第四話 万魔の王ベルゼバブ、ママに迫る黒い影!
「……ごちそうさま」
素っ気ない声と食器を重ねる無機質な音が食卓に響いた。
「あら、もういいの? おかわりは?」
「いらない」
そう言ってさっさと食器をシンクへ置き、自室へ戻る我が子の背中を、涼子は心底疲れたような表情で見送った。階段を上がるリズミカルな音が聞こえなくなったのを確認してから、彼女は口を開いた。
「あの子……最近、あまり話さなくなったわね」
そうだな、と夫の修平は灰皿を取り出しながら答えた。
「何か悩みがあるみたいなんだけど、聞いてもあんな感じだし……昔は学校であったことなんでも話してくれたのに……思春期かしら。ねえ、あなたはどう思う?」
「さあね」
言いながら修平はポケットからジッポライターを取り出し、慣れた手つきで翻した。
――シボッ、という着火音は乾いた咳のようだった。
「……あなた、子どもの大事な話をしてるときに、タバコはやめてよ」
「すまん」
修平は咥えていたタバコを灰皿へ戻した。
「本当に、少しは真面目に考えてよ」
ブン、という風切り音と共に涼子の姿が消えた。
「私不安なの、ちゃんと親としてやれてるのか」
ブン、ブン、ブンという連続した音と共に涼子の残像が幾重にも重なる。
「もしかしたら、あの子に嫌われてるんじゃないかって……」
食卓を埋め尽くさんばかりに増えた涼子の分身が、たちまち食器を片付けていく。分身はそれぞれ質量を持ち、さらに意志までも持っていた。
――シボッ。
「あなた! 私が分身しながら大事な話してるときに、タバコなんて!」
「すまん」
修平は静かにジッポを閉じた。
「ねえ、もしかしてあの子、学校でいじめられてる……なんてことないかしら?」
「考えすぎだろう」
「どうしてそう言い切れるの? 万が一の事態を想定するのが親の務めでしょう!?」
「涼子、落ち着きなさい」
「落ち着いてなんていれるもんですか! そうよ、きっと学校で何かあったんだわ。たまに凄く疲れた顔で帰ってくることもあるし……ぐごげっ……!」
涼子の声に男の声が重なり、右目が赤く反転した。
「もしそうだとしたら手遅れになる前になんとかしなきゃ、場合によってはあの子を、ぐぎっ、ぐご、ぐごごご……我を人の身に封印せし愚かなニンゲンどもよ、間もなく我が魂は蘇り貴様らを紅蓮の煉獄に――転校させることも考えなきゃ……」
涼子の半身に呪言の文様が浮かび上がり、頭部からねじくれた角がいくつも生えた。
「あなたと違って私はあの子を心配しているの、ぐげげっ、もしあの子の辛い思いをしてるのなら、我がすぐにでもこの世界を再び闇の力で支配してやろう! ガハハハハハ!」
――シボッ。
「あなた! 私が第二の人格である【万魔の王ベルゼバブ】に肉体を乗っ取られそうになってるときに、タバコはやめてって言ってるじゃない!」
「すまん」
「だいたいそのタバコだってタダじゃないんだからね? それがなきゃ仕事ができないっていうから、お小遣いから引かないであげてるのよ!」
「悪かった」
「それに私、知ってるのよ、段々本数が増えてることも! 私がいつまでも、ぐげごっ、地獄の泥に浮かぶ無知蒙昧の獣だと思ったら大間違いだから! これ以上その煉獄に焼かれた屍体の呪煙を吸いたいっていうのなら、どーぞ自分の穢れた金貨からお買いになってくださいな!」
「涼子、また出てるぞベルゼバブ」
「出てるから何!? 話をそらさないで! だいたいあなた今のうちの経済状況わかってるの?」
ブンッ、という風切り音と共に涼子が分身した。
「あの子が中学、高校と進学していけばまたお金がかかる!」
ブンッ。
「この悪鬼蠢く万魔殿のローンだってまだ何年も残ってるし!」
ブンッ。
「あなたの贄を喰らう車の維持費だってそう!」
ブンッ、ブンッ、ブンッ。
「お義母さんの入院費用も!」「開闢せし暗黒の深淵より出ずる光熱費も値上がりしてるし!」「破壊と創造を司る神獣のエサ代だってタダじゃない!」
「「「そういう状況、ちゃんとわかってるの!?」」」
「涼子、また増えてるぞ」
「増えるわよ! あなたがわかってくれるまで、私何体だって増えるんだから!」
ふぅ、と修平は短くため息をついた。
「こういう俺たちの余裕のなさが、子どもにも伝わってしまってるのかもな」
「な……何よ。私が悪いって言いたいの?」
「そうじゃない。ただ俺たちがもう少し――」
「何よ、偉そうに! 普段何もしないくせに、こういうときばっかり子どもを盾にして! いいわ、あなたがそうやって何もしないなら、私がやるから! 何かあってから手遅れになるのなんて、まっぴらごめんだもの!」
「涼子、どこへ行くんだ」
「決まってるでしょ、あの子の部屋よ! こういうのはちゃんと一対一で話すべきなの!」
「いや、どれが行くんだ」
「「「全員よ!」」」
分身したまま涼子はどすどすと階段を昇っていった。「それだと一対一じゃないだろ」そう呟き、修平はやっとタバコに火をつけた。
『――ママよ。お話があるの、ドアを開けてちょうだい』
『宿題してるから後にして』
