第四話 ブラッディ・マリー、砂塵の包囲をかいくぐれ!
空気がまだ夜の寒さを覚えている早朝、ブラッディ・マリーはいそいそと玄関を出た。
ふぁ……とあくびを一つ。
目尻に浮かんだ涙が、彼女の肌に触れ血に変わる前に人差し指でそっと拭った。
手には大ぶりの風呂敷。
中には昨日夜なべして作った二人分の弁当に、大量のスポーツドリンク。そしてレジャーシートに、デジタルカメラなど諸々が詰め込まれていた。
今日は、シンイチの学校で運動会が行われる日だ。
昨夜、シンイチに請われ、運動会を中止にすべく逆さてるてる坊主をこしらえたマリーではあったが、雨が降るかどうかは彼女にとって関係がなかった。運動会が中止になって喜ぶシンイチ、嫌々ながら運動会で汗を流すシンイチ、どちらのシンイチも彼女には魅力的なのだ。
マリーは時計を見た、まだ八時を回らない。早いだろうか、いや最高の場所を確保するためだ、早いに越したことはない。何ならシンイチを迎えに行こうか――。
そんな気持ちを抑え小走りに門柱を過ぎたマリーの前に、一台のタクシーが停まった。昨夜西園家に行くのに使ったのと同じ会社のタクシーだ。しかし呼んだ覚えは無い。
不審に思ったが、無視することにした。
しかしマリーが横を通り過ぎようとしたその瞬間、行く手を遮るようにドアが開いた。
「……乗らないわ」
そう言っても運転手はドアを戻そうとしない。
マリーは仕方なく開いたドアから運転席を覗き込んだ。
「聞いているの……? 乗らないと言ったのだけど――なッ!?」
マリーは咄嗟に身を仰け反らせた。運転席から風切り音と共に飛び出た何かが、マリーの白い喉をかすめ、そのまま背後のブロック塀を砕いた。
「ひひっ、避けられちった。おねーさんすごいね、ひひひっ!」
運転席から軽薄な声がした。ゆっくりと反対側のドアが開き、中からワイシャツに赤いネクタイをした男が出てきた。
マリーは反射的に飛びすさり臨戦態勢をとった。男の首から上は、黄土色の甲冑に覆われた異形の怪人だった。
「昨日の運転手……とは違うわね。どなたかしら……」
「ウロボロス四天王【百砂のタクラ】。つーかおねーさんマジきゃわっすね! イチオー闘えって言われてんすけど、ちょっとお話しません? ね? ね?」
にじり寄るタクラに背を向け、マリーは走り出した。「あ、待ってよおねーさん!」再びの風切り音。マリーは身を屈め、門柱の内側に滑り込む。頭上で表札の砕ける音がした、降り注ぐ木片を払おうともせず、玄関横に備え付けられた蛇口に手を伸ばした。
「えっ……」
マリーは絶句した。何度ひねっても蛇口から水が出なかった。
「どぉーしたんすか、おねーさぁん?」
声は、すぐ後ろで響いた。
*
カーテンの隙間から差し込む九月の強烈な陽射しに、シンイチは掛けていたタオルケットを頭の上までずりあげ、その中でため息をついた。
昨夜、ヒーローたちが集まって西園家の上空にこしらえた巨大な逆さてるてる坊主……あんなもので雨が降るわけはなかった。
予想はしていたが、運動会が中止にならないという事実に変わりはなく、失望に変わりもない。
「ねえダザイちゃん、シンイチを起こしてきてちょうだい! 今日は運動会だからちゃんと朝ご飯食べないとね。……ダザイちゃーん? 聞いてるー?」
階下から母親の声が聞こえた。シンイチは、ダザイが自分を起こしに来たとき、どんな仮病を使おうか、それだけを考えた。
*
「あーれぇ、断水ですかね。中に砂でも詰まってんすかね? ひひっ、お水出ないと不便ですよねおねーさん、ひひひっ!」
タクラはふらふらと左右に揺れながら、ゆっくり距離を詰めた。
「自分、ベンキョーしたんすよ、おねーさんのこと。水を血に変えられんですよね? でも水が出ないとおねーさん何にもできないんすよね? どうすか? あってますか? あ、今付き合ってる彼ピいます?」
マリーはふう、とため息をついて風呂敷包みを脇へ置いた。
「彼氏……いるわよ……」
「え、え、マジすか誰すかいくつすかいつからっすか!?」
「教えてあげる……耳を貸しなさい」
タクラが顔を寄せた瞬間、その首めがけ何かが鋭く伸び、咄嗟に身を屈めたタクラの肩部分を薄く削いだ。
