悪役令嬢ブリギットの最期
「な、なんだ、アレは?」
前線を見つめ、馬上からデズモンド伯ギュンターが呆然とつぶやく。彼の目の前には、あたかも暴風に吹き散らされる木の葉のごとく蹂躙される彼の兵の姿があった。槍を持つ手が知らず震える。ファーガス王国との国境を踏み越えた初戦――敵軍との本格的な戦闘が始まる前の地ならしとして周辺に点在する集落を制圧するだけの任務は、今、敗走の瀬戸際にある。
「アレは、いったい、なんだ!」
理不尽をなじるようにギュンターは天に叫ぶ。赤く染まる獣の瞳が彼を捉えた。
パタパタと可愛らしい足音が聞こえ、椅子に座っていた老婆は顔をほころばせる。ただ座っている姿が気品を感じさせるその老婆は、白金に近い髪を優雅に結い上げ、幾つも深いシワをその顔に刻みながらなお美しい。声を聞かずとも分かる愛しい気配に顔を部屋の扉に向ける。足音が近づき、勢いよく扉が開かれた。少し息を切らせて一冊の本を大事そうに抱えた少女が部屋に飛び込んでくる。
「おばあちゃま! ごほんよんで!」
老婆は目を細めて少女を迎える。少女は当然のように老婆の膝に乗り、返事も待たずに本を広げた。老婆が少女の頭を撫で、少し呆れたように言った。
「リリは本当にその本が好きなのね」
リリと呼ばれた少女は老婆の顔を見上げて大きく頷く。
「だって、カッコいいの! あくやくれいじょうはおんなのこなのに、どんなにつよいわるものもやっつけてみんなをたすけるのよ!」
リリの目にはキラキラと輝く憧れがある。少女から目を逸らし、そんなによいものではないけれど、と老婆は小さくつぶやいた。リリがわずかに首を傾げる。どうやら老婆のつぶやきはよく聞こえなかったようだ。
ねだるリリに若干の苦笑いを浮かべ、老婆は本を覗き込む。『悪役令嬢ブリギット』というタイトルの童話。本の中のブリギットは弱きを助け悪を挫く正義の使徒だ。老婆の顔に懐かしさと痛みが入り混じった複雑な色が浮かぶ。
――そんなによいものではなかった。悪役令嬢は王家の敵を滅ぼし、太平の世を守る。だが、そんな建前では片付けられぬほどに、赤く塗れた手が、鉄錆びた臭いが、死者の虚ろな目が、常に彼女を苛み続けた。王家に叛意を抱いた男の、幼い息子は本当に世を脅かす『悪者』だっただろうか? 何も知らなかった妻が娘の命を乞う様は、冷笑で応えるほどに愚かであっただろうか?
「おばあちゃま?」
リリの不安混じりの声に、老婆は今へと意識を戻した。「ごめんなさいね」とリリの頭を撫で、何度も読み聞かせた物語の冒頭に目を向ける。もう覚えてしまった始まりの文章を、老婆は努めて明るい調子で読み始めた。
「むかしむかし、とある都の片隅に、ブリギットという名の悪役令嬢がおりました――」
戦乱渦巻く大陸に一人の若者が武威を以て平和と安定をもたらしたのは、今から三百余年の前に遡る。『偉大なる』ファーガスと讃えられたその若者は、彼に影のように付き従う乙女たちの助力を得て、近隣に並ぶものなき強国を作り上げた。しかし時代は移ろい、安寧の泥に沈んだ王国は腐敗と停滞の只中にあり、周辺の国々はその喉笛を喰いちぎる機を窺って牙を研ぐ。戦乱の気配が、ひたひたと近付いている。
「皆、森へ逃げろ! 敵が来るぞ!」
切迫した叫び声と共に、バタバタと複数の人間の足音が聞こえる。老婆は読み聞かせを中断し、鋭い眼差しを窓の外に向けた。近隣の住民が血の気を失った顔で家から出てくるのが見える。家々に触れ回っているのが村の大人衆であることからすれば、これは冗談でも勘違いでもないのだろう。
「……帝国がついに、国境を越えたのね」
ただならぬ雰囲気を感じたのだろう、リリが泣きそうな顔で老婆を見上げる。安心させるように微笑み、リリを膝から降ろすと、老婆は目を閉じ背筋を伸ばして大きく息を吸った。同時に、慌てた様子で扉が開く。大きく息を切らして村長が飛び込んでくる。
「帝国兵がこの村に向かっておる! 急ぎ森に逃げろ! 奴らはすぐにでもここにやってくるぞ!」
村長の顔は蝋のように白く、事態が差し迫っていることを雄弁に伝えていた。対照的に老婆は冷静な口調で問う。
「皆の避難状況は? 病の者、足の弱った者もいるでしょう」
「……捨ておくしかあるまい!」
血を吐くように村長が答えた。
「自力で逃げられぬ者を助けている時間はない! 共倒れになるくらいなら、一人でも多く生き延びることを考えるべきじゃ!」
