第5話 あなたにしか、できない役がある
柊美紗樹は、以前は街を歩けなかった。
サングラスをかけて、帽子を深くかぶって、マネージャーと一緒でないと外を出歩けない時期があった。二十代の後半から三十代にかけて。ドラマが連続でヒットして、映画に出て、雑誌の表紙を飾った。コンビニでもスーパーでも、声をかけられた。サインを求められた。写真を撮られた。それが当たり前だった。
今夜、美紗樹は一人で歩いていた。
サングラスも帽子もない。マネージャーもいない。古い路地を、ゆっくりと。誰も振り返らなかった。誰も気づかなかった。それが、今の自分の現実だった。
今日、事務所でプロデューサーと会った。
「美紗樹さんのイメージが合う作品を探しているんですが」という言葉の意味を、美紗樹は知っている。合う作品を探している、は、今のところ合う作品がない、という意味だ。去年は一本。一昨年は二本。その前は数えきれないほどあった舞台やドラマの仕事が、年を追うごとに静かになっていった。
後輩の名前が、よく雑誌に載るようになった。
若い、と思った。自分も若かった頃のことを思い出した。あの頃は怖いものがなかった。カメラの前に立つのが楽しかった。台本を受け取るたびに、この役を自分のものにしてやると思った。でも今は。
台本が来ない。
四十三歳の自分に、何ができるのか。もう一度あの頃の光を取り戻すことは、できないのか。それとも、もう引退を考えるべきなのか。
路地の石畳が、夜の光を反射している。
美紗樹は立ち止まった。
明かりのついた店があった。ガラス越しに橙色の光が見える。小さな木の扉。看板に、本屋、と書いてある。
ぼんやりと眺めていたら、内側から扉が開いた。
* * *
「あの、よろしければ」
白いエプロンの女性が顔を出した。透明感のある、静かな目をした女性。
「少し、お入りになりませんか」
美紗樹はその女性を見た。気づいている、という顔ではなかった。有名人を見た、という顔でもなかった。ただ、美紗樹という一人の人間を見ている目だった。
久しぶりに、そういう目で見られた気がした。
「......いいですか」
「もちろんですわ。どうぞ」
* * *
店の中は、本棚だけがあった。本は一冊もなかった。
美紗樹は椅子に座って、その不思議な空間を眺めた。空の本棚。でも本の気配がある。見えないものが、ここにはある。舞台に似ているかもしれない、と思った。幕が開く前の舞台も、こんな感じだ。何もないようで、すべてがある。
「朝比奈 紬と申します」と女性は言った。
「柊、美紗樹です」
紬は、一瞬だけ目を細めた。知っている、という目だった。でもそれだけだった。特別扱いする気配が、どこにもなかった。
「美紗樹さん」
名前を、普通に呼んだ。女優としてではなく、美紗樹さん、と。
テーブルに、カップが置かれた。淡い黄金色の液体。香りが、少し甘くて、少し深い。
「烏龍茶でございます。台湾の、凍頂という種類を」
「烏龍茶なの......」
「青くもなく、黒くもなく。その間にある深みが好きで。美紗樹さんに合うかと思いまして」
美紗樹は一口飲んだ。
複雑だった。苦みと甘みと、花のような香りが、層になって口の中に広がる。若いお茶にはない深さだった。時間が必要な、深さ。
「美味しい」
「ふふっ。よかったですわ」
紬が笑った。声を立てずに、口元だけで。美紗樹はその笑い方が、少し好きだと思った。
「紬さん、ここ、本屋なんですか」
「はい。本は地下にございます。店主が、お客様に合った一冊を選びます」
「私に、何も言っていないのに?」
「ええ。それで大丈夫なんですよ」
美紗樹は烏龍茶を手の中で温めながら、空の本棚を見た。
「私ね」と美紗樹は言った。「昔は、本当によく声をかけられたんです。街を歩くと、必ず誰かが気づいてくれた。でも今日は誰も……あなたが声をかけてくれるまで、誰も」
紬は静かに聞いていた。
「引退しようかと思っていて。もう潮時かなって、歩きながらずっと考えていた」
「そうでしたの」
「変ですよね。引退を考えながら夜道をうろうろしているなんて」
「いいえ」と紬は言った。「大事なことほど、歩きながら考えるものだと思いますわ」
美紗樹は紬を見た。紬はカップに目を落としながら、続けた。
「わたくし、美紗樹さんのこと、存じ上げておりますよ」
「......そうですか」
「ずっと前に、舞台を拝見したことがあって。......わたくし、泣いてしまいました」
美紗樹は少し驚いた。
「何の舞台ですか」
紬はタイトルを言った。十年以上前の作品だった。美紗樹が三十代の頃に出た、小さな劇場の舞台。大きなヒット作ではなかった。でも美紗樹が一番好きだった作品だった。
「あの役、難しかったんですよ」と美紗樹は言った。「何度も台本を読んで、演出家と喧嘩して、本番の前日は眠れなくて」
「舞台から、伝わっていましたわ」と紬は言った。「その......大切さが」
美紗樹はカップを両手で包んだ。あの舞台のことを、ずっと大切にしていた。でも誰かに「あの舞台が好きだった」と言われたのは、久しぶりだった。代表作として雑誌に取り上げられるのは、もっと有名な作品ばかりだ。
* * *
奥の扉が開いた。
男が現れた。
背が高かった。銀髪の、静かな男。美紗樹は職業柄、人の佇まいを見る目がある。この男の立ち姿は、普通ではなかった。舞台俳優でも、モデルでもない。でも、空間の使い方を知っている人の立ち方だった。
男はテーブルの前に立ち、美紗樹を見た。
見られた、という感じが、全身に来た。
カメラに見られることには慣れている。観客に見られることにも慣れている。でもこの男の目は、そのどちらでもない。審査する目でも、ファンの目でも、プロデューサーの計算する目でもない。ただ、美紗樹そのものを見ている。
名刺を差し出された。
「みこしば じん、と申します」
「柊美紗樹です」
御子柴は、名前を聞いても何も変わらなかった。有名人への反応を、しなかった。ただ、向かいに座って、美紗樹を見た。
見られている間、美紗樹は不思議と平静だった。
この目は、私のどこを見ているんだろう、と思った。女優としての私ではなく。有名だった頃の私でもなく。今夜ここに座っている、四十三歳の、引退を考えている、柊美紗樹を——見ている気がした。
御子柴の目が、美紗樹の手に一瞬止まった。
台本を持ち続けてきた手。舞台の木の床を踏み続けてきた足。照明を浴び続けてきた顔。そして、今夜ここに来るまでの目元の、かすかな疲れ。
御子柴は静かに立ち上がった。
「少々、お待ちください」
奥の扉へ向かった。
* * *
扉が閉まった。
美紗樹は紬を見た。
「あの方、誰だかわかっていますか、私のこと」
「存じ上げていると思いますわ」と紬は言った。「ただ......尋さんにとっては、あまり関係のないことだと思います。柊美紗樹さんであっても、そうでなくても、今夜ここに来た方に一冊選ぶ。それだけのことですから」
美紗樹はその言葉を、しばらく考えた。
有名かどうか関係ない。かつて一世を風靡したかどうか関係ない。今夜ここに来た、今の自分に、一冊を選ぶ。
「それは......怖いことですね」
「そうかもしれませんわ」と紬は言った。「でも、今の美紗樹さんを見てくれる人が、ここにいますでしょう」
美紗樹は烏龍茶を飲んだ。
深い味がした。時間をかけて作られた、深い味。若いお茶には出せない複雑さが、口の中に広がった。
「紬さんは」と美紗樹は言った。「引退って、考えたことありますか。自分の仕事を、もうやめようって」
「わたくしは……ここを離れることを考えたことはございますわ。うまくできない日に」
「そうかしら」
「でも、美紗樹さん」
「ええ」
「あの舞台を、もう一度見たいと思っているお客様が、きっとたくさんいらっしゃると思いますの。わたくしのような」
美紗樹は、答えなかった。
答えられなかったのではなく、答える前に何かが胸の奥で動いた。あの舞台。あの役。あの夜、舞台袖で幕が上がるのを待っていた感覚。どんな役よりも怖くて、どんな役よりも楽しかった、あの感覚。
* * *
足音が戻ってきた。
御子柴が現れた。手に、一冊の本を持っている。
落ち着いた赤——いや、えんじ色の表紙。深みのある赤で、少し年季が入ったような風合いがある。大判で、ずっしりとした重さ。古い劇場のビロードの座席のような、贅沢な色だった。
御子柴は両手で差し出した。
美紗樹は受け取った。
重かった。でもその重さが、心地よかった。軽いものは持ち飽きた。ずっしりとした重さのあるものを、久しぶりに受け取った気がした。
「タイトルを」と御子柴は言った。
美紗樹はタイトルを読んだ。
