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動くなと言われた瞬間、私は上司を殺した。

掲載日:2025/11/02

 午前十時二分。

 銀行の空調は、古い冷蔵庫のような低い音を立てていた。天井に埋め込まれた蛍光灯は白すぎて、カウンターの天板も、記入台に置かれたボールペンも、番号札を握る老人の指先も、どこか病院の備品のように見えた。

 月曜日の朝だった。

 週末に溜まった振込依頼と、窓口でしか処理できない相談と、何度説明しても通帳の見方を覚えない客とで、支店の空気はすでに鈍く濁っていた。誰もが礼儀正しい顔をしていたが、その奥では、早く昼になれと考えている。

 私は受付カウンターの内側で、印鑑を手にしていた。

「高瀬」

 背後から声がした。

 佐伯課長だった。

 私は振り向かなかった。振り向かなくても、彼がどんな顔をしているかはわかる。唇の片側だけを上げ、こちらを見下ろすように顎を引いている。自分より弱いものを見つけるとき、佐伯課長はいつもその顔をした。

「さっきの客、待たせすぎだ。お前、手際が悪いんだよ」

「申し訳ありません」

「申し訳ありません、じゃない。声が小さい。朝からそんな顔を見せられる客の身にもなれ」

 隣の席の同僚が、聞こえないふりをして端末を叩いた。

 私は頭を下げた。額にかかる髪が少し揺れた。佐伯課長の革靴が、カウンター下の床を一歩踏み鳴らす。

 黒い靴だった。

 毎朝、磨かれている。爪先に蛍光灯の光が映っている。人を踏むために磨かれたような靴だと、私は何度も思っていた。

「女は愛嬌だって言うだろ。無理ならせめて早く動け」

 その言葉を聞いた瞬間、私の中で、何かが音もなく閉じた。

 言い返す言葉はなかった。

 銀行員は怒鳴らない。銀行員は感情を顔に出さない。銀行員は客にも上司にも逆らわない。そう教え込まれてきた。だから私は、何も言わずに印鑑を押そうとした。

 そのときだった。

 乾いた金属音が、支店の空気を裂いた。

 自動ドアが乱暴に開き、黒いパーカーの男が飛び込んできた。フードを目深にかぶり、白いマスクで顔の半分を隠している。右手には拳銃があった。

 最初、誰もそれを本物だとは思わなかった。

 現実はいつも、冗談のふりをして入ってくる。

「動くな!」

 男の声が響いた。

 客も職員も、一斉に固まった。

 番号札を持った老人が、口を開けたまま止まった。記入台の前にいた若い母親が、ベビーカーのハンドルを強く握った。後方で誰かのスマートフォンが床に落ち、鈍い音を立てた。

 私は、手にしていた印鑑を落とした。

 小さな円筒がカウンターの内側で跳ね、床を転がる。その音だけが、妙にはっきり聞こえた。

 強盗の銃口は揺れていた。

 慣れていない。そう思った。

 目が泳いでいる。呼吸が浅い。左手が震えている。引き金にかかった指に、必要以上の力が入っている。

 本当に撃つ人間の目ではない。

 撃ってしまう人間の目だった。

「金を出せ! 早くしろ!」

 男が叫んだ。

 誰も動かなかった。

 動けば撃たれる。動かなくても撃たれるかもしれない。支店の中にいる全員が、その二つの未来の間で凍っていた。

 私はゆっくりと視線を落とした。

 カウンターの下、足先で押せる位置に、非常通報ボタンがあった。赤い樹脂のカバーに守られた小さなボタンだ。普段は誰も見ない。研修では説明されるが、実際に押した者を私は知らない。