「はっ、ひっ? ひひひひっ!?」
「ちっ……勘の良いやつ……」
「なっ、なっ、なんそれなんそれなんすかそれ!」
タクラは削がれた肩を押さえながら、抗議するように指さした。その先には刃――マリーの袂から伸びた血の刃が、朝陽を受け焔のごとく閃いた。
「私が……断水や日照りに何の対策もしてないと思うの……いつ何時……あの小娘やお前みたいな便所コオロギが……シンイチくんに襲いかかるかわからないのに……予備の水を持っていないとでも……?」
マリーは袂から水の入ったペットボトルを取り出し頭から被った。水は見る見る赤く染まり、マリーの柔肌に血化粧を施した。
「覚悟なさい……そのふざけた頭ごと……落としてやる……」
「やばばばばばマージすっげやっべ怖っえいかちー!」
「そして頭の代わりに……バジルとトマトを植えてやる……」
「その後のプランも怖っえ! イチキタ安定ーっす!」
タクラは背を向け一目散に逃げ出した。マリーもその後を追うが「うっ……」門柱を出たところで、もうもうたる土煙がマリーを襲った。袂で煙を払いながらタクラの姿を探すも、影も形も見当たらない。
「いない……」
足を止めた一瞬、背後から微かな物音がした。マリーは振り向きざま両手のブレードで虚空を十文字に裂いた。奇妙な手応えと共に、破片が目の横をかすめた。破片は地面に転がると、ぼろりと崩れた。
「おねーさんそんなピキんないで、ちょっとお話しよーよー!」
声は正面――マリーがタクラを追った方角とは逆から聞こえた。
目を凝らすと、地面から上半身だけを出したタクラが、愉快げに両手のハサミをカチカチと鳴らしていた。マリーがブレードを構えると、タクラは再び土煙と共に土中に姿を消した。
「喋るの嫌ならアドいいすか? ちな自分やわ銀で――」マリーの背後から声「つかラインやってます?」続けて足下から声、突き立てたブレードは虚しく空を穿った。「おねーさんガンブはノーチャンな感じ? 自分フツメンだと思ってるんすけど」正面から声と風切り音、マリーは上体を捻って避けた。「この後二人でオケりません? 自分ヒトカラでケッコー鍛えてるんで」
「さっきから……意味のわからないことを……普通の日本語……話しなさい……」
「はぇ、そすか。じゃ昨日何食べました?」
「温玉……ぶっかけ……うどんよ!」
穴から出たところを力任せに薙いだ一撃も、タクラのハサミに難なく防がれた。
「カニみたいな見た目で……モグラみたいなやつね……」
「お、もしかして自分にキョーミ出てきました? いっすよおねーさんになら教えちゃいます! 自分のベース細胞は【スナガニ】で、能力は土中を自在に移動できるのと、あとあと、砂を固めて射出する砂弾と――」
マリーは手首を返しブレードを袈裟がけに斬りつけたが、タクラはまた穴に潜った。
「ちょっ、喋らせてよおねーさぁん!」
「私は話の長い男と……声の高いデブは嫌いなの……」
「そんなこと言わないでさ、えーとどこまで言ったっけ、砂弾と、あと――」
話し終わるのを待たず、今度は両の刃で斬り払った。しかしタクラは防ぐ素振りすら見せない。再び、先ほどより強い金属音が響き、中空を破片が舞った。マリーは目を見開いた。粉々に砕けたのは、斬りつけた刃の方だった。
「――あらゆる液体を固める『渇砂』」
重たい衝撃がマリーの右肩を襲った。「ぐっ……」右半身に鋭い痛みが走る。
砂弾のめり込んだ肩を庇いながら、マリーはタクラから距離を取った。
「ね? 聞いといた方がよかったっしょ?」
「格好つけたわりに……地味な能力だわ……」
「地味っていわんでくださいよ、これちょー便利なんすからね! トイレ逆流したときとか、駅でゲロったときとか、首領のお孫さんが怪我して血が出たときとか、シュっと一吹き一発凝固なんすよ!」
「小林製薬が食いつきそうなキャッチコピーね……」
減らず口を叩きながら、マリーは内心の動揺を悟られまいとした。
タクラの言うことが真実らしいというのは、今しがた身をもって知った。
そして、さらに悪いことに、さっきから立ちこめる砂煙も、どうやらその渇砂らしかった。つまり立っているだけでマリーは自動的に無力化されることになる。
