第十一話 ギャンブルマスター・甲斐、伸るか反るか破戒の賭け!
「――オラオラ、どうしたもう後がねえなクソガキィ?」
品のない声が路地裏にこだました。
錆の浮いたトタンで区切られた一隅で、金髪の男が愉快げに笑う。埃と獣と蟲と闇と、カビと油と泥と汚水……とにかく人々が忌避する全てを集めたような腐敗の楽園。それらの放つ強烈な臭気が、シンイチの顔を歪ませた。
「う、ぐぐ、くそう……なんで……なんでなんだよ……!」
「なんで? ヒーローが助けなきゃ何にもできねえくせに粋がってるからだよ、恨むならテメーの非力さを恨むんだな!」
「そうじゃない……僕が言ってるのは、なんで……なんで!」
シンイチは持っていたトランプを叩きつけた。
「なんでこんなカビ臭い路地裏で、お前とポーカーしなきゃいけないんだよ!」
「うるせえ! 本当なら俺だってテメーをぶん殴りてえが、そうしたらまたヒーローが来るだろうが! だがポーカーなら遊びだ、ヒーローがお前を助けに来ることはねえ! ガハハハどうだ! 頭良いだろうが! 理系だろうが!」
「理系イコール頭良いっていう発想がブッチギリに頭悪いんだよ!」
「ガタガタ言ってねーで続けるぞカスが! 俺は賭け金を上乗せする――海で拾った綺麗な貝殻をさらに二枚だ!」
そう言って男は地面に貝殻を二片投げた。
「だからなんでさっきから賭け金が、綺麗な貝とか珍しい形の石とか、保存状態の良いセミの抜け殻とかばっかなんだよ! 現金だろ、普通!」
「現金賭けたら賭博だろうが、賭博は日本じゃ犯罪だろうが!」
「お前もう真面目に働いて幸せな家庭持ってくれよ!」
「やけに囀るじゃねえか、さてはテメービビってんな? 無理もねえ、綺麗な貝殻二枚はザリガニ二匹に匹敵する価値を持つからな、怖いんなら降りてもいいんだぜえ?」
「なんでそんなしっかりした相場があるのか知らないけど、受けるよ、受けてやる!」
「良い度胸だ、泣きながらザリガニ取りに行く覚悟はできてんだろうな!」
「どうでもいいよ! もはや、お前みたいな奴に負けたくないっていう自分自身との戦いになってんだこっちは!」
とはいえシンイチの手札はブタ(何の役もない状態。ポーカーにおいて最弱の手札)。惨敗は日を見るより明らかだった。
もはや打つ手はないと、シンイチが絶望しかけた――そのとき!
「なんだ……博打の臭いがすると思ったら、シンイチじゃねえか」
「き、君は――甲斐! ギャンブルマスター・甲斐!」
強いパーマのかかった長髪の男が、口の端を歪ませながら路地裏に立っていた。
シャツもベストもジャケットも真っ黒のスリーピース・スーツに身を包んだその格好の中で、赤いドクロがプリントされたネクタイだけが浮いていた。
「なんだ、テメェ……? ヒーローか? お呼びじゃねえぜ、俺たちはポーカーで遊んでるだけなんだからな!」
チンピラには答えず、甲斐はゆらりとシンイチの方を向いた。
「なあ、シンイチ。楽しんでるところ悪いんだが、ここはひとつ、俺に代打ちを任しちゃもらえねえか?」
「えっ、いいの? もちろんだよ!」
「オイちょっとまて。俺を無視して勝手に話を進めんじゃねえ!」
「なんだ不満か? それとも、怖いのか?」
