偽装結婚
「公安調査庁が嗅ぎ回っているみたいだぞ。お前とこのあの女に。」
「マジかよ。」
だが、俺には、それが何を意味するものかさっぱり分からなかった。入国警備官であればまだ分かるが。ヌマセは俺が事の次第を十分に解していないのを察した様だ。
「週刊誌にもあっただろう。日本もテロの標的になっているって。」
そもそも公安調査庁の任務とはそういう関係なのか。とすれば相当やばいことなのか?
「一体、お前、いくらの報酬をもらったんだ。」
今では、気安くお前と呼んでいるが、気の許せない存在には違いない。現に危ない仕事に手を染めている。思えばそのヌマセの名も本名かどうか怪しいものだ。こいつと知り合ったのはこの飲み屋だった。カウンターで独り飲んでいたら話しかけてきた。そのときは別段に作為ともとれず、同じ飲み屋での馴染み同志という具合だった。だから、その素性など知らない。だが、悪いことに俺は言わなくてもいい、独り身で失業中であることは告げてしまったのだ。それが所以となったのかもしれない。あいつは俺に偽装結婚の話を持ちかけてきた。それには、結構な報酬を呈示されたが、むしろその身の上に同情したのが、承諾の動機だった。何でも韓国からの留学生で、本邦における在留期間が終わろうとしていた様だ。本国で父親の暴力が激しく帰国をためらっていた。だったら手っ取り早く滞在を延長するのは、日本人との結婚だった。もちろんそれは偽装結婚を意味した。ただ、入国管理局に勘づかれない様にするため、一応は俺と同居することとした。
ヌマセからは、女は、日本語は分かるが、何も喋らないとのことだった。そうだと知り、思ったのが、父親の暴力が相関しているでは、ということだった。だから、気に止めずといおうか、最低限の言葉しか交さないでおこうと考えた。しかも、そういった事情から、一つ屋根の下にいながら、床は別にした。もちろん、彼女はそれなりに覚悟はしていたのだろうが。だとしても、決してそういう素振りは見せない様にした。としつつも少なからず影響していたのも事実だ。そう、俺への報酬の出どころが、とある篤志家の好意だとヌマセから聴かされていたことだ。無論、真実でないかもしれない。だが、女のつややかなものの、それにどことなく高貴な趣きとその近寄り難さから、そんな篤志家が現れても不思議でないと思う始末になっていた。一方、愛おしさも感じ始めていた。だが、ひねくれたもので、素直にそうだと認め難いというか、単なる彼女への同情ではないかと思案もしてしまった。
俺は床に入り、ヌマセの云ってた公安調査庁の話を思い出した。でも、昼間は、職能訓練ため、会計簿記の専門学校に通っていたから、その間の彼女の行動は分からなかった。とはいえ、食事の仕度をはじめ家事全般をしていた様子から、そうそう出歩いているとも思えなかった。もしや!俺は今晩に限って、女がトイレにゆくのを待った。そして、息を潜め、出てくるのを待った。やはり。彼女は、スマホを持っていた。もちろん、その一事が決め手になるものでもなかった。それどころか、女の驚愕の表情に、悪いことをしたものだ思う余り、その動揺を鎮めるために、ダイニングの椅子に座る様に促したのだ。だが、糾すべきなのか?どこに連絡していたかを。それにしても、ショートパンツ姿が艶めかしい。こうやって互いにテーブルを挟み向き合うと、愛おしさが、実感された。つい、その透きとおる様な白い肌を見入ってしまう。そして、引きつけられる様に俺は、「やはり、君が好きだ!」と告白したのだ。
だが、翌日いつもの様に、昼過ぎに家に帰ると、女は、荷物をまとめて立ち去っていた。ただ一言「お世話になりました」の置き手紙だけ残して。一方で、公安調査庁云々の話もあったことから、入国警備官に事の次第を告げようと考えた。そう、偽装結婚であると。だが、意外にも、同居あるいは俺が告白した事実から外形的に虚偽の申請という構成要件には該当しないとのことだった。また、テロについても具体的な情報に接していないと云われた。それから数日後だ。担当の入国警備官より既に出国していると告げられた。そして、婚姻しているから、離婚しておかないと厄介だともっともなことも教えてくれた。然りだ。となればヌマセに聞くしかない。そうして、彼女が日本での滞在に関し相談を受けていたNPO法人に行き着いたのだ。そこの職員は、一応彼女には連絡してみるとそっけなく答えてくれた。その態度から、彼女を介し、俺によからぬイメージがあるのかとやや不安になりもした。やがて、彼女から離婚届を送ってほしいとの連絡があったと教えられ、その法人に託した。暫くして届いた離婚届を区役所に受理してもらいそれが遂げられた。しかし、気にはなるものだ。俺の告白をどう思ったか?ただ、それを嫌ったからだとは思いたくなかった。