草薙剣
父景行天皇の命令で、東の従わぬ民を討伐すべく東へ向かっていた倭建命は、無事を祈るべく、皇祖神が祀られている伊勢神宮へ参拝に行っていた。
「父上は私が死んでほしいとお考えなのでしょうか。クマソや出雲の民の征伐に行かされたあと、わずかな供だけを連れて、東夷の征伐に行かされるのはあんまりだ」
「そんなことはありません。天皇はあなたが強いことを知っているから、供だけを連れてゆくのでしょう。冷たいように見えても、心の奥底では信頼しているのよ」
「だとしたらいいのですが」
「そんなことより──」
倭比売は側に置いていた剣を差し出す。その剣は長く、紫色の袋の中に入っている。
「この剣は古より伝わる天叢雲剣。お守りに持っていきなさい」
「でも、これは大事な剣なのでは?」
倭建命は断った。いくら斎宮である叔母が、持っていっていい、といっても、持っていくものは神社の神宝類。それも、皇室に代々伝わる、「三種の神器」の一つ。神罰が当たりそうで怖い。
「いいから持っていきなさい。これから起こる災難から、貴方を守ってくれるわ。ただし──」
倭建命は固唾を飲んで、天叢雲剣を渡そうとする倭比売を見る。
「そのときだ、と思うときが来るまで、決してこの袋を開けないこと。そして、この剣を絶対手放さないこと。いいわね?」
倭比売は念を押した。
「わかりました」
倭建命はそれを受け取り、旅立っていった。
東海道を東に進み、尾張へと向かった。
ここで尾張国造の娘である美夜津比売と出会った。皇族の妃としても申し分ない家柄、そして美貌を兼ね備えた姫だ。
倭建命は彼女と夫婦の契りを結ぼうと考えた。だが、今は東の敵を倒すための旅の途中。婚約は後にしよう、ということで、「東国の平定が終わったら」と約束して、東へと向かった。
駿河国に着いたとき、倭建命は駿河国造の屋敷に立ち寄った。
屋敷の中で話しているとき、駿河国造は困った表情で、
「実は近くにある沼に、強力な毒気を出す神がいらっしゃります。おかげで村の民が困り果てています。あなたの武威を見込んで、倒してもらえませんでしょうか?」
神退治の依頼をしてきた。
「わかりました。では、その沼へ案内してもらえませんか?」
「はい」
倭建命は駿河国造に、沼へと続く道を教えてもらった。
道の周りには枯れたススキや葦が広がっていて、ざわざわと音を立てて風に揺られている。
「この葦原を抜ければ沼はすぐそこです。私は急用を思い出したので、これにて」
駿河国造は途中で案内を辞め、急ぎ足で屋敷へと帰った。
「ありがとう」
倭建命は枯草で覆われた草原の中をまっすぐ歩く。
歩き続けること数十分。なかなか沼は見えて来ない。
何か裏があるな、と思って、倭建命は来た道を戻ろうとした。
しばらく進むと、炎が見えた。炎は灰色の煙を上げて燃えている。
最初は、季節も季節だし、天気もいいから誰かが野焼きでもしているのだろうぐらいにしか思っていた。
だが、よく見ると何かがおかしい。その炎は、目の前を覆いつくし、辺りを包み込むように周りを焼いている。
「謀ったな」
倭建命叫ぶ。どうにもならない。このまま焼かれて死を待つだけなのか? そう思ったとき、腰に帯びた倭比売からもらった剣のことを思い出した。
倭建命は、袋の紐をほどいた。
中には、長い剣と火打石が一つ入っている。
(はて、剣はわかるとして、火打石はどう使うのだろうか?)
首をかしげた。剣はお守りだということはわかるが、なぜ火打石が入っているのだろうか?
頭を抱えて考えてみる。剣だけならば意味がない。使い方によっては火の進行を速めてしまう。火打石だけでも意味がない。鉄がなければ、火が起きないからだ。
ああでもないこうでもないと考えているうちに、火の手は黒煙を上げながら倭建命のいるところへ迫っていた。
──どうすればいいんだ。
もうどうすればいいかわからない。もうどうにでもなれ。
倭建命は神剣で草を刈り取り、そこに火打石で火の粉を起こして火をつけた。
最初は煙が出る程度だったが、枯れたススキの枯れ葉を飲み込みながら大きくなってゆく。30分ほど経ったころには、目の前を覆う炎と同じぐらいの規模になっていた。
大きくなった炎と炎はぶつかり、次第に勢いを失っていき、しばらくしたときには、燃えカスのみとなっていた。
(叔母上が申していた『災難』とは、このことであったか)
倭建命は、伊勢神宮の斎宮である倭比売の能力を再確認した。同時に、それを手放したとき、どうなるのかということについても考えてみる。だが、答えが見つからない。
とにかく今は、悲惨な目に遭わせた駿河国造に一矢報いてやりたい気持ちが強かったので、彼を殺すべく、倭建命は先ほど来た道を走る。
後に倭建命は、この危機を救った剣の名を、草を薙いだことから、「草薙剣」と呼ぶことにした。