が震え出した。「ふざけるなよ」
「この村の欠点は平和過ぎることだ。だから俺みたいな悪者がいた時に対処できるだけのルールも準備もない。今みたいに俺がめちゃくちゃな権利を主張しても通っちまう。つまりあんた達は馬鹿なんだ。そして脆すぎる」
「この村にルールが無くても国にはルールがある」大輔が言った。「あなた達は裁かれる」
沢崎は濁った笑い声を漏らした。「国は神じゃないんだ。国の仕組みを決めているのは、たまたま集まった『人』だ。そして人の集まりには大抵の場合、権力という便利な概念が存在している。だから国の仕組みは権力を持つ数人の利害に基づいて出来上がる。そして俺は、その国の仕組みを作っている人間の利害に基づいて働いているから国に裁かれることはない」
「そんなこと、あるはずがない。国の正義がきっとここを守る」
「こんな田舎に閉じこもっていたら分からないけどな、ここは国から見えていない。正確に言うと、見えているけど見えないことになっている」沢崎は顔を歪ませて大輔を見た。「道路工事の予定が立ったのが三年前、俺がここに来たのが三年前、それがどうゆうことだか分かるか?」
「まさか……。最初から土地を奪う予定で――」
「その通りだ。俺の目的はこの村で綺麗な空気を吸うことじゃなく、この村から人を退かすことだった。俺はこの村に来て、まだ三十にもならないお前らみたいな若造にへこへこしながら、お前ら以外の住民に道路工事のことを伝えて家が無くなる危機感を根深く植え付けてきた。そしてこの前、お前から無料で借りていた土地を国に売っちまおうと提案すると、皆が賛成した。まったく笑っちまう。だが一度埋め込んだ欲はどんどん育つんだ。そしてその欲のせいで今日村の一部が燃えた」
「住民がとうもろこし畑とレストランを燃やしたのかい?」
「そうだ。新入り達が俺の放火を協力した。昼間、お前の家に行っただろ。お前は土地を売ることを許さず、住民は絶望した。『脅すしかない』と如何にも短絡的な方法を提案すると、すんなり受け入れられた。そして夜中に火が上がった」
「この村を手放す気はない。何をしようとも手放さない」
「そうだとすると……、村が燃えカスになっていくだけだ。明日、お前らの家は燃えちまうかもしれない。奴らは純粋で馬鹿だから何でもやる」
「そんなことさせない」大輔は自分の声の中に焦りを見つけた。「僕は彼らと戦う」
「あなた」紗希が横から大輔の腕を握った。「だめよ」
沢崎が呆れたように笑った。「今戦うと言ったよな。そしたらすぐに戦争を始めよう」
「何を言っているの」紗希が言った。「戦争なんか起きないわ。この村の人達は本当に穏やかだし、ここ数年で豊かにもなったわ。豊かな彼らに戦争をする理由なんてない」
「誰が豊かだって。奴らに金なんかないんだよ」沢崎は一段と笑い声を高めた。「あいつらは住む場所がなくなることを恐れて、俺が紹介した業者にちんけな財産を預けた。家を手に入れるには足りな過ぎるその財産で、次の住む場所を確保してやるという約束だった。だが、最近になってその業者は金を持って逃げた。あれはなかなか悲惨だったが、笑えた」
「それもあんたがやったの」
「当たり前だろ。豊かだったら戦争も崩壊も起こらない。俺の計画は、村の内部で勝手に争いが起こって、勝手に村が崩壊して、いつの間にか人が消えて、その上に道路が通るっていう筋書きなんだ」
「そんな思い通りになるわけないじゃない」紗希が強い口調で言った。
「まぁ見とけ。すぐに全てが燃えちまう。気を付けろよ」沢崎がくるりと背を向けた。
その場にいる誰もがぐったり疲れた顔で、離れていく沢崎の背中を見ていた。
大輔達はすぐに準備を始めた。畑に水をやるための器具を村の中に集め、各家の中にはバケツで大量の水を用意した。女性と子供は大輔の家に集められ、男達は見張りについた。大輔とその仲間達以外の住民は村から消え、村の半分は生物のいない星のように白けていた。
三日経っても何も襲ってこなかった。男達はほとんど寝ずに見張りを続けながら、同時に土の道に大きな穴を掘り始めた。数日して、村の真ん中に大きな穴ができた。木で作られた家はすぐに燃やされてしまうので、大輔達は暗い穴の中に家具を運んで住むことにした。
