05_ついに陥落、おためしへ
午後、わたしはラークの淹れてくれた温かいカフェラテを飲みながら、彼が料理するところを眺めていた。
彼の野菜を切る手つきは本当に洗練されていて、あっという間に小さく形を変えていく。火加減を調整する横顔は真剣で、なんとなく、胃とか胸のあたりがざわついた。
空腹なのか。それとも別の感情なのか。いまいちわからない。とりあえず、小屋いっぱいに漂ういいにおいが、たまらない……
「完成」
ぱかりと蓋をあけて、お鍋を覗きこんだラークが大きく頷く。彼の魔力で長時間ことこと煮込んで出来上がったのは、冬の定番、ビーフシチューだった。
彼は二人分を皿によそって、ことりとダイニングテーブルに並べた。目をキラキラさせて、完璧なシチューを観察する。艶やかな茶色のルーがかかったお肉やお野菜から、ほかほかと湯気が立っている。食べたい。これを今すぐ。それしか頭に浮かばない。
「……どうぞ、僕の美しいお姫様」
「ありがとうございます、いただきます……!」
口から魂が抜けそうなキザな台詞も、右耳から左耳に通り抜けていく。スプーンを手に取り、神聖な儀式のように厳かに掬って、そっと口に運ぶ。わたしが触れても冷たくはならない。すごい。
「…………はわぁ」
一口食べて、頬をおさえた。この人生でほっぺたが落ちる瞬間があるとしたら、今しかない。それくらい美味だ。
とろとろに煮込まれたお肉は、口の中でほどけてしまうほどに柔らかく、味がなかまでしみこんで……天にも昇ってしまいそうな絶品だった。
わたしは夢中でスプーンを動かして、気がついたらお皿が空になっていた。
「どうだった?」
「おいしかったