あなたの決めたことですから
「カサンドラ・フォン・シールズ!貴様との婚約を破棄する!」
学園の卒業を祝う夜会の大広間に響く声に、思い思いに談笑していた招待客は声の主を見た。と言うよりは、声の主の前に1人立っている美しい公爵令嬢を心配そうに窺い見た。
声の主はマイネール・ロズブローク。
ここロズブローク王国の王太子にして、カサンドラの婚約者だった。
金髪碧眼で彫刻のように美しい容姿に常に優しげな微笑みを浮かべる王太子は、学園に通う貴族令嬢からとても人気だったのだが、今この場にはマイネールに好意的な視線を送る者は誰一人いない。
「あら。殿下とうとう決意なさいましたのね」
マイネールの厳しい目線をまったく気にしていない様子で、カサンドラは微笑む。
プラチナブロンドにペリドットのような黄緑色の瞳。天使のような姿に、見ていた者たちはホゥとため息をついた。
「そうだ!
私は貴様のその仮面のような顔や冷たい態度には、もううんざりなんだ!
マリナのように愛らしい女性が私には必要なんだ」
「それに、貴様が学園でマリナを虐めていたのも知っている!」
マイネールはそう言うと、先程から横にピッタリとくっついていたマリナを愛おしげに抱き締めた。
周りの冷たい視線には気づいていないのか、それとも取るに足らないと思っているのか……。
「あらあら殿下、私達貴族令嬢は幼い頃から淑女教育を施され、感情を表に出さないよう躾けられますのよ?
この微笑みも淑女教育の賜物ですわ。
それに虐めていただなんて……。マリナ様にも聖女に相応しい淑女の振る舞いをしていただけるように、お声がけさせていただいたのですが、余計なお世話だったようで申し訳ありません」
カサンドラが優雅に頭を下げると、マイネールは勝ち誇ったように笑う。
「ふんっ!
マリナはこの愛らしい態度のままで人々に愛される聖女なのだ。ここに存在するだけで私を癒してくれる大切な人。
私は今ここで聖女マリナとの結婚を宣言する!」
「殿下ぁ」
嬉しそうに微笑むマリナの肩を抱き締めながら、キリっとした表情でマイネールは宣言した。
「とても素晴らしいですわね。殿下のその決意。応援いたしますわ」
カサンドラは辛辣な言葉を言われたのにもかかわず、にこやかに拍手をしだした。
「皆様も殿下の尊いご決断に拍手をお願いいたしますわ」
カサンドラに促され、会場は拍手の渦につつまれ、マイネールはなんだかわからない不安を覚えたが、とても聞ける状況ではなかった。
「では、殿下。こちらの私との婚約破棄の契約書にサインをお願いします。後はこちらの書類に殿下とマリナ様がサインをなさればお二人は晴れて婚約者ですわ」
カサンドラが侍従から書類を受け取ると、慣れた手つきで先にサインをしてからマイネールに羽根ペンを渡す。
「え、書類をもう用意していたのか?」
「あら。最近の殿下の様子を見ていれば誰でもわかりますわ」
「そ、そうか」
「えぇ。殿下とマリナ様の仲睦まじい様子は有名でしたから」
「ねぇ?」とカサンドラが周囲を見渡すと、学園で二人の様子を見ていた学園生達が大きく頷く。
「いやあの、それはっ、別に浮気とかではなく……」
焦ったように言い募るマイネールを、落ち着かせるようにカサンドラが「殿下」と話しかけた。
「私はお二人の関係をとても尊い物だと思っておりますのよ?ですから、なにもおっしゃらないで下さいな」
マイネールは頷き、穏やかな笑顔で言うカサンドラの様子に面食らいながらも、ニ枚の書類にサインをした。
「こんなに早くマイネール様と婚約できるなんて嬉しいですぅ」
可愛らしい声を出し、マリナもサインを済ませた。
二人のサインを確認したカサンドラは満足そうに頷くと、振り返り壇上に声をかけた。
「陛下、すべて整いましたわ」
会場のすべての者たちの視線が壇上に集まる。
壇上の王──ロズブローク国王は、穏やかな笑みを浮かべながら立ち上がった。
「カサンドラ、こちらへ」
静かに促され、カサンドラはスカートを摘み上げ優雅に一礼し、国王の前へ進む。
背後では、先ほどまで勝ち誇っていたマイネールが、不安げに眉を寄せていた。
