動くなと言われた瞬間、私は上司を殺した。
午前十時二分。
銀行の空調は、古い冷蔵庫のような低い音を立てていた。天井に埋め込まれた蛍光灯は白すぎて、カウンターの天板も、記入台に置かれたボールペンも、番号札を握る老人の指先も、どこか病院の備品のように見えた。
月曜日の朝だった。
週末に溜まった振込依頼と、窓口でしか処理できない相談と、何度説明しても通帳の見方を覚えない客とで、支店の空気はすでに鈍く濁っていた。誰もが礼儀正しい顔をしていたが、その奥では、早く昼になれと考えている。
私は受付カウンターの内側で、印鑑を手にしていた。
「高瀬」
背後から声がした。
佐伯課長だった。
私は振り向かなかった。振り向かなくても、彼がどんな顔をしているかはわかる。唇の片側だけを上げ、こちらを見下ろすように顎を引いている。自分より弱いものを見つけるとき、佐伯課長はいつもその顔をした。
「さっきの客、待たせすぎだ。お前、手際が悪いんだよ」
「申し訳ありません」
「申し訳ありません、じゃない。声が小さい。朝からそんな顔を見せられる客の身にもなれ」
隣の席の同僚が、聞こえないふりをして端末を叩いた。
私は頭を下げた。額にかかる髪が少し揺れた。佐伯課長の革靴が、カウンター下の床を一歩踏み鳴らす。
黒い靴だった。
毎朝、磨かれている。爪先に蛍光灯の光が映っている。人を踏むために磨かれたような靴だと、私は何度も思っていた。
「女は愛嬌だって言うだろ。無理ならせめて早く動け」
その言葉を聞いた瞬間、私の中で、何かが音もなく閉じた。
言い返す言葉はなかった。
銀行員は怒鳴らない。銀行員は感情を顔に出さない。銀行員は客にも上司にも逆らわない。そう教え込まれてきた。だから私は、何も言わずに印鑑を押そうとした。
そのときだった。
乾いた金属音が、支店の空気を裂いた。
自動ドアが乱暴に開き、黒いパーカーの男が飛び込んできた。フードを目深にかぶり、白いマスクで顔の半分を隠している。右手には拳銃があった。
最初、誰もそれを本物だとは思わなかった。
現実はいつも、冗談のふりをして入ってくる。
「動くな!」
男の声が響いた。
客も職員も、一斉に固まった。
番号札を持った老人が、口を開けたまま止まった。記入台の前にいた若い母親が、ベビーカーのハンドルを強く握った。後方で誰かのスマートフォンが床に落ち、鈍い音を立てた。
私は、手にしていた印鑑を落とした。
小さな円筒がカウンターの内側で跳ね、床を転がる。その音だけが、妙にはっきり聞こえた。
強盗の銃口は揺れていた。
慣れていない。そう思った。
目が泳いでいる。呼吸が浅い。左手が震えている。引き金にかかった指に、必要以上の力が入っている。
本当に撃つ人間の目ではない。
撃ってしまう人間の目だった。
「金を出せ! 早くしろ!」
男が叫んだ。
誰も動かなかった。
動けば撃たれる。動かなくても撃たれるかもしれない。支店の中にいる全員が、その二つの未来の間で凍っていた。
私はゆっくりと視線を落とした。
カウンターの下、足先で押せる位置に、非常通報ボタンがあった。赤い樹脂のカバーに守られた小さなボタンだ。普段は誰も見ない。研修では説明されるが、実際に押した者を私は知らない。
赤い色。
救いの色。
そのすぐ横に、黒い革靴があった。
佐伯課長の足だった。
彼は私の斜め後ろで固まっていた。いつもは大股で歩き、床を支配するように立つ男が、今は爪先だけで床にしがみついている。靴の甲が小刻みに震えていた。
私はその靴を見た。
黒い革。
赤いボタン。
黒い革。
赤いボタン。
ただ、それだけを見た。
目を逸らさなかった。
課長が私の視線に気づいた。
眉がわずかに動く。何を見ているのか、とでも言いたげだった。こんな時でさえ、私に対して苛立つ余裕があるらしい。その表情が、私の中に残っていた最後の迷いを消した。
私は瞬きをしなかった。
視線を固定する。
赤いボタン。
黒い革靴。
赤いボタン。
黒い革靴。
見ろ。
私は心の中で言った。
見ればいい。
佐伯課長の目が、私の目の先を追った。彼はようやく気づいた。自分の足のすぐ横に、非常通報ボタンがあることに。
その瞬間、彼の喉が小さく動いた。
押すべきか。
押せば助かるかもしれない。だが、動けば撃たれるかもしれない。彼は迷った。人に命令することには慣れていても、自分の命を賭けて判断することには慣れていなかった。
私はまだ見ていた。
強盗も、こちらを見た。
人間は、他人の視線に弱い。
誰かが一点を見つめていると、なぜそこを見ているのか知りたくなる。危険な場所ほど、見ずにはいられない。私はそれを知っていた。窓口に立つ人間は、客の目の動きで感情を読む。怒っている客は、まず手元を見る。嘘をつく客は、説明書類ではなく担当者の口元を見る。金に困っている客は、通帳の残高欄を何度も見返す。
目は、言葉より先に命令する。
強盗の視線が、私から佐伯課長へ移った。
佐伯課長の足が、ほんの半歩だけ動いた。
逃げるためではなかった。押すためでもなかった。たぶん、ただ恐怖で体重がずれただけだ。
けれど爪先が、赤いカバーに触れた。
軽い音がした。
強盗の顔が歪んだ。
「動くなって言っただろ!」
銃声が鳴った。
音は、想像していたよりも短かった。
白い閃光が視界の端で弾け、硝煙の匂いが空調の冷えた空気に混ざった。誰かが悲鳴を上げた。ベビーカーの中の赤ん坊が泣き出した。番号札が床に落ちた。
佐伯課長の体が、膝から崩れた。
黒い革靴が不自然な角度に曲がり、彼の手が宙をつかむ。口が開いた。何か言おうとしていたのかもしれない。だが言葉にはならなかった。
血が広がった。
赤いボタンの周囲に、もうひとつの赤が滲んでいく。
私は動かなかった。
悲鳴も上げなかった。
ただ、見ていた。
彼の頬が床に触れる瞬間まで、私は視線を外さなかった。いつも人を見下ろしていた男が、床と同じ高さまで落ちる。その光景を、私は一秒も取りこぼしたくなかった。
胸の奥から、息が漏れた。
それは恐怖の息ではなかった。
ずっと止めていた息だった。
強盗は、その後すぐに取り押さえられた。
非常通報ボタンは、押されていた。佐伯課長の靴が触れたのか、倒れ込む拍子に押されたのか、誰にもわからない。警備会社と警察が到着するまでの数分間、支店の中は壊れた時計の中のようだった。
事情聴取のとき、私は震えていた。
震えることは簡単だった。実際、指先は冷えていたし、膝にも力が入らなかった。刑事の前で、私は白いハンカチを握りしめた。
「何が起きたか、覚えていますか」
刑事が尋ねた。
「よく……覚えていません」
「あなたは、カウンターの下を見ていたようですね」
「非常ボタンが見えたんです。でも、怖くて……動けませんでした」
刑事は頷いた。
その頷き方を見て、私は、この人は私を疑っていないとわかった。
疑いようがない。
私は触れていない。押していない。叫んでいない。合図もしていない。命令もしていない。私はただ、そこを見ていただけだった。
人は視線では殺せない。
だから私は無罪だった。
葬儀には行かなかった。
体調が悪いと伝えた。支店長は無理をしなくていいと言った。事件の被害者なのだから、しばらく休んでいい、と。
被害者。
その言葉を聞いたとき、私は電話口で少しだけ笑いそうになった。
数日後、防犯カメラの映像がニュースで流れた。
テレビ画面の中で、私はカウンターの奥に立っていた。顔はぼかされている。だが自分にはわかる。肩の角度、首の傾き、動かない手。私は一箇所を見つめている。
画面の端に、佐伯課長の足が映っていた。
そのすぐ近くに、非常通報ボタンがある。
アナウンサーが言った。
「職員の女性が偶然、非常通報ボタンの方向に視線を向けていたことが、上司の男性の行動に影響した可能性もあります。ただ、警察は、男性が自ら通報を試みたと見て調べています」
偶然。
便利な言葉だと思った。
人は、理解したくないものを偶然と呼ぶ。
私はテレビを消した。
暗くなった画面に、自分の顔が映った。事件から数日しか経っていないのに、私は思ったより穏やかな顔をしていた。
唇の端が、わずかに上がっている。
すぐに消した。
その顔を、まだ長く見てはいけない気がした。
三か月後、私は銀行を辞めた。
表向きは、事件のショックによる退職だった。診断書も出た。支店の人たちは同情した。誰も引き止めなかった。あの場所に残るには、私はあまりにも多くのものを見すぎていた。
新しい職場は、駅前のカフェだった。
白いシャツに黒いエプロン。メニューを覚え、レジを打ち、客の注文を復唱する。銀行に比べれば、ずっと単純な仕事だった。客は苛立つこともあったが、現金を奪われる心配はない。銃声もない。血の匂いもない。
ある閉店間際のことだった。
店長が、私の淹れたコーヒーを見て舌打ちした。
「遅いんだよ。何回言えば覚えるの。君、前の職場でもそんな感じだったの?」
床を拭いていた手が止まった。
店内には客が一人だけ残っていた。窓際の席で、イヤホンをつけた若い男がパソコンを開いている。店長は私の横でレジ締めの画面を見ていた。カウンターの下には、業務用の延長コードが這っている。その先で、古い電気ポットが小さく唸っていた。
私は何も言わなかった。
店長の靴を見た。
安いスニーカーだった。
銀行の床を踏んでいた黒い革靴とは違う。磨かれていない。爪先に、薄くコーヒーの染みがついている。
そのすぐ横に、濡れた床があった。
モップの水が、まだ拭き取られずに光っている。
スニーカー。
濡れた床。
延長コード。
電気ポット。
私の視線は、自然にその順番をなぞった。
店長が眉をひそめた。
「何見てんの?」
私は顔を上げた。
「いえ」
「気持ち悪いな」
店長はそう言って、私の横を通り過ぎようとした。
私は動かなかった。
ただ、見ていた。
スニーカー。
濡れた床。
延長コード。
電気ポット。
世界は、思っていたより簡単に並び替えられる。
人を殺すのに、刃物はいらない。
銃もいらない。
手を下す必要さえない。
ただ、その人が次にどう動くかを知り、その動きの先にあるものを見つめていればいい。
店長の足が、水の上でわずかに滑った。
私は息を止めた。
しかし、彼は転ばなかった。カウンターに手をつき、舌打ちして体勢を立て直した。
「危ねえな。ちゃんと拭いとけよ」
「申し訳ありません」
私は頭を下げた。
失敗だった。
そう思った瞬間、自分の胸の奥が静かに熱くなった。
失敗。
私は今、そう思った。
人が死ななかったことを、失敗と呼んだ。
その事実に、私は少しだけ驚いた。そして、それ以上に安心した。
私はまだ、あの日のままだった。
閉店後、店の窓には、黒いガラスのように夜が貼りついていた。照明を落とした店内に、私の姿が映る。白いシャツ。黒いエプロン。疲れた顔。整えた前髪。
その目だけが、妙にはっきりしていた。
窓の中の私は、誰かを探していた。
佐伯課長の黒い革靴。
店長の汚れたスニーカー。
赤いボタン。
濡れた床。
世界には、人が死ぬための場所がいくつもある。
ほとんどの人は、それに気づかず歩いている。
私は窓に映った自分へ、ゆっくり微笑んだ。
次は、もっとよく見る。
誰にもわからないくらい静かに。
誰にも罪を問われないくらい正しく。
私は、視線を上げた。
暗いガラスの向こうで、街の信号が赤に変わった。




