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短編No.01-20

No.09 Resistance

作者: 藤夜 要

 柏原怜。向かいに住んでた幼馴染。私と同い年の寡黙野郎。口の汚い嫌味な奴。後、あいつにつけられる肩書きは――親友、千春の『男』、くらいか……。

 ただでさえ寡黙なあいつと此処まで何も話さなくなったのは、何を隠そう私の所為。そう、自業自得、という奴だ。折角の数少ない私の理解者だったのに、自ら縁を切ってしまった。


 私は見た目で損をする。長身でやせぎす、きつくて細い目。あんまり見た目を気にしないから、長いストレートの髪は、前も後ろも伸び放題で。水商売をしてる女の娘という偏見も手伝って、私と好んで仲良くする様な女子は、小中合わせてもいなかった。

 まあ、見た目の所為だけじゃあないんだろうけど。そんな偏見の目の中で逞しく生きていく為、必然的に気の強さと性格の悪さが身についた。今思うと、正に悪循環、って奴だ。

 そんな中で、怜と千春だけは、私を特別視しなかった。

 だから、千春と怜だけは、好きだった――親友として。千春も……怜、も。


 怜と喋らなくなったきっかけは、遡る事六年前。中学卒業の時、千春に頼まれたんだ。

(みやび)ちゃん、お願い……柏原君と二人になれる時間を、作って……』

 って。他ならぬ千春の頼みだから、断れなかった。だって……やっと出来たトモダチだから。

 よく解らない引っ掛かりを感じたのは、この二人が巧い事まとまってしまったら、私はお邪魔になってしまう、というエゴが働いた所為だ、と思った、あの時。

 幾ら何でも、それじゃあ本当に人として最低じゃん、と思ったから、私は千春の為に、ひと肌脱いだ。

 彼女を家に呼んで、窓越しに怜の部屋の窓ガラスを、部屋に常備しているそれ専用の物干し竿で突付く。その位近距離に隣接しているアパートなんだ、此処。声とか、もう丸聞こえ。

『お前な、いちいち突付かないで直接来いよ。割れたら……』

 と相変わらず文句を言いながら窓を開けた奴は、私の隣にいる千春に気付くと、途端に黙り込んでしまった。奴は、私以外の前では殆ど喋らない奴だったから、実は私も、千春が怜のどこに惚れたのか興味があった。

『千春が、あんたに話があるんだって。私がそっち行くから、こっちに来なよ。制服の千春に、ベランダまたがせる訳にはいかないでしょ』

 私はそう言ってアパートの屋根に下り、怜の部屋へと続く隣の屋根へつたった。すれ違いざまに、奴がぼそっと呟いた。

『お前が取り持ってんじゃねえよ……』

 驚いて振り返ると、怜はもう私の部屋に入り込んで、その窓をぴしゃりと閉めるところだった。


 翌日、私は怜の部屋に上がりこんで、興味本位で訊いてみた。

『ねえねえ、千春ってさ、あんたなんかの何処がよくって告って来たの?』

 不機嫌そうに眉間に皺を寄せて黙り込む怜を、無性に苛めてみたかった。

『こーんな青っ白くて線の細い、中性的な感じで、小学校の時なんか“女みたい”って、名前で苛められてまでいたのにね。随分、おモテになる様になっちゃったのねー』

『……雅、お前さ。俺の事、男だと思ってないだろ』

 千春の誤解を招くのは嫌だから、お前、もう屋根を伝って俺の部屋に二度と来るな。

 あいつは私の問いには答えずそれだけ言うと、弓の手入を黙々と続けた。私はその言葉と態度にかちん、と来て、黙って窓づたいに彼の部屋から立ち去った。


 それ以来、怜とは殆ど話していない。代わりに、毎日可愛い千春から、“彼”との仔細を聴く日々が続いた。私の知っている、『口は悪いけど、不器用に私の孤独を癒してくれる、唯一無二の親友』という怜は、あの日に消えてなくなった。