天井ごしにくぐもった声が聞こえた。
修平は灰皿を持ったまま換気扇の下に移動し、二階から漏れ聞こえるやり取りに耳を傾けた。
『宿題なんて後でいいから、今はママのお話を聞いてちょうだい。ねえ、開けて。開けなさいってば』
『後にしてって言ってるでしょ!』
『魔界を統べる気高き王に向かってその口のきき方はなに!? いいから開けなさい!』
生木が縦に裂けるような音が響き、修平は眉をあげた。
『宿題なんてしてないじゃない! どうしてママに嘘ついたの!』
『ちょっと、勝手に入ってこないでよ! ていうかまたドアを灰燼に帰した! 今年に入って何枚目!?』
『あなたが私の真言に耳を傾けないからでしょう! 最終地獄に魂を幽閉されたくなかったら、どうして嘘をついたか正直に答えなさい!』
『すぐそうやってベルゼバブる! ママなんて嫌いだ、あっち行け!』
ものが壁に当たって割れる音と、地獄の罪人が永劫に続く責め苦に苦悶する声が聞こえた。修平はやれやれと首を振り、タバコを灰皿に押しつけ水を垂らすと、のそのそと階段を昇りはじめた。
*
「ほらどうするの! もうすぐ氷結地獄に墜ちるわよ!」
「やだやだやだ! おろしてよママの馬鹿ぁ!」
二階にあがった修平が見たのは、地獄の門より伸びた鉄柱に逆さづりにされた我が子と、腕を組み高笑いする妻の姿だった。
「もはや貴様の魂がチリの一つまで分解するのも時間の問題だ、最終地獄にて己の浅はかさを悔いるがよい! ガーハハハハハ!」
「――涼子、やめなさい」
「愚かな人の子のあなた……」
修平に気づいた涼子が、我に返ったように地獄の門を閉じた。
「……何よ、今さら上がってきて。笑いに来たのね。そうでしょ。自分の子どもと満足に向き合えない私を笑いにきたんでしょ。いいわよ、こんな私に最初から母親の資格なんて――」
涼子の繰り言もろとも修平は彼女をその胸に抱きしめた。
「ちょ、ちょっと何するのよ。子どもの前で――」
「すまなかった。あとは俺がなんとかするから、君は下に降りてなさい」
「――ばか。タバコ臭いのよ……」
憑き物が落ちたようにしゅんとうなだれた涼子が、階段を降りてゆくのを見送ってから、修平はまだあちこちが焦げてくすぶるドアをくぐった。
「入るよ」
「……パパまでお説教しにきたの?」
「手厳しいな。まあ、似たようなもんだ」ぽりぽりと頭を掻く「母さんのこと、悪く思わないでやってくれ。あれでもお前を心配してる。母さんはな、お前が学校でいじめられてるんじゃないか、って思ってるんだよ」
「はあ? なんで?」
「お前が学校のことを話してくれないからだ。何か隠してるんじゃないか、言えないことがあるんじゃないか、ってな。父さんも実はそう思ってる。でもいじめられてるとは思わない。確かにお前は何かを父さんたちに隠してる……けれど、それは、たぶん悪い事じゃなくて、お前にはとってはすごく嬉しいことで、良いことだ。違うか?」
答えは返ってこない。修平はそれを肯定ととらえた。
「別に馬鹿にしたり茶化したりしないさ。軽い世間話だこんなのは、だろ? あれかい。好きな人でも、できたのかい?」
頑なな表情がすとんと縦に落ちるのを見て、修平は微笑んだ。
*
「好きな人ができた、ですってえ?」涼子が呆れたように天を仰いだ。「隠し事って、そんなことだったの……はあ……私、本当に空回りしてばっかり」
「あの子にとっては一大事さ。初恋だろうしね」
「……それで、その相手は誰? まさか教師だったりしないわよね? 許さないわよ私そんなの!」
「どうやら同じクラスの、この子らしい」
修平はクラスの集合写真をテーブルに置き、指をさした。
「この子、って……シンイチくん……? シンイチくんじゃない!」
「ああ、あの西園さんところの。大きくなったね」
「そんな、なんてこと。ゆうこの初恋の子が、シンイチくんだなんて! 神さま!」
「大げさだな、君は」
「大げさなもんですか! あの子は今や、助けるだけで十倍のヒーローポイントがもらえるボーナス少年なのよ!? ゆうこがシンイチくんと付き合って、万が一結婚なんてことになったら我が家は一生安泰だわ! 不労ヒーローポイントで家のローンも何もかもチャラにできるのよ! こうしちゃいられない!」
「おい、どこ行くんだ涼子」
「ゆうこの部屋よ! あの子ったら奥手だから、きっとまだ告白もしてないんだわ。最近の男はみんな臆病なんだから、さっさと女の方から告白してエーテル融合による堕天の契りを結ぶように言わなくっちゃ!」
「そんな急な。初恋なんだし、もう少し時間をかけたって……」
「あら? ずっと好きだったくせに、私から告白するまで何もできなかったのはどちら様でしたっけ?」
涼子は挑発的なウィンクを残すと、忙しない音とともにまた階段を昇っていった。
「……やれやれ」
修平は本日何度目かのため息と共にタバコを手に取り、少し考えたあと――それを箱ごとクズかごに捨てた。
彼は器用なタイプではなかった。恋愛経験も涼子との一回きりだ。
それでも――タバコ臭い女の子はモテないだろうと、彼は思った。