朝石キリスト教会 イングリッシュ工房 1
多香乃と教会玄関で鉢合わせして二日め。
告は愛用の黄色い軽自動車を運転しながら調べたことを脳内でくりかえした。
朝石キリスト教会、イングリッシュ工房。
多香乃が働きはじめた教会で経営している英会話教室だ。
対象はおもに社会人。
むかしは子供向けのたのしい英語教室だったようだが、十五年ほどまえから徐々に社会人向けに切りかえた。
子供がどんどん少なくなるのを見こしてか。かしこい選択だなと告は評価した。
財産管理の参考として頭にいれておこうと思う。
英会話教室の駐車場に車を停める。
手ずからドアを開けて降り、ロックした。
下駄箱とマットがあるだけの殺風景な玄関口に入ると、カーディガンにスラックスの女性が待ちかまえていた。
「多香乃さん、こんにちは」
告は笑いかけた。
「どういうことなんです」
多香乃が眉間にしわをよせる。
「主語を抜いて質問されても。僕が英会話教室の玄関にいる理由について? それともここに来る途中のイタリアンレストランでウナギを食べてきたこと?」
「……イタリアンレストランでウナギ」
多香乃が眉をよせる。
「古代のローマ人もウナギ大好きだったんだよ。ハチミツとかで味つけしてたんだけど」
告はそう解説した。
「お言葉ですが、元メイドですのでいちおうの知識として知っています。日本でハチミツづけのウナギを出すイタリアンレストランの大胆不敵さにドン引きしたんです」
「オーナーさんが伊地 悠司さんていって、これが気さくで感じのいいかたで」
「……オーナーをわざわざ呼びつけたんですか?」
多香乃があきれた顔をする。
「おいしかったらシェフを呼んで直接ほめたたえるものでしょ?」
告は肩をすくめた。
「いい腕ですよねえって肩バンバン叩いたら、笑っていえいえって」
「聞いているのはそれじゃありません。なぜわたしの名前で勝手に英語教室に申し込んでいるんです」
多香乃が詰めよる。
「多香乃さんの名を使ったわけじゃないよ。福利厚生として英会話教室って言ったじゃないか」
告は靴をぬいで下駄箱に入れた。
下駄箱の上段からスリッパをとりだして履く。
「うちで受講料もつから、英会話の先生を雇うまでここにしてくれる?」
「話の前提からいろいろおかしいと思いませんか?」
多香乃が眉間にしわをよせる。
「ウルバーノ先生はお元気?」
告は、スプリングコートのポケットに手を入れて下駄箱の先にある廊下をながめた。
「おやすみって聞きましたよ」
多香乃が答える。
「やすみなんだ。何曜日なら来てるんだろ」
「さあ」
「っていうか多香乃さん、怒ってるわりにちゃんと教室に来てるんじゃん」
告は笑いかけた。
多香乃が睨むように見る。
「しかたないでしょう。教会のスタッフさんたちに “申し込んだんだって?” ってニコニコ顔で言われて、あれこれシステム教えてもらったりしちゃったんですから」
「けっこうやさしいよね、多香乃さんって」
「やさしいんじゃありません。否定しにくい空気だったんです」
多香乃が答える。
「やさしい多香乃さんに一つお願い」
告は、多香乃の両手をとりグッと握りしめた。
「僕のもとにもどって、僕のために味噌汁つくってください」
横からガサガサガサッと音がする。
英会話教室に来たらしい何人かの女性たちが、そろって目を丸くしてこちらに注目した。
「えっ、ちょっ、違いますこの人は……!」
多香乃が手を振りほどこうとする。
告はすかさずうつむいて肩を震わせた。
「きみが出ていってから、まともに食事してないんだよおおおおお!」
女性たちは恋人同士のもめ事の場面に遭遇したと解釈したようだった。
それぞれのしぐさで軽く会釈をしてそそくさと奥の廊下へと行く。
「えっと、違うんです、この人はもと雇い主で……!」
「多香乃さあああああん!」
「いいかげんにしてください!!」
泣きまねをはじめた告を、多香乃がどなりつける。
「いま通ったうちの一人は教会のスタッフさんです。誤解されるじゃありませんか!」
「だってメイドさん一人もいないから、満足に食事してなくて」
「さっきのウナギは?!」
「家でつくってくれる人がいないから外食ばかりしてるんだよね……」
告は両手で顔をおおってみせた。
「ああ……こんな外食ばかりの食生活をしていたら、先祖代々の財産を速攻で食いつぶすかもしれない」
多香乃が、クッとうめいて眉をきつくよせた。
「……分かりました。教会の終業後にご自宅におうかがいして、夕食と朝食の作り置きをします。そのかわり時給を支払ってください」
「おっけ」
告は顔を上げて笑いかけた。
「それと」と多香乃がつづけて、少し語気を強める。
「教会は副業禁止ではないですけど、それでも副業やってるって印象が悪い場合もありますから他言無用でお願いします」
「了解」
告はそう返した。
「……なんですか、それ」
「イタリア語の “オッケー” 。ここのところイタリア語ばっかり勉強してたからクセになっちゃった」
多香乃があきれたようにため息をつく。
「クセになるものですか、そういうの」
「なるよ。フランスに行ったときはフランス語がクセになって、英語で話しかけられたのにフランス語で返すっていう会話を気がついたら延々としてた」
多香乃が「よく分からない」という表情で、ふたたびため息をついた。