 高校に行ってから、あいつは急に変わった。それはきっと“彼女”のお陰なんだろうな、と思う。

 怜は中学に引き続き弓道部に所属したらしい。生真面目で精神論が好きな、私と正反対のストイックな奴。そんな性格と、華奢で女みたいな身体とのギャップが中学の頃までは激しかったけど、高校に行ってから急に成長して内外のギャップに差がなくなった。中途半端に伸びていた髪を、バッサリと五分に刈り込んだスタイルの変えたのも、彼を男に見せる様になった一因だろうな。そして何より……多分きっと、別の意味でも『男』になったんでしょ。

 何度か千春から、私の家に泊まった事にして欲しい、と電話を貰う事があった。

 なのに、私の部屋に男が来ると、怜はこれ見よがしにカーテンを閉める。こちらを汚いものでも見るような目で一瞥してから、思い切り音を立ててカーテンを閉める。

 だから、むかついた。私だって、これでも一応女だ。男の一人や二人くらい、いる期間があっても不思議じゃないでしょ? 何を怒ってるのよ、ばっかみたい。そもそも、あんたと私は無関係じゃん。あんたには千春がいるじゃない。どうせ私はお水の女の子供だし。汚い目で見られるのは慣れてるわ――。

 他の男とセックスしながら、怜の事を考えている自分が滑稽だった。


 流石の私も自覚した。卒業の日のあの引っ掛かり。あれは、お邪魔とか疎外感とか、そういうものじゃなくて――怜の事が好きだったんだ……『男』として。

 失くしてから気付いても、もう遅いから。千春が親友である事に変わりはないから。彼女を裏切りたくは、無いから。

 私は、自分の心を封印して、現実に抗う事をしなかった。千春を傷つけたくない。怜に拒まれたくない。何よりも、自分が傷つきたくなかったから。

 私は、最初から諦めていた。恋も、現実に抗う事も、素直な自分に変わる事も。




 今の私は、あのボロアパートに住んでいない。目の前に怜の部屋の窓が見える、という事もない、普通のアパートに住んでいる。一緒に住んでいた母は、私が高校に行ってる間に、男と一緒に蒸発した。千春と一緒だった高校の卒業を諦めて定時制に通い直し、昼はバイトで学費と生活費を稼いで凌いだ。意地でも、他人の施しは受けたくなかったから、随分へんぴな田舎の町で、もっと安いアパートを借りて暮らした。こればっかりは仕方なく、怜のご両親に保証人を頼んだ。怜と同じく不器用なほどに真面目なご両親は、こんな程度の事しか出来ないけれど、と言って、申し訳なさそうに保証人の欄に記名捺印をしてくれた。自分を蔑んだ地域の人にとっては、いい厄介払いが出来たんじゃない?

 母は低脳で馬鹿だったけれど、私は幸い馬鹿ではなかった。順調に定時制高校を卒業して、母みたいにお水の道に入らずに生活出来る様になった。高卒でも、お人好しな今の職場の社長が、私を根性があると期待を掛け採用してくれたのだ。

 母の様にはなりたく、ない。流されて自分を見失い、思春期のあの頃の様な無様な自分に堕ちたくはない。歯を食いしばり、その呪文を唱えながら、人様に後ろ指を指されない生き方を貫いているつもり。怜に、これ以上冷ややかな目で見られない為に。


 その間、私を孤独や不安から救い出し支えてくれたのが、千春だった。

 普通の子達と同じ様にキャンパスライフを楽しんだらいいのに、電車を二度も乗り換えなくちゃ来れない距離なのに、しばしば私のアパートに立ち寄っては、夕飯を作って待っていてくれたり、一緒に繁華街へ遊びに連れ出してくれる。時折そこに怜を伴うのが苦痛だったけれど、意識して断る方が不自然で、千春に要らぬ誤解を与えると思って、ひたすらに私は我慢した。我慢して平静を装った。