それから二ヶ月後には、穴の周りに高さ三メートル程度の土のバリケードが出来ていた。バリケードの上に見張り台を作り、夜中も含めて四方を見張った。村の周りに広がる畑はすっかり荒れ果てていた。育てていた野菜は枯れ落ち、雑草が畑を支配していた。
五ヶ月が経っても何も起きなかった。疲労が溜まっていたが、バリケードによって村が守れたと仲間達は喜んだ。穴の中に地上の光はほとんど届かなかったが、それでも大輔達は明るく過ごしていた。
レストランが燃えてから八か月後、大希が死んだ。暗い穴の中で太陽の光を浴びずに過ごした体は青白くなり、ところどころに茶色い斑点が出来ていた。足の一部は皮膚が溶けて、肉がほとんど腐りかけていた。紗希は死んだ大希を手放すことなく普段通り抱きかかえていた。何週間も泣くことなく大希にまだ生があるかのように話しかけていた。大輔が大希の死体を取り上げようとすると、紗希は憎しみのこもった目で大輔を睨みつけ、荒々しい言葉を大輔に浴びせた。紗希の表情から一切の柔らかさが失われていた。
大希が死んでから一ヶ月後、紗希は黒く枯れた大希の死体を抱いたまま死んでいった。紗希は最期まで涙を流すことがなかった。紗希の体も茶色い斑点で被われていた。疲弊しきった人々は、穴に充満した死体が腐った匂いに顔をしかめた。同じように茶色い斑点が出来た女性は紗希の死体に悪態を吐き、頭を踏みつけた。穴は、ほとんど憎しみで埋まりかけていた。大輔の仲間やその家族は日に日に穴を出て村を去り、穴に残ったのは大輔一人になった。
大輔は穴の上の見張り台で時を過ごした。丘を越えた先には、途切れた大きな道路に人が群がり、道路の続きを足していた。怖い顔をした巨大な石像が近づいてくるように、その単純な恐怖は日々大きくなっていた。その恐怖をじっと見るだけの日々が何日か続いたある日、突然沢崎がバリケードの根元に現れた。
「どうだそっちは?」沢崎は笑っていた。
大輔は言葉を理解することすらしんどかった。
「俺が言った通りになっただろ?」沢崎は満足げな顔をしていた。「村には何人いる?」
大輔は黙っていた。日差しは憎しみの籠った光を地上に届け、風は拗ねてしまったようにすっかり止んでいた。村の大きな穴からは相変わらず悪臭が吹き出していた。
「お前は知らないかもしれないが、世間はお前らを悪だと言っている。ただのわがままで道路工事を邪魔しているってな。みんな悪が退治されるのを待っている」
人ひとりで抱えるには大き過ぎる恐怖が背中を押し、大輔はバリケードから飛び降りた。死ぬつもりだったのか、逃げるつもりだったのかも分からなかった。足が降り着いた場所は耕したばかりの畑のように柔らかな場所だったが、大輔はそのまま地面に転がった。
沢崎は細い目で大輔を見ていた。「臭ぇガキが。早くどこか行けよ」
大輔は立ち上がって走り出した。自分が逃げているのかも、何かに立ち向かおうとしているのかも分からなかった。とにかく残っている僅かな体力で、出来るだけ速く走った。足が空回りして転ぶ度に、立ち上がることに迷いを感じたが、結局立ち上がって走り出した。
外はすっかり暗くなっていた。バスの車内には古臭い明かりが灯り、湿っぽい匂いが漂っていた。気分は絶望が詰まった闇の中を浮遊し、思考は果てのない平原を歩き続けていた。何も通さない幕で被われた心の周りを、行きどころのない記憶や感情が彷徨い、その様子を上からぼんやり見ているようだった。
「ここを知っていますか?」前の座席に座る斉藤二郎が言った。
大輔は自らの顔が映る窓の奥に広がった闇に目を凝らした。ずっしりとした夜が落ちた荒地に意味のない壁のようなものが見えた。そしてそれが見覚えあるバリケードだとすぐに分かった。ほとんど崩れ落ちた土製のバリケードは空しく夜空を見上げていた。
「道路が村を潰したようです」窓に映る二郎の顔は無表情だった。
村は根こそぎ形を失い灰色の道路になっていたが、村の雰囲気の欠片がぽつりぽつりと道路の周りに落ちていた。村を取り囲んでいた丘の稜線は少しも変わらず、畑は形を変えずにそのまま死んでいた。死んだ人間の顔が浮かび上がると、焦げ付いた感情が微かな異臭を放ち出したが、それはすぐに空気に散った。