自らの言葉に抉られた胸を村長は押さえる。決して望んだ決断ではない。しかし村の長として果たさねばならない責任がある。苦悩を押し込める村長に労しげな眼を向け、老婆は首を横に振った。
「何も捨てる必要はない。何も諦める必要はない。この村に打ち捨てられてよい命などない。失ってよい者などいない」
奥歯を強く噛み、村長は呻くように声を絞り出す。
「ならば、どうせよと」
「私が――」
老婆の瞳に強い光が宿る。何者をもねじ伏せる強固な意志が空気を震わせる。
「――参りましょう」
一瞬だけその顔に期待が宿り、それを慌てて打ち消すように村長は強く首を横に振った。
「い、いかん! あなたはこの村の住人であって、もはや国とも王家とも関わりはない! 戦いなどせんでええ! 逃げればすむことじゃ!」
「逃げられぬ者を見捨てて、私に生き延びよと? 私を見捨てなかったこの村が蹂躙される様を黙って見ていろと、そうおっしゃるの?」
老婆は湖面のように静かな瞳を村長に向ける。
「この私に?」
老婆の胸の内に滾る怒りを感じ取り、村長が言葉を失って口を閉ざす。彼女を説得する術はないことを理解したのだろう。心の中で謝罪して老婆は足を踏み出す。小さな手が老婆の袖を掴み、老婆は足を止めて愛しい少女を見下ろした。
「おばあちゃま。リリといっしょに、にげよう?」
震える声でリリが言った。老婆は袖を掴む手をそっと外し、優しく目を細めてリリの頭を撫でた。
「大丈夫」
老婆は片目を瞑り、悪戯っぽく笑う。
「おばあちゃまはね、昔、悪役令嬢だったのよ」
粗末な木製の柵で囲まれた小さな村は、気配を殺すように無言で佇む。森の獣すら息を潜めて様子を窺っているような、騒めいた静寂が周囲を覆っている。千の兵を従えたデズモンド伯ギュンターは馬上で剣を掲げた。
「我はアステア帝国の将、ギュンター・フォン・デズモンドである! 神聖なる皇帝陛下の御名において、ファーガス王国の圧政に苦しむ民を解放せんがために参った! 村の長たるものは速やかに姿を見せよ!」
ギュンターの声に、しかし反応する者はない。厄災を息を潜めてやり過ごすように、隠れていればやがて通り過ぎるとでも思っているのだろう。浅はかなことだ、とギュンターはつまらなさそうに鼻を鳴らした。所詮、王国の民などその程度の知恵しか持たぬサルどもに過ぎぬ。自身の明日のことにすら想像力が及ばぬのだ。隠れているなら捜し出し、捕らえて奴隷としよう。どうせこんな村に収奪するほどの財はない。ならば最大限得になるやり方を工夫せねば、戦費を賄うのもそれなりに苦労するものだ。
「今一度言う! 村の長たるものは速やかに名乗り出よ! さすれば帝国貴族の名において安全は保障する! だがあくまで従わぬというなら、敵対の意志ありとみなす! その場合、たとえ女子供であろうとも命の保障はできぬと――」
声を張り上げるギュンターの視界に、村の出口に近い家から出てくる一人の老婆の姿が映った。背筋を伸ばし、村を囲む兵の姿にもまるで動じる様子の無い、凛とした気配のその老婆は、急ぐ様子もなく村の入り口まで歩き、ギュンターの正面に立った。一瞬、その老婆の品格に飲まれて言葉を失ったギュンターは、それを覆い隠すようにさらに大きな声を上げた。
「お前がこの村の長――」
「控えよ下郎!」
ギュンターの大声をかき消す落雷のような大音声が大気をビリビリと震わせる。ギュンターは口をパクパクとさせて言葉を失った。怒りに燃える老婆の眼がギュンターを見据える。
「ここはお前たちごとき下賤の輩が足を踏み入れてよい場所ではない! 守備兵の一人もおらぬ小さな村を、千の兵の剣で遠巻きに威圧するしかできぬ卑怯者めが!」
ギュンターの顔が蒼白になり、そしてすぐに紅潮する。
「下賤の輩? 帝国貴族たるこの私を、下賤な卑怯者となじるか!」
「命惜しくば今すぐ帝国へと逃げ帰り、皇帝を僭称する愚か者に告げるがいい! 『王国に牙を剥くには千年早うございました』と!」
ギュンターの怒りを完全に無視して老婆は帝国兵をにらみつけた。兵士たちは我知らず一歩下がる。ギュンターは屈辱に震え、かすれた声で側近に告げた。
「……あの婆を射殺して、村民どもへの見せしめとせよ」
了承を示し、側近は弓を引き絞った。老婆は弓を向けられても微動だにせず、ただ激しい憤怒を帝国兵に向けている。その態度はギュンターの怒りに油を注ぎ、唾を飛ばして彼は手を振り上げた。