息が、止まった。
演技論ではなかった。女優としてのキャリア論でもなかった。もっと静かな本だった。ある作家が書いた、人生の後半について。年を重ねることで初めて手に入るものについて。若さでは届かない場所に、時間だけが連れていってくれることについて。
美紗樹は三十代には、この本を受け取れなかっただろう、と思った。
今夜だから、受け取れる。
「お買い上げありがとうございます」
御子柴の声が、静かに落ちてきた。
「あなたに最高のひとときを、お約束します」
美紗樹は御子柴を見た。
このえんじ色の本が、今夜の自分を選んだ。引退を考えていた、四十三歳の、今夜の自分を。
「......ありがとうございます」
声が、出た。女優の声ではなく、美紗樹の声で。
* * *
帰り際、紬が言った。
「美紗樹さん」
「ええ」
「また、舞台を拝見できる日を楽しみにしておりますわ」
美紗樹は、その言葉を正面から受け取った。
応援しています、ではなかった。頑張ってください、でもなかった。また拝見できる日を楽しみにしている。それは、来ることを信じている言葉だった。
「もちろん。その日を楽しみに待っていてくださいな」
美紗樹は言った。自分でも驚くくらい、迷いのない声で。
「必ず」と付け加えた。
「ふふっ」と紬は笑った。「楽しみですわ」
扉を出た。
夜の路地が、来るときとは違って見えた。
美紗樹はえんじ色の本を胸に抱えた。バッグに入れる気にならなかった。このまま抱えて歩きたかった。
若い頃は、役をもらうために必死だった。認められるために、輝くために、走り続けた。でも今の自分にあるものは、走り続けてきた時間そのものだ。転んだことも、迷った夜も、台本を投げたくなった朝も、全部が今の自分の中にある。
それは、誰にも奪えない。
私にしかできない役が、ある。
それを、御子柴と紬は、何も言わずに教えてくれた。
ヒールの音が、石畳に響いた。
弾むような音だった。四十三歳の、弾むような音が、夜の路地を転がっていった。
* * *
## 御子柴 尋 —— 独白
手が、舞台の手だった。
台本を持ち続けた手の、特有の形がある。指の第一関節の使い方が、普通の人とは違う。何千枚もの紙を持ち続けた手は、そうなる。それだけで、この人の時間がわかった。
地下へ降りながら、考えた。
老いることの、美しさについて。
これは難しい問いだ。老いは誰にとっても平等で、そして誰にとっても不公平だ。でも舞台に立つ人間にとって、時間は敵ではないと私は思っている。時間だけが与えてくれるものがある。深さ、重さ、傷の跡、喜びの皺。それはカメラや照明では作れない。生きた時間だけが彫る、顔と声の質だ。
棚の前に立つと、すぐにわかった。
えんじ色の、重い本。以前、この棚に来たとき、誰かが手放してここへ届いた本だ。地下書庫の本には、そういうものがある。誰かの人生を通り過ぎてきた本が、次の人を待っている。
この本は、ある作家が五十代に書いた。若い頃に書けなかったことを、やっと言葉にできた、と後書きにある。四十三歳の彼女には、その言葉の意味が届くと思った。三十代には届かなかったかもしれない。今夜だから、届く。
渡したとき、彼女は息を止めた。
それでいい。息を止めるのは、届いた証拠だ。
彼女が帰り際に「必ず」と言った。
紬さんの言葉への返事だった。「また舞台を拝見できる日を楽しみにしています」への、「必ず来ますよ」という返事。
迷いがなかった。
地下から聞こえた声に、迷いがなかった。それで十分だ。私には何もできない。後輩の躍進を止めることも、消えた仕事を取り戻すことも。
ただ、一冊を渡した。
えんじ色の本が、今夜の彼女に言う。
あなたが四十三年かけて積み上げたものは、誰にも作れない。それはあなたの役の中にある。まだ出会っていない役の中に、あなたを待っているものがある——と。
紬さんが選んだ烏龍茶のことを、地下で思い出した。
青くもなく、黒くもなく。その間にある深みを持つお茶。
正確だった、と思う。
彼女は今、そういう場所にいる。若さの光でもなく、老いの静けさでもなく。その間にある、一番深いところ。それは短い時間しか通れない場所で、だからこそ、そこにしかない光がある。
夜の路地に、ヒールの音が響いていた。
来るときとは違う音だった。
それで、十分だ。




