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短編No.01-20

No.08 弔(とむろ)う峠

作者: 藤夜 要

 殆ど家庭を顧みない夫が、珍しく旅行なんて言い出すから。

 やっと父親としての自覚に目覚めたのかと思い、私は彼のその提案を二つ返事でオーケーしたのだけれど……。

「ちょっと、何なの、此処。薄気味悪いところね……」

 私はてっきり、息子の(れい)と夫の三人で、有名な観光地のペンションへ避暑に行くのだとばかり思っていた。

「まあ、そう言うなよ、麗香。急な予約を受け付けてくれるところなんてそう無いんだからさ」

 夫――夫、と呼ぶのも今では煩わしいわ――他人の息子、涼はそう言って、三家族分の予約を取ってくれた、先輩の松本さんや上司の塚田さんに、現地に着いたら必ず礼を言って、不機嫌な顔をしない様に、と私の機嫌を取るような口調でもう一度念を押した。


 突然、涼は車を停める。その振動で、折角眠っていた黎が起きてしまった。

 全く、こんな細い古ぼけた気色悪い道で、何をいきなり地蔵なんかに手を合わせてるのよ。

「パパしゃんは、急に仏様をなむなむする信心深い人になったのねぇ~」

 と、黎のおしめを取り替えながら、涼に聞こえよがしな嫌味を言った。

 そんな私の言葉が聞こえなかった振りをして、涼は熱心にその地蔵を拝み終えると、

「お待たせ」

 と、特に私にもそれを勧める事もなく、再び自動車を発進させた。


「この辺りって、(とむろ)う峠って言って、ここで事故死した人の霊がよく出るっていう噂の心霊スポットなんだって」

 涼は、私が現実主義者でそういった類を信じないという事を忘れたのか、楽しそうに、べらべらとこの地にまつわるそういう話を独壇場で喋っていた。

 此処は、この峠の見通しの悪さや、日中でも生い茂る深緑で真夏でも薄ら寒い気温から、一昔前は、よく観光客も訪れる有名な心霊スポットだったらしい。だが、あまりにも観光に訪れる人々が次々と不審な死を遂げる、とまことしやかに囁かれ、いつしか誰も寄り付かなくなり、ペンション経営者も次々と撤退していった模様。

 涼が拝んでいたあの地蔵は、死に切れずにこの地に留まる霊達の慰霊塔みたいなものだそうだ。

「あの地蔵さんに慰霊の祈りと一緒に願い事をすると、弔う気持ちのお礼に願い事を叶えてくれるんだって、松本先輩が心霊雑誌に載っていたと言ってたからね」

 俺は、大好きな人達と一緒にずっといられます様に、ってお願い事をしてたんだ、と言って、私の瞳をじっと見つめた。

「……何を今更。黎の父親でなければ、速攻で離婚してるところよ。信じられないわ。私の親友と寝るなんて」

 今更ご機嫌をとっても、黎が成人したら、あなたとは離婚する事に変わりは無いから、と吐き捨て、私は彼から視線を逸らした。

 今更この人に愛情なんて感じてない。私は、胸の内を相談出来る、唯一の親友を失った。不思議と、彼女に憎悪は無い。むしろ彼女は犠牲者だとさえ思う。私は、涼の方こそが憎かった。

 私にとっても、最初から涼なんてそんなもの。彼が失態を犯して黎を授かってしまったが為に、父親として必要だから結婚しただけ。

 養父じゃあ、この子が可哀想だから。そして、私は家族が欲しかったから。例え予定外でも、施設で育った孤児の私には、初めて出来た家族――黎を殺す事は出来なかった。


 私がそんな想いを馳せながら、鬱蒼とした『弔う峠』をぼんやりと眺めていた時、涼が何を考えていたか、なんて知らない――。




 どうやら、我が家が一番最後の到着らしい。三世帯で一つのペンションを借りたみたい。

 既にロックは解除され、松本さんの、小学校中学年と低学年と思われるお子さんが、ペンションの周りで塚田さんのお嬢さんと一緒に遊んでいた。鬼ごっこかな? 楽しそうにペンションの周りをきゃーきゃーと騒ぎながらぐるぐる回って追いかけっこをしているのが、私の目に微笑ましく映った。

 黎にはちょっとまだ早いけど。まだ離乳が済んでない位幼過ぎるし。でも、いろんな年齢層の子に混じるという事の積み重ねが大事、と施設で感じて来たから、彼らの姿を見て、私は気乗りしなかった“休日まで会社の人達と一緒で気を遣う旅行”に少しだけ希望と楽しみを見い出した。


 ご無沙汰してます、いつも主人がお世話になっています、この度は一家総出でお世話になりまして……そんな疲れる社交辞令を延々と奥方二名と交し合い。

 親孝行な黎が、お腹が空いたと泣いてくれたお陰で、ようやく私は解放された。

「黎クン、ママも疲れちゃったよ……」

 誰にも愚痴れず、私は自分達一家にあてがわれた二階の部屋のベッドに寝そべって、小さな声でぽつりと呟く。もうそろそろ離乳させなくてはいけないと思いつつも、大人しくしてくれるからつい甘やかしてまた母乳を黎に含ませていると、眠気が襲って来て、私は彼を抱いたまま眠ってしまった。




「ン……ギャアアアァァァ――……ッッッ!!」

 赤ん坊の激しい泣き声で私は飛び起きた。いつの間にか、一緒に胸元で眠っている筈の黎が、いない。

 慌てて部屋の扉を開け、通路の様になっている廊下の手すり越しに吹き抜けのリビングを見下ろすと、大人達は一人もおらず、松本家の二人と、最年長――と言っても、まだ中学一年生の子供でしかない、塚田さんの娘さんが、赤い液体の中にうつぶせている黎を囲んで立ち尽くしていた。

「な……何してるの?! あなた達?!」

 私は急いで階下に降りて、泣き叫ぶ黎の首の後ろを見て悲鳴を上げた。

「ひ……ぃっ! ほ、骨が……っ!」

 小さな黎の首の後ろからは、鋭利な刃物の様な状態で、背骨が下から上に突き抜ける様な状態で露出していた。この子が浸されている赤い液体は……この鋭利な骨の先にぱっくりと開けられた首から湧き水の様に溢れ出て来る、この子の、血……。

「どうして?! 何があったの?! 黎パパは何処へ行ったの?!」

 矢継ぎ早に問いながらも、黎を抱き上げる私に、怯えながら塚田さんのお嬢さんが答えた。

「皆、夜のバーベキューの材料の買い出しに……。黎クンママは、黎クンのお世話で疲れてるだろうから寝かせてあげて、って家のお母さんが……」

 続いて松本家の上の子が、平静な表情で語り出す。

「黎クン、どうなっちゃったの? 皆でね、上のそこんトコからジャンプして飛び降りて遊んでたら、黎クンも一緒にするー、みたいな感じでジャンプしたら、こんな感じで泣いちゃった」

 泣いちゃったって……ジャンプって……。

「どうして止めてくれなかったの?! 黎はまだ赤ちゃんでしょう? 君達とは違うのよ?!」

 小さな子に言ってもしょうがない事、言ったところで黎の怪我が治る訳でもないものを、私は感情的にムキになって説教をし、無駄な時間を費やしてしまった。

 松本家の下の子が、そんな私の形相に怯えて泣き出した事で、私ははた、と我に返る。

「と、とにかく、私は、黎を連れて病院へ行くから。三人は外に出ないでお留守番しててね。それから、黎パパに電話をして、私の携帯に電話をくれる様に伝えて頂戴」

 そう言って、塚田さんのお嬢さんに私の携帯の番号を記したメモを渡して、すぐにペンションを飛び出した。よかった、車のキーを持ったまま眠っておいて。鍵の所在すら自己管理出来ない涼は、どうやら松本さんのワゴン車に同乗して買い出しに行った様だ。

 痛がって泣き叫ぶ黎をベビー紐で括って抱き、露出した骨が無駄に動いて疼かぬ様に彼の首を固定しながら、片手ハンドルで必死になって弔う峠を下っていった。

 どうか、誰か助けて、と祈る想いで、見知らぬ土地で病院を探した。


 何故か何処の病院も、私の顔を見るなり

「今日の診察は終了したよ」

 と素気無く断りシャッターやカーテンを閉めてしまう。

 何故?! 初めて来たこの田舎町に、恨みを買う様な愚行を犯した覚えが私には、無い。

 田舎特有の、余所者への嫌悪から来る嫌がらせなのかと思ってはらわたが煮えくり返った。

「アンタ達は、地元民の前に医者でしょう?! 人間でしょう?! こんな罪の無い小さな子が、大怪我で今にも死にそうなのに、どうしてそんな冷たい仕打ちが出来るのよ!!」

 のれんに腕押し、馬耳東風。クレームを叫んでいる暇があったら、医者を探そう。とにかく探そう。

 町内を回ったが、医者は遂に見つからなかった……黎の泣き声が、段々と弱って来る。

 いや……やめて、神様、私からこの子を奪わないで……やっと出来た、唯一の私の家族なの……っ!

 そんな想いが通じる相手をやっと見つけた。

「いろいろ事情があってね、余所者に施しちゃいけないんだよ、この町では。まあ、観光客なら、この町外れにあるショットバーとビリヤード場が一緒くたになってるプレハブの店に行ってみなさいな。もしかしたら観光客の中に、医者か医者の知り合いがいるかも知れないよ」

 私は、それを聞くなり、礼もそこそこに、急いでその場を後にした。その、町外れにある遊技場兼バー、とやらのところへ向かい、ハイスピードで車を走らせた。




 もう、手持ちのタオルが無い。それにしても、一体、黎のこの小さな身体の何処に、こんなにたくさんの血液があったのだろう。

 そう思ってしまう程に、彼の出血量は多かった。プレハブの店に辿り着いた頃には、もう最後のタオルも鮮血の紅に染まり、滴が滴り落ちていた。黎の泣き声が蚊の鳴く様な小さなものになる程、彼の体力は衰弱していた。

「誰か、お医者様はいませんか! 黎が……子供が死にそうなんです! 助けて……っ!」

 入り口のドアを開くと同時に、私はあらん限りの声を発して助けを求めた。


 そこにいる客の面々に……私は、驚愕と絶望で立ちすくんでしまった。

「何故、あなた達が此処にいるの……?」

 呟く私に、最初に近づいて声を掛けて来たのは、新井(にい)さんだった。新井さん――私が水商売で生計を立てていた頃に、気のある素振りをしたらその気になって、それが奥さんとの離婚に至った為に、出世街道から外れて自殺した、元私を指名してくれていたお客さん。

「ボクにだって、かつてはこんな無垢な赤ん坊が細君の腹にいたんだよ。君に騙されさえしなかったら、僕だって今頃は自分の子と仲良く暮らせていた筈なのに」

 人の心を弄んで、金を貢がせた罰さ、と哂った彼は、元大学病院の助教授だった。


 次に冷たい視線を向けながら、鼻で哂ったのは、親友だった。――確か、彼女は私に、あんな遺書を残して死んだ筈……。

「麗香、相変わらず自分の事ばかり考えているのね。今度こそ、ちゃんと家族を大切に守るのよ、って、あんなに私、手紙に託したのに。どうして黎クンを見ててあげなかったの? 唯一無二の家族だったんでしょ? だから私、涼から離れてあげたのに。子供には罪が無いから、って。あなたが家族を欲しがっていた事を知っているから、って」

 口先だけで、本当は黎クンも要らないのでしょう、答えなど求めてないという口調でそう言い捨てると、彼女は手にしたスパークリングワインを流し込みながら去っていった。


 次から次へと、私に批難の言葉を浴びせる“過去の人”達。

 私はそれら全てを肯定し「だから、お願い、この子を助けて……」と言っても、誰も黎を抱き上げてはくれなかった。

 一人、また一人と店から出てゆくお客達――私以外に誰もいなくなった頃には、もう黎の泣き声は完全に消えてなくなっていた――その、幼く愛らしかった筈の命も。


「黎……ねえ、黎、目を開けて、起きてよ……。ママを、独りぼっちにしないでよ……ねぇ」

 何度呼んでも、黎は目覚めてはくれなかった。既に血の気の失せた人外というほどに真っ白な肌を紅の斑点が彼を染めている。

 私は、その事実と恐怖から逃れる様に、絶叫して彼の名を呼んだ。


 黎――――っ!!




「黎――――っ!!」

 がば、と跳ね起きた自分の動きで、私は夢から目覚めた事を自覚した。

「夢……」

 思わず声に出して呟いてしまう。時計を見ると、レトロな秒針付きの古時計が、四時四十分を指していた。

 秒針が右上へと上がっていく様子をぼんやりと眺めながら、『そろそろ夕飯の買出しに行く時間なのかしら』なんて事を考えていた。

 変な夢。気色の悪い、後味の悪い夢。

 よく考えたら、おかしな部分があったわよね。何故背骨が鋭利に尖っていた事に、夢の私は疑問を抱かなかったのだろう。そんな事は、生物学的に在り得ないのに。

「黎の事となると、冷静でいられなくなる、っていう事よね、きっと」

 自分が、ようやく少しずつ母らしく、人の心の機微が解る様になって来たという事なのだろうと思うと嬉しかった。隣で安心し切った顔で寝息を立てる黎がとても愛しかった。


 私はそっとベッドから起き上がり、小さな黎のおでこにそっとキスをすると、音を立てない様、細心の注意を払いながら、リビングに集まっているであろう、涼の先輩や上司の奥方勢の夕食準備の手伝いの為に階下へ降りた。


 部屋の明かりはついているのに、何故か人の気配が、無い。

「皆、何処へ行っちゃったのかしら? ……買い物、かな?」

 外へ出て、車の台数を確認する。……って、ちょっと待って?!

「な、何でこんなに真っ暗なのよ……夏でしょ、今は」

 寝ぼけていたのか、私はすぐにその違和感に気付かなかった。まだ五時前だと言うのに、車の台数を確認できるのは、街灯が明るくそれらを照らし出している為だった。思い返せば、部屋の明かりも付いていた。まさか、丸々一晩眠ってしまって、朝の五時前? 仮にそうだとしても、やはりこの漆黒は、暗すぎる。


 何かがおかしい。

 私は、何故かペンションの裏手にある森へと誘われるように入っていった。何故か、呼ばれた様な気がしたからだ。彼らは全員、その森にいると私の勘が知らせていた。

「森でキャンプファイヤー、とか?」

 心細さに、思いついた事を端から言の葉に乗せてゆく。自分の声で、平静を保とうと必死になっていた。

 やがて、ぼんやりと見えた薄明かりに、聞き覚えのあるヒソヒソ声。ようやく本日の参加者の声を確認して、私はつい安堵の溜息を漏らしてしまった。

「ほぉ……っ」

 それが、まさか仇になるとは……。


「誰?」

「麗香さん?」

「何だ、もう起きちゃったのか……」

「じゃあ、ちょっと大変だけど、一気にやっちゃう?」

 そんな会話を何となく耳にしながら、暗闇に慣れた目を凝らして見ると。

「どうしたんです……か……あっ?!」

 こ、子供達が……。

「ど、どうし……な、何で? 何してるんですか?! 自分達の子でしょう?!」

 松本さんが、塚田さんの娘さんを組み敷きながら、目だけを私に向けて、こう言った。

「ほら、俺が涼に教えてあげた、弔う峠の話、聞いたんでしょう? 俺、職場で取り敢えず斜め読みしただけで、お供えの部分を読むのを忘れちゃっててさ。そしたら――」

 願いを叶える代わりに、代わりの魂を供えないといけないんだって――。

「だから……互いに互いの子供に手を下す代わりに、自分達の願いを叶えよう、と……?」

 涼が涼なら、周りに群がる人間も同類だ。何て卑劣で最低な……っ!


 だけど、私は情けない、極普通のしがない弱い人間だ。

 心の中で、それだけ毒づきながらも、幼い命を助けるべく動かさねばならない足は、震えで立っている事もままならなかった。狂気に満ちた彼らの瞳は、邪魔するものを容赦しないと語っていた。彼らは、泣きながら、笑っていた。

 虫の息だった塚田さんの娘さんも、最後の抵抗を見せた命の火が消えた瞬間、松本さんから解放された。

 彼らは、泣きながら独白する。

「これで……やっと涼に出世を越される事はなくなる……」

 松本さんは、後輩である涼を恐れていたという事? だから、涼がずっと松本さんより優れない様に、と弔う峠で願ったという事?

「もう……リストラはないよな、これで……」

 不況の影響で、涼の勤める営業所が来期から閉鎖されて支店の直轄に入るとは聞いていた。営業所長である塚田さんは、それを食い止め自分の保身を図る為に、我が子の命を捧げたというの?

「あんた達……最低……」

 信じ切っていた子供達を騙してそんな事の為に命を奪うなんて、親の目の前で、親の知人に無理矢理命を奪われるなんて、二重の苦痛を想像すると、私の震えが恐怖から怒りのそれに変わっていった。

「最低よっ! あんた達っっっ!」

 と走り寄る私を何なく交わした松本さんが、苦笑しながら言い放つ。

「死んじゃったものは、もう生き返らないよ。例え麗香さんがそうやって俺を殴ろうともね。それより」

 涼を止めに行った方がいいんじゃないの、どうせ本当に俺の子かわかんないし、って言ってたよ、という彼の下衆な言葉を聞いて、私は全身が粟立った。

「黎……っ」

 独りぼっちでペンションに残してきたままだ……施錠もせずに、一緒に宿泊する知人や戸籍上の家族に警戒なんて事さえ考えもせずに。


 迷っている暇は無い。松本さんや塚田さんの子供たちには悪いけれど、私が一番守らなくちゃならないのは、今も息をしている、我が子。

 彼らの事は許せないけど、今はとにかくペンションに戻らなくちゃ!

「黎――っ! 涼――っ!」

 消させないわ、涼なんかに。私のたった一つの宝物。

 親友まで奪ったアイツに、私の黎まで奪わせはしない!


 そんな私の怒りと意気込みと全身全霊の走りも虚しく、あんなに近いと感じた森を、なかなか私は抜け出せなかった。何故?! 森の入り口くらい見えても、もういい距離を走った筈だわ!

「まさか――森が広がってる?!」


 ――否、違う。


『さかさま』というキーワードが突如脳裏に浮かぶ。

 思えば、この暗さが四時四十分なんておかしかった。秒針が何故右上に上がっていくの?

 私は、目的と、逆に向かって走り出す。そして、最も信じていない弔う峠を目標に定めて走り出す。そして、心の中で切に願う。

 どうか、お願い。私を黎の元に返して下さい――!!