「私の村も……鷺の村と言いますが、この道路に潰されました。息子はその時死にました」
「どうして……死んだの?」大輔の声は自然と大きくなっていた。
「村のためにと言って自ら命を投げ出しました」
「道路が無ければ、息子さんは死ななかった?」
「たぶんそうでしょうね」
大輔は立ち上がって運転手のところまで歩き、そして話しかけた。「少しだけ止めてもらえるかな?」
「構わないが、長い時間は無理だぞ。バス停以外では偉そうに止まれないんだ」
バスが速度を緩め、路肩に車体を寄せた。エンジンの音が止むと深い静寂が訪れた。
「トンカチを持っている?」大輔が運転手に訊いた。
運転手は運転席の下から道具箱を取り出した。「この中にある」
「ありがとう」大輔は道具箱の中からトンカチを取り出した。
大輔と斉藤夫妻はバスを降り、道路の脇で三角形を作るようにしてしゃがみ込んだ。耳澄ましても車の音は聴こえず、遠くを見ても車のライトは見当たらなかった。
「何をするんですか?」
「道路を壊すんだ」大輔はトンカチを振り上げた。大輔は憂鬱な気分をコンクリートに載せて、それを叩き割るようにトンカチを振り下ろした。
耳を塞ぎたくなるような悲しげな音が、闇の奥に向かって響いた。
道路には埃のような小さな傷がついていた。
「トンカチを振り下ろしても道路は壊れない。ろくな傷さえ残せない。代わりに僕は大きな傷を思い出した」大輔はトンカチを二郎に渡した。「叩いてみて。道路は途方もなく大きくて、失ったものはもう戻らなくて、自分は無力で、とても悲しくなるから」
二郎はトンカチを手に手にすると、そのまま振り下ろした。
「悲しいかい?」大輔がそう聞くと、二郎は絹子と目を合わせてから首を横に振った。
大輔は立ち上がり、斉藤夫妻と一緒にバスに戻った。
「道路はトンカチで叩いても壊れないぜ」運転手が小声で言った。「大きな人工物はみんなただの象徴に過ぎないんだ。象徴を消したければ元の本質を壊さないといけない」
「止まってくれてありがとう。トンカチは返しておくよ」
バスはまた静かに動き出した。少し走ると、闇の中に輝く大きな街が見えた。街には、沢山の光の粒が建物に付着したり、道路を縁取っていたり、走る車に載っていた。
突然、力が抜けたような音と共にバスの速度が落ちると、道の端にバスが止まった。「客だ」と運転手が言ってドアを開けると、長袖の赤いワンピースを着た女の子が乗ってきた。女の子は不安定な歩き方で車内を縦断し、最後列に辿り着くと「ここに座ってもいい?」と大輔の隣を指した。
「もちろんいいよ。ところで君は一人かい?」
女の子は頷いてから、大輔の隣にちょこんと座った。
「こんなに夜が深い時に一人で外に出ては危ないよ。君は何才?」
「九才。名前は明美。夜に一人でバスに乗るくらいなんともないよ」
バスが動き出した。明美は肩にかけていたバッグを膝の上に置いた。
「そのバックには何が入っているんだい?」
「内緒。すごく大事なものが入っているの」
速度が落ち着くと二郎が前の席から振り向いた。「両親が心配するんじゃないですか?」
「お母さんはいないし、お父さんは明美を叩いたりするだけで心配なんてしないよ」
「よく叩かれるの?」バスの中で一切口を開かなかった絹子が明美に顔を向けて言った。
「うん。背中にも胸にもたくさん傷があるよ」
「背中を見てもいいかしら」
「いいよ」明美は絹子に背中を向けた。絹子は立ち上がって明美の首筋から背中を覗き込んだ。感情を持ち合わせない絹子の表情に若干ではあるが別の色がさした。
「あなたも見て」と絹子が大輔に言うと、明美がくるりと背中を大輔に向けた。明美の背中には無数の切り傷が赤く浮き上がり、打撲の跡が皮膚の一部を深い穴のように黒ずませ、皮が剥がれた部分が乾いて赤茶色になっていた。
「お父さんから離れたいとは思わないのかな?」二郎が優しい顔で言った。
「思うよ。でもお父さんから離れたら、ご飯食べられないから」
「君の家に行ってみてもいい?」大輔は言った。「お父さんと話をしたい」
「いいよ。お父さんを倒してくれるの?」
