表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

動くなと言われた瞬間、私は上司を殺した。

 午前十時。

 銀行の空調が低く唸り、誰もが午前の眠気を引きずっていた。

 その空気を裂いたのは、乾いた金属音だった。


 自動ドアが叩き開かれ、黒いパーカーの男が飛び込んできた。

 拳銃を構え、叫ぶ。

「動くな!」


 客も職員も一斉に固まる。

 時計の秒針の音がやけに大きい。

 私は受付カウンターの奥で、手にしていた印鑑を落とした。

 胸の奥で何かが静かに弾ける。


 男の視線が左右に動く。

 銃口が、揺れている。

 そして私は――足元を見た。


 赤い非常ボタン。

 助けの色。

 そのすぐ上に、黒い革靴。

 佐伯課長の足だ。

 いつも私を踏みにじってきた足。


 「女のくせに遅い」

 「声が小さい」

 「お前の顔、客が嫌がってるぞ」


 それを言われた日々の映像が、脳裏に浮かぶ。

 私はその靴の先を、無意識のように見つめた。

 だが、意識していた。

 これから何が起きるかを、頭の中で描いていた。


 視線を一点に固定する。

 長く、静かに。

 ただ、そこだけを見る。

 ボタン。

 革靴。

 その繰り返し。


 課長がわずかに眉をひそめた。

 私の視線の先を追う。

 ――何を見ている?

 唇がそう動いた。

 目の奥に小さな怒りが宿る。

 私はまばたきをしない。


 次の瞬間、強盗が彼を見た。

 銃口がゆっくりと向きを変える。

 課長が私と強盗の視線の交差に気づき、顔を引きつらせた。

 その足が、半歩ずれた。

 赤いボタンに、革靴のつま先が触れる。


 ――そこ。


 心の中で私は呟いた。

 まるで指示を送るように。

 強盗の目がその動きを捉えた。

「動くなって言っただろ!」


 銃声が響く。

 白い閃光。

 硝煙の匂い。

 課長の体が、膝から折れていく。

 血の色が赤いボタンの周囲に花のように広がる。


 私は微動だにしなかった。

 見届けるように、その光景を凝視した。

 彼の顔が床に触れる瞬間、私は静かに息を吐いた。

 それは、ずっと待っていた息だった。


 ――これでいい。


 警察が来た。

 私は震えながらも、指一本動かさずに事情を話した。

 「怖くて……動けませんでした」

 刑事は頷いた。

 視線の意味を、誰も知らなかった。


 数日後、テレビのニュースで防犯カメラの映像が流れた。

 私は強盗の横で、一点を見つめている。

 目の先に上司の足。

 アナウンサーが言った。

 「職員の女性が偶然視線を向けた先に、非常ボタンがあったようです」


 偶然、ね。


 テレビを消した。

 暗くなった画面に、私の顔が映る。

 唇の端が、ほんの少し上がっていた。


 三か月後。

 別の街、別の職場。

 カフェの制服に袖を通し、私は笑顔を作る。

 誰も、あの日のことを知らない。

 ただ、ふとした瞬間に思い出す。

 あの足の動き。

 銃声のタイミング。

 すべてが、私の中で完璧に噛み合っていた。


 夜、閉店後の窓に自分の姿が映る。

 その目が、誰かを見ている。

 次は、誰を見ようか――。


 私はゆっくりと微笑んだ。

 光の消えたガラスに、静かな笑いが滲んでいた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