「あ……」

 突如森が開けたかと思うと、私は、黎がいる筈のペンションの前に立っていた。

 奇妙な魔法が解けたと確信する。何故なら、森への行きしなに車を見た時には全て左ハンドルだった自動車の内部が、通常の配置に戻っていたから。


 どきん、どきん、と鼓動が高鳴る。さっきのは、疲れが見せた幻か幻影か、もしくは、夢。

 これから私は目覚めるんだわ。そして、またもう一度、安心し切った顔で眠る、黎の寝顔を眺めるの。

「さあ、目覚めましょう、私」

 そう呟きながら、ドアノブをひねってドアを開けた。


「――涼?」


「お帰り、麗香。俺の願いを、教えてあげる」

 麗香の心を、俺に返して下さい、って、お地蔵様にお願いしたんだ。俺の大好きな人は、麗香だけから――。


「イヤァァァァァ――ッッッ!!」


 振り返った涼は、紅に鈍く輝いた瞳で私を見た。

 その紅は……間違いなく涼の分身である、私の愛しい息子の、血。

 黎は、父親の腕の中で、静かに息を引き取っていた。微かに透明の筋が鮮血にまみれた顔面に残っているのは、最期の断末魔の中で、彼が怯え泣きながら逝った事を示していた。

 半ば心神喪失状態の仇の手から、私は刃物を奪い取る。

「弔う峠のお地蔵様。贄にこの男を捧げます。どうか黎を――返してええええっっっ!!」

 このクソ野郎。私から何もかも奪い取って、許せない。お前なんか贄くらいの役にしか立たない癖に。

 私は、ヤツの心臓を深く貫いた。――やった……これで、黎は生き返るのね……。

「え……?」


 私の口許から、鮮血が一筋流れ落ちる。

「ごぼ……がはっ!」

 私は立っていられない程の痛みを胸に覚え、そのまま胸を掻きむしりながらくずおれてしまった。

 頭上で、憎々しい声が、腹の立つ程甘く優しい声で囁いた。

「まだ、“さかさま”は続いてるんだよ――」




「嫌ぁ――っ!」

 また……夢……。

「何なの、一体……」

 隣に眠る黎を見て、安心すると同時に苛立ちがこみ上げて来た。額を拭うと、じっとりと湿った感触を掌に感じて、とても気持ちが悪かった。

「涼があんな変な話を聞かせるから、この薄暗い不気味さと混じって、一時的に影響されておかしくなっちゃったんだわ、きっと」

 自分で言い聞かせるようにと思って声に出して言ってみたけれど、その言葉を聞いた途端、自分の言っている言葉の馬鹿馬鹿しさに、何だか凄く虚しくなった。

 それでも、何処かで私は信じてしまったのかも知れない。

 時計を確認して、正常である事に安堵する自分がいた。外はまだ、薄明るい。明るいという事がどれだけ安心出来る事なのか、と、都会暮らしに慣れ過ぎた私は改めて感謝した。

 念の為に、おんぶ紐で黎を背負って部屋を出る。皆は、極普通にリビングに集まって談笑していた。

「あぁ、麗香さん、起きた?」

 そう声を掛けてくれたのは、塚田さん。

「はい、すみません。何のお手伝いもせずに、つい眠ってしまって」

 そう謝罪を述べる私に

「皆、順繰りよ。私達もそうやって一緒に寝ながら赤ちゃんの時期のあの子を育てて来たわ」

 とフォローの言葉を入れてくれたのは、塚田さんの奥さんだった。

「子供達、まだ森に遊びに行って帰って来ないのよ。もう少しゆっくりしててもいいわよ」

 そう言ってくれたのは松本さんの奥さんだった。

「ええ、ちょっと、この子のお散歩がてら、私も少し美味しい空気を吸って来ます」

 そういうと、涼と松本さんが揃って言った。

「じゃあ、お地蔵さんにお参りして来れば?」

「涼に聞いたよ。麗香さんはそういうの信じないから、って、お参りをしていなかったんだって?」

 呪われちゃうよ、しておいでよ、という松本さんに、引きつった笑顔を返していたのではなかろうか、と思いながら、曖昧に「はぁ」と返事をして外に出た。


 とぼとぼと、黎に話しかけながら峠を下る。いつの間にか、あの地蔵の前まで下って来ていた。

「あ……」

 まあ、子供騙しなんだろうけど、たまには人の意見も素直に聞いてみようか。