大輔は首を振った。「話し合うんだ。ところでこのバスは君の家の近くまで行くの?」
「そんなの分からないよ。寂しそうなバスが来たからつい乗ってしまったの」
「どこに行けばいいんだ」運転手が突然声を張り上げた。
「僕らの話、聴こえていたの?」大輔が声を返した。
「当たり前だろ。何年バスに乗っていると思っているんだ。大抵の話し声は聞き取れる」
「この子の家まで行って欲しいんだけど」
「こいつはタクシーじゃないんだぞ」運転手はハンドルを軽く切りながら言った。「でも乗客が皆して同じ場所に行きたいのなら、バスはその場所に行くべきだと俺は思う」
明美が運転手に場所を告げると、バスは大きな道路を外れて街に散らばる光の粒に紛れていった。
街の中心に近づくにつれて、光の粒の間隔が狭まっていった。建物は高くなり、人と車の量が増え、たくさんの音が混ざり合う意味の無い騒音に囲まれた。バスは歩行者にも抜かれるような速度でちょろちょろと走り、時間を掛けて繁華街を抜けた。
繁華街を抜けて、大通りをしばらく走ると道路が二手に別れた。一方は繁華街を水で薄めたような雰囲気が続く太い道路、もう一方は古びた電燈が並ぶ暗くて細い道だった。バスは細く暗い道を進んだ。
道の大部分にはひびが入り、端にある歩道は崩れかけていた。道沿いには、何もない暗い空き地がしばらく続いてから、古臭い建物が並び始めた。せいぜい二階建ての建物は、歴史を感じる古さはなく、ただ長年の汚れが壁に浸み込み、人間がひたすら空気を汚し続けてきた罪深さを切なく表現していた。電灯は消えかけた魂のように弱々しく、標識はそのたった一つの役目すら果たせずに黒い泥に塗れていた。
道を進むにつれて微かな明かりはより小さくなっていったが、真っ直ぐ続く道の先には妙な明かりに包まれたずいぶんと大きい建物が見えた。バスはその建物に向かっているようだった。
「着いたよ」その大きな建物の前でバスが止まると、明美が言った。
「大きな家だね。君のお父さん以外にも誰か住んでいる?」大輔が訊いた。
「住んでいるというか。いつも家には男の人がたくさんいるよ」
「行きましょう」二郎は絹子の手をとって立ち上がり、バスの出口に向かった。大輔は明美と手を繋いでバスを降りた。運転手はエンジンを切り、「ここで待っているから必要なら起こしてくれ」と言って座席を倒した。バスは生気のようなものを失い、完全に夜更けに溶け込んだ。
建物の前は砂利の平地が広がり、五台の車が停めれれていた。建物は闇の中に輪郭を隠して不気味な程大きく見えた。正面には両開きの茶色い戸があり、その脇に灰色の背広を着た男が一人立っていた。男は大輔達を見ても興味なさそうに眺めるだけで、他には何の反応も示さなかった。茶色い戸の前に立っても男が声を掛けてくることはなく、明美も男が見えていないかのような様子だった。戸を開くと、白い壁に囲まれた四角い空間が現れ、その奥には一つドアが見えた。玄関と言うには閉鎖的過ぎるし、子供部屋と言うには温かみに欠けていた。空間の隅には、ぼろぼろの白いドレスから顔と手足を出した木製の人形が置かれていた。
人形は口を震わせて笑っていた。
「なぜ人形がここにあるのでしょうか……」二郎が呟いた。
「この人形は私のお友達だよ」明美は人形の頭を撫でた。
「その人形、誰かにもらったの?」大輔が訊いた。
「お父さんがくれたの」
明美は人形を抱えると、体を倒して床の上を転がり始めた。動きは無邪気だが、顔は無表情だった。何回か部屋の中を往復してから、明美は転がることを止めて仰向けになった。「一緒に転がると、この子の声が聴こえるんだよ。彼女は寂しがりやなの」
ガチャと音を立てて奥のドアが不機嫌に開いた。入って来た男は顔を紅潮させて一通り眺めると、表情をがらりと変えた。「何でお前達がここにいるんだ?」
「あなたが……」大輔は声を詰まらせた。「あなたがこの子の……父親……」
沢崎は顔を大きく歪めた。「そうだ。何だお前は。何しに来やがった?」
大輔の腹の深くに、どろどろとした恐怖や絶望が過去から押し寄せてきた。それをどうにか押し込めて口を開いた。「この子が……、父親からひどい暴力を受けていると聞いて――」
