まおうさまのははうえ
いい加減、この世界に生を受けて数十年。
慣れもする。
前世は普通の女子高生だった。
身に持つかない勉学に励むために毎日学校へ行き、催眠術のような授業を受け流し、友達と遊ぶ。そんな生活を続けていた。最終的にはどこか中堅の企業に就職出来ればいいなと、大した野望や夢も抱かず。
……それがいけなかったのだろうか?
状況が全く分からなかったが、とにかく私は魔族として生まれ変わっていた訳だ。
前世と呼んではいるが、私はどうやって死んだのか。どういう経緯で地球ではなくこんな良く分からない世界に生まれ変わったのか。一切が謎のまま。
人間でなく魔族として生まれ変わったけど。とにかく死にたくない一心でここまで生きてきた。
「お母さま、野菜とってきたよ」
「あ、ありがとー。じゃその台の上に置いておいてね」
年齢にして30程度の、魔族としてはまだまだひよっ子である愛息子が籠いっぱいに野菜を収穫し、それを私の元へ持ってきてくれる。
それを私は手早く切り分けて行く。
プチドラゴンの吐く息で火を起こし、魔界に咲く植物から取った油を垂らす。充分に熱が渡ったら、切り分けた野菜をがっと入れてがっと炒める。適当に味付けして、木を刳り抜いた皿に盛る。完成図はとても野性的である。
そもそも、魔界に咲く植物が既にスプラッターなのだからどうしようもないのだが。
「ジャガイモもどきとねぎっぽいなにかの味噌風味炒め、お待ちどうさま」
その皿を、店内に数個備えられたテーブルの上に置く。椅子に座っているのは見るも野性味あふれる魔族だ。粗野な見た目に反して小さくお辞儀をした彼(彼女?)は皿に盛られた料理を食べ始める。
「アジュ、もう休憩にしていいよ~」
「分かった!じゃあお母さまを見ていても良い?」
「まあ、いいけど……」
私の了解を得た愛息子はキッチンに置かれた箱の上にちょこんと座る。そのなんと可愛らしい様!母ながら将来が楽しみだと思う程整った風貌!まさしく、この世界に下りたもうた天使だろう!(魔族だけど)
そもそも、アジュと私は血のつながりは無い。
この世界に生まれた私は、魔族の中でも下っ端の下っ端だ。ヒエラルヒーで言えば最下層。捕食対象に近い。つまり、すっごく弱い。
何とか生き残る為の道を模索した結果、料理に辿りつく。
この魔族の食事というものは異様に質素だ。自分よりも下級の魔族を狩って喰う。正に食物連鎖。弱肉強食。
例にもれず、私も捕食対象であるからして何度も命の危機に面したものだ。
その他に、その時代は人間の討伐者、通称勇者がはびこっていた時代も相俟って私はデットオアアライブの線上を行き来していたってもんだ。
話が逸れた。
とにかく、現代で生きてきた記憶のある私にとって、その食事は質素極まりなく、ものすごく物足りないのだ。
自力でいろんな植物を調べた。魔族は長寿なので、時間だけは有り余っていたから。塩っぽい物や砂糖っぽいもの。ちょっと臭いけど醤油っぽいのや味噌っぽいのも作れた。ちょっとずつ充実する食生活に私はうはうはしていた。
その油断だろうか。
ある日、途轍もない危機に瀕する。目の前に立ち聳えていらっしゃるのは超上級魔族。あ、死んだわ。私死んだわと覚悟したものだ。
しかし諦められるかちくしょう!と、私は交渉したのだ。その超上級魔族と。
「美味しいご飯、食べたくありませんか!!?」
と。
興味をお示しになられた超上級魔族様は、単なる暇潰しだったのかもしれない。でも、私に生きるチャンスを与えてくれたのだ。
言うまでもなく、私は全力で料理を作った。これ以上手間と暇を掛けたことがあろうかという程。私は頑張った。その結果、私は生き延びたのだ。
この世界の魔族に、味覚があった。
その時、ようやく理解した事実だ。
さて、そのままわたしは店を構え料理を提供し始めた。
初めこそ最下級魔族である私が、堂々とそこで営業しているわけだから捕食しようとたくさんの魔族がやってきたのだが。その度に超上級魔族が取り成してくださった。全く持って嬉しい誤算だ。
店の営業が軌道に乗り始めた頃、その超上級魔族さんは死んでしまわれた。
なんでも、魔王さまを打ち倒した勇者にやられてしまわれたらしい。らしいというのは、あくまで噂でしか聞いたことが無いからで。私なんかが魔王城に近づける訳が無い。
そんな時だった。
食材を探しに入った森の中で赤子を拾ったのは。
ちょっとお高そうな布に包まれた赤子は、母を求めて泣いていらっしゃった。
このままでは食べられてしまうだろうと。それは火を見るより明らかで。
平和に女子高生していた時の、最後に残った母性本能がまだ残っていた私は、その赤子を抱え込んで家まで逃げ帰ったのだ。
それからの私は、この赤子の為だけに生きている。
この子の為にも、保護者である私は強くならなければならなかった。とは言っても、魔族能力的には最下級に近い訳だから、どうしようもない。
この赤子諸共殺されないように、どうするか。
答えは一つだ。
殺されない程に美味しい料理を作るしかない!