「こ、怖いわけねえだろうが調子に乗るんじゃねえカラス野郎! いいぜ、代打ちだろうが何だろうが受けてやるよ、ただし……交代するのは今だ、このゲームからだ! そのガキの持ってるカードで、そのまま勝負を続行しろ!」
「な、なんだって!?」
「構わんさ」
「でもっ、甲斐、僕のカードは――」
ブタだ。そう言いかけてシンイチは言葉を呑み込んだ。
「トーゼンだよなあ? 交代したからって勝負がリセットされたんじゃ、俺が一方的に損だもんなあ?」
「『損』? まるで勝つことが最初からわかってるみたいな言い方だな」
「う、ウダウダ喋ってねーで、さっさと座りやがれ! 勝負はガキが受けたところからだ、もうお前にゃ降りる権利すらないんだぜ!」
「カードは変えてもいいのか?」
「いいぜ、チェンジはまだだったからな。何枚だ?」
「四枚もらおう」
「ケッ、ブタだったのかよ!」
甲斐はチンピラから渡されたカードを四枚手札に加えた。
「……オイ」
「まだ少し弱いな、あと三枚もらおうか」
甲斐は山札からさらに三枚手札に加えた。
「いや、オイ、オイって」
「微調整がいる、あと二枚もらおう」
「オイ! テメェ、オイっつってんだろうが!」
「なんだ?」
「なんだじゃねえよ、お前何枚持ってくつもりだよ! 取った分交換しろや!」
「いや、だってカード変えていいって」
「チェンジしなくていいのかって意味だよ! まさか四枚持ってったままおかわりすると思わねーだろうが! ポーカーは手札五枚でやるもんなんだよ!」
甲斐はキョトンとした顔でシンイチの方を向いた。
「『知ってた?』って顔してんじゃねーよ、当たり前の常識だろうが!」
「あっ、わかば町ルールね」
「ローカルルールじゃねーわ! 全世界統一の大鉄則だわ! お前ポーカーのルール知らねーのか!?」
「えっ、いやハハハそんなお前バカ、バカ野郎、バッカだなお前、俺が知らないわけ……バッカ野郎! ハハハハげっほ、げぇっほ! 知ってるっつーの! ハハハハハ!」
「なんだそのポーカーフェイスの風上にも置けない顔」
「いや知ってた、ホント、知ってたよ。悪い悪い。勘違いしてた。今、昼だからさ」
「昼夜関係ねえだろ、ったく」
チンピラは舌打ちして頭を掻いた。彼は気づいていなかった。シンイチだけがそれを見た。甲斐の肩越しに一瞬見えた彼の手札が、ごっそり入れ替わっていた。
「それじゃいくぜ、オープン!」
チンピラは勢いよく手札を叩きつけた。
「見ろ! 【ストレートフラッシュ】だ! 勝負あったようだな、ガハハハ!」
くっく、と甲斐が不気味な笑いを漏らした。
「なんだ、オイ、何がおかしい!」
「いや、まるでもう勝ったような顔するんだな」
「はあ? 強がってんじゃねーぞ、これに勝つ役はロイヤルストレートフラッシュしかねーんだぞ? さっきまでブタだったテメーにそんなもん入ってるわけ……」
チンピラは一瞬、何かに気づいたように固まった。
「テメー……やりやがったな。さっき手札をやたら引いたとき、入れ替えたな!?」
「イカサマをするのは慣れてても、されるのは慣れてないみたいだな」
「き、汚ねーぞ、糞野郎!」
「因果応報ってやつだ。――オープン!」
【♥のJ】【♦のK】【♣のA】【♥の4】【♦の7】
「これが俺の――【フェニックス・サンダーボルト】だ!」
……。
「「ブタじゃねーか!」」