 赤い色。

 救いの色。

 そのすぐ横に、黒い革靴があった。

 佐伯課長の足だった。

 彼は私の斜め後ろで固まっていた。いつもは大股で歩き、床を支配するように立つ男が、今は爪先だけで床にしがみついている。靴の甲が小刻みに震えていた。

 私はその靴を見た。

 黒い革。

 赤いボタン。

 黒い革。

 赤いボタン。

 ただ、それだけを見た。

 目を逸らさなかった。

 課長が私の視線に気づいた。

 眉がわずかに動く。何を見ているのか、とでも言いたげだった。こんな時でさえ、私に対して苛立つ余裕があるらしい。その表情が、私の中に残っていた最後の迷いを消した。

 私は瞬きをしなかった。

 視線を固定する。

 赤いボタン。

 黒い革靴。

 赤いボタン。

 黒い革靴。

 見ろ。

 私は心の中で言った。

 見ればいい。

 佐伯課長の目が、私の目の先を追った。彼はようやく気づいた。自分の足のすぐ横に、非常通報ボタンがあることに。

 その瞬間、彼の喉が小さく動いた。

 押すべきか。

 押せば助かるかもしれない。だが、動けば撃たれるかもしれない。彼は迷った。人に命令することには慣れていても、自分の命を賭けて判断することには慣れていなかった。

 私はまだ見ていた。

 強盗も、こちらを見た。

 人間は、他人の視線に弱い。

 誰かが一点を見つめていると、なぜそこを見ているのか知りたくなる。危険な場所ほど、見ずにはいられない。私はそれを知っていた。窓口に立つ人間は、客の目の動きで感情を読む。怒っている客は、まず手元を見る。嘘をつく客は、説明書類ではなく担当者の口元を見る。金に困っている客は、通帳の残高欄を何度も見返す。

 目は、言葉より先に命令する。

 強盗の視線が、私から佐伯課長へ移った。

 佐伯課長の足が、ほんの半歩だけ動いた。

 逃げるためではなかった。押すためでもなかった。たぶん、ただ恐怖で体重がずれただけだ。

 けれど爪先が、赤いカバーに触れた。

 軽い音がした。

 強盗の顔が歪んだ。

「動くなって言っただろ!」

 銃声が鳴った。

 音は、想像していたよりも短かった。

 白い閃光が視界の端で弾け、硝煙の匂いが空調の冷えた空気に混ざった。誰かが悲鳴を上げた。ベビーカーの中の赤ん坊が泣き出した。番号札が床に落ちた。

 佐伯課長の体が、膝から崩れた。

 黒い革靴が不自然な角度に曲がり、彼の手が宙をつかむ。口が開いた。何か言おうとしていたのかもしれない。だが言葉にはならなかった。

 血が広がった。

 赤いボタンの周囲に、もうひとつの赤が滲んでいく。

 私は動かなかった。

 悲鳴も上げなかった。

 ただ、見ていた。

 彼の頬が床に触れる瞬間まで、私は視線を外さなかった。いつも人を見下ろしていた男が、床と同じ高さまで落ちる。その光景を、私は一秒も取りこぼしたくなかった。

 胸の奥から、息が漏れた。

 それは恐怖の息ではなかった。

 ずっと止めていた息だった。

 強盗は、その後すぐに取り押さえられた。

 非常通報ボタンは、押されていた。佐伯課長の靴が触れたのか、倒れ込む拍子に押されたのか、誰にもわからない。警備会社と警察が到着するまでの数分間、支店の中は壊れた時計の中のようだった。

 事情聴取のとき、私は震えていた。

 震えることは簡単だった。実際、指先は冷えていたし、膝にも力が入らなかった。刑事の前で、私は白いハンカチを握りしめた。

「何が起きたか、覚えていますか」

 刑事が尋ねた。

「よく……覚えていません」

「あなたは、カウンターの下を見ていたようですね」

「非常ボタンが見えたんです。でも、怖くて……動けませんでした」

 刑事は頷いた。

 その頷き方を見て、私は、この人は私を疑っていないとわかった。

 疑いようがない。

 私は触れていない。押していない。叫んでいない。合図もしていない。命令もしていない。私はただ、そこを見ていただけだった。

 人は視線では殺せない。

 だから私は無罪だった。

 葬儀には行かなかった。

 体調が悪いと伝えた。支店長は無理をしなくていいと言った。事件の被害者なのだから、しばらく休んでいい、と。

 被害者。

 その言葉を聞いたとき、私は電話口で少しだけ笑いそうになった。

 数日後、防犯カメラの映像がニュースで流れた。

 テレビ画面の中で、私はカウンターの奥に立っていた。顔はぼかされている。だが自分にはわかる。肩の角度、首の傾き、動かない手。私は一箇所を見つめている。

 画面の端に、佐伯課長の足が映っていた。

 そのすぐ近くに、非常通報ボタンがある。

 アナウンサーが言った。

「職員の女性が偶然、非常通報ボタンの方向に視線を向けていたことが、上司の男性の行動に影響した可能性もあります。ただ、警察は、男性が自ら通報を試みたと見て調べています」