 何故、そんな気になったのだろう。“贄”の話が、夢だったのか現実の話だったのか曖昧になっていた私は、手を合わせて何となく拝んでみた。

「どうか、黎が健やかに成長してくれます様に」


 辺りの空気が、変わった――。

「何?!」

 目を開けると、そこは一面深紅に染まった別世界で……それは、さながら、昔『井岡寺』で見た地獄絵図の様な景観で……。

 私は、また夢を見ているのだ、と思うと脱力した。いい加減、起きないのかな、現実の私。


 そんな私の耳に……否、直接脳に働きかけている様な感覚で、地獄の底からの声が響き渡った。


『主は贄也。因って願い受け容れ難し』


 夢、よね――この脳に送り込まれた総毛立つ音の様な声も――目の前から、あの不気味なアルカイック・スマイルを浮かべたお地蔵様がなくなっているのも――背に、黎のぬくもりを感じないのも――全部、これは、夢――よね……?


 私は、笑う膝を引っ叩いて奮起させ、どうにか立ち上がると反射的に走り出した。不思議な事に、導かれる様に軽快に足がペンションへと運ばれてゆく。ただ単に、五感の中の一つ、触感が麻痺していただけだと解ると、走りながらやっと私は背のぬくもりによる安堵感に満たされた。背に、再び黎の存在を感じられた事が私を冷静にさせてくれた。

「ごめんね、揺れて眠れなくて辛いよね。もうちょっとの辛抱だから、我慢してね」


 お参りは、した。後は、贄と言われたが故に、私の願いが聞き届けられなかった彼らの願いを確認し、黎を贄にした奴の息の根を止め、この子を魔手から守るだけだ。黎を贄にしたのは、きっと、涼。


「涼!」


 私は、自動車のトランクから、いつも入れてあるゴルフクラブを武器にする為取り出してから、ペンションの扉を蹴破った。

 予想外の修羅場が私を硬直させる。

「な……んで……塚田さんを……?」

 塚田さんが、あちこち(・・・・)にいた。そして、四人の手には、それぞれに、切断の工具。

「待ってたよ。麗香」

「お帰りなさい。麗香さん」

「無駄だよ、麗香さん。私達が先に、願いを聞き届けてもらってるから、抵抗しても、貴女は逃げられない」

「黎クンはね、まだ七五三前でしょう? 一人前として換算されないから贄には出来ないんだよ。不信心が仇になったね。知らなかった?」

 松本さんの最後の言葉を聞いて、私は自分の勘違いを初めて覚った。

「待って……。これは、夢でしょう? 何がさかさまで、何がずれてて、どこが夢の突破口なの?」

 四人は私の言葉を聞いて、一瞬顔を見合わせてからくすくすと哂う。

「そっかぁ、お地蔵様は、そうやって麗香さんを此処に自分から来てくれる様に仕向けてくれたんだ」

 松本さんの奥さんが言った。

「ごめんね、麗香さん。私、松本の子よりも、涼が大事なの」

 松本さんが言った。

「先週、先に二人で此処に来て、もう願い事をお地蔵様に伝えてあったんだ。それぞれの子を贄に、こいつは涼と、俺は塚田さんの奥さんと、ずっと一緒にいさせて下さい、って」

 塚田さんの奥さんが言った。

「貴女も、塚田と同じね。自分の愚行を棚に上げて、尽くす伴侶の文句ばかり。もうね、そんな生活は、ずっと変わらないわよ、って涼君に教えてあげたのは私なの。私は、塚田と過ごす余生より、松本さんとの新しい生活を願ったの」

 そして、涼が、言った。

「麗香、俺が君の親友と寝たのは、彼女が新井さんの奥さんだと知ったからだよ。麗香に同じ想いをさせてやりたいから、って頼まれたからなんだ。自分の苦しみを麗香に思い知らせてやりたいんだ、って。君の勝手さを感じていたけれど、その話を聞いて、もし君が悔やんでくれるなら、って、俺はほんの少しだけ期待したんだ。君が変わってくれるかも、って。――でも、君は結局変わらなかった。親友が何故死んだのかも考えず、俺を批難する事だけに明け暮れたままだった。親友と言いながら捌け口にしか考えないで、彼女自身に関心を持たない君に、俺は完全に絶望したんだ。だから、俺の贄になって、一生に一度でもいいから、誰かの役に立ってみてよ」