「テメーやっぱポーカーのルール知らねーな!」「なに考えてんだよ甲斐!」「なんだよフェニックス・サンダーボルトって!」「手札入れ替えたところまで凄かったのに!」「ネーミングセンスがガキか!」「ほんっと使えない!」
「待って待って。ステレオで責めないで。一人ずつ言って」
「甲斐、ポーカーのルール知らないなら知らないって言ってよ!」
「いや知ってるって。テレビで見たことあるって」
「じゃあ何だよあのフェニックス・サンダーボルトって!」
「【コズミック・ディザスター】の方がよかった?」
「違うんだよ! ポーカーって、好きなカードにかっこいい名前つけるゲームじゃないからね!?」
「……マジで?」
チンピラがトタン壁を蹴り、シンイチと甲斐の会話を遮った。
「ルール知らねーとはいえ、負けたんだから払うものは払ってもらうぜ! ザリガニだ! 二匹取れるまで今日はにがさねーからなテメーら!」
甲斐はチンピラを睨みながら、のそりと立ち上がった。
「な、なんだ、オイ。やろうってのか、負け犬の分際で!」
「いいや、手を出しな」
「手? 言っとくが俺はザリガニしか受け取らねーぞ、それ以外は何もらったって――」
チンピラの手の上に、ザリガニが二匹置かれた。
「持ってんのかよ」「持ってんだ」
「……チッ、まあいい。今日はこのぐらいで勘弁してやるよ。テメーもそこのガキも、これに懲りたら二度と俺に逆らうんじゃねーぞ!」
「座れよ」
「はあ?」
「誰が終わりと言った。座れよ、もう一勝負だ」
「なっ――」
なに言ってるんだ、とシンイチとチンピラはほぼ同時に叫んだ。
「ポーカーのルール知らねーお前が何回やったって勝てるわけねーだろ!」
「甲斐、気持ちはわかるけどにわか知ったかギャンブラーじゃ、このイカサマチンピラに勝てるわけないよ」
「そいつはルールを知らない素人から勝ちを拾っただけだ。ギャンブルに勝ったわけじゃない」
「テメー喧嘩売ってんのか、身の程知らずの雑魚犬がよお!」
「ちょっとは冷静になってよ、この知ったかポンコツクソダサネクタイパーマ強すぎ太郎!」
「シンイチの方がひどいこと言ってない?」
ケッ、と唾棄してチンピラは元いた位置に座った。
「いいぜ、そう言うならもう一勝負してやらあ。今度はお前もわかるギャンブルでな! で、お前は何ならできるんだよ。麻雀か? 競馬か? チンチロか?」
「麻雀ならわかるぜ、ロン! ダブル国士無双~! ってやつだろ?」
「ゼッテー知らねーじゃねーか」
「国士無双リーチ! ドンジャラ~! だろ?」
「その一言で全国の雀荘から出禁になれるわ」
「ねえ、甲斐。ギャンブルじゃなくても、知ってるトランプゲームはないの?」
「……ババ抜きかな」
「ババ抜き? 本当に? 本当だね?」
「ああ」
「絶対だね? 今度知ったかしてたら針千本とナメクジ飲ますけどいい? 生のナメクジは脳炎になる危険性もあるけど、いいんだね?」
「シンイチの念の押し方こわい」
「ババ抜きか……それなら【ババ抜きサドンデス】で勝負しようじゃねえか」
「ババ抜きサドンデス!」
【ババ抜きサドンデス】
互いにジョーカー(ババ)一枚を含む五枚の手札を持ち、交互にカードを引き合って先にババを引いたものが負けという、わかば町で広く行われているギャンブルだ。余談だが、今年春に行われた「わかば町ババ抜きフェスティバル」で、このチンピラは三位入賞を果たしている!
「――ルールは単純、ババを引くまでカードを引き続けるだけ。引いたカードは手札に加えず捨てる。互いに四回引いてもババが残ってたら引き分け、シンプルだろ?」
「ひとつ聞いていいか。カードを引かせる時は手に持ってないとダメか? 引き方、引かせ方に制限はあるのか?」
「ねーよ、好きにしろ」
「わかった。そのルールで勝負を受ける」
「おっと待ちな、俺からも一つ確認だ」チンピラは指を立てた。「賭け金のことだ。この勝負はお前がどうしてもっていうから特別に受けてやってんだ、トーゼン、さっきのザリガニみたいなちゃちなもんじゃ済まさねえ。もっとでけえ、もう二度と俺にナメた口聞けなくなるほどでっけえもんを賭けてもらうぜ」
「何が望みだ」
「俺が勝ったら、テメーは俺の専属ヒーローになってもらう」
「な、なんだって!?」
声を荒げるシンイチを尻目に、甲斐はいいだろう、と頷いた。
「甲斐、わかってるの!? 専属ヒーローってことは、今後このチンピラの言うことを何でも聞かなきゃいけないんだよ。奴隷同然の扱いになるってことだよ? コイツが女子高生の水着の絞り汁だけで米を育てろっていったら、従わなきゃいけないんだよ!?」
「わかってるさ。俺が負けたそのときは、女子大生の彼氏の愚痴だけを聞かせて育てた植物から出る酸素だけ吸って生きろ、という命令にも従うつもりだ」
「テメーら俺を何だと思ってやがる」
「しかし、これはギャンブルだ。俺だけじゃなくお前にもリスクを背負ってもらう」
「へっ、いいぜ。万が一俺が負けたら、全裸で町内一周でもなんでもしてやるよ」
「そうか、じゃあ――」甲斐は厚ぼったい唇を吊り上げた。
「もし俺が勝ったら、お前はわかば町のヒーローになれ」
そう言って胸元から一枚の書類を取り出した。【ヒーロー登録申請書】と書かれたそれには、既にチンピラの名が署名されていた。
チンピラは思わず立ち上がった。
「ふっ、ふざけんなテメー! そんなもんいつの間に書かせやがった!」
「さっき信号待ちのとき、街頭アンケートを装ってな。お前、意外と図書券とか欲しいんだな」
「飼ってるペットに関する簡単なアンケートって、あれお前だったのかよ!」
「『俺の飼ってるにゃん助は人の言葉がわかります。特にお腹が空いたときに』――」
「読み上げるなーー!」
申請書を取り上げようとしたチンピラを、甲斐はひょいとよけた。
「お前が勝ったら、目の前で破り捨ててやるよ。どうする?」
「な、なんで俺が、このクソみたいな町のヒーローなんかに……」
「怖いのか?」
「こっ、怖いわけねーだろボケが! やる、やってやる、やりゃいいんだろ!」
「賭けは成立だな。じゃあシンイチ、配ってくれ」
そう言うと同時に何かがシンイチの手元に投げ込まれた。
「えっ、これ……トランプ!? しかも新品、未開封の!」
「はっ、はあ!? 何のつもりだこの野郎!」
「見ての通りだ。お前の持ってきたトランプはもう使わない」
「そんなワガママが通ると思ってんのか! どうせイカサマでも仕込んでんだろ!」
「通るさ。さっき買ってきたばかりの新品だ、レシートだってある。俺が何か仕込んでるっていうなら好きに調べたらいい。納得いかないなら今からもう一つ買いに行ったっていいぜ。それとも、普通のトランプじゃ、何か都合が悪いのか?」
「ぐ、くく、ぐうっ……!」
「異論はないようだな」
ジョーカーを含む五枚のカードが、甲斐とチンピラそれぞれに配られた。その後先攻後攻を決めるコイントスが行われ、先攻はチンピラになった。
シンイチは思わずほくそ笑んだ。このゲームはババを引いた時点で敗者が決定する、つまり先攻が圧倒的に不利! 五枚の中からババを引く確率は20%だ、たったの一回で勝負が決することも充分にあり得る。
願わくばこのまま勝負がついてくれと、シンイチが願ったそのとき――。
「――オイ」
チンピラの手が止まった。
「――甲斐? そ、それ」
シンイチが声を震わせ、甲斐の手元を指さした。
甲斐のもつ五枚の手札――そのうち三枚が、チンピラに見えるように裏返されていた!
「どうかしたか?」
「どうかしたじゃないよ! か、カードの絵柄が見えちゃってるじゃないか、戻して、早く戻してシャッフルするんだよ!」
「これでいい」
「いいわけないだろ!? いかにしてババを引かせるかを競うゲームなのに、ババ以外のカードが相手にバレちゃったら勝てるわけないだろ! そんなこともわかんないの? 脳みそが豚ゲロヘドロなの!?」
「わかってるさ。これぐらいがちょうどいいハンデなんだ。あとやっぱ結構ひどいこと言うよねシンイチ」
チンピラはこめかみに青筋を浮かべ、むしり取るように見えているカードの一枚を抜き取った。
「ナメやがってテメー……ゼッテー勝つ、ゼッテー勝つ、ゼッテー勝ってやる!」
そこからチンピラは見えてるカードをノーリスクで引き続けた。一方で甲斐も、チンピラの手札を順調に減らした。迷いなくババ以外を抜き取る甲斐の姿は、まるでどれがババであるか知っているようだた。
チンピラが三回目を引き終わった時点で、互いの手札は甲斐に二枚、チンピラに三枚。
気づけば、チンピラが追い詰められていた。
「ぐ、く、くそ、なんで、なんでババ引かねえんだコイツは……!」
チンピラが自らの手札を睨む。甲斐はカードを引くために伸ばした手を、ここで初めて止めた。
「オイ、なんだよ。引けよ。さっきみてーにシュッと引け!」
「少しぐらい悩んでもいいだろ」
「悩んだって変わらねーよ、いいから引け!」
「あっ」
「なんだよ!」
「お前結構肌きれいだな」
「メンズビオレだよ! 引け!」
「あ、そうだ」
「今度はなんだよ!」
「念のため確認だが、ルールは【どちらかがババを引くまでカードを四回ずつ引く】【カードの引き方、引かせ方に制限はない】であってるよな」
「そーだよ! 何回言わせんだ、いいからさっさと引けや!」
「――そうかい。それじゃ遠慮なく」
甲斐は素早い手つきでチンピラの手元からカードを二枚、抜き取った。
「さあ、次はお前の番だ」
そういって今しがた抜き取ったカードを裏返した。どちらもババではなかった。
「ちょ――ちょっと待ちやがれ、テメー! な、なんのつもりだこれよお!」
「さっき確認したろ、引き方に制限はないと」
「チンピラの手元にはババだけが残ってる。つまり――次にチンピラがババを引けば負け、引けなくても引き分けだ!」
「ふっ……ざっけんな! そんな認めねーぞ!」
「安心しろ、そうはならない」
甲斐は自分の手元に残った二枚のカードを丁寧にシャッフルしながら言った。
「ババを引くまでお互いに四回ずつカードを引くのがルールだ。つまり、次にチンピラがババを引かなかったら、俺はその手元に残った一枚を引く。それが俺の四回目だからな」
「な、何言ってるんだ、甲斐!」
噛みつかんばかりの勢いでシンイチが怒鳴った。
「それ、つまり、次にチンピラがババを引かなかったら、甲斐が必ず負けるってことだよ? なんでわざわざそんなことするんだよ、相手のババの位置がわかってたなら、最低でも引き分けにできた勝負を、なんで!?」
「ギャンブルだから」
「はあ?」
「勝つか分けるかはただの運試し。勝つか負けるか、それがギャンブルだ。そして俺は――」
甲斐は口の端を愉快げに吊り上げた。
「ギャンブルマスター・甲斐だ」
そう言って甲斐は、チンピラの前に手札を差しだした。
「……オイ、今度は何の真似だ」
「なにが」
「何がじゃねえ、なんで一枚しか持ってねえんだ、もう一枚はどこへやった!」
「もう一枚はそこに伏せてある」
甲斐は足下に伏せた一枚のカードを指さした。
「手に持った一枚を引きたければ好きに引け。ただし、伏せてあるカードを引きたい場合はこう言え【お願いします。その伏せたカードを引かせていただけませんか?】ってな」