タクラは、彼女が出会った中で最悪といっていい相性の敵だった。
「ウフ……生理的に合わないってのは……こういうことかしら……」
マリーは袂から最後のペットボトルを取り出した。蓋を外そうとしたが、砂弾をくらった方の腕が言うことを聞かなかった。
――なさけない。シンイチくんに笑われちゃう。
自嘲しながらマリーは、歯で力任せにボトルの蓋を外した。
「おっほ、いかちー! 逃げると思ったんすけど、マッチョなとこあるっすね」
「勝てる相手から……どうして逃げる必要があるのかしら……?」
「いっひひひひ、盛りってきたっすね。そんじゃそんじゃ、そこまでいうなら、自分勝ったらデートしてくださいよ!」
「いいわよ……どこに行きたいの……?」
「いっひ、マジすかマジすかアガってきたーー! えーとえーとそしたらまずお台場行って――」
袈裟に振り下ろされたマリーの一撃を、腕組みの格好のままタクラは避けた。
「いや映画かな? 吉祥寺で映画見て、メシ食って――」
矢継ぎ早に繰り出される血刃の猛攻を、デートプランを練りながらのらりくらりと躱す。
「ちげーな、やっぱディズニー……ランド! いや、シー? ランド……いや、シー……ランド……ランド……シー……富士急……? いや富士急はねーわ……ランド……シー……ランド!」
渇砂の中で、両手のブレードが早くも固まりはじめた。「……チッ」マリーは顔を歪めた。刃を切り離すと、力任せにタクラに向かって投げた。
「やっぱシー! ……おろ?」
刃を弾いたタクラは首を傾げた。マリーはタクラに背を向け、脱兎の如く駆け出した。
「ちょちょちょ、逃げるのなしっすよ!」
「逃げる……? 冗談は……顔と口調と格好と能力と所属する組織だけにしてほしいわ……私は誘導していたの……忘れ物を……取りに行きやすい場所にね……」
マリーの向かう先を見てタクラはあっ、と声をあげた。その先にはさきほどマリーが置いた風呂敷包みがあった。中には、昨夜彼女がシンイチのためにこしらえた大量のスポーツドリンクがあった。
「ペットボトル程度の水ではすぐに固められる……でも……数リットルの水があれば……!」
マリーは風呂敷を解き――その格好のまま感電したように固まった。
「いひっ、いっひひ、おねーさぁん、もしかしてこれ探してるっす?」
タクラが得意げにスポーツドリンクの入ったジャグタンクを掲げた。
「イチオーさっきモグラ叩きしてるときに、確認しといたんすよ。危ないっすね、こんなの持ってるなんて――もったいないけど、ボッシューっと」
タクラはタンクの上蓋を外し穴に向かって逆さにした。中から白銀の液体が迸った。
「さーて、もう打つ手なさげなイキフンですけど、まだやるっす?」
穴の中へ吸い込まれていく最後の水を呆然と見ていたマリーは、その場にぺたりと尻もちをついた。うつむいて、く、く、と喉を鳴らしたかと思うと、やがて堰を切ったように笑い出した。
「なんすか、オカシクなっちゃいました?」
「そうね……おかしくって……くくっ……もう、好きにすればいいわ……」
「いひっ、そんじゃ遠慮なく――」
ダザイは穴から出ると、座り込んだままのマリーに歩みよった。
「――といきたいところっすけど、自分別におねーさんを殺せとかそういうんじゃないんで。ただちょーっと少しおとなしくてしててほしいんすよ。あ! デートは別ね! デートはちゃんと行ってもらうっすから!」
「いいわよ……ただし、あなたが私に勝てたら……ね」
「ひ? ――ひぇっ!?」
突然、タクラの足首に真っ赤な鞭が絡みついた。
「言わなかったかしら……あなたを誘導していた、と……。まさか、予想していないと思った……? あなたがタンクの存在に気づいて……それを穴の中に捨てることを……私が予想していないと……?」
タクラの足首に絡みつく紅い鞭は、今しがたタクラが這い出た穴から伸びていた。そして紛れもなくそれはマリーの血で作られた鞭だ。しかし――。
「そんなんっ、作る水、一体どっから――まさか、いひひっ、おねーさんまさか!」
タクラは見た。座り込んだマリーのすぐ後ろにある自分が掘った穴を、そして穴に伸びるマリーの左手と――その手首から迸る、夥しい血液を見た!