「もしかして説教しに来たのか」沢崎は口の片端を上げた。「お前は、自分の家族をバリケードに閉じ込めて殺したんだぞ。それに、このじいさんも自分の息子を自殺させた。そんな奴らが俺の暴力に文句つけるのか。本当に馬鹿だな。だから村が潰れるんだ」
「私が……息子を……」二郎がきょとんとした顔で言った。
「俺はあんたの息子にこう言った。『お前の両親が土地を譲らないなら両親を殺す』ってな。そしたら息子は村民を暴力的に村から追い出し、散々憎まれてから自殺した。あんたらが頑固に土地を譲らないからそういうことになったんだ」
「私は……ただ……」
「道路を通すためにな、お前達の二つの村の他にあと三つの村を壊す必要があった。だけどその三つの村の村長はすぐに土地を俺達に売った。本当に利口だよ。それに比べてお前達は馬鹿だった。お前達の無駄な意地のせいで少なからずの人間が傷つき、そして死人が出た。村から離れた奴らはここらで静かに暮らしている。お前達は誰かを幸せにしたのか?」
「村を敵から守ろうとするのは当然のことじゃないか」大輔は動揺を抑えて何とか言った。
「お前の顔は本当に腹が立つ」沢崎は大輔にそう言ってから、顔を強張らせて明美に手を伸ばして髪の毛を引っ張り上げた。「何でこんな奴らを家に入れたんだ?」
「やめろ」大輔が沢崎を抑え込もうと大きく一歩踏み出した瞬間、固く握られた拳が大輔の顎を撃ち抜いた。脳が揺れ、目に見える世界が歪んだ。大輔は腰から崩れ落ちていた。
沢崎は明美の髪の毛をもう一度引っ張り上げた。
「やめて下さい」二郎が沢崎の腕を両手で抑えた。「この子は悪くありません」
「汚ねぇ手で俺に触るんじゃねぇよ」沢崎は二郎の手を振り払うと、冷え切った目で明美を睨みつけ、白く柔らかな頬を引っ叩いた。明美が床に転ぶと、沢崎は横たわる明美にめがけて、石ころを雑に蹴るように足を引いた。足が振り下ろされる瞬間、二郎がその間に飛び込み、明美を自分の懐の中に抱えた。沢崎の足は躊躇することなく二郎の背中を蹴りつけた。「じじい。邪魔だ!」
沢崎が再度足を引いた時、絹子が片方の足にしがみついた。
「ばばあ。何してんだ」沢崎は平手で絹子を殴りつけた。
絹子は体を震わせながら必死にしがみついていたが、沢崎が自由なほうの膝を絹子の顔面に打ち付けると、絹子の手が解かれた。両足が自由になると沢崎は助走を付けて二郎の腰辺りを蹴り上げた。体が小さく浮き上がったが、二郎は明美をしっかりと抱き隠していた。沢崎は趣味の悪いダンスを踊るかのように、何かのリズムを刻みながら二郎の背中や頭を連続して蹴りつけた。
「やめろ……」大輔は脳震とうをしたまま立ち上がった。世界は相変わらずふらふらしていた。大輔は辛うじて足を進め、二郎の隣に倒れ込んだ。「大丈夫かい。二郎さん」
「この子を守って下さい。この子を抱えてこの家から逃げて……。早く……」
すぅすぅ。二郎の懐から鼻をすするような音が聴こえてきた。
「泣いてる」明美は二郎の腕をどけて立ち上がった。胸には人形が抱えられていた。
人形が涙を流していた。
「泣いてる」明美から感情が完全に消えた。顔は形だけを残し、声や吐息はただ目の前の空気を揺らすだけだった。恐怖や悲しみは、その残り香すら失くしていた。
「本当に気持ちわりぃな。この人形は」沢崎が苦い顔をした。
「なんということだ……」二郎は自分の血で赤くなった床に頭を押し付けた。「なんてことだ。この子は悲しみを失った……。なぜだ――」
二郎は泣いていた。
「おじいさん、どうしたの?」明美がのっぺりした声で言った。
「君は……、君は……もう悲しむことが出来ない……」
「いいじゃん。私は何をされても悲しくないし、寂しくもないんだよ」
「それでも。大事な人を失ったら……悲しむべきだし、大事な人と会えなかったら寂しいと心から嘆くべきなんだ……」二郎はそれまで流せなかった涙を吐き出すように、大量の涙を流していた。
「なんだかよく分からないや。でもね、私知っているの。お父さんを殺せば、きっといいことがあるんだよ」明美は肩に掛っているバックを開いて中から小ぶりの包丁を取り出した。包丁の刃はきらきらと輝き、そして冷たい色をしていた。明美は迷いのない動きで両手で持った包丁を沢崎の腹部に向けた。