 彼の、眉間の皺が怖かった。彼の腕に絡みつく、千春のそれを見るのが辛かった。高校の時に、痛感した。男に逃げるのは虚しいままで、くだらない母親と同じだ、と。だから、男に逃げる代わりに仕事に逃げた。それが功を奏して、私の生活は物理的には潤った。だけど、物が豊かになればなる程、心の貧困が目立っていった。

 一番欲しいものはやっぱりお金で買えないもので――それは、絶対に諦めなくちゃいけないもの。

「怜――ごめん」

 遠いあの日、彼が何故『俺の事、男だと思ってないだろ』と眉間に皺を寄せたのかを、今頃になって気づいたら、私は謝罪と懺悔の言葉と、そして、後悔の涙しか出なかった。

 あの時、抗うべきだったのだ。あの状況に抗ってでも、自分に素直に生きるべきだった。例え千春の願いでも、こんなに想いが募る前に、大切なものを手離すべきじゃなかったんだ。

 失くしたものは、もう返って来ない――私は、現実に抗えないでいた。過去を悔いながら、それでもまだ、現状に抗い打破する勇気を持てないでいた。

 抗う事も、受け容れる事も出来なくて。

 もう、一年以上、怜とは会っていない。この頃は、千春とも電話でしか話してない。

 寂しくて、恋しくて、夜の私だけは、昔のままの寂しがり屋の子供だった。




 そんな私の中に、現状へのResistanceを芽吹かせたのは、社長がうっかり口を滑らせた一言だった。

「怜君の言った通り、やっぱり根性のある子だよ、君は」

 私が初めて大きな仕事を受注したお祝いに、と、社長が設けてくれたその宴席で、酔いに任せて彼がそんな言葉を口にしたのだ。

「社長、怜と話した事があるんですか?」

 私も酔っていたから、きつくて細いこの目が一層細く尖って見えて、社長をビビらせたのかも知れない。しまった、という顔をしながらも、意外と簡単に教えてくれた。

「いや、実はね、まぁもう時効だよな。君の前に面接に来たのが、柏原怜君だったんだよ」

 あいつ、一足お先に大学に通っていた癖に、私の受けたこの会社に、面接の電話をしていたらしい。そして、いざ面接会場で、社長と人事部長に言ったそうだ。

『月島雅の幼馴染です。彼女の男顔負けの根性と修得の速さは自分も認めているところです。此処を不採用になったら、彼女は此処一本に絞っているから、生活していく事が出来ません』

「だから、どうか採用してやって欲しい、って青臭い事を言って来てねぇ」

 ――聴いているこっちが恥ずかしかった。何やってんだ、あの馬鹿は。普通、そんな事しないし、却って人事に悪印象受けるじゃない……。

「こんな不況で、あちこち掛け持ちで面接を受ける子が多い中、家を見込んでくれてたんだ、って事は、彼に聞かなかったら知らずにいたよ。雅ちゃん、そういう媚を売る様な事は言えない子だろう? 君が此処に馴染むまで、彼は君に隠れてちょこちょこ様子を見に来ていたらしくてね。私も二度ほど見かけて声を掛けたんだが、真っ赤な顔して逃げて行ってしまってねえ――いや、後で驚いたよ。怜君は、あの柏原の息子だったんだね。いいねえ、若いってのは」

 そう言って社長が笑いながら、手酌で十何杯目かのビールをグラスに注いでいた。

 ……私がこの会社に拘ったのは、小さいながらも、こんなアットホームな温かさに惹かれたからだった。喜びを倍に、悲しみや悔しさを半分に、そういう、『人』と仕事をしているのだ、お金と仕事をしているのではない、と感じさせる社長の人柄に惚れて、この会社しか受けないと決めていた。そんな事を、怜には当然話してなんか、いなかったのに。