「お母さま、お母さま。俺はケーキが食べたい!」
「ケーキ?クリーム草はまだ育ちきってないから生クリームもどきは使えないけど……」
「イチゴっぽいジャムでケーキが食べたいな」
「アジュはジャムが大好きだね」
私は冷蔵庫を空ける。
この冷蔵庫、私の魔族能力的には到底不可能なのだが、まだ幼いアジュに頼んだ所あっという間に作りあげた品だ。その時は、アジュの恐ろしいまでの潜在能力よりも、これで食材の保存が楽になるという事実の方が勝った。私のような最下級魔族のプライドなんかないに等しい物だ。
……魔族は多少腐った物でも平気で食べちゃうんですがね。
竹っぽい筒状の入れ物に入れておいたジャムを確認する。
「……あれ」
私の零れた言葉に、アジュが僅かに身を強張らせるのが分かった。それを横目で確認して、冷蔵庫の扉を閉める。
「アジュ……」
「……ごめんなさい。お母さま。ジャムが美味しくてちょっと食べちゃいました」
項垂れながら白状する。ちらちらと私の顔色をうかがうアジュの可愛さと言ったら!まさにこの世界に齎された奇跡だねこりゃ。思わず悶絶しそう。
その感情を必死に隠し、私はため息を零す。
「食べたいなら言ってくれればいいのに。お母さんはアジュにダメって言わないよ?」
「はい、ごめんなさい、お母さま……」
しょんもりとするアジュの頭を撫でてあげれば、恥ずかしそうに頬を染める。やっぱ可愛いわうちの子。
「じゃあ今日のおやつはイチゴっぽいジャムのケーキ(仮)にしようか」
「うん!!」
相変わらずヒエラルヒーでは最下級で、何時捕食されるか分からない人生で。それですごく可愛い息子がいる。
ああ、とても幸せです。
そんな幸せも、長くは続かなかったのです。
「魔王様!!」
突然の殴りこみか?と思う程、激しい勢いでドアを叩き開けた男は、一目散にアジュの傍により、膝を付いた。
見るからに美しい容姿の、噎せ返る様な魔力と、高貴な身なり。
間違いなく超上級魔族だ。
その男が、アジュの手を恭しく取り、傅く。
「俺に触れるな、痴れ者が」
思わず耳を疑ってしまうような。天使の顔の、可愛らしい口から零れたとは思えないほど高圧的で容赦のない言葉がアジュから聞こえた。アジュの天使のような声がががが。
申し訳ございませんと超上級魔族は恭しく頭を下げる。
唖然と。
ただ、その様子を唖然と見るだけだった私に、アジュが気づきほほ笑む。あ、やっぱりさっきのは幻聴だった見たい。あんな可愛い天使があんな言葉吐くわきゃないわ。
「お母さま。俺、魔王なんだって」
「……へ、そ そう、なの?……ん?まおうって……」
魔王。魔を統べる王。魔族の頂点を頂く、魔族の中で最も力を有する者。……だよね?
