動くなと言われた瞬間、私は上司を殺した。
午前十時。
銀行の空調が低く唸り、誰もが午前の眠気を引きずっていた。
その空気を裂いたのは、乾いた金属音だった。
自動ドアが叩き開かれ、黒いパーカーの男が飛び込んできた。
拳銃を構え、叫ぶ。
「動くな!」
客も職員も一斉に固まる。
時計の秒針の音がやけに大きい。
私は受付カウンターの奥で、手にしていた印鑑を落とした。
胸の奥で何かが静かに弾ける。
男の視線が左右に動く。
銃口が、揺れている。
そして私は――足元を見た。
赤い非常ボタン。
助けの色。
そのすぐ上に、黒い革靴。
佐伯課長の足だ。
いつも私を踏みにじってきた足。
「女のくせに遅い」
「声が小さい」
「お前の顔、客が嫌がってるぞ」
それを言われた日々の映像が、脳裏に浮かぶ。
私はその靴の先を、無意識のように見つめた。
だが、意識していた。
これから何が起きるかを、頭の中で描いていた。
視線を一点に固定する。
長く、静かに。
ただ、そこだけを見る。
ボタン。
革靴。
その繰り返し。
課長がわずかに眉をひそめた。
私の視線の先を追う。
――何を見ている?
唇がそう動いた。
目の奥に小さな怒りが宿る。
私はまばたきをしない。
次の瞬間、強盗が彼を見た。
銃口がゆっくりと向きを変える。
課長が私と強盗の視線の交差に気づき、顔を引きつらせた。
その足が、半歩ずれた。
赤いボタンに、革靴のつま先が触れる。
――そこ。
心の中で私は呟いた。
まるで指示を送るように。
強盗の目がその動きを捉えた。
「動くなって言っただろ!」
銃声が響く。
白い閃光。
硝煙の匂い。
課長の体が、膝から折れていく。
血の色が赤いボタンの周囲に花のように広がる。
私は微動だにしなかった。
見届けるように、その光景を凝視した。
彼の顔が床に触れる瞬間、私は静かに息を吐いた。
それは、ずっと待っていた息だった。
――これでいい。
警察が来た。
私は震えながらも、指一本動かさずに事情を話した。
「怖くて……動けませんでした」
刑事は頷いた。
視線の意味を、誰も知らなかった。
数日後、テレビのニュースで防犯カメラの映像が流れた。
私は強盗の横で、一点を見つめている。
目の先に上司の足。
アナウンサーが言った。
「職員の女性が偶然視線を向けた先に、非常ボタンがあったようです」
偶然、ね。
テレビを消した。
暗くなった画面に、私の顔が映る。
唇の端が、ほんの少し上がっていた。
三か月後。
別の街、別の職場。
カフェの制服に袖を通し、私は笑顔を作る。
誰も、あの日のことを知らない。
ただ、ふとした瞬間に思い出す。
あの足の動き。
銃声のタイミング。
すべてが、私の中で完璧に噛み合っていた。
夜、閉店後の窓に自分の姿が映る。
その目が、誰かを見ている。
次は、誰を見ようか――。
私はゆっくりと微笑んだ。
光の消えたガラスに、静かな笑いが滲んでいた。