「ふ――ざけんな、なんでそんなこと言わなきゃならねーんだよ!」
「確認したぞ、カードの引かせ方に制限はない、と。別に言いたくなければ、俺が手に持ってる方を引けばいいじゃないか」
「そんなこといって、手に持ってる方がババなんだろ!?」
「さあ、どうかな」
甲斐は涼しい顔でカードをひらひらさせた。対照的に、チンピラは血管が切れるのではというほど歯を食いしばり、二枚のカードとにらめっこをしている。
「まだかよ、日が暮れちまうぜ」
「くそ、くそっ、クソッ……! ナメやがって、何で俺がお前にそんなこと言わなきゃいけねんだ……いや、おい、待てよ?」
チンピラの顔に、ゆっくり笑みが広がっていく。
「なるほど、ククク、なるほどそういうことか。手の込んだ真似しやがって……」
「何かわかったのかい」
「ああ、わかったさ。テメーのうす汚ねえ魂胆がな! テメーはさっきのポーカーでの負けを根に持ってる。だから俺にただ勝つだけじゃ気が収まらねえ、そう思ってるんだ!」
「それで?」
「お前は俺に、一番かっこわるい負け方をさせたいと思ってるはずだ。それはなんだ? テメーに頭下げて引かせてもらったカードが、ババだってことだ! 危ないところだったぜ、俺はまんまと伏せたカードを引くことしか考えてなかった……だがもう読めた! 残念だったなギャンブルマスターさんよ、そこに伏せたカードこそがババだ! だから俺が引くのは――こっちだ!」
チンピラは勢いよく、甲斐の手にある方のカードを引いた。
「どうだっ、ザマーみろ! ははは、へへへ、へ――えっ? あ、あれっ?」
間の抜けた顔をしたチンピラの手元からカードがこぼれ落ちた。
不敵に笑うピエロの絵柄――ジョーカーだった。
「なんで、な、なんで? 嘘だ、うそうそうそうそ、うそだああああ!」
「勝負はついたようだな。そして――」
甲斐は素早い動きでチンピラの手を取り、書類に拇印を押させた。
「――ようこそ、わかば町ヒーローズへ」
「あっ、て、テメー何しやがる! ふざけんな、誰がヒーローなんかやるかよ!」
「賭けたものは払ってもらう。それがルールだ。それを破るってんなら、俺も容赦はしねえぞ?」
甲斐はチンピラの目を覗き込んだ。チンピラはヒキガエルのような声をあげ、それきりうずくまってしまった。勝負は甲斐の勝ちだった。
*
夕暮れ。ヒーロー申請書を手元で遊ばせる甲斐の後ろを、シンイチがついて歩く。
「甲斐、今日はありがとう」
「気にするな。ちょうど今月の生活費が厳しかったところだ」
「でもわかんないよ、最後、どうしてわざわざ負ける危険を冒してまであんなことしたの?」
「引き分けじゃなく確実に勝つためには、あいつを追い詰めて本性を暴く必要があった」
「本性……?」
「あのチンピラは、リョウに邪魔されても、マリーに轢かれても、カイザーに投げられても、馬鹿のひとつ覚えみたいに直接君に絡んできた。なぜだ? 理由は簡単、考えなくてすむからだ。目的を達成するために考えたり努力したりするのが嫌いなんだ、あいつは。目の前に選びやすい選択肢を一つぶら下げてやれば、あいつは必ずそれを選ぶ。それがどれだけ疑わしくても、危険でもな」
「甲斐、ずっと見てたの? 僕がアイツに絡まれてたことを……」
「俺もヒーローのはしくれだ。出番はなかったがな」
甲斐はシシシ、と空気を漏らすように笑った。
「あ、でも甲斐はなんでチンピラの持ってるババの位置がわかったの?」
「さあね。ただ一つ言えるのは――」
甲斐は胸元からジョーカーを一枚取り出し、夕日に透かした。
「イカサマするなら、イカサマされるのにも慣れておけってことさ」
シンイチは、汚ねえ、といって笑った。
わかば町の六月最後の日は、ゆっくりと暮れていった。




