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動くなと言われた瞬間、私は上司を殺した。

作者: 妙原奇天
掲載日:2025/11/02

 午前十時。

 銀行の空調が低く唸り、誰もが午前の眠気を引きずっていた。

 その空気を裂いたのは、乾いた金属音だった。


 自動ドアが叩き開かれ、黒いパーカーの男が飛び込んできた。

 拳銃を構え、叫ぶ。

「動くな!」


 客も職員も一斉に固まる。

 時計の秒針の音がやけに大きい。

 私は受付カウンターの奥で、手にしていた印鑑を落とした。

 胸の奥で何かが静かに弾ける。


 男の視線が左右に動く。

 銃口が、揺れている。

 そして私は――足元を見た。


 赤い非常ボタン。

 助けの色。

 そのすぐ上に、黒い革靴。

 佐伯課長の足だ。

 いつも私を踏みにじってきた足。


 「女のくせに遅い」

 「声が小さい」

 「お前の顔、客が嫌がってるぞ」


 それを言われた日々の映像が、脳裏に浮かぶ。

 私はその靴の先を、無意識のように見つめた。

 だが、意識していた。

 これから何が起きるかを、頭の中で描いていた。


 視線を一点に固定する。

 長く、静かに。

 ただ、そこだけを見る。

 ボタン。

 革靴。

 その繰り返し。


 課長がわずかに眉をひそめた。

 私の視線の先を追う。

 ――何を見ている?

 唇がそう動いた。

 目の奥に小さな怒りが宿る。

 私はまばたきをしない。


 次の瞬間、強盗が彼を見た。

 銃口がゆっくりと向きを変える。

 課長が私と強盗の視線の交差に気づき、顔を引きつらせた。

 その足が、半歩ずれた。

 赤いボタンに、革靴のつま先が触れる。


 ――そこ。


 心の中で私は呟いた。

 まるで指示を送るように。

 強盗の目がその動きを捉えた。

「動くなって言っただろ!」


 銃声が響く。

 白い閃光。

 硝煙の匂い。

 課長の体が、膝から折れていく。

 血の色が赤いボタンの周囲に花のように広がる。


 私は微動だにしなかった。

 見届けるように、その光景を凝視した。

 彼の顔が床に触れる瞬間、私は静かに息を吐いた。

 それは、ずっと待っていた息だった。


 ――これでいい。


 警察が来た。

 私は震えながらも、指一本動かさずに事情を話した。

 「怖くて……動けませんでした」

 刑事は頷いた。

 視線の意味を、誰も知らなかった。


 数日後、テレビのニュースで防犯カメラの映像が流れた。

 私は強盗の横で、一点を見つめている。

 目の先に上司の足。

 アナウンサーが言った。

 「職員の女性が偶然視線を向けた先に、非常ボタンがあったようです」


 偶然、ね。


 テレビを消した。

 暗くなった画面に、私の顔が映る。

 唇の端が、ほんの少し上がっていた。


 三か月後。

 別の街、別の職場。

 カフェの制服に袖を通し、私は笑顔を作る。

 誰も、あの日のことを知らない。

 ただ、ふとした瞬間に思い出す。

 あの足の動き。

 銃声のタイミング。

 すべてが、私の中で完璧に噛み合っていた。


 夜、閉店後の窓に自分の姿が映る。

 その目が、誰かを見ている。

 次は、誰を見ようか――。


 私はゆっくりと微笑んだ。

 光の消えたガラスに、静かな笑いが滲んでいた。

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