ザ・ロング・アンド・ワインディング・ロード
ザ・ロング・アンド・ワインディング・ロード
それはほんの数秒間の出来事だった。幼児を乗せたベビーカーを押す妊娠後期の妊婦が、大阪市都島区にあるかかりつけの産婦人科で定期検診を終え、近くの交差点で信号待ちをしているところへ、近くの花屋に勤務する若い女の運転するバンが猛スピードで突っ込み、荷室に花を満載したまま、その妊婦をベビーカーごと跳ね飛ばしたのだ。近くにいた通行人が通報し、救急車とパトカーがすぐに事故現場に駆け付けたが、妊婦とベビーカーに乗っていた一歳八か月の男児はその場で死亡が確認され、あと二か月で誕生予定だった胎児も助からなかった。事故現場で体を震わせながら救急隊員の対応を呆然と見ていたバンの運転手である女は、警官からの質問にいくつか答えたあと、運転中のスマホ操作による道路交通法違反と業務上過失致死罪容疑で現行犯逮捕された。
亡くなった妊婦の夫であり、亡くなった男児と胎児の父親でもある男は、都島区のメモリアルホールで三人の葬儀を済ませると、半年後、勤務先である大阪の海運会社に辞表を提出し、ひとりアメリカに向かった。アリゾナの砂漠で自分の命を絶つためであった。
男は長いこと独身であったが、四十代の半ばで妻と知り合い結婚し、男が四十八歳、妻が三十五歳の時に長男が生まれてからは、男の人生は一八〇度変わった。それまでは、体や金のことなど気にもせず、会社の上司や同僚に誘われるまま、遅くまで何軒もはしご酒をしていたのだが、長男が生まれてからは、好きなタバコもやめ、外で酒を飲むことも一切なくなり、毎日午後七時には帰宅するようになった。
そして、妻から第二子の懐胎を告げられた時は、男はうれしさのあまり、自分の今後の人生は妻と子どもたちのために捧げると妻に誓ったほどだった。しかし、その三人が事故で同時に亡くなってしまい、男は人生の目的を完全に見失ったのだった。男の両親はすでに数年前に他界していたので、男が自殺するに当たって、男の後ろ髪を引くものは、もうこの世には何もなかった。
男がなぜアリゾナを死に場所に選んだかというと、ひとつは、単に乾燥しているからであった。男は自分の死体が腐臭を放ちながらゆっくりと腐乱していくのは嫌だった。自分が死んだら、死体はどんどん乾燥して早く干からびてほしい、できれば、コンドルのような腐肉食動物にきれいに食べてほしいというのが男の願いだった。
男がアリゾナを死に場所に選んだもう一つの理由は、その広大な空だった。男は青く広い空の下で一人静かに死にたかった。空の見えない建物の中や森の中は嫌だった。
男の希望を満たすような土地は、先進国ではアメリカかオーストラリアにしかなかった。外国で自殺するのは他国に迷惑をかけることになるので男は気が引けたが、やむを得なかった。その埋め合わせに、男は遺産(自宅マンションの売却代金からローン残高を引いた額)は全額(少なくとも一千万円を超えるはずだが)、アリゾナ州立大学に寄付するように、大阪天満橋の弁護士に手配しておいた。男が着ているシャツのポケットには、その弁護士の連絡先を書いたメモが入っていた。男の死体が誰にも発見されなかった場合は、そのメモはもちろん役に立たないのだが、その場合は自分がアリゾナの住民に掛ける迷惑も少なくて済むだろうと男は思った。
男のプランは単純だった。アリゾナのフェニックスあたりでレンタカーを借り、人気のないところまで行って車を降り、そこから徒歩でさらに砂漠の奥まで進み、そこで自ら命を絶つのである。日本から持っていくサバイバルナイフで、喉仏の両脇にある頸動脈、つまり指先を当てるとトクトクと脈を打っているところを一突きすれば、ほとんど苦しまずに即死できるはずだった。そのサバイバルナイフは男が研ぎあげ、剃刀のような切れ味になっていた。男はナイフを喉に刺すのは怖かったが、交差点で車に跳ね飛ばされた妻や子供が感じたであろう苦痛を考えると、どうということはなかった。