「やれ!」
ギュンターが鋭く手を振り下ろし、側近が弓を放つ。風を切って矢が老婆の首に正確に迫り――
「……え?」
信じられぬものを見たように側近が目を見開く。今放ったはずの矢が、側近自身の喉を貫いていた。何が起こったのか理解する暇もなく、口から血を吐き出して側近は地面に倒れた。どさりという音がして初めてギュンターは側近が倒れたことを知る。だが、なぜ側近が地面に横たわっているのか、その理由を理解できてはいない。
「――リステル流闘術、受法の一『水鏡』」
老婆の呟きが不吉な運命を伴って広がる。ギュンターの背に冷たい汗が伝った。この老婆は決して捕食されるのを待つだけの羊ではない。いかなる敵にも屈せぬ誇り高き獣の王――そしてその前に立つ自分たちこそが、獣の王に捧げられた哀れな生贄なのだと、彼は本能的に理解したのだ。
「か、かかれ! あの婆を殺せぇ!!」
上ずったギュンターの声を受け、千の兵が一斉に武器を構える。老婆の瞳が狂気の赤に染まった。
「あり得ぬ! こんなことが、あるはずがない!!」
半ば恐慌を来たしながらギュンターは叫ぶ。目の前の現実を受け入れることができない。人口百人にも満たない寒村の制圧に千の兵は過剰だ。過剰だったはずだ。そもそも田舎の村など武装した兵の姿を見ただけで怖れをなし、降伏するに違いないのだ。抵抗を受けること自体あり得ない。まして、その抵抗によって部隊が壊滅するなど――
「距離を取れ! 一斉に矢を射かけよ!」
配下の騎士隊長が動揺した様子で命じる。ギュンターは慌てて叫んだ。
「よせ! 距離を取るな! ヤツがアレを使ってしまう!」
ギュンターの命は混乱しきった兵たちには届かず、戦場の中で老婆を中心に奇妙な空隙が生まれる。兵たちが弓を引き絞るその時間に、老婆もまた引き絞るがごとくに背を反らせた。
「リステル流闘術、射法の七『旋風』
大きく振った老婆の両腕が旋風を巻き起こし、放たれた矢とそれを放った兵士をまとめて空へと舞い上げる。防ぐことも避けることも不可能なその攻撃によって、舞い上げられた兵士たちは地面に叩きつけられた。不運な者の首があらぬ方向に曲がり、幸運な者たちのうめき声があちこちで上がる。
「距離を取るな! 攻め立て続けよ! あの化け物にわずかな時間も与えてはならぬ!」
ギュンターは金切り声を上げて命じる。しかしその命令は実行されることはなかった。老婆を囲む兵士たちは武器を手にしながら腰が引け、震えて動くこともできない。すでに兵の半数が地面に倒れている。そしてそれを為したのが一人の老婆であることが、理解することもできぬ現実として目の前に存在しているのだ。士気はもはや崩壊寸前、むしろ逃げずに立っていることが奇跡と言っていい。
『我が右手は全てを切り裂き』
老婆のよく通る声が広がる。あたかも地獄からの呼び声であるかのように兵士たちは身体を震わせた。
『我が左手は全てを貫く』
その声は静かに戦場を威圧する。兵士たちの武器を持つ手が下がった。老婆の瞳が鮮血の赤に染まり、その顔に蒼い痣が浮かび上がる。
『崇めよ! ひれ伏せ! 我、悪役令嬢なり!!』
圧倒的な重圧を放ち、老婆が戦場を一喝する。バタバタと兵士たちが気を失って倒れた。悪役令嬢を前にして意識を保つことができる者は、訓練を積んだ正規兵でさえ決して多くないのだ。そして意識を保つことができる者であっても、悪役令嬢に立ち向かうことができる者はさらに少ない。老婆は一歩前に踏み出す。兵士たちが後ろに下がろうとして、崩れるように座り込んだ。完全に戦意を喪失している。
「悪役令嬢――あれが、『ファーガスの悪魔』だというのか!」
距離が離れていたことが幸いし、ギュンターは辛うじて意識を保っていた。しかし冷汗は止まらず、苦しげに胸を押さえて荒く息を吐いている。ギュンターは目を瞑り、帝都で聞いた荒唐無稽な噂話を思い出した。ファーガス王国には王家の影に潜む乙女たちがいると。彼女らはその一人一人が千の兵を滅ぼすほどの力を持ち、王家を害する者たちを音もなく消し去るという。だが、悪役令嬢は王国の切り札。こんな辺境の、しかも戦略的にほとんど意味のない寒村にそれがいるとは考えられない。ギュンターは強く奥歯を噛んだ。現実には目の前にその悪魔がいるのだ。その不条理を誰に訴えればいい?
