第5話 ただそばに
「ジェフリー! いつの間にそんなところに!」
遠く群衆の中にいた母親が気付いて駆け寄れば、騎士団が有事に備えるように動き出し、つられるように群衆も少しずつこちらに歩み寄ってくる。
「おかあさん、この灰色の耳のお姉さんだよ。前にさ、材木屋さんの近くで遊んでたら、棒がいっぱい倒れてきて、あぶないっ! ってなったときに、助けてくれたんだよ」
リッカが「内緒って言ったじゃないですか」と苦笑すれば、ジェフリーと呼ばれた男の子は「あっ」と思い出したように両手で口をぱたりと覆った。
必死な顔で駆け寄っていた母親は勢いをなくし、戸惑うようにリッカをちらりと見る。
「ジェフリー、でもその人は……」
「びっくりすると耳が出ちゃうんだって。今日も、みんながケンカしてるからびっくりしちゃったんだね。ねえ、お姉ちゃんたちはどうしてどっかに行かなきゃいけないの?」
純粋なその問いに、母親は言葉を探すように目をさまよわせた。
代わりにリッカが答える。
「みんなが幸せに暮らすためですよ。私たちは、もっと仲間がいっぱいいるところに行くのです」
「お姉ちゃんがいた方が僕は幸せだよ。みんなはどうしてお姉ちゃんたちがいたら幸せにならないの?」
周囲に迷いと気まずさが広がっていく。
誰も目を見ようとしない。
そんな空気の中、一人の足音が群衆から抜け出した。
「待って」
歩き出した婦人の温かみのある赤茶の瞳にフリージアは既視感を覚えた。
町の人たちと変わらぬ格好をしているが、その歩き方や立ち居振る舞いは周りの人々とはどこかが違う。
顔には年なりの皺が刻まれていたが、さらりとした黒髪はアップにしてまとめられているだけで凝っているわけでもないのに、どこか気品が漂っていた。
「お願い。私も連れて行って」
そばではっと息をのむ声が聞こえ、フリージアは振り返った。
ジュナが呆然としたように口を動かす。
「奥様……」
その言葉に驚き再び婦人に目を戻すと、赤茶の瞳はまっすぐにグレイを見ていた。
「母……上?」
グレイは幼い頃に別れて以来会っておらず、その容姿も覚えていないと言っていた。
しかし訊ねるように呼びながらも、その顔は確信めいていた。
「情けないわ。本当なら私が言うべきことをそこのお嬢さんに任せてしまって、小さな子にまで出遅れて」
苦笑したようにも、顔を顰めたようにも見えた。
そうして傍まで歩いてきて覚悟を決めたような目と目が合い、グレイの肩が震える。
「長いことあなたからもこのお邸からも逃げていてごめんなさい。今更都合がいいことも、図々しいこともわかっているわ。けれどグレイ。あなたと二度と会えないのは辛いの。だからせめてどこへ行くのかだけでも教えてちょうだい。必ず後を追うから」
落ち着いた声音でありながら、その声は必死で、どこかすがるようで。
グレイの瞳が揺れているのがわかる。
「一体何故……。どういうことですか? あなたは私を受け入れられなくてこの邸を出たのでは」
「驚かなかったわけじゃない。戸惑わなかったわけでもない。けれど家を出たのはそれが理由ではないわ。受け入れられなかったのは、私のほうなのよ」
グレイの母はそう言って、苦しげに眉を寄せた。
「四年もの月日をこの屋敷で過ごしながら、誰にも真実を教えてもらえなかった。余所から嫁いできて、混血でもない私はこの屋敷では異質で、信用してはもらえなかったのよ。私一人だけがいつまでも余所者のまま、後継ぎとなる子を産み母となってもそれは変わらなかった」
その言葉に、ジュナが慌てて首を振る。
「それは、違います……! 旦那様は、奥様に真実がわかれば心にご負担になるのではと心配されたのです。それに、ずっとそばにいてほしいのだと、だから決して知られるわけにはいかないと――」
「そんなの、驚くのは当たり前だわ。心臓だってつぶれてしまうかと思った。何も知らない中いきなり子供の姿が竜に変わってしまったのだから。すぐには受け入れられなかったのも事実。だけど辛かったのは、私が信用されていなかったことよ。私たちは家と家との約束で結婚しただけだったのだから無理もないことだけれど」
「いえ、それは……」
苦しそうにジュナが口をつぐむ。
大切だからこそ、明かすには重すぎる事実。
その葛藤も辛さも、フリージアには痛いほどによくわかる。
グレイの母はそっと目を伏せ、再びグレイを真っすぐに見た。
「グレイ。どのような理由があろうと、私があなたを捨てたことに違いはないわ。けれどあなたから離れることはできなかった。直接あなたを見ることはかなわなくても、侯爵家に出入りする人から話を聞いたり、町の人たちの評判を聞いたり……それだけでもいいから、繋がっていたかった」
「お菓子屋のおばちゃん。昨日はお花のクッキーありがとう」
くいっと服の裾を引かれ、グレイの母はそちらに顔を向けた。
ジェフリーに並ぶようにして見上げる少年に、グレイの母は優しい笑みを浮かべる。
「あら、マルク。食べてくれて助かっているのは私のほうよ。いつも残り物で悪いけれど」
「お花のクッキー……?」
グレイの言葉に、マルクがぱっと顔を輝かせる。
「そう! おばちゃんちのお菓子はどれもおいしいんだけど、お花の塩漬けがのってるクッキーがとってもおいしいんだよ! ここらの人はお花の塩漬けなんて作らないから、おばちゃんのところじゃないと食べられないんだ」
それは、たまにミーシャが買ってきてくれるクッキーのことではないだろうか。
ジュナが愕然と口を開く。
「母が叔母から習ったというクッキーと味が似ていると思ってはいたのですが、まさか奥様がお作りになっていたのですか?」
「ええ……。グレイが、とても好きだったから」
そう言って懐かしむように目を細めたその顔は、まぎれもなく母の顔だった。
「いつか私の作ったクッキーを食べてくれるかもしれないと思って、お店を始めたの。とても苦労したけれど、この町の人たちはみんな私を助けてくれたわ。どこの誰とも知れない私に、一人で生きていけるようになるまであれこれと世話を焼いてくれて、なんとかこの町で生きていくことができた。それもこれも、あの人がこの町を平和に保ってくれていたからだわ。あなたが大きくなってからはほとんど邸にはいないようだけれど、それを継いであなたも立派に治めていた。何もできない母だったけれど、あなたは私の誇りよ」
真っすぐに赤茶色の瞳が見つめあう。
グレイが口を開くと、その声は震えていた。
「父は……、あなたを探していたのです。生粋の貴族が一人で生きていけるわけはないと、どこかで誰かに攫われてしまったかもしれない、路頭に迷っているかもしれないと――」
その言葉に、グレイの母ははっとして口を覆い、それから震えを堪えるようにぎゅっとその手を握りしめた。
「そんな……、あの人が……?」
「父はあなたを大切に思っていました。愛していました。だからこそ、本当のことを明かせなかったのです。私たち竜の姿を持つ者は、人には受け入れがたいから……。あなたにだけは拒絶されたら生きていけないと怯え、必死に隠し通そうとしたのです」
誰かに拒絶された過去があればなおのこと。
グレイもまた同じように葛藤したからこそ、今はより父の気持ちがわかるのだろう。
振り返ったグレイにフリージアが小さく笑みを向けると、勇気を得たようにグレイが続けた。
「ですが僕が姿を変えてしまい、真実が明るみになり……。それでも父は僕を責めることはありませんでした。母がいなくなり、ショックを受ける幼い僕を置いてはいけないと、自ら探しにいくことも我慢して、ただひたすらに父親としての愛情を注いでくれました」
グレイの母は両手で口を押え、嗚咽を堪えられないように肩を震わせた。
「私は……、自分一人が傷ついたつもりになって、あの人のことも、あなたのことも、そしてジュナやみんなのこともずっと傷つけてきたのね。ごめんなさい。ごめんなさい……」
愛するがゆえに、互いに臆病になり、向き合うことができなかったのだろう。
抱える秘密はあまりに大きく、受け入れねばならない事実もまたあまりに大きかったから。
「あなただけは諦めることができなくて、忘れることができなかった。何もわかっていなくて理解もしてあげられない、何も助けてあげることなんてできない母親だけれど、それでも、そばにいたかった。ずっと自分のことばかりな母親で、ごめんなさい、グレイ。だけど許してもらえるなら、もう一度、あなたのために何ができるか考えさせてほしいの。そのためにも、そばにいることを許してくれないかしら」
「せっかく……、人気のお店にまでしたのでしょう。それを捨ててもよいのですか?」
「あなたと繋がっているために作ったお店よ。手伝いの子が後も継いでくれるでしょう」
グレイの大きな首が、そばに寄り添うフリージアを振り返る。
「フリージア。いいかな?」
「もちろんよ」
言葉が出なくて、顔いっぱいに広げた笑顔でそう答えるのが精いっぱいだった。
フリージアがそっと伸ばした手に頬を寄せると目を閉じ、それからグレイは母へと向き直った。
「一緒に、来ますか?」
「――ありがとう、グレイ、フリージアさん。あなたにもお礼を言わなければいけないわ。私ができなかったことをしてくれて、私が傷つけてしまったであろうグレイを受け入れてくれて、こんな風に穏やかに笑える子でいさせてくれて、ありがとう」
感謝しているのはフリージアのほうだった。
グレイがいたから、フリージアは幸せでいられるのだから。
しかしフリージアよりもきっと、もっとずっと愛しているのだろうグレイの母に、グレイを産んでくれてありがとうなどと言うのはおこがましい気がして。
フリージアはただ精いっぱいの笑みを浮かべ、その手を伸ばした。
「これからよろしくお願いします。行きましょう、一緒に」
しかしまた一つ、懐かしい声が聞こえて、フリージアは顔を上げた。
「フリージア様、私も行きます!」