梅雨時の雨模様の中、男の乗った飛行機は、夕刻、関西空港を飛び立つと、サンフランシスコを経由し、約十四時間後、アリゾナ州のフェニックス空港に着陸した。現地の時計の針は午後四時をまわっていた。男が空港を出ると、六月のフェニックスはすでに暑く、気温は摂氏三十度を超えていた。男は空港でタクシーを拾うと、予約していたホテルに向かい、チェックインした。
翌朝、男は近くのレンタカーショップに行き、車を借りると、パパゴ・フリーウェイを西進し、国道九五号線に向かった。男の乗った車は一時間ほどして国道九五号線に入ると、今度は南に向かった。そして、三〇分ほど走ると左折し、未舗装の細い砂利道を南東の方角に走り始めた。そして、その道を二〇分ほど走ると、男の車は左折し、そのまま道なき道を一〇分ほど走ってから、男は車を停めた。そこは、コファ国立野生動物保護区の端に位置する、荒涼とした砂漠の真ん中だった。
男は車を降りると、計画通り、この近辺で唯一目印になる標高二百メートルほどのシグナル・ピークと呼ばれている小山のある方角へ、カーキ色のアウトドアハットを被り、青いバックパックを背負って歩き始めた。その山に向かって二時間ほど歩けば、もう、誰にも会うことはないはずだった。灌木とサボテンがまばらに生えている灼熱の荒野を、男は昼食を挟み、適宜休憩をとりながら、どんどん進んで行った。
やがて、男は立ち止まった。時計はもう午後二時を回っていた。数キロ先にシグナル・ピークの姿がはっきりと見える。そこは文明が立ち入った形跡のない、岩石ばかりのごつごつした荒涼たる砂漠だった。
「ここなら、いいだろう」男は独り言を言うと、焚き木を拾い始めた。人生最後のコーヒーを作るためであった。枯れた小枝をたくさん集め、石で作った小さなかまどの下に置いた。そして、用意しておいた新聞紙をバックパックから取り出し、マッチで火を点けると、焚き木の上に置いた。すぐに焚き木にも火が点いた。男は、ステンレスのカップに水を入れ、かまどの上に置いた。やがて、カップの中の水が沸くと、男は小袋に入ったインスタントのコーヒーの粉末をカップに入れて、小枝でかき混ぜた。そして、男が近くの岩に腰かけて、出来上がったコーヒーをすすり始めた時のことだった。
男がコーヒーをすすりながら、死に臨んで心を落ち着けようと目をつぶっていると、男の後方で人の気配がしたのだ。男は音のした方を振り返って驚いた。男から一〇メートルほど離れた場所に、白人の男の子が自分の方を見ながら立っているではないか。男は一瞬、自分の目を疑った。どうして、こんな砂漠の真ん中に子供が一人で立っているのだ?死を目前にして、俺の頭はおかしくなってしまったのだろうか?男は気持ちを静めようと、目をつぶり深呼吸をして、もう一度、その少年のいる方を見た。しかし、そこには小学校低学年であろうと思われる、あどけない顔をした少年が確かに立っている。恐らく、この少年は焚き火から出た煙を遠くから見て、ここにやって来たのだろうと男は推測した。
いずれにせよ、子供の目の前で自殺するわけにもいかないし、どうやら、その少年は道に迷っている様子である。他に誰もいないので、自分が面倒見てやるしかあるまい。男はこの少年の唐突の出現を忌々しく思ったが、それは少年のせいではないので、男は気を取り直して、英語で優しく少年に話しかけた。男は仕事柄、海外とのやり取りが多かったので、日常会話レベルの英語は問題なかった。
「Where are your parents?」
「My father killed himself.」
少年は自分の後ろの方を指さして、そう答えた。
「What?」
「He shot his head . He tried to shoot me, but I ran.」
「Is your father dead?」
「Yes,sir.」
「Where is your mother?」