「俺が行きましょう」
声を上げた騎士を振り返り、ギュンターの顔が希望を取り戻した。ギュンターの最も信頼する腹心の一人であり、帝国でも最強の騎士の一人に名を連ねる男。彼はギュンターの近衛騎士隊長であり、一度もギュンターの期待を裏切ったことはない。
「兵を下がらせてください。アレに数は無意味だ」
「た、頼むぞ! ギルベルト!」
壊れたおもちゃのように何度もうなずき、ギュンターは兵に下がるよう命じた。その命令は速やかに実行され、視界が開ける。ギルベルトと呼ばれた近衛騎士隊長は馬から降りて老婆の前に進み出ると、すらりと腰の剣を抜いた。
「悪魔の首を獲ったとなれば、俺の名声もいや増すことになろう。帝国のため、栄達のため、お前にはここで死んでもらう」
鮮血を思わせる老婆の瞳がギルベルトを見据え、その口が嘲笑に歪む。
「帝国の騎士とやらは、品性の意味も解さぬ野盗のごとき輩であったようだ。果たすべき責務もなく、ただ利を貪るだけの下郎が騎士を名乗る国は、遠からず滅ぶであろうな」
ギルベルトはしかし、老婆の嘲笑に動じることもなく正眼に剣を構える。
「勝てば、それが正義よ」
老婆は呆れたようにギルベルトをにらんだ。
「恥を自覚する知性もないか。ならばやむを得ぬ。言葉の通じぬ獣を躾けるには鞭をくれるしかないのであろうから」
メキメキと音を立てて老婆の腕の筋肉が盛り上がる。
「来るがいい。帝国騎士にその勇気があるのなら」
返答の代わりに咆哮を上げ、ギルベルトは老婆に正面から斬りかかった。
甲冑に身を包んだとは思えぬほどの速さでギルベルトは踏み込み、上段から鋭く斬り下ろす。老婆はそれを避け――ようとする素振りもなく、右手の甲で斬撃を打ち払った! ギルベルトの顔に驚愕が浮かぶ。老婆はギルベルトの懐に入り込み、左の掌底を打ち込む! ギルベルトは左腕で腹をかばった。鋼鉄の小手が老婆の掌底を阻み――
「ぐぉぁ!」
苦悶がギルベルトの口をつく。手だけで振った横薙ぎの斬撃を下がってかわし、老婆は狂気を宿した赤い瞳でギルベルトを見据える。
「リステル流闘術、打法の四『凍』」
静かにつぶやく老婆をギルベルトは憎しみの目で見つめる。左の小手は凍り付き、砕けて大きな穴が空いていた。
「……これが、悪魔の業か」
忌々しそうに吐き捨て、ギルベルトは剣を構えなおす。
「もはや年寄りとも女とも思わぬ。この俺の全霊を以て貴様を斬る!」
老婆は楽しげに笑った。
「手加減してくださっていたとでも? ならばお優しいこと。けれどお前ごときの全霊を以て私が斬れると思っているのなら、心得違いも甚だしいというもの」
挑発に乗らず、ギルベルトは厳しい表情で老婆を見据えた。
「帝国剣術の精髄を見せてやろう」
ギルベルトは再び鋭く踏み込んで上段から斬り下ろす。先ほどより速い、とはいえ同じ動きを見るのは容易い。老婆は同じように斬撃を打ち払――おうとして、背筋に走る悪寒に思わず身を引いた。確かに避けたはずの斬撃が老婆の肩を浅く切り裂く。
(間合いを、読み違えた?)