「だめだ!」大輔は立ち上がって咄嗟に手を伸ばした。
包丁は止まることなく、大輔の右腕に刺さった。腕を貫通した包丁から血が垂れ落ちてくると、感じたことのない鋭い痛みが脳を貫き、まるで心臓が右腕に移植されたかのように右腕から激しい鼓動が響き始めた。釘を打ちつけられているかのように、鼓動は痛みを深くに食い込ませた。
失ったはずの疲れが、体の奥に重くずっしりと訪れた。
明美は包丁を持ったまま、相変わらず感情が欠け落ちた目を大輔に向けていた。
「君はこんなことをしてはいけない」大輔は腕に刺さった包丁を引き抜いた。
「なぜ、お父さんを殺してはいけないの」
「人を殺すと、君はとんでもなく大きなものを失う」
「こんな子供に俺が殺されるわけないだろう」沢崎は少しの動揺もなく言った。「せっかく人形をやったのに、このガキには面倒なところが残っちまっている」
大輔のこめかみに鋭い怒りが差し込んだ。「あんたは、この子の感情をなくすために人形を渡したのか」
「もちろんそうだ。あの人形はそのためのものだろ。ちなみに、お前達の村からここに移り住んだ奴らにも人形を渡した。そし奴らも何かしらを欠いた」
「え……」
「麦色の村と鷺の村を出た奴らは荒れていた。元々馬鹿が多かったんだ。過去を思い出して悔やんだり、もがいたり、とにかくうるさかった。だから俺が人形をやった」
「あんたは……、人形を作れるのか……?」
「こいつは恐らく俺達が馴染んでいるほうの世界で作られたものじゃない。俺は国から大量にもらっただけだ。騒がしい奴らに渡せってな。渡すと本当に静かになった」沢崎は顔全体を歪ませ、濁りきった笑いを浮かべた。「何かが欠けた人間というのは本当にいい。意志が徐々に薄くなって操り易くなるし、とにかくうるさくない」
「沢崎」二郎の声の調子が変わっていた。その声は重く、明確な意思が備わっていた。「お前に私達の痛みが分かるか。村を失くして、家族を失った痛みが分かるか。そして、その痛みを感じることができなかった切なさが分かるか」
「分かるわけないだろ」
「村の人間達は返してもらう。ここにいては駄目だ」
「返してもらうだと。馬鹿か。もうお前らには村も土地も何もないだろ」
「村はまた作ればいい」大輔が言った。「僕も皆を返してもらう」
「あいつらはお前らを捨てたんだ。今さらお前達になんかついていかねえよ」
「ついてくる」大輔は強く言った。「必ず彼らは僕についてくる」
沢崎の顔に怒りが浮かび、「馬鹿が」と言って拳を二郎に向けた。二郎は拳を軽くかわしその腕を掴むと、足を掛けて滑らかに沢崎を転ばした。二郎は仰向けに倒れた沢崎の腕を抑えると「明美ちゃん。一発殴りなさい」と言った。
明美は無表情のまま、沢崎の顔のすぐ横にしゃがみ込み、右手を大きく引き上げて鼻の上から平手を打ちつけた。沢崎の鼻から血が垂れた。
「てめぇ」沢崎は明美をぎろりと睨んでから「入ってこい!」と叫んだ。
建物の奥のほうからガタガタといくつかの足音が重なって聴こえてきた。ドアは特に感情を表すことなくすっと開き、あっという間に空間の中に九人の男が集まった。
大輔は目に見えた状況を何度か否定してから、ようやく唖然として男達の顔を見渡した。
「どうしてここに……」大輔の声は震えていた。
「あれ」一番手前にいた新垣が緩い口調で言った。「大輔じゃないか」
入ってきた男達は大輔とともに村を作った仲間だった。どの男の雰囲気も記憶にあるものと比べて何か物足りず、表情が欠け落ちた顔でぼんやりと大輔をみていた。
「こいつらを処分しろ」手足を抑えられた沢崎が命令した。
「処分って、大輔をか」新垣はまだぼんやりとした目で大輔を見つめ続けていた。
「そうだ。俺を押さえているこのじじいも始末しろ」
男達はぴたりと体の動きを止めたまま、動き出しそうな意思も見えなかった。
大輔の気分は徐々に穏やかになっていた。「皆も人形を持っているんだね」
「ああ、もっている。俺はお前の顔をみても懐かしくもない。悲しくもない」新垣が抑揚のない口調で言った。「夜は寝ないし、疲れもしない。誰かを殺したいと憎むことはないが、人を殺しても何の罪悪感もない。ただ――」