「血を作れないなら……元々ある血を使えばいい……それだけのことよ。ところで……あなた、地理は得意……? 自分が楽しそうに掘った穴の位置は……ちゃんと把握してる……?」
マリーの言葉を合図に、道路に空いた無数の穴が一斉に泡立ち始めた。
「穴に捨てた水はまだ固まっていない……あなた一人縛るには充分な水量よ……防ぐ手立てはあるの……? 今からあなたを襲うのは……ただの水じゃあ……ないわよ!」
穴という穴から血の鞭がタクラめがけて一斉に伸びた。
「――それな」
タクラは不気味な笑みを浮かべると、身を縮めた。彼の背中から火山の噴火口のような突起がいくつも隆起した。
「【渇霧】!」
蒸気のような音を立ててタクラの突起から砂が噴き出した。濃霧となってタクラを覆った。霧に囚われた血鞭はタクラに届くことなく、その形のまま中空で凝固した。
「――ひひ、おねーさん、けっこーマヌケっすね」
タクラは固まった鞭の先端を指先で小突いた。
「渇砂は広範囲に漂わせることもできるし、ごくごく狭い範囲に噴射することもできるんすよ……今みてーにね。自分、チャラいすけど馬鹿じゃないすから、わざわざ攻撃のネタばらしされりゃ防ぐっすよ、そりゃあ」
タクラはへたり込むマリーを見下ろした。
「ま、自分を甘く見たのがおねーさんの敗因っつーことで――ぐっ!?」
マリーに向かってハサミを振り上げたその格好のまま、タクラは静止した。見上げるマリーの口端がゆっくりと吊り上げた。
「……それな。ほんと……それ」
マリーは立ち上がり、身動きのとれないタクラを正面から見据えた。
「私は……あなたを甘く見てないし……馬鹿とも思ってない。ただ……世の中にはいるのよ……一から説明しないと……状況を理解しない馬鹿が……。聞いてるの……? あなたのことよ……ダザイ」
「マリーの姐御ぉおおお、俺っちが来たからにはもーう安心だぜぃ!」
タクラの身体を雁字搦めにする銀色の液体が、はつらつとした声をあげた。
「な、なんだこれ、水は、さっき全部固めたはずなのにっ……!」
「言ったでしょ、今からあなたを襲うのは……ただの水じゃない、って……彼は流体金属……液体じゃないの……知らなかった? ベンキョー不足ね……」
「姐御の役に立てるなんて俺っち感激だぜ! こんなこともあろうかと、昨日帰る姐御を尾行して水道管に忍び込み、姐御に飲まれることを期待しながらスポーツドリンクのフリをしてタンクの中で眠った甲斐があったってもんだな!」
「結果オーライじゃなきゃ象の尿道に押し込んでフタしてるところよ……黙ってなさい」
さて、とマリーはタクラに向き直った。
「あなた……一体誰の命令で私を襲ったの……ウロボロス……とか言ったわね。目的は何……?」
「いひっ、や、やだなおねーさん、そんなオラついた顔で見ないでくださいよ――ひっ」
タクラの喉元に血の小刀が突きつけられた。
「し、しらねーんす! 自分はおねーさんを足止めしろって言われただけで、それ以上は何聞いても首領様はお口ミッフィーちゃんだったんすよ!」
「なるほど……確かに私でも……あなたにはそうするでしょうね……」
「ね? ね? でしょ? したらそろそろコイツ解いてくださいよ。もう降参! 降参っすから!」
「そうね……でも一つだけ……あなた、さっき私のこと……マヌケとか言ったわね」
「ひっ? いや、あれは、そのう」
「年下にマヌケ呼ばわりされて……私はいささか……おこぷんよ……。それに、シンイチくんのために作ったお弁当も……ドリンクも台無し……どうしてくれるのかしら……?」
「あ、そ、そのっ、それは……ご、ゴメンディー……?」
「ダザイ、絞め殺していいわよ」
「えっ、ちょ、あ、謝ったじゃないすか! おねーさん、ちょ、今のダメ? ダメンディー? ゴメンディーはダメンディー? おねーさああん! ……」
ダザイが少し力を込めると、タクラは呆気なく失神した。
「……なんてね。ダザイ……その子を邪魔にならないところに運んであげなさい……」
「がってんだーい!」
ダザイを見送りながら、マリーはタクラに言われたことを反芻した。足止め、と彼は言った。つまりウロボロスという組織の目的は別にあるということだ。
マリーは考えた。
タクラは、一体何から自分を遠ざけておきたかったのか?
自分は今日、どこへ行こうとしていたのか?
「シンイチ……くん……」
マリーは時計を見た。もうすぐ九時を回る。
運動会まで、あまり猶予はない。
かすむ目を擦りながら、マリーはよろよろと歩き出した。