国王は、マイネールとマリナのサインが入った書面を侍従から受け取り、すっと目を通す。
一瞬、深くため息をついたが、会場に響くほどの大きさではなかった。
「……よろしい。婚約破棄と、新たな婚約。確かに受理した」
静かながら、決して拒めぬ王の声。
ざわりと空気が揺れ、会場にいた貴族たちは深く頭を下げる。
国王はそこで初めて、穏やかな眼差しをカサンドラへ向けた。
「カサンドラ、お前には辛い思いをさせたな。
マイネールの軽率な振る舞いを、まずは父として、そして王として謝罪する」
「もったいないお言葉にございます、陛下」
カサンドラは柔らかく微笑み、頭を下げた。
国王は静かに頷き──その場にいる全員が知らぬ事実を告げる。
「……実はな、カサンドラ。
お前にひとつ、正式に伝えておくべきことがある」
会場の空気が変わる。
「……はい、陛下」
国王が軽く手を上げると、扉の前で控えていた従者が大広間の扉を開けた。
華やかな夜会の光を受け、ゆったりとした足取りで一人の青年が姿を現す。
輝く金色の髪。
深い紺碧の瞳。
気品ある微笑みを携えた姿は、王太子であるマイネールとは同じ顔ながら別種の、静かな威厳を帯びていた。
「紹介しよう。
隣国ミルタニアより、留学を終えて戻った──
我が次男、アルヴェリオだ」
会場から息をのむ音が漏れる。
マイネールが「えっ……?」と情けない声を上げた。
アルヴェリオは一歩進み、胸に手を当てて丁寧に一礼した。
「皆様、お久しぶりにございます」
国王は続ける。
「二年前、ミルタニアへ留学させたのは、双子である兄マイネールとの王位継承争いをさけるため。
……王家と国の未来を見据えた、外交上の理由もあった。
そして、ここ数カ月彼が戻るまで待っていた事柄がある」
その言葉に、カサンドラは小さく首を傾げる。
国王は慈しみの光を帯びた目で、彼女へと視線を戻した。
「カサンドラ・フォン・シールズ。
マイネールとの婚約が解かれた今──
私は改めて、お前とアルヴェリオとの縁を望んでいる」
ざわり、と大広間が大きく揺れた。
マイネールが青ざめる。
マリナは唇を震わせ、アルヴェリオだけが穏やかに微笑んでいた。
アルヴェリオはカサンドラに視線を合わせ、優しく言う。
「カサンドラ嬢。
あなたがこの二年間で、どれほど優秀で、どれほど誠実に勉学に励んでいたか……
ミルタニアでも噂は届いておりました。
お会いできる日を、心待ちにしておりました」
その声音は落ち着いていて、けれど真っ直ぐだった。
優しさをひけらかすのではなく、
彼女の努力そのものを尊重している声。
カサンドラは瞳をぱちりと瞬かせ、それから一礼する。
「光栄でございます、アルヴェリオ殿下」
マイネールの顔がぐしゃりと歪むのが、背後から聞こえるようだった。
国王がカサンドラとアルヴェリオの縁を口にした瞬間。
「ま、待ってください父上!!」
マイネールがついに声を上げた。
会場が静まり返る。
「ど、どうして急に……!
僕はカサンドラとの婚約を破棄して、マリナと婚約しただけでしょう!?
それなのに、どうしてアルヴェリオがこの時期に帰って──」
国王はゆっくりとマイネールへ視線を向けた。
その目には、親としての情よりも、王としての冷徹さがあった。
「マイネール。
お前は“聖女マリナ”と婚約したのだ」
「そ、そうです!聖女なんですよ!?
こんな素晴らしい選択をした私が、どうして──」
「ならばもう、王位継承には関わりないだろう」
「……………………は?」
マイネールはまるで思考が止まったような顔をした。
マリナも同じく口を開けたまま固まっている。
国王は冷ややかに告げる。
「この国に生きる者であれば誰もが知っていよう。“聖女は各地の神殿を巡り、祈りを捧げる巡礼へ出ねばならぬ”と」
会場の貴族たちが頷き合う。
「巡礼は年単位。時には十年をかけることもある。王太子としての政務はできぬ。
国に留まり、王族としての責務も果たせぬ」
マイネールの顔から血の気が引いた。
「……あ、あの、それは……」
「それは?まさか、知らなかったとは言うまいな?