「怜は、他に何か言ってました?」

 社長はぐーっとビールを飲み干すと、にんまりと笑い、半開きのとろんとした目で、私を見つめてこう言った。

「社長さんと話してみて、雅が他を受けない理由が解った気がした、と十九のガキの癖に生意気にも言ってたよ」

 終電が終わる前に、(やっこ)さんとこへ行ってやんな、と社長は私の背中をぽん、と押した。

「お、お先に失礼します。すみません、ありがと、社長!」

 私は、バッグを持つ間ももどかしく、急いで店の外へと飛び出した。

 息を弾ませながら、ふと思い出す。

 そうだ、この会社、元はといえば、怜のお父さんが紹介してくれた会社だった……。


 一人で生きて来たみたいに。

 誰にも頼らなかった様な顔をして。

 私は、二十一にもなって、まだ子供のままだった。なのに、諦める事ばかり大人の真似をして、初々しさを失くしてた。

 一番最初に行くべき所。

 私が、一番最初にレジストする人、それは、親友のところだった。




 不謹慎な時間にドアホンを押すのがためらわれたけれど。この地にまた帰って来た事も正直疎ましくは思うけれど。

 私は、とにかく千春に会うべく、彼女の家のドアホンを押した。

「……雅ちゃん……どうしたの、こんな時間に。帰る電車がなくなっちゃうじゃない」

 家に泊まってく? という言葉を遮って、私は彼女に頭を下げた。

「千春、ごめんっ! ……ごめんなさい……。私、今から貴女を裏切る」

 千春の涙は、見たくなかった。俯いたまま、私は彼女の罵声と殴打を覚悟で、待った。

「意味、わかんない。ちゃんと言って、雅ちゃん」

 震える声で、彼女が質した。私も負けない位に震えた声で、ようやく声を絞り出した。

「ずっと、千春を騙しててごめん……。私、ずっと……怜が好き」

 だったんだ、と言い終わる前に、私は千春に胸倉を掴れ、反射的に上がった顔を平手で思い切り引っ叩かれた。乱れた長い私の髪が、視界を見事に覆ってくれて、千春の泣き顔を見ずに済んだ事を、何処かで安堵している自分がいた。

「雅ちゃんなら、男より友情を取ってくれると思ったのにっ」

 どういう意味か、解らなかった。親友なのに、解らなかった……心が、離れてしまった、というのは、こういう事を言うのかしら……?

「私、もうこれ以上惨めな想いしたくないから。もう、いい。柏原君は雅ちゃんに返してあげる」

 千春はそういうと、初めて私の胸倉から手を離し、私のぐしゃぐしゃになった髪を、その綺麗な手で梳き整えてくれた。

「ぶってごめんね……悔しくって。最初から、柏原君は雅ちゃんだったの。六年も騙してたのは、私の方。ごめんね、雅ちゃん」

 言っている意味が……解らない……。


 近くの公園のブランコに二人腰掛け、私だけが何となく漕いでみる。キー、キー、という錆びついた音に紛れて、千春の呟きが公園に小さく響いた。

「柏原君ね、自分には雅しか見えてない、けど、あいつがそれを望むなら、千春を好きになれる様に頑張る、って……それが、あの卒業の日の彼の返事だったの。結構、かなり酷い言い草だよね」

 酷い、それは私もそう思った。

「計算して、私に嫌われる為に言ったんじゃなくって、本気で言ってるから、彼のそういう、嘘のつけない誠実なところが、私好きだったの。雅ちゃんに彼氏が出来た時、やっと私にも振り向いてもらうチャンスが来た、って思ったんだ……」

 千春はそこで言葉を切って、ブランコを止めた私と入れ違う様に、今度は彼女が漕ぎ出した。

「嫌な奴でしょ、私。全然そんな予定もないのに、雅ちゃん家に泊まる事にして、なんて嘘まで言って。柏原君、なーんにも言わないし、してくれないの。頑張るとか言いながら、それも充分失礼だけど、実際には頑張ろうともしてくれないの。頭の中、弓と雅ちゃんの事ばかり。私一人で、馬鹿みたい」