混乱する私を余所に、アジュは可愛らしくほほ笑んだまま私の胸の中に飛び込んできた。魔族としてはひよっこ年齢であるアジュは、まだまだ成長期。これから逞しい青年になるのだとは思うのだが、今はまだ私の胸元までしか身長がない。
ついいつもの癖で、丁度良い位置にあるアジュの頭を撫でる。
「……下級魔族が、魔王様に軽々しく触れるなど万死に値する」
それを射殺すぞくそアマが、と。はっきりと告げるような強い眼差しで睨まれ私の喉が「ひっ」と見苦しい音をたてた。
これは魔族に生まれつき備わった本能で、自分より上級には逆らえないようになっているものなのだ。多少の差ならアジュへの愛で乗り越えられたけど、目の前にいる魔族は超上級魔族で、能力差は月とすっぽんほど違う。彼の一睨みで私の息が止まってしまってもおかしくないのだ。
「お前、本当に邪魔。お母さまになんかするなら殺すよ」
胸元にいるアジュの体から、得も言われぬ禍々しいオーラが溢れて出る。それが超上級魔族に向かっていて、私は気が気じゃない。
「申し訳ございませんっ」
禍々しいオーラに耐えきれないように超上級魔族が崩れる。おおう、なに?この状況、どういうこと?
「ア、アジュ……。お母さんには何が何だかさっぱり……」
「う~ん。俺も薄々気づいてたんだけど。俺より強い魔族がいないから仕方ないんだよ」
「そうです!偉大な魔王が、下級魔族が生活するような下賤な場所で生活なさっているなどと。このカクタクス、申し開きもございません。一刻も早く魔王城へおいで頂けますよう、お迎えにあがりました」
さっぱり分からん。分からんが、この超上級魔族の名前はカクタクスということは分かった。彼は、アジュを迎えに来たという。んで、アジュは魔王だから魔王城で生活するべきってことだ。
……え、魔王城?
「……アジュは魔王城に行くの?」
「下級魔族の分際で魔王様の御前で口を開くとは。身の程を知れ」
「行かないよ。俺はお母さまと一緒にいるの」
私の問いに、ほぼ同時に言葉が返ってきた。カクタクスさんは整った顔を怒りに歪ませて、凄まじい勢いで私に。アジュは天使の頬笑みを浮かべて、首を傾げてこの世のものとは思えないほど可愛らしく。
「い、いや。でもアジュ。この方、アジュを迎えに来たって……」
「別に俺は呼んでないし。こいつが勝手に来ただけだもん。……それとも、お母さまは俺と一緒に暮らすのはイヤ?」
「っ!! 嫌な訳ないでしょ!アジュは世界で一番可愛くて愛らしくて私の大切な子なんだから!!」
力の限りアジュをぎゅっと抱きしめる。くううう、なんてかわいい子なのだ!
アジュの頭が甘えるように動くの。ちくちょう!可愛すぎる!!
「……という訳だ。貴様はさっさと帰るがいい」
おまえ、こいつ、貴様。アジュってば、何時の間にそんな言葉を覚えたのだろうか。そんな言葉づかいはダメだぞといえば、アジュはいたずらっ子のような表情で「ごめんなさい」という。聞きわけの良い可愛い子だ。可愛いぞーー!!
「そっ!そんな訳には参りません!!魔王様が魔王城に居られないなどと……っ!」
「やだ。俺はお母さまと一緒じゃないとやだ。絶対に行かない」
確かに魔王城なのに魔王がいないとは。じゃあ魔王城じゃないじゃんってなってしまうね。
プイと顔を横に逸らして、口を尖らせる天使。その奥ではおろおろと困ったように躊躇する超上級魔族カクタクスさん。ううん、シュールだ。
「魔王様、その下級魔族がいれば、魔王城においで頂けると考えて宜しいのですか?」
「次、その名称でお母さまを呼んだら。……どうなるか分かってるんだろうな」
「……申し訳ありません。その女性がいれば、魔王城においで頂けると?」
おおう、プライドの塊である超上級魔族に「女性」と呼んで頂くほど私は大層な存在じゃないのだよ。背筋が凍る!主に恐怖で!!
僅かに震えた私の背中に、アジュの手が回る。ギュッと抱きついたまま、アジュは暫く考え込む。
「……そうだな。お母さまが一緒に魔王城で生活するなら、行っても良い」
「本当ですね?」
「うん。お母さまを一人でここに残すのだけは嫌だ。そんなことするなら魔族全員ぶっ殺してやる」
……うん、アジュの後半の言葉は幻聴だな。何も聞こえないよ。お母さんは何も聞いてないよ。
「おい、下級……女!」
「ひっ! は、はいっ!!」
「魔王様と共に魔王城へ行く準備をしろ」
「え、いや……」
どういうことなの?