ギルベルトは振り下ろした剣を跳ね上げて老婆を追撃する。老婆はさらに後ろに下がった。先ほどよりも大きく距離を取ったはずが、斬撃は老婆の足をかすめた。ギルベルトは剣を翻す。老婆は身を低くして前に踏み込み、ギルベルトの右脇を抜けた。ギルベルトの斬撃が空を斬る。老婆が低い姿勢のまま地面に手を突き、そこを支点にして回し蹴りを放つ。ギルベルトは右足を上げて蹴りをかわした。老婆は跳ね上がるように立ち上がり、両手を重ねて突き出して胴を狙う。ギルベルトは振り向きざまに老婆の首を薙いだ。地面を蹴って前に身を投げだし、ギルベルトの脇を通り過ぎた老婆は前転し、立ち上がって振り返った。ギルベルトもまた体勢を整え、両者は再び対峙した。老婆の髪留めが割れて結い上げていた髪が解ける。老婆の顔が厳しく引き締まった。
「アステア流剣術、『陽炎』」
ギルベルトの表情が優越に歪む。
「貴様にこの剣は見切れまい」
老婆が不快そうに鼻にシワを寄せた。
ギルベルトは無尽と思えるほどの体力で老婆に斬りかかる。老婆はその斬撃を避け、避けきれずに斬り傷が増えていく。致命傷こそ避けてはいるが、無数の傷は血を失わせ、体力を奪っていく。老婆は防戦一方になっていた。
「ここまでよくやったが、限界のようだな」
剣を振るいながら、勝ち誇ったようにギルベルトが言った。勝利を確信した笑みがその顔に浮かぶ。老婆は無表情にそれを聞いていた。
「もはや戦う体力も残ってはいまい。『ファーガスの悪魔』も今日が最期よ!」
「よくしゃべる。それほどまでに不安か?」
「黙れ!」
ギルベルトは大ぶりの横薙ぎを放つ。老婆は身をかがめてそれをかわした。ギルベルトが剣を振り上げる。両手で掲げるように剣を持ち、左手がその柄頭を回した。かすかに「カチ」という音が聞こえる。
「終わりだ! 悪役令嬢!!」
ギルベルトが剣を振り下ろす。と同時に、その剣の刀身が炎を纏った。老婆が地面を蹴り後退する。老婆は斬撃を避け――確かに避けた斬撃は老婆の左の肩口を抉り、傷口を焼いた。
さらに後方に跳躍し、老婆はギルベルトをにらみつける。左手はだらりと下がり、肉を焼く不快な臭いが広がる。ギルベルトは侮りを宿していた。
「アステア流剣術、『焔』。この技を身に受けて生きていることは称賛に値する」
老婆は「なるほど」とつぶやき、おかしそうに笑う。
「それがお前たちの言う『剣術』か」
「なんだと?」
ギルベルトが蔑みを感じ取って怒りを滲ませる。老婆の瞳がギルベルトを射抜いた。
「終わりにしましょう。もう、お前を見た」
ギルベルトは両手で剣を水平に構える。
「引導を渡してやる」
ゆらりと老婆の身体が揺れる。そして両者は同時に地面を蹴った!
ギルベルトが鋭い突きを放つ。老婆は身体をひねってそれをかわす。ギルベルトはそのまま刃を右に払った。老婆は身を沈める。ギルベルトが剣を振り下ろす。老婆は下がってそれをかわした。
「なに!?」
ギルベルトが叫ぶ。老婆は完全にギルベルトの剣の間合いを見切っていた。動揺しながら剣を翻そうとしたギルベルトを老婆の右の拳が襲う! リステル流闘術、打法の六『焦』。 剣を引き戻したギルベルトは剣の柄でそれを受けた。
「ぐわっ!」
剣が突然炎を吹き出し、ギルベルトは叫びを上げて手を離した。老婆は前蹴りを放つ。両腕を畳んで身を縮めたギルベルトは蹴りを受けて後ろに吹き飛ぶ。老婆はつまらなさそうに炎を上げ続ける剣を見下ろした。
「帝国剣術の精髄とやらは、ずいぶんと下らないのね。剣に絡繰りを仕込んでいただけだなんて」
ギルベルトがギリリと奥歯を噛む。彼の剣の間合いを惑わしていたのは彼の剣の技ではなく、柄に仕込まれた絡繰りによって剣の長さを変えていたから。剣が炎を吹いたのは『フロガの粉』と呼ばれる、着火すると激しく燃え上がる粉を仕込んでいたからだったのだ。ギルベルトが憎しみを込めた目で老婆をにらむ。老婆は冷酷にその目を見返した。
「今からお前を葬る技の名は『花霞冥葬』。リステル流闘術の秘奥にして古に封じられた外法の技。この地を踏みにじろうとした愚行を後悔しながら死にゆくがいい」
凍えそうな風が戦場を渡る。老婆の瞳が狂気の色を増し、痣がさらに濃く浮かび上がる。ギルベルトは恐怖から逃れるように獣のごとき咆哮を上げて老婆に殴りかかった。老婆はギルベルトの拳を簡単にかわし、右手を突きだす。甲冑を貫き、老婆の指がギルベルトの背から覗いた。
「……がはっ」
ギルベルトの口から血の塊がこぼれる。老婆は腕を引き抜き、冷淡な憐れみと共に告げる。
「『花霞冥葬』」
それが合図であったようにギルベルトの全身から血が噴き出し、霧状に赤く広がって周囲を覆った。ギルベルトは赤い霞の中で老婆の手を掴み、かすれた声で言った。
「……こ…の……悪魔…め……!」
老婆を掴んでいた手から力が抜け、ギルベルトは地面に倒れる。骸となったものを見下ろし、老婆は言った。
「その呼び名には、いささか飽いたわ」
「ま、まけた……」
「帝国最強の騎士が、負けた!」
兵の中の誰かが上げたその声は、決して大きなものではなかったにも拘わらずはっきりと広がった。もはや言葉とも悲鳴ともつかぬ叫びがあちこちで上がり、兵たちは我先にと逃げ始める。ギュンターもまたカタカタと震えながら、辛うじて声を絞り出した。
「退け! 退け!! 我らでは勝てぬ! 誰もこの化け物には勝てぬ!!」
馬首を返し、武器を投げ捨て、敵が算を乱して逃げていく。老婆は逃げていくすべての者に聞こえるように言った。
「逃げ帰って遍く知らしめよ! 我が名は悪役令嬢ブリギット! 悪役令嬢のいる限り、帝国は麦の一粒ですら奪うこと叶わぬとな!」
穏やかな朝の陽ざしが降り注いでいる。村の入り口に立ち、老婆――ブリギットは穏やかな表情で目を閉じていた。彼女の傍らには彼女によく似た、白髪の老婆がいる。白髪の老婆はブリギットに話しかけた。
「……あなたは、本当に愚かだわ」
言葉とは裏腹に、白髪の老婆の眼から一粒の涙が零れ落ちる。
「戦って、手を血で汚して、ようやく手に入れた自由だったのでしょう? それを、こんな小さな村を一つ守るために」
ブリギットの全身は血に染まり、無数の矢がその身に突き刺さっている。そして彼女の周囲には、文字通りに骸が山となって折り重なっていた。アステア帝国がファーガス王国を攻めるために用意した戦力はおよそ一万。ブリギットはその全てを、たった一人で食い止めたのだ。
「『悪役』の名に恥ずかしいでしょう? 我らは王国の影。闇に紛れ、闇に沈んで王国を守る刃。それが、陽ざしの下に堂々と、こんなに――」
老婆は羨ましいと言わんばかりに目を細める。ブリギットの顔は、笑っていた。
「――こんなに、満足そうな顔をして」
悪役令嬢、と呼ばれる乙女たちがいる。彼女たちは生まれてすぐに王家と『婚約』を交わし、生まれながらに闇の中で生きることを強いられ、戦いの技を覚えることを強いられ、王家に尽くすことを強いられ、戦いに死ぬことを強いられる。道具として、兵器としての生、それ以外が彼女たちに認められることはない。しかし王国の歴史上、ただ一人、王家から『婚約破棄』を勝ち取り、自由を手に入れた悪役令嬢がいた。彼女は最強の悪役令嬢でありながらその力を自らのために使うことなく、密やかに生き、密やかに誰かを救い、密やかに皆を愛し、そして――その生涯の最期に、彼女の『宝』を守って命を落としたという。
「あなたは本当に、バカよ、お姉様」
白髪の老婆は膝をついて泣き崩れる。穏やかな朝の静寂に、泣き声だけが響いていた。