 もう、二年前には終わってるのよ、と、千春は初めて私を見た。

「どうしたら償えるか、って言うから、雅ちゃんと会わないで、って言ってやったの。本当に会ってないかどうか、確認する為に、私ずっと雅ちゃんとこに通っていたの。柏原君を呼んで一緒に遊んだのも、私に隠れて会っていないか、二人の様子を見て確認する為だったのよ」

 私も雅ちゃんを騙してたのだから、平手一回でおあいこね、と無理をして笑う千春の『騙した』という告白が、私には嘘だとすぐに判った。

「千春……ごめん……」

「うるさいよ、そういう時は、ありがとう、って言って。でないと余計に惨めだから」

 千春はブランコを思い切りひと漕ぎすると、そのままジャンプして飛び降りた。

「気持ちを切り替えられたら、雅ちゃんには私からまた連絡するから。柏原君に、新しい男の子を紹介してね、って伝えておいてね」

 そう言った後は一度も振り向かず、彼女は公園の出口をくぐって行った。




 昔住んでいたボロアパートは、元々自殺者の部屋だったという事で、私達親子の後に入居する人などいなかったみたいだ。

 私は、深夜にこれ以上ドアホンを鳴らす勇気が無くて、空き部屋だらけのアパートに忍び込む。返しそびれていた合鍵を使って開錠を試すと、恐ろしい事に開いてしまった。ドアノブを取り替えてさえいない管理人のずさんさに、心の中で驚く私。

 簡単に昔の住まいに上がり込めてしまった事に、少し犯罪めいた罪悪感を覚えつつ、私は押入れに入れたまま引っ越した竿がまだ残っているかと奥の部屋へと歩を進めた。

「……あるし。大家さん、管理する気がないのかしら」

 そう文句を言いつつも、そんなだらしのない管理人に感謝している自分がいた。

 昔の様に、そっと怜の部屋を竿で突付く。暫くそれを繰り返す内に、ようやくカーテンが揺れ動き、一年振りの懐かしくも変わった怜の驚いた顔が、窓ガラス越しに私を見た。

「……何でお前がそこにいるんだ?」

「……えへっ」

 なかなか巧い言葉が出て来なくて。私は笑って誤魔化した。


 埃だらけの、がらんどうの空き部屋に、怜と私の二人きり。横並びで壁にもたれて、ただ、沈黙が漂う。

 カーテンのない窓からは、黄金色に輝く月が、うっすらと室内を照らしてる。ほんの少しの動き、ほんの僅かな溜息でも、ふわふわと埃が舞い動くのが、月明かりでもはっきりと見えた。

「きったねぇ部屋。ハウスダストにでもなりそうだな」

 口火を切ったのは怜の方で。何しに来たんだ、と訊かれて、なかなか答える事が出来なかった。

「今日、職場の飲み会でね。社長に、今頃初めて聞いたんだ。怜が社長に言ってくれた事」

 げ、と低い声が響いた。――あ、向こう向いた。絶対、顔が真っ赤になってるに違いない。

「ありがと、って、言いに来たの。すごく、嬉しかったから」

 でも、あり得ないよね、普通しないよ、とつい憎まれ口を追加してしまうと、却ってそれが怜を昔の砕けた彼に戻してくれた。

「相変わらず素直じゃないな。この口かよ、喧嘩売ってんのは」

 そう言って頬の肉を思い切りひねられ、私は何だかすっごく泣きそうになった。あまりにも、そういうじゃれ合う感じが懐かし過ぎて。

「へんひ、ふはへに来はの」

 頬をつままれたまま、彼に言う。“返事、伝えに来たの”と解ってくれたかしら。

「あ? 何の?」

「ほへのほほ、おろこらとおもっへないはろ」

「……何て言ってるか、わかんね」

 だったら、さっさとその手を離せ。

 私の心の訴えとは逆に、今度は反対の頬までつままれて、私はこの不細工極まりない状況下で、もしかしたら告白せねばならんのか、と、一瞬軽い眩暈を覚えた。

「遅え、来るのが」

「!」

 こいつ……解ってて遊んでたのか……!