私はアジュを見下ろすが、彼は天使の頬笑みを浮かべているだけだ。可愛いぜちくしょう。
渋る私を超上級魔族カクタクスさんは、視線だけで殺せるんだぞと言わんばかりに睨みつけてくる。怖い。超怖い。
「……まさか、嫌とは言うまいな?」
「はい喜んでー!!!」
直立不動でそう答える以外、私に取れる行動など有ろう筈がなかった。
ダメだ。私、死ぬわ。絶対、死ぬわ。
だって魔王城だもん。上級魔族とか超上級魔族とかたくさんうろうろしてる所だもん。そんな所に下級魔族だよ?ゾウの群れに突っ込む蟻みたいなもんだよ。プチっと踏みつぶされちゃうよ。
「うう……やっぱり無理だよ、アジュ……。お母さんはここでひっそり暮らしてるよ」
「じゃあ俺もここでお母さまと一緒に暮らす!あいつにそう伝えて……」
「待ってアジュちょっと待って!!無理無理無理無理あの方に言ったら超怖いから待って!!」
半泣きで荷造りしている私は、部屋を出ようとしたアジュの腕を引っ掴んで止める。アジュは首を傾げて「じゃあアイツ、消しとく?」なんて不穏な事を仰る。そう言う冗談、お母さん笑えないよ……。
アジュはそっと私の傍に寄って来て、上目遣いで私の顔を窺った。
「ごめんなさい。お母さまに迷惑かけてるよね。でも、俺、お母さまと離れたくないんだもん。もしかして、ここに誰か離れがたい人がいるの?」
「~~っ!!アジュより離れたくない人なんかいる訳ないでしょ!!お母さんだってアジュと離れるなんて嫌よ!!!」
「うん。俺、お母さま大好き!!」
そうして激しいハグ。正直、この流れを既に5回は繰り返している。自分でもバカ親子ここに極まれりだと思う。でもアジュが可愛いのがいけないのだ。
「そうだ、キッチンの荷物纏めてくるね」
「一人で大丈夫?結構重たいよ?」
「俺、お母さまより力持ちだもん」
得意げに胸を逸らして言うアジュの可愛いことと言ったら!しかし、魔族の階級も圧倒的にアジュの方が上な訳で、もちろん身体能力も全然違う訳で。
確かに、鍋とかフライパンとか。食材とか。色々大変だし、魔術も必要になってくるものもある。その場合私凄く役立たずなのね……。
「お願いね。アジュ」
「うん!任せてよ!!」
私はアジュにお任せすることにした。
部屋を出て行くアジュを見送って、私はため息を零す。
こうなってしまっては、後は野となれ山となれ!
どうせ、私の天使アジュと離れ離れになるのは嫌なのだ。だったら覚悟を決めて魔王城へ行くしかない!それにアジュは可愛いから、魔王城でどんな悪手が伸びるか分からない。あれだけ天使なのだから、邪な思いを抱く奴も出てくるかもしれない。
そんな奴らから、私が守らずしてだれが守るよ!!
アジュが望んで添い遂げる相手が見つかるまで、この私がアジュを守るのだ!!