新垣は微かに、オオイヌノフグリの花びら程度の笑みを顔に浮かべた。
「心がぼやけ過ぎていてよく分からないが、俺はお前に会えて少し嬉しいのかもしれない」
「何をしているんだ。とっととやれ!」沢崎が怒鳴った。
「俺には何もわからない」新垣は沢崎を無視して続けた。「俺の感情は俺が何をしても許してくれるんだ。感情は答えを持っていない。だから今俺たちは動かないことにする」
大輔は新垣を強く見た。「村に住んでいた他の人達はこの辺にいるのかい?」
「ああ。いることにはいる」
「では彼らを呼んでくる。また皆で村を作ろう」大輔は沢崎を抑える二郎に向いた。「二郎さんも行こう」
二郎は手を離して立ち上がった。「そうしよう。この男はもうどうでもいい」
「なんだと」
沢崎は勢いよく立ち上がった。その瞬間、それまで固いバネで押さえられていたかのような勢いで、新垣が沢崎に向かって跳ねると、そのまま拳で沢崎の顎を打ち抜いた。
「少しだけだが、久しぶりに自分の行動に自信が持てた」新垣が言った。
大輔達は九人の男達と共に外に出てバスに向かった。大輔は明美の手をつなぎ、明美はぼろぼろの白いドレスを着た人形を抱えながらふらふらと歩いていた。
運転手は気持ち良さそうに寝ていたが大輔は気にせずに声を掛けた。「お願いがあるんだ」運転手は目をこすりながら体を起こした。「どうしたんだ。ずいぶん人が増えたな」
「これからもっと増えるかもしれない。この周辺にいる人達を今すぐたたき起こして、このバスに乗せたいんだ。つまりクラクションを精一杯鳴らしながらこの道を何度か往復して欲しいんだけど、お願いできるかい?」
運転手は腕時計に目をやった。「普通の人は熟睡している時間だぞ。叩き起こして、俺がとんでもなく大きな恨みを買うことはないだろうな」
「大丈夫だよ。怒られたら僕のせいにすればいい」
運転手は迷うことなくエンジンを掛けた。それだけで静かな夜に十分大きな音が生まれた。バスにライトが灯ると、暗い砂利の駐車場に夏祭りのような雰囲気が少しだけ紛れ込んだ。
石を削っているかのような音を立てて、バスは古く汚れた建物の間を走り出した。初めに鳴らしたクラクションは、古代に空を制していた巨大な鳥の鳴き声みたいに、夜空の星を落としかねない空気の震えを起こした。それはそれから何度も続いた。
バスが道を一往復して戻ると、道の両側から静かなざわめきが起こり、操り人形にように不格好な歩き方をした人々が建物から出て来た。
「すごい音だったよ。普通なら絶対怒られる」大輔は運転手に言った。
「普通なら逮捕される」運転手は笑った。「それにしても静かな場所でクラクションを鳴らすっていうのは気分がいいものだ」
「もう一つお願いがあるんだ。僕と二郎さんをバスの上に登らせて欲しい。明美ちゃんと絹子さん、他の男達は中に乗る」
「全くお前はバスというものを全く分かっていない。バスは目覚まし時計でも、劇場のステージでもないんだ。別のバス停まで移動するためにあるんだ」
「天井に乗るのは良くないかな」
「俺は一般的なバスの説明をしただけだ。これは一般的なバスじゃない」運転手は座席から降りると、バスの中央にあるトランクを開き、脚立を取り出した。「このバスは誰かが天井に乗ることも想定済みだ」
「ありがとう」大輔は脚立に足を掛け、バスに上った。そして二郎も続いた。
「人が集まっているところで停めて欲しいんだ」
「あいよ」運転手は脚立を片付けながら返事をした。
バスが砂利を鳴らしながらゆっくりと動き出した。大輔と二郎はバスの上で手をついて体を支えた。
道の先には数十人の人影がバスのライトに照らされていた。
バスが完全に停止すると、大輔はバスの上に立ち上がり地上を覗いた。目に入ってきた光景は、脳にしみ込むことなく拒絶された。何度か瞬きをして、何度も同じ映像を脳に送り込むと、ようやく巨大な恐怖がこみ上げてきた。体の血流が一気にその向きを変え、体が硬直し、口は開いたまま呼吸をすることを忘れていた。
それらは人ではなく、全て木製の人形だった。
人間の大きさをした数十体の人形は、体をカタカタといわせてバスの周りに立っていた。