“学園で天使のように愛らしい少女を選んだだけ”のつもりだった、と?」
国王の声は低く、会場の隅々まで響き渡る。
「聖女は国の守護。
その力を保つため、巡礼は必須。
それを支える伴侶には、常に傍で補佐する覚悟が必要だ」
マリナの手が震え始めた。
「そ、それって、そんな……
マイネール様と街でお買い物したり、舞踏会に出たり……そんな時間は……」
「ない。」
国王は切り捨てるように言った。
「聖女の役目は“祈りと浄化”。
娯楽や贅沢を楽しむために聖女となったのではあるまい」
マリナの唇がわなわなと震える。
マイネールは声を裏返らせた。
「で、でも! 僕は王太子だ!
巡礼なんて……そんな、他の者に──」
「馬鹿者」
場が凍った。
国王が初めて、怒りを顕にした声だった。
「お前は“聖女を選んだ王子”。
その伴侶となる以上、お前もまた国のために巡礼へ同行するのが筋」
「……っ!?」
マイネールは膝から力が抜けたように震えた。
「そ、それって……
僕も……王都を離れる……?」
「そうだ。」
淡々とした声音が、逆に残酷だった。
「巡礼の旅は、神殿、教会、聖域……
時に魔獣が出る辺境へも赴く。重責と危険を伴う」
国王は淡々と告げる。
「それが“聖女を選んだ者”の宿命だ」
マイネールの喉がひゅっと鳴った。
マリナは耐えきれずに叫ぶ。
「そ、そんなの聞いてません!!
マイネール様、助けて……!」
しかしマイネール自身が助けてほしい顔をしていた。
国王の冷徹な声が二人を貫く。
「……安心するがよい。お前たちには“国のため”に働いてもらうだけだ」
そして、国王は宣言するように言い放った。
「マイネール。お前は本日をもって、王太子位を解かれる。聖女の伴侶として生きよ」
――大広間がざわめきに包まれた。
「な……なん……だって……?」
魂が抜けたような声が、マイネールの口から漏れた。
王太子位剥奪の王の宣言が落ちた瞬間、
静寂に包まれていた大広間は、ざわ……と低く震え始めた。
ご令嬢たちがひそひそと顔を寄せ合う。
「聖女の巡礼を知らなかったとは……」
「王太子教育、受けていたのよね……?」
「優秀な王子だと思っていたけれど……」
「まさか“平民聖女”と遊んで暮らせると思っていたのかしら」
ご令息たちも冷ややかに囁く。
「国政への興味が薄いとは聞いていたが、まさかここまでとは」
「平民ですら幼い頃から教わる常識だぞ」
「これは自業自得だな」
その囁きは壁のように、マイネールとマリナを押しつぶしていく。
マリナは顔面蒼白で震え、マイネールは頭を振りながら必死に声を絞り出す。
「ま、待ってくれカサンドラ……!
ぼ、僕が悪かった! 婚約破棄を……撤回しよう!!やっぱり君が……君じゃないと……!」
カサンドラはただ、静かに目を伏せていた。
マイネールは半ば取り乱したようにカサンドラへ手を伸ばした。
「頼む! カサンドラ!