「I d'ont know. She left us a long time ago.」
この少年も自分に劣らず複雑な状況に置かれているのだな。男は少年の境遇に同情し、さっきのコーヒーに使った残りのミネラル水の入った二〇オンスのペットボトルを少年に渡した。少年は喉を鳴らしながらその水を飲み干すと、空のペットボトルを男に返した。
少年は金髪で青い目をしていたが、それ以外は日本の小学生とあまり変わらないなと男は思った。地元のNFLチームであるアリゾナ・カーディナルスの鷹のマークが額に付いている赤いキャップをかぶり、ナイキの白いスニーカーを履き、着ている黄色いTシャツには「ドラゴンボール」の主人公がプリントしてある。
こうなった以上、まずは、この少年をしかるべきところまで送り届けねばなるまい。男はぬるくなったコーヒーの残りを飲み干し、とりあえず、自分の車のあるところまで戻ることにした。
男は少年を連れて、自分が車を降りた場所に向かって歩き始めた。太陽がすこしずつ西に傾いていく中、二人は黙々と二時間ほど歩き続けたが、男が乗ってきた車はなかなか見つからなかった。そのうち、太陽が地平線に近づき、真っ赤な夕日が辺りを一面紅色に染めだした。今日は車を見つけることはできそうにもない。どうやら、ここでキャンプするしかなさそうだ。男は車探しはあす再開することにして、近くにある大きめの灌木の根元を今日の寝床と決めて、そこに灌木の小枝や葉を敷き始めた。それを見た少年も一緒に手伝い始めた。
男はアリゾナでキャンプすることなど念頭になかったので、背負っているバックパックの中には、キャンプに役立ちそうなものはサバイバルナイフとマッチしか入っていなかった。男は少年と一緒にキャンプファイヤーのための枯れた小枝を拾い集めると、大き目の石で囲いを作り、その中に拾ってきた小枝の束を入れ、枯葉を砕いてその上からふりかけ、マッチを擦って火を点けた。小枝は芯まで乾燥しきっていたらしく、勢いよく燃え上がった。
男は腹が減っていたが、男が持っている食べ物は箱に半分ほどのビスケットとコーンポタージュの粉末一袋だけだった。男は自分はどうせ死ぬのだからと思い、ビスケットを箱ごと少年に渡し、コーンポタージュは明日の朝食にすることにした。水は未開封のペットボトルが一本バックパックの中にあったので、男はそれを開けてステンレスのカップに注いで少年に渡し、自分も一口飲んだ。少年は男に礼を言うと、ビスケットを食べ始めた。ビスケットを食べている少年に男は話しかけた。
「What is your name?」
「Kevin Tucker.」
「Nice to meet you,Kevin. I am Kouichi Nakatsu.」
男はそう言って、右手を少年に差し出した
「Nice to meet you.」
少年がおずおずと男の手を握り返した。
「How old are you?」
「Eight.」
「Where are you from?」
「Yuma.」
「Did you come from Yuma by car?」
「Yes,sir.」
「Where is your car?」
「I d'ont know. Maybe over there.」
少年はそう言うと、夕日の方角を指さした。恐らく、この少年は父親の運転する車で国道九五号線をユマから北上して来て、この近くで右折して砂漠に入ってきたのだろうと男は思った。男は引き続き、少年に質問した。
「Do you have any brothers or sisters?」
「No,sir.」
「Do you have grandparents?」
「Yes,sir. I have a grandmother.」
「Where does she live?」
「She lives in Phoenix.」
「When did you see her last time?」