 偶然。

 便利な言葉だと思った。

 人は、理解したくないものを偶然と呼ぶ。

 私はテレビを消した。

 暗くなった画面に、自分の顔が映った。事件から数日しか経っていないのに、私は思ったより穏やかな顔をしていた。

 唇の端が、わずかに上がっている。

 すぐに消した。

 その顔を、まだ長く見てはいけない気がした。

 三か月後、私は銀行を辞めた。

 表向きは、事件のショックによる退職だった。診断書も出た。支店の人たちは同情した。誰も引き止めなかった。あの場所に残るには、私はあまりにも多くのものを見すぎていた。

 新しい職場は、駅前のカフェだった。

 白いシャツに黒いエプロン。メニューを覚え、レジを打ち、客の注文を復唱する。銀行に比べれば、ずっと単純な仕事だった。客は苛立つこともあったが、現金を奪われる心配はない。銃声もない。血の匂いもない。

 ある閉店間際のことだった。

 店長が、私の淹れたコーヒーを見て舌打ちした。

「遅いんだよ。何回言えば覚えるの。君、前の職場でもそんな感じだったの?」

 床を拭いていた手が止まった。

 店内には客が一人だけ残っていた。窓際の席で、イヤホンをつけた若い男がパソコンを開いている。店長は私の横でレジ締めの画面を見ていた。カウンターの下には、業務用の延長コードが這っている。その先で、古い電気ポットが小さく唸っていた。

 私は何も言わなかった。

 店長の靴を見た。

 安いスニーカーだった。

 銀行の床を踏んでいた黒い革靴とは違う。磨かれていない。爪先に、薄くコーヒーの染みがついている。

 そのすぐ横に、濡れた床があった。

 モップの水が、まだ拭き取られずに光っている。

 スニーカー。

 濡れた床。

 延長コード。

 電気ポット。

 私の視線は、自然にその順番をなぞった。

 店長が眉をひそめた。

「何見てんの?」

 私は顔を上げた。

「いえ」

「気持ち悪いな」

 店長はそう言って、私の横を通り過ぎようとした。

 私は動かなかった。

 ただ、見ていた。

 スニーカー。

 濡れた床。

 延長コード。

 電気ポット。

 世界は、思っていたより簡単に並び替えられる。

 人を殺すのに、刃物はいらない。

 銃もいらない。

 手を下す必要さえない。

 ただ、その人が次にどう動くかを知り、その動きの先にあるものを見つめていればいい。

 店長の足が、水の上でわずかに滑った。

 私は息を止めた。

 しかし、彼は転ばなかった。カウンターに手をつき、舌打ちして体勢を立て直した。

「危ねえな。ちゃんと拭いとけよ」

「申し訳ありません」

 私は頭を下げた。

 失敗だった。

 そう思った瞬間、自分の胸の奥が静かに熱くなった。

 失敗。

 私は今、そう思った。

 人が死ななかったことを、失敗と呼んだ。

 その事実に、私は少しだけ驚いた。そして、それ以上に安心した。

 私はまだ、あの日のままだった。

 閉店後、店の窓には、黒いガラスのように夜が貼りついていた。照明を落とした店内に、私の姿が映る。白いシャツ。黒いエプロン。疲れた顔。整えた前髪。

 その目だけが、妙にはっきりしていた。

 窓の中の私は、誰かを探していた。

 佐伯課長の黒い革靴。

 店長の汚れたスニーカー。

 赤いボタン。

 濡れた床。

 世界には、人が死ぬための場所がいくつもある。

 ほとんどの人は、それに気づかず歩いている。

 私は窓に映った自分へ、ゆっくり微笑んだ。

 次は、もっとよく見る。

 誰にもわからないくらい静かに。

 誰にも罪を問われないくらい正しく。

 私は、視線を上げた。

 暗いガラスの向こうで、街の信号が赤に変わった。



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