 そんな私の口汚い悪態は、言葉として出て来る事が叶わなかった。頬をつねる力が緩んだ頃には、怜に叩くべき憎まれ口を塞がれてしまっていたから。

 相変わらず不器用な奴。その、触れるだけのぎこちないキスが、妙に新鮮でドキドキした。

 だから、今回は折れてあげた。たまには、可愛げのある女でいてやろう。

「……ちゃんと、男だと思ってるよ、怜の事」

「ホントは知ってた。俺、巧い事言えないから、お前から言わせたかっただけ」

 ずるい、汚い、このペテン師。いや、ペテン師は、違うのか。怜に利益は、何もない。私みたいな性格の悪い女を抱え込まなきゃならないんだ。

 そんな事を考えてるのを知ってか知らずか、怜が私を抱きしめる力をさっきよりも強くした。

「……家、泊まってくか?」

「……ん……いい?」

 ちゃんと下から上がって親に挨拶しろよ、と言った彼の相変わらずの誠実さが、私を変えてくれると信じさせてくれた。




 後で、怜から聞いた話。

 あの日、私が昔の住処へ行く前に、千春が電話をしてくれたそうだ。私が千春に『今から千春を裏切る』と言った言葉をそのまま怜に伝えたらしい。

「雅ちゃん、柏原君の事で頭一杯で、きっと私の伝言なんか忘れてると思うから」

 そう言って、結局彼女は直接怜に、男の子を紹介してね、という言い方で、彼に許しの言葉を告げた。

「どう返事をしていいもんやら、俺には解らなくて、すげえ困った」

 という怜は、結局彼女が一番欲しかった「ありがとう」という言葉を返していた。


 怜の弓道の先輩を交えて、四人でダブルデートをした。唯一社会人の私が、全員分の映画と食事代を奢らされ。

 でも、お金に替えられないものを私は取り戻した。

 恋と、友情と、抗う自分。

 生きてれば辛い事だっていっぱい、ある。だけど、諦めて卑屈になんかならないで、常にそれらに刃向かって生きていこう。そんな風に変わり始めて、初めて自分を好きになり始めた。


 今日は、怜が社会人になって初のお給料日直後のデートの日。

 いつもより、少しだけお洒落をして来い、なんて珍しい事を言われた。多分きっと、今度は、ね――怜が告ってくれる番。

 想像するだけで何だか可笑しい。今更何を、という感じで可笑しい。

 寡黙で口汚くて嫌味な奴が、

「やっと雅に追いついたから」

 その一言を言うだけでも、二十分以上電話で沈黙が続いた。

 返事はもう、決まってるの。

「ホントは知ってた。怜に言わせたかっただけ」

 初めて見るスーツ姿の怜が、楽しみ。

 ざんばら髪を綺麗にカットして、明るくなった自分の顔をしっかり出した私を見て、彼が何て言うのかとても楽しみ。

 髪と一緒に、醜い私も、美容師さんに綺麗に切り捨ててもらったつもり。

 “諦めないで”

 “逃げないで”

 何処かでまだくすぶってる“醜い私”に、そう呪文を唱えながら毎日反旗を翻す。

 毎日が私のResistance、怜と一緒に歩めるのなら、投げ出さないで、変わってみせる。

 その源を、私に頂戴。私、何十分でも何時間でも、ずっと怜の言葉を待てるから。

 そんな事を想いながら、私に気づき驚いた顔で目を見開く怜に笑顔で手を振ってみる。

「随分とまた思い切り切ったな」

「うん。今日から私もリスタート、とか思って。そんで、何? 電話で言ってた、追いついたから、って話」

「いきなりかよ。……その……何だ……。お待たせ」

 ち、がーう、そうじゃないでしょ、と膨れた顔をしながら、次の言葉を待っている私。

「えー……と、その、何ていうか、今日呼び出したのは、だな……」


 ――そこから先は、私だけが知っていればいい。だから、怜が告白してくれた内容は、彼と私だけの、秘密なのだ。

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