「I saw her last year's Christmas.」
この少年が頼れる親戚はフェニックスに住む祖母だけかもしれないな。いずれにせよ、明日は警察に事情を説明して、少年を保護してもらうことになるだろう。日本の一般人が、なぜアリゾナの沙漠をサバイバルナイフ一本だけを持ってうろついていたのか、警察からあれこれ詮索されるかもしれないが、そのときは道に迷ったなどと適当に答えておこう。男は少年の顔を見ながら思った。
その後、男は自分のことや自分が住む大阪や日本のことを片言の英語で少年に説明してやっていたが、男がふと気が付くと、体力的にも精神的にも相当にタフな一日を過ごしたはずの少年はいつのまにか横を向いてぐっすりと眠っていた。アリゾナの砂漠から見上げる夜空は無数の星に埋め尽くされている。昼間は灼熱の地獄だった砂漠も夜になり冷えてきたので、男はバックパックから自分の上着を取り出すと、少年の体に掛けてやった。
翌朝、男は寒さで目が覚めた。腕時計の針は午前六時を回ったところだ。すでに、太陽は地平線のかなり上にある。昨晩起こした焚火は完全に消えていたので、男は枯れ枝の残りを使って火を起こし始めた。
朝の湿気を吸っているためか、枯れ枝はなかなか燃え出さなかったが、ビスケットの空箱を破って焚き付けに使い、マッチを数本擦ってやっと枯れ枝から炎が上がると、男は冷えた手を炎にかざしながら、その日の行動予定などについて考えた。まずは、車を見つけて、そのあと、近くのレストランかどこかで少年にちゃんとした食事をさせてやり、そこから、恐らく、アリゾナ州警察に電話することになるだろう。自殺の計画は大幅に狂うことになりそうだ。そうしているうちに、少年が目を覚ましたので、男はコーンポタージュの朝食を作ることにした。
焚き木が底を突いたので、男と少年は枯れ枝を集め始めた。焚き木が集まると、男はステンレスのカップに水を入れ、火に掛けた。しばらくして、湯が沸いたので、男はお湯の入ったステンレスのカップにコーンポタージュの粉末を入れ、出来上がったポタージュの三分の一ほどをミネラル水の入っていた空のペットボトルにこぼさないよう注意深く移し、残りのポタージュの入ったカップを少年に渡した。透き通った砂漠の冷気の中で飲むコーンポタージュはことのほかおいしく、昨日の夕方から飲み物も食べ物もほとんど口にしていない男の体の中に急速に浸み込んだ。
少年がスープを飲み終えると、男は少年とともに再び車を探しに行くことにした。ところが、一時間ほど歩き続けたが、一向に車は見つからない。とうとう、少年は歩き疲れて座り込んでしまった。男も渇きと疲れで思考がまとまらない。車はこの辺に停めたはずなのだが・・・。男はそう思ったが、この近辺はどこまでいっても周りの景色が同じなので、自分の判断にあまり自信はなかった。遠くにシグナル・ピークが見える。ひょっとしたら、もう少し西寄りだったかもしれない。そこから見えるシグナル・ピークの形からそう思った男は、その場所で一〇分ほど休憩してから、シグナル・ピークを右手に見ながら、少年を連れて再び歩き出した。しかし、三〇分ほど歩いたが、車はやはり見つからない。男は途方に暮れた。
さて、どうしたものか。この後の行動について男が考えていると、大きな石の上に座って休憩していた少年が突然、叫び声をあげた。男が少年のほうに走りよると、少年が自分の左手首を持って、苦痛に顔を歪めている。そして、少年の足元の岩の脇には、とぐろを巻いたガラガラヘビが鎌首をもたげて、上に突き上げた尻尾を鳴らしていた。男は少年を抱き上げ、蛇を刺激しないように注意しながら、すぐにその場から離れた。少年の左の薬指が見る見るうちに腫れ上がってくる。男はポケットからハンカチを取り出すと、とりあえずの応急措置として、少年の手首の柔らかい部分をきつく縛った。ヘビの毒が全身に周るのを少しでも遅らせるためだ。