マリナなんて……いや、ちがっ──
と、とにかく元に戻ってくれ!!」
その手がカサンドラの腕を掴む寸前。
バシッ。
鋭い音とともに、マイネールの手は横から伸びた白い手に強くはじかれた。
アルヴェリオだった。
表情は静かだが、その瞳は氷のように冷たい。
「兄上。淑女の手を、無理に掴むものではありません」
「アルヴェリオ、邪魔を──」
「王家の者としての“最後の忠告”です。
これ以上、醜態を晒さぬことだ」
マイネールの喉がひゅっと詰まる。
国王がゆっくりと立ち上がり、厳しい声で命じた。
「聖女マリナ、そしてマイネール。二人を神殿へ案内せよ。初歩の巡礼訓練をすぐに行う」
神殿騎士たちが静かに近づき、二人の両脇に立つ。
マリナは泣き崩れた。
「いや……いやぁ……!こんなの聞いてないっ……!王宮にいたかったのに……!」
マイネールも抵抗しながら叫ぶ。
「は、離せ! 僕は王太子だ!!こんなの……こんなの認めない……!!カサンドラァァ……!」
だがその手は、もう誰にも届かない。
神殿騎士たちは淡々と二人を連れ出し、大広間の扉が音を立てて閉じられた。
──静寂。
そして国王は、
まるで何事もなかったかのように場を見渡し、柔らかく微笑んだ。
「……せっかくの祝いの夜会を騒がせてしまい、皆には不快な思いをさせてしまったな」
深く会釈する王。
「償いと言ってはなんだが、私から祝賀のワインを多めに用意してある。この後は、心ゆくまで楽しんでくれ」
ぱち……ぱちぱち、と控えめな拍手が起こり、
やがて大広間に再び音楽が流れ出した。
ただ、その空気はもう先ほどまでのものではない。
夜風がカーテンを揺らし、月の光がテラスの白い大理石を銀色に照らしている。
喧騒から離れた静かな空間で、
アルヴェリオはカサンドラへ軽く頭を下げた。
「先ほどは、不躾な形で助けに入ってしまい、申し訳ありません」
「いえ。殿下のおかげで助かりましたわ」
カサンドラは微笑む。
その表情には疲労も混じっていたが、凛とした誇りが宿っていた。
アルヴェリオはしばらくカサンドラを見つめ、
柔らかな声で続けた。
「カサンドラ嬢。私は幼い頃から、常に“兄の影”と呼ばれてきました。しかしミルタニアで学んだことで、ようやく自分の生き方を見つけたのです」
夜風が二人の間を通り過ぎる。
「そして──今日、王都へ戻って最初に見たあなたは、その誰よりも強く、気高かった」
カサンドラは少しだけ目を伏せた。
「私は、ただ役目を果たしただけですわ」
「……いいえ。あなたは、あの場で誰よりも美しかった」
その一言に、カサンドラはわずかに頬を染めた。
アルヴェリオは真っ直ぐな瞳で言葉を続ける。
「私はあなたに、幸せな未来を差し出せる男でありたい」
テラスに静寂が落ちる。
やがてカサンドラは静かに息を吐き、小さな笑みを浮かべた。
「ふふ……。
殿下のそのお言葉、とても光栄ですわ」
そしてごく自然に、二人は月明かりの下で並び立った。
その距離はまだ遠い。
けれど──確かに、すでに歩き始めていた。
◇◇◇◇◇
一年後、ロズブローク王国の大聖堂。
白いバラが敷き詰められ、鐘の音が高く響き渡る。
カサンドラとアルヴェリオの結婚式。
人々は二人を「理想の新王夫妻」と称えた。
穏やかな微笑みのアルヴェリオと、
輝くドレスに身を包んだカサンドラは、
堂々と祝福を受けていた。
対照的に──
大聖堂の外では、祝祭の華やかさとは対照的に、長い巡礼の旅に耐えるための、簡素で堅牢な巡礼衣に身を包んだマイネールとマリナの姿があった。
金糸も宝飾もない衣は、彼らがこれから向かう過酷な道のりを静かに物語っていた。
二人は神殿騎士に囲まれ、巡礼の旅へと送り出される。
「ど、どうして僕が……どうしてこんな……!」
「いやぁ……帰りたい……城に戻りたい……!」
二人の嘆きは、
晴れやかな鐘の音にかき消されていった。
◇◇◇◇◇
夜。
祝宴の合間にカサンドラが一人で中庭を歩いていると──
影のようにマイネールが飛び出してきた。
護衛(監視)は撒いたらしいが、
すぐ近くに神殿騎士の影が見えている。
「カ、カサンドラ……っ!
お願いだ……僕を助けてくれ……!
巡礼なんて無理だ……!
僕は……僕は王宮に戻りたいんだ……!」
カサンドラは足を止め、ゆっくりと振り返った。
月明かりの下、その微笑みは美しく、冷たかった。
「……申し訳ありません。私には、どうすることもできませんわ」
マイネールは必死に縋りつく。
「どうしてだよ……!どうして……!」
カサンドラはふっと微笑んだ。
「だって──
あなたが決めたことではありませんか」
マイネールの表情から血の気が引く。
その瞬間、神殿騎士たちが彼を確保し、無言で引きずっていった。
月が雲間から顔を出し、カサンドラの銀の髪を照らす。
そして彼女は、静かに中庭を後にする。
──新たな未来へ向かって。
マイネールとマリナの旅装束の描写を少し書き直しました。
感想をいただき、ありがとうございます。