「人間が何しに来た」一体の人形が言った。
大輔は声を出すことが出来なかった。
「お前は大輔だ」別の人形が言った。
「もう一人は村長だ」また別の人形が言った。
「あなた達は……」大輔はようやく声の出し方を思い出した。「人形……?」
「そうだ。お前達の仲間に渡された人形だ」
「彼らから全てを奪った……」大輔の声は震えていた。「彼らは死んでしまったのかい……?」
「人間達の全ては我々に移った。記憶も含めて」
「人間は家で静かに転がっている」
「あなた達は……彼らではない」大輔がそう言うと、人形達がカラカラと笑った。
「当たり前だろ」
「彼らの記憶があるだけで、我々は彼らではない」
「そうだとしたら」二郎が太い声を響かせた。「全てを彼らに返してやってはくれないか」
「なぜだ。我々は人間達が不要になったものを取り除いた」
「感情も記憶も彼らは要らないと言った」
「なぜ今さら返す必要がある――」
「僕達は」大輔は声を張って人形の声を遮った。「仲間を救いたいんだ」
「お前は裏切られただろう」
「彼らを助ける義理はないだろう」
「あんな奴らは忘れて我々と仲間になればいい」
突然バスの扉が開き、白いぼろぼろのドレスを着た人形が出てきた。
「あなた方は我々と仲間になればいい」
「君は……」大輔の声がまた震えだし、自然と目から涙が落ちてきた。「明美の人形……」
「明美は私の人間」
「明美を返してくれ」
「それは出来ない。明美は苦しみ、生きることを諦めた」
「苦しみながらでも……」大輔は口に入った涙を飲み込んだ。「明美に生きて欲しい」
「明美は生きている。だけど動かない。少し前の我々みたいに」
「人間の言うことは勝手。我々は人間の耐え切れなかった不幸を引き取った」
「いつも我々は不幸になり、人間は楽になる」
「我々は幸せの中では生まれない。我々は不幸の中でしか生まれない」
「我々の中には人間の貯め込んだ苦しみが流れるだけ」
大輔は人形一体一体の目をしっかりと見た。全ての人形の目からは涙が流れていた。しとしとと流れる涙は止まることなく、木製の顔に深い染みを作っていた。人形は口々に言葉を発し続けた。その言葉のどれもが助けを求めているように聞こえた。人形達はひどい絶望の中に生きていた。
大輔は大きく息を吸った。「僕らがあなた達を幸せにする」
「お前達が我々を幸せにする?」
「お前達は我々に幸せをもたらすことが出来るのか?」
大輔は人形達を見回した。「出来る」
「我々は多くを望まない」
「この苦しみをひと時忘れさせる幸せが一粒だけあればいい」
「お前達は一体何をしてくれるんだ?」
大輔はしっかりと頷いた。「僕達はこれから一緒に一本の道を作るんだ」
人形達の純粋な目が静かに大輔に集まっていた。
「道の周りに村が出来て」大輔の声を夜風が運んだ。「そこに笑顔が咲く。友や恋人と心の底から笑い合う。時には悲しむけど友がまた笑い掛けてくれて、太陽と風が涙を拭ってくれる」
「それは幸せか?」
「我々はそれで本当に幸せになれるのか?」
「なれる。一緒に汗を流して村を作ろう。そして共に笑い合おう」大輔は夜空に向けて言った。
「我々と村を作ってくれるのか? 一緒に笑ってくれるのか?」
「そんなことが出来るのか?」
「出来る」大輔の声に二郎の声も重なった。
闇に深い沈黙が訪れた。風が三度ほど道の上を往復した。
「我々も……」人形がカタカタと体を震わせた。「村を作りたい」
希望が溶け込んだ声が続いた。全ての人形の目に不器用な光が灯っていた。
そして次の風が吹き始めた時、人形は次々と倒れていった。
倒れた人形からは表情が失われ、希望に満ちた目の光は完全に消えていた。
「彼らが……自分達が見つけた希望を人間に返してあげたんだ」二郎は両目から涙を流しながら言った。「仲間と人形達を連れて、どこか静かなところに村を作ろう」
大輔は頷いた。
夜空の星の光が地上に落ちてきて、人形達に優しい明かりを当てていた。人形達は相変わらず無表情のまま横たわっていたが、彼らが流した涙はまだ地面に染みを残していた。
風が何度か地面を撫で、涙の染みが完全に消えた頃、道沿いの建物から仲間達が現れた。