男は焦った。ガラガラヘビの毒は非常に強力で手当てが遅れると命を失う。早く血清を打たなければならない。この地域の医者なら誰でも血清を常備しているはずだ。とにかく、一刻を争う事態だ。早く自分が乗ってきた車を見つけなければならない。しかし、二人は車を探してかれこれ二時間近くこの一帯を歩き回っているのだが、車は見つかっていないのだ。車は誰かに盗まれたのかも知れないと男は思った。男は最後に車を降りたときに、もう車に戻ってくることはないと考え、車にカギを付けっぱなしにして、ドアもロックしなかったのだ。
男は焦る頭で考えた。自分たちが今いる場所からは、自分が車を降りて、歩いて自殺する場所を探したときに目印にしたシグナル・ピークがはっきりと見える。シグナル・ピークからおそらく五キロメートルほど南下したところに自分たちはいる。だとすれば、ここから国道九五号線に出るには、まっすぐ西に一〇キロメートルほど移動すればよいはずだった。子供を背負って走れば一時間半、歩いても三時間ぐらいで国道に出ることができるだろう。男は考えた末、見つかるかどうかも分からない車を探すよりも、少年を背負って国道まで走ることにした。
男は自分のバックパックを背中から降ろすと、中の物をすべて取り出し、サバイバルナイフでバックパックの両サイドの下の部分を人の足が入るくらいに切り裂き、少年を抱き上げ、足の方からバックパックに入れ、少年の足を切り開いたバックパックの穴から出した。すると、ちょうど、乳児の母親が使うおんぶ紐の大型版みたいな形になった。
男は少年の入ったそのバックパックをどうにか背中に負うと、これから進むべき西の方を見やった。男の視線の先には、灌木がまばらに生えた荒野が延々と続いており、その上には蜃気楼が揺らめいていた。男は一瞬、躊躇した。男は数年前から糖尿病を患っていて、男の全身の血管は高血糖により傷つき、脆くなっており、炎天下の砂漠を何時間も走ると自分は死んでしまうのではないかと男は思った。ましてや、飲み水がなければなおさらだった。
(それがどうした。この子の命を救うのが先決ではないのか。そもそも、お前は死ぬためにここに来たのではないか)
(だが、もし、俺が途中で倒れてしまったら、この子はどうなるのだ?)
(その時は・・・、その時は、この子もお前と一緒に死ぬことになるだろう。だから、お前はどんなことがあっても国道までたどり着かなくてはならないのだ)
男は覚悟を決めて走り始めた。
アリゾナからメキシコにかけて広がるソノラ砂漠の地面は、サハラ砂漠のように風紋ができるきめ細かな砂ではなく、乾燥した固い赤土と大小の礫岩で出来ている。そのため、さらさらの砂の上よりは走りやすいが、男は砂漠でマラソンをすることになるとはもちろん想定していなかったので、この日も普段愛用しているカジュアル用の革靴を履いており、靴底が薄いため、着地の衝撃が男の足に直接伝わってくる。案の定、男が走り始めてからすぐに、男の左膝が痛み始めた。大学時代、サイクリングの最中に負傷した箇所だ。男の体重が約七十五キログラム、この少年の体重は恐らく三十キログラム近くであろう。男の左膝は使い物にならなくなるかもしれなかったが、男は気にしなかった。
そして、男が膝痛を我慢しながら走っていると、今度は、激しい頭痛とめまいが男を襲ってきた。体内の水分不足によるものだった。水の入ったペットボトルの水はとうの昔に空になっていたので、男は文字通り歯を食いしばって走り続けた。
それからしばらくすると、男の足先や手先の感覚が徐々に無くなってきて、視界がぼんやりとかすんできた。糖尿病で最もダメージを受けやすいのは、毛細血管が集中している部分である。網膜や手足の末梢神経がこれに該当する。男はそんな症状が出ることは十分に予想していたので驚かなかった。それよりも喉が渇いてしょうがなかった。男は近くにオアシスのようなものがないか目を凝らしたが、そのようなものはもちろんなかった。頭痛はさらにひどくなってきている。