私はそう心に決めた。
「やっぱりお母さまはイヤなんだな……」
それはそうだろうと思う。お母さまの能力は最低に近い。言葉を理解しない魔物よりも弱いだろうし。それが己の何千倍もの力を持った魔族がうようよいる場所に行くのだ。怖いに決まってる。
キッチンの扉を開ければ、そこには先ほどの魔族がいた。カクタ……なんとかとか言う奴だけど、名前を覚える必要性を感じなかったので記憶にはない。
「お手伝いさせていただきます」
「いらない。お前がお母さまの荷物に触れると思うと殺したくなるから」
男の提案をあっさりと蹴って、俺はキッチンの中身を吟味する。正直全部転移で送った方がいいのかもしれないけど、もし魔王城で誰かが触ったりしたらとか考えると無理。初日で魔王城全滅、何てことになりかねないし。
「……魔王様はなぜあのような女に肩入れなさるのですか?」
訝しげに眉を寄せて男が問う。
「お母さまだからだよ」
魔族は、上に行けばいくほどプライドが高くなる傾向がある。その頂点である魔王など、プライドで出来ているようなものだろう。恐らく歴代魔王は全員そうだったのだと思う。
生まれた時は、俺もそうだった。
生まれた瞬間から、どの魔族よりも強い力があって。どんな魔族も俺には逆らえないのだから当然だ。
それ故、魔王は一人で産まれ一人で育つ。感情を制御しきれない赤子の魔王は恐ろしくて近寄れないのだ。
でも、お母さまは違った。
お母さまは暇で泣き喚いていた俺を見て、家に連れて行ったのだ。
どんな魔族も遠巻きに怯えていたというのに。お母さまは俺を抱いて、優しく声を掛けてくれた。
初めは、下級魔族がトチ狂ったとしか思わなかった。魔王の力に当てられたのかと思った。だけど、お母さまは俺の面倒を甲斐甲斐しく見続け、弱いのに一生懸命守ってくれようとした。
……実際弱過ぎてお話にならなかったけど。後から分かった事だけど、お母さまは弱過ぎて俺の力を感じ取れなかったようだ。
弱いのに、俺を守ろうとしてくれるお母さまの姿は。逆に俺が守ってあげたいと思わせるに十分だったのだ。
ご飯、美味しいし!
「言っとくけど」
「はい」
「お母さまに何かあったら。魔界全部滅ぼしてやるからな」
きっぱりと告げた言葉に、男が息を呑むのが分かった。本気だと気付いたのだろう。魔王がそう望むのなら、魔界は滅ぶだろう。だって、魔王だもん。魔族を統べる王だもん。
「……しかと、肝に銘じて」
「それと」
「はい」
「……お母さまに手を出したら、血祭りだから」
「……は?」
正直、お母さまの作るご飯は異常に美味しい。その所為で実はいろんな魔族からちょっかい出され続けているのだ。俺っていうコブ(しかも魔王)付きにも拘らず。まったくもって忌々しい。
「こんな所にお母さま置いて言ったら、あっという間にどっかの馬の骨がちょっかい出してくるに決まってるんだ」
「は、はあ……左様でございますか」
いまいち納得できないといった表情をありありと浮かべる男に、俺は嘲笑しか出なかった。お母さまの魅力に気づけないなんてどんだけ愚かなのか。
「あ、これ。ちょっと腐ってる」
俺の呟きは、本当に小さい物で。幸い男には届かなかった。
お母さまが作ったクッキー(仮)を木の皿に入れ、男の前に差し出す。
「これ、お母さまが作ったお菓子。喰え」
お母さまは食材を無駄にすることを嫌う。多少腐っていても魔族の丈夫な胃では問題ないのだが、お母さまに大事があってはいけない。よってお母さまに腐ったものなど問題外。客に出すのもお母さまは嫌がる。俺が食べたい所だけど、今日のおやつは既にドーナツが用意されているのを知ってる。クッキーも好きだけどドーナツの方が好きなんだ。
こんな奴にお母さまの料理を喰わせるのは癪に障る。が、仕方ない。
男は最初こそ渋ったが、魔王自ら奨めたものを食べないなどという選択が出来る筈が無いのだ。例えそれが致死量の毒だと分かっていても、魔王が喰えといえば喰うしかない。それが魔族の摂理なのだ。
嫌そうに一掛けた掴んで口に含む。さくさくと小気味よい音を立てて咀嚼するのを耳だけで聞いていた。俺の両手はお母さまの荷物を纏める事の方が重要なのだ。
「……なんと、これは……」
大層驚きましたと言わんばかりの声音が零れ、俺は思わず勝ち誇った笑みを浮かべてしまう。お母さまの作ったお菓子の威力は半端ない。この世のものとは思えない極上の味わいだろうが!
分かったら土下座させてお母さまに謝罪でもさせようかと、俺は男を見た。
瞬間、後悔した。
こういう奴に限って、お母さまの魅力に気づくと手が付けられないんだと。それは過去の事で学習済みだ。この魔王がいるというのにも関わらず、果敢にもお母さまにちょっかい出してきた奴らも居るぐらい。
それを、どうして失念していたのだろうか。
こんな奴に、お母さまの手料理など喰わせるべきではなかったのだ。
……最初の血祭り、こいつだな。
俺はそう理解した。