不文律
Aさんとの付き合いはかれこれ7年になる。Aさんというのは美容師で、この7年の間ずっと私は定期的に、彼女に髪を切ったりカラーをしてもらっている。ショートヘアーの私の場合、一カ月ほど過ぎると髪を切らなくてはならなくなる。ロングの人なら少々伸びてもあまり目立たないだろうが、ショートが伸びるとみっともないと自分では思っている。
何年も続けて同じお店の同じ人を指名する為の条件としては、カットの腕が良いに越したことはないのだが、それ以外に必要なのは女性であることだけだ。何故女性かと言うと、とにかく長くお世話になるには世間話くらいはしないと、施術中毎回無言というのもおかしい。それで、美容や健康の話題を持ち出せば、女性ならそれだけで結構話が弾む。それにその時々のタイムリーな話題があれば尚可なのだ。例えば、近くに新しいスーパーができるとか、ケーキ屋ができたなどの。後は手紙で言えば時候の挨拶的な話題で「漸く暖かくなってきた」「暑い」「雨が降る」「雷が鳴った」「寒くなった」「雪がチラチラした」といくらでも話のタネはある。そんなどうでも良い話をしていれば、一時間や二時間は和やかに過ぎて行く。ところが、男性だとそうはいかない。美容や健康に関心がある男性もいるだろうが、女性同士で話す内容とは違ってくるだろう。また時候の話にしても男女で感じ方も違うかも知れない。
以前一度だけカットをしてもらったお店では、男性が担当になってしまったのだが、その人のお喋りに閉口したことがあった。最初は髪形についてだったが、それから髪のケアの仕方について、プロとしてレクチャーしているつもりだったのかも知れないが、「のべつ幕なし」とはああいうことを言うのだろう。次第に相槌を打つのも煩わしくなるほどだった。シャンプーからカット、ブローが終わるまでずっと、至近距離で話をされたのにはうんざりした。その人はたまたまお喋りな人だったのだろうが、男性美容師に対する印象に影響するほどだった。
ところで、毎回お店も指名する人も決めていると、美容室通いが面倒くさくない。だいたい時期を見計らって電話をすると予約ができて、最近では混んでいる時に融通を効かせてもらったりもしていた。そして、予約の当日お店へ行って鏡の前に座ると、何も言わなくても私の注文通りの髪形や長さに仕上げてくれるのだ。夏など暑い時には「少し短めに」などと言葉にすることもあるが、大抵は何も言う必要がない。
11月の初め頃だった。髪が伸びてきたので、そろそろ予約をしなければと思い電話をしてみた。電話に出たのはAさんではなく別のスタッフだった。その人が言うには彼女は病気で入院しているとのこと。しかも、どれくらいの期間療養が必要なのか、今の段階では分からないという。まだ若いAさんがそんなことになるとは大変なことだと思ったが、お見舞いの言葉を言付けるくらいしか、私にできることはなかった。というのも、7年もの付き合いではあるが、お互いに美容師と客という不文律があって、プライベートに関しては何も知らないも同然なのだ。彼女について知っていることと言えば、だいたいの住んでいる場所、結婚していること、家にワンちゃんがいることくらいで、私について彼女が知っていることも同程度でしかない。でも、それはお互いの立場において守られるべき大切なことだと考えている。多分彼女もそうだろう。
そんな事とは知らずに予約の為にかけた電話なので、伸びた髪をどうしようかと電話に出たスタッフに訊いてみた。ところが、同じ場所で働く二人の美容師さんは、一人抜けた分のお客を引き受けなければいけないので、予約は一カ月以上先になるという。すぐにでも切って欲しい状態だったので、一カ月は待てないと思い他を当たることにした。ところが、ここではたと困ってしまった。ここ七年間ほどずっと他のお店について関心を持ったことがなかった。だから、頭の中に当てになるお店が浮かばなかったのだ。髪を切ってもらうだけなのだからどこでも良さそうなものだが、それがそうはいかないのだ。困ったものだ。そうしている間にも髪は伸びてくる。
他に方法もないので、どのお店にしようかとネットで探してみることにした。美容のサイトを見れば、店舗の内外やスタッフの写真が出ているので大体の様子は分かる。口コミも少しだけ参考にするが、だいたい良い事しか書かれていない。スタッフが女性だけというのは少ないのか、目星をつけたお店にはだいたい一人は男性が入っている。でも、要は女性を指名すれば良いので、一軒の美容室をネットで予約した。
当日、予約の時間にお店を訪れてみたが、最初ということもあり誰が上手かなど分からず、指名なしで予約していたので、いきなり男性スタッフが当たってしまった。総勢5人で男性スタッフは一人だけだったのに。でも、幸いお喋り好きでもない普通の人だった。
さて、私は常々5ミリ単位で注文をすることが多い。そして、前回のカットから一カ月ほど経過していると、だいたい1センチ切れば良くて、美容師さんの方も一カ月で1センチと計算しているようだ。今回は一カ月以上経っていたので、1.5センチ切ってくれるようお願いした。初対面の人と一時間ほども対峙するというのは、今更ながら落ち着かなかったが、これといって話をする必要もなく施術は終わった。
施術中も、そして最後に鏡で後頭部を見せてもらった時にも、はっきりとは分からなかったのだが、何となく注文の1.5センチカットより短くなっているような気がしていた。そして、イスから降りて自分が座っていた周りを見て愕然とした。カットされた髪が散らばっているのだが、それらは明らかに1.5センチ以上の長さがあった。中には3センチほどもあるのではないかと思える部分もあった。美容師と客でスケールの目盛りに相違があったようだ。Aさんでないということはこういうことなのだ。気分は晴れないが初対面だから仕方がないだろうと諦めることにした。帰宅してよくよく鏡を見てみると、やはりいつもの状態よりも短すぎる。夏場でもここまで短くしたことはなかった。首の後ろの方がスースーして風邪をひきそうだ。
今回の人以外にもスタッフはいるので、結果次第では次もそのお店に行こうかと思っていたが、やはり別の所を探そうと思った。Aさんが復帰するまでの間、私の美容室巡りは続くのだろうか。




