恋に落ちたメイベル
エドアルド・ノワールという男は、ほとんどの生徒から気味悪がられている。
話しかけられても身ぶりで返すだけ。自分から言葉を発することは滅多にない。
一年の時から、同じゼミナールだった私でさえ、ほとんど喋ったことはない。
それなのに――。
「あの……エドアルド君」
第二校舎の廊下のつきあたりに立つメイベルは、目の前の男子生徒を直視できないまま言葉を紡いだ。
授業も終わって人通りがほぼ無いこの場所に、メイベルは彼を連れ出したのだ。
こんな所に女子が男子を呼び出す。それだけで彼女がしようとしている事を誰でも察することができるだろう。
だが、呼び出された男子生徒は只々じっとメイベルを見つめていた。とは言っても、伸びっぱなしの黒い前髪に隠されていて、その瞳にどんな感情が宿っているのかは分からない。
「あのね……その……」
エドアルドを誘うまで、授業中ずっと頭の中でシミュレーションをしていた。けれど、実際に彼を目の前にすると、肝心な言葉が出てこない。
少しでも可愛く見えるようにと下ろした髪が、視界の端でちらついて仕方がない。
メイベルは緊張ですっかり黙り込んでしまい、二人の間に沈黙が走った。エドアルドは、メイベルの言葉をじっと待っている。
「つ、付き合ってる子とか、いる……?」
遠回りな言い方になってしまったが、彼は首を横に振った。
それを確認したメイベルは僅かな安堵と同時に、顔を上げた。互いの視線がかち合った瞬間、メイベルの手に力がこもる。
「じゃ、じゃあ……わ、私と、付き合ってください!」
メイベルは思いっきり目を閉じて、ついに告白した。耳が火照って落ち着かない。ぎゅっと握りしめた手は汗で湿っている。さらに、手がじんじん痺れるような感覚に陥り、まるで時間が止まっているかのようだった。
メイベル・ブランシェは、エドアルド・ノワールに恋をした。
自分でも何がきっかけなのか分からない。それでも、今までに感じたことのない程の強烈な胸の高鳴りを覚え、彼のことが頭から離れなくなった。
(あぁ……でも、私がこんなに積極的になれるなんて、自分でもびっくりだわ)
***
あの告白から一週間。
私たちが付き合いはじめたことは誰にもバレていない、多分。人前では普段と全く変わらず過ごしているし、私もエドアルド君も誰かに言いふらしたりしないから。
それでも、私たちの仲はすごく順調。今日の放課後なんて、一緒に雑貨屋に行く約束してるんだから。
「ブランシェ君。ちょっといいかね」
「あ……はい」
変身術の授業が終わって、教科書とノートを片付けていると、突然、担当教師に声をかけられた。分厚い眼鏡をかけてお腹の出ている男の先生。備品の片付けでも頼まれるのかと考えていると、一枚の紙を差し出された。
「君、昨日までの課題、提出していないよねぇ? これ、追加の課題だから、きちんとやって明日の放課後までに提出しなさい」
「えっ、課題って……あ」
そうだ。変身術の課題の締め切り、今日のお昼だった。少しずつ準備は進めていたのに、完全に忘れていた。
(人生初の彼氏に浮かれすぎてた……!)
「まったく、最近呆けていることが多いんじゃないか? もう就職は決まってるからといって、そんなことでは卒業できず留年、なんてこともあるかもしれないからね。最後まで気を抜かないこと」
「は、はい……」
それだけ言って、先生は教室を出て行った。
目の前が真っ暗になる。私、これまで課題の締め切りを破ったことなんて一回も無かったのに。恋は盲目ってこういうことなのね。ああでも、いくら何でも明日までって厳しすぎる。
「な、なんか言われてたね……大丈夫?」
「! エドアルド君」
後ろの方から威圧感がしたと思ったら、いつの間にかすぐ近くにエドアルド君が立っていた。
もしかして、今のやり取り、聞かれてた? だらしない奴だって思われたかも。だとしたら、すごく恥ずかしい。
「うん……今日までの課題、出すの忘れてて……追加の課題もらっちゃった」
「ああ、あれか……。ごめん、僕がちゃんと教えてあげればよかった」
「ううん! いいのよ! 気にしないで!」
申し訳なさそうに眉をひそめるエドアルド君に、慌てて手を振って否定する。課題を忘れていたのは間違いなく私の責任だ。彼に謝ってもらうようなことじゃない。
「そんなことより、私、早く課題に取りかからないといけないの。だから今日はすぐ寮に帰るね。ごめん、約束破っちゃって」
私が無理やり誘ったのに、すごく申し訳ないけど、しばらくは遊んでる暇なんて無い。勉強に集中しないと。
「別にいいよ。それより、僕も課題手伝おうか」
「そんなの、駄目よ。私の自業自得なんだし、手伝ってもらったりなんかしたら悪いわ」
「だったら、一緒にそれぞれの課題を進めるっていうのは、どう? メイベルがちゃんと勉強してるか、僕が見張っててあげる」
伸びきってぼさついた前髪の間から、黒い瞳が見え隠れしている。いつもは怖そうに見える三白眼がものすごく優しい。
でも、一緒に勉強なんてしたら、絶対に集中できない。それだけは自信がある。私は心を鬼にして、彼の誘いを断った。
「ごめん! 今回はどうしても一人で頑張らなくちゃいけないの! 本当にごめん!」
「あ……、うん……」
メイベルはそれだけ言って、鞄を手に取り、足早に教室を出る。
そのため、一人取り残されたエドアルドが、ポツリと呟いた言葉を知るよしもなかった。
「もう、解けかけてるのか……?」
***
次の日、私は授業が終わってすぐ、職員室に駆け込んだ。変身術の教師を見つけて、机の間を縫いながら駆け寄る。
「先生! これ、お願いします!」
「ああ、はいはい。じゃ、見せてみなさい」
今回の課題はいつもよりボリューム自体は少なく、そこまで難しいものではなかった。それでもほとんど徹夜でやる必要はあったけど。
軽く目を通した先生は、軽く頷いた。
「うん。これなら問題ない。次からは気を付けるんだぞ」
「はい! ありがとうございます!」
先生に課題を渡して、この場を離れようとすると、職員室の端の方から声をかけられた。
「おーい! メイベル! ちょっといいか!」
大きく手を振っているのは、私が所属しているゼミナールの担当教師であるリーゼル先生だ。教師陣の中では比較的若手で、爽やかな雰囲気に女子からの人気は高いらしい。とはいっても、ファンになるのは一、二年生の初々しい子ばかりで、学年が進むにつれて離れていくらしいけど。
「何ですか?」
「これ! ゼミの奴らに渡しといてくれ!」
ずいっと突き出されたのは、何枚かのプリント。そこには、『進路志望票』とでかでかと書かれている。
「あ、これって……」
「今月末には学校の方にまとめて報告しないといけなくてさぁ。とりあえず、俺の所に書き次第、出すよう言っといてくれ!」
「はぁ……分かりました」
話は終わったとばかりにリーゼル先生は、机に向き直った。
私のゼミの五年生は三人いる。私と、エドアルド君、そしてカリンという女の子。カリンがいるであろう所はすぐ近くなので、まずはそこに行こうと普段は足を向けない場所に向かった。
***
「カリン、これリーゼル先生から。書いたら早めに出して、だって」
「はいはーい。――あー、進路かぁ。私、まだ決まってないんだよなー」
魔法薬研究部に所属しているカリンは、ところどころシミで汚れた白衣を羽織って頭をかいた。
「あら、意外。てっきり魔法薬の分野に進むのかと思ってたけど」
「もちろん、そのつもりだよ。ただいろんな所からスカウトされてるから、どこに行くか決めきれないんだよねー」
「ああ……そういうこと」
カリンは魔法薬学に限れば、とても優秀な生徒だ。一年生の時から成績は飛び抜けていたし、五年の今では助成金をもらって研究をしているらしい。
「それよりさ、エドアルドって今どこか知ってるー?」
普段から他人にはあまり興味を示さない彼女から、エドアルドの名前が飛び出して思わず動揺してしまう。それに、私より先に呼び捨てにしてるなんて。
「え……、し、知らないけど……どうして?」
「だって、付き合ってるんでしょ? 私、ちょっとあいつに話したいことがあるんだよねー」
何でもないことのように言い放たれた言葉は、私を驚かせるには充分だった。
「えっ……どうしてそのこと知ってるの?」
「だって二人とも明らかに距離近くなったし、すぐ分かったよー。にしても、メイベルってばよくオッケーしたねー」
「あ……ううん、私から告白したのよ」
すると、カリンの目が見開かれる。
「えー! うそ! なんで?! メイベルってば、前まではエドアルドのこと明らかに避けてたのに!」
「あー……そうだったかしら。でも、今はそんなことないわよ」
「ふーん、そうなんだー……」
私の言葉を聞いても、カリンは明らかに納得していない様子だった。
「ま、もしエドアルドに会ったら、ここに来るように伝えといてよ」
「う、うん……分かった……」
カリンが彼に何を話したいのか気にはなったけれど、まさかのカリンにバレていたことが衝撃的で、その後の記憶は頭からすっぽ抜けていた。