 トス――。


 脇腹に、奇妙な感触が私の痛覚を刺激した。

 塚田さんのお嬢さんが、私の急所を的確に日本刀で貫いていた。

「家のパパ、銃刀免許を持ってるの。ちなみに私は、剣道三段。突きって反則技なんだけど、一遍やってみたかったんだぁ~」

 彼女はそう言って刀から手を離すと、私の背から黎を抱き上げ

「よかったぁ~。お母さんは、もう赤ちゃんを生むのは大変だものね。これで私の弟が欲しいって願いも叶っちゃった」

 そう言って子供らしい笑顔を浮かべ、黎を高い高いしながらあやしていた。


 薄れゆく意識の中で、そういえば、と、このペンションの管理人に一度も逢っていなかった事を思い出した。

「まさか……管理人さんも、贄……に……?」

 少女は不快そうに眉をしかめ、くずおれた私を一瞥すると

「本当は黎の事だって自分の言いなりの人形にする事しか考えてない癖に。夢の中で、随分と冷静だったよねー。そんな人が偉そうに母親面なんかしないでよ。――お母さん達、早く麗香さんもバラしちゃって。超ウザい」

 そう言って、黎と共にリビングを出て行った。


 こんなのは、普通じゃない。やっぱり、これもまた夢なんだわ――。

 赤い海の中で、私は戦慄の想いであちこち(・・・・)に散らばった自分を想像した。――そんな惨めな殺され方、こんな非現実的な事、現実である訳が、ない。

 私は、脇に刺された日本刀を阿鼻叫喚の思いで引き抜くと、それを自らの心臓に構えて彼らを見据えた。

「どうせ夢なら、私が死ぬ事で、また醒めてくれるのよ――ね?」


 ――刹那、視界が地獄絵の紅に染まった。




 寂れたペンションの前に、何台ものパトカーや報道陣の車両が停まっている。

 中から、傷だらけの二組の男女と、子供二名が、警察に保護されながら出て来た。


『こちらは現場です。只今入った情報によりますと、麗香容疑者は以前から夫婦仲がよくなかったという話があり、事実ではない浮気を詰問しては夫の涼さんに暴力を振るっていたという証言があったとの情報が入っています。ドメスティック・バイオレンスで涼さんが警察に相談に訪れた事もある、という情報もありますので、現在事実確認をしています。被害者の話は一致しており、麗香容疑者が各夫婦間のそれぞれの不倫関係を疑い口論になった事が、今回の凶行の直接の原因と見て、麗香容疑者の既往歴を現在警察で調査中との事です』

 その様な報告を伝えるリポーターを遠巻きに眺めながら、近隣の住民が集まってヒソヒソと小声で会話を交わしている。

「弔う峠の地蔵様が、また地獄から、極楽浄土に送ってくだすったみたいじゃの」

「おうよ。取材の人の話だと、死んだのは五人らしいで、わしらの願った魂の数と合う」

「三笠の婆様の所に、この峠で死んだ息子が夢枕に立ったらしい」

「そうか。では、他の四人も、お地蔵様が無事浄土へお連れ下さるじゃろう」

「外からの人間が来るのは滅多になかったで、ほんに助かったのう」

「じゃが、もうあの噂では、余所者を呼ぶ事は難しそうじゃのう」

「そうじゃのう……次の手を考えにゃあいかんのう」

「地蔵様は、いつお帰りになられるんかの?」

「さあてなぁ~……」

 地蔵様がお帰りになる前に、お社を綺麗にしようかの、と言いながら、住民達は、掃除道具を片手に現場を後にした。


 鬱蒼と茂った灌木で隠れた、主のいない古びた小さな祠には、ある筈のない血痕が、そこかしこに飛び散っていた。住民達は、その奇異さに何の疑問も持たず、祠を清めながら“次の手”をひそひそと話し合っていた。――近いいつか、再び帰る“お地蔵様”に亡くした身内を極楽浄土へ送って戴く為に。

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