男は膝痛と頭痛に耐えながら、蜃気楼のゆらめく砂漠を、アウトドアハットを目深にかぶり、下を向いたまま黙々と走り続けたが、走り始めて一時間ほど経った時、男は突然、足に激痛を感じ、悲鳴を上げて倒れた。右の太ももが痙攣を起こしていた。明らかに重度の脱水症状だった。男はしばらくその場でもがいていたが、右足首を両手で持ち、右足を力ずくで真っすぐにすると、どうにか太ももの痙攣は止まった。しかし、無理に引っ張ったために肉離れを起こしかけているのか、痛みのため、右足に力が入らない。男はそのままの姿勢で痛みが鎮まるのを待っていたが、やがて、意を決して立ち上がると、右足を引きずるようにしながら再び走り始めた。
男が痛めた右足をかばいながら、そこからさらに三〇分ほど走ると、遠くのほうに、小さな岩山が男の行く手を阻むようにいくつも連なっているのが見えてきた。それは、男を国道まで行かせまいと通せんぼをしている意地の悪い巨人の群れのように見えた。
しばらく行くと、蜃気楼でゆらめく最初の岩山が姿を現した。直径200メートルほどの盃をひっくり返したような円錐状の礫岩の塊だ。高さは100メートルほどだろうか。元はテーブル状だったものが、風に侵食され風化した礫岩が周りに崩れ落ち、それが岩山の斜面を形成しているらしい。男は、本当は国道への最短直線上を走りたかったのだが、とてもではないが、この岩山の斜面を登ることはできそうにない。しかたなく、男はその岩山を大きく迂回することにした。急がば回れという諺があるが、この場合、回るしかないのだ。男が最初の岩山を迂回すると、さらに大きな岩山が見えてきた。そして、その岩山の後ろからまた別の岩山が姿を覗かせている。男は右に左に大きく蛇行しながら、その岩山の間を縫うようにして、ひたすら下を向いて走り続けた。
男の走る速度はもう歩くのとほとんど変わらなくなっていた。その地面には大小の岩が不規則に点在しているため非常に走りづらく、男は石につまずいて何度も何度も転倒した。岩山は延々と続き、岩山の連続はこのまま終わることがないように男には思えた。その間にも男の目は徐々に見えなくなっていた。男は岩山と岩山の境目のできるだけ平坦な土地を探して走ろうとしているのだが、目がかすんでその境目がよく分からなくなっていた。それでも、男はその忌々しい岩山の集団を一時間ほどかけて、どうにかこうにか走り抜けた。途中、何度も石につまずき転んだため、最後の岩山を通過した時には、男の肘も膝も血だらけだった。いつのころからか、男の頭の中ではビートルズのザ・ロング・アンド・ワインディング・ロードがエンドレステープのように鳴り続けていた。
岩山の集団を抜けると急に土地が開け、かなり走りやすくなった。遠くの道路を走っている自動車のエンジン音とタイヤが路面を叩く音が、男の耳にかすかに聞こえてきた。走り始めてすでに三時間近く経っていた。
「もうすぐ国道だ!」男はその音が聞こえてくる前方に目を凝らした。前方がよく見えないのは蜃気楼のせいなのか、それとも自分の目の問題なのか、もう男にはよくわからなかった。男は時折聞こえてくる車の音を頼りに走り続けた。男は走っているつもりだったが、その足取りは頼りなく、その速度は通常歩くのよりもかなり遅くなっていた。男は背中に背負っている少年の容態が気になったが、少年の顔色を見る余裕はもう男にはなかった。
しばらくして、五〇メートルほど先にどういう訳かウォータークーラーが設置してあるのが見えてきた。砂漠の真ん中に誰が置いてくれたのだろう。ありがたい。男はウォータークーラーに走り寄った。そして、噴水口に唇を近づけて冷えた水を飲もうとした瞬間、ウォータークーラーは跡形もなく消え、男はそれが幻覚だとわかった。幻覚が見え始めたということは身体の状況がかなり切迫していることを示している。
(いったい、俺の体はあとどれくらいもつのだろう・・・国道までたどり着けるのだろうか?)
男は頭の片隅でぼんやりと思った。
岩山の集団を抜けてから、男は覚束ない足取りでさらに二〇分ほど歩き続けたが、やがて、灌木に足を取られて再び転倒した。その際、男は運悪く岩の角に額をまともにぶつけたため、男の額が長さ五センチほどにわたって白い骨が見えるほど深く割れ、そこから血が流れ出した。頭を強打した男は脳震盪を起こしたのか、今度はなかなか起き上がらなかった。
男は夢を見ていた。男が大阪の自宅に帰ると、テーブルの前で身重の妻が長男を抱いて座っており、ニコニコして男のほうを見ている。男の指定席である場所には、風呂上りにいつも妻がしてくれていたように、冷えたグラスとともに冷えた瓶ビールが栓を抜いて置いてある。そして、男がいつものように自分の椅子に座ってビールを飲もうとした時だった。
「そんなところで座りこむんじゃない!」
突然、どなり声が男の頭の中に響き渡った。男はその声で夢から覚めた。怒声が追い打ちをかけるように続いた。「この子の命が懸かっているのだ。さっさと立たないか。もっと歩くのだ!」
頭の中で別の声が言い返した。
「頼む。勘弁してくれ。俺の体はもう限界なんだ」
すると、どなり声が有無を言わせない口調で、再度、男に命令する。
「黙れ!時間がないのだ。つべこべ言わずに歩くのだ!」
男はその声に急き立てられ、額から大量の血を流しながらも何とか起き上がり、耳を頼りに国道に向かって再び歩き始めた。この時、男の目はすでに完全に見えなくなっていたが、そのまぶたには、事故がなければ生まれていたはずの女の赤ん坊の面影が、時折浮かんでは消えていった。男の頭の中では、ポール・マッカートニーの歌うザ・ロング・アンド・ワインディング・ロードが、相変わらずBGMのように鳴り続けていた。
男がよろめきながら国道のほうに歩いて行くと、しばらくして、時々右や左から来ては反対方向に遠ざかっていく車の音が、その車の大きさがおおよそわかるくらいにはっきりと聞こえるようになってきた。「もう少しだ!」男は最後の気力を振り絞って、今にも倒れそうになりながら、一歩また一歩と前進していった。それに伴い、男の耳に聞こえる車の音も徐々に大きくなっていった。
やがて、地面が不意に緩やかな上り勾配になった。そして、男がその斜面を登るように数歩進むと、遠くの方から大型トレーラーのものと思われる轟音が聞こえてきた。その轟音は左手から男のいる方へものすごい速さで近づいてくると、男の数メートル先を横切ると同時に男の耳をつんざき、そのトレーラーが巻き起こした熱風が男の頬をなぐり、それまで男の頭の上に辛うじて乗っていたアウトドアハットを吹き飛ばした。そして、轟音は再び男の右手の方に去って行った。
(・・・もう大丈夫だ・・・ここなら、きっと誰かが止まってくれるはずだ・・・)
男は薄れゆく意識の中でそう思うと、少年を背負ったまま、国道九五号線の路肩の外側の、砂利で覆われている斜面に前のめりに倒れこんだ。
その日の正午過ぎ、ロバート・ブライソン医師はラ・パズバレーに住む患者を往診してユマの診療所に戻る途中、国道九五号線のシグナル・ピーク付近を車で走行している際に、道路脇に青いバックパックを背負った男が倒れているのを発見した。ブライソンは即座にブレーキを踏んで路肩に車を停めると、その男に走り寄った。その男はバックパックを使って少年を背負っており、その少年は、意識はあるもののかなり衰弱しており、その左手は紫色に腫れ上がっていた。その指先の咬傷から、少年はこの地域に生息するArizona Diamond Rattlesnakeに咬まれたのだとブライソンは判断した。それから、ブライソンは少年を背負っているモンゴロイドと思われる男の首に手を当てた。しかし、男の脈はすでになかった。
ブライソンは自分の車に走って戻り、ドクターバッグを持ってくると、携行していた血清キットを取り出し、少年の腕に血清を注射した。そして、携帯電話でアリゾナ州警察に電話をして事情を説明すると、少年を自分の車の後部座席に乗せ、国道を南に向かって猛スピードで走り去って行った。
焼けつくような国道九五号線の道路脇には、破れた青いバックパックを背負った男の遺体と、トレーラーに吹き飛ばされたカーキ色のアウトドアハットだけが残された。血と砂埃にまみれた男の死に顔は眠っているように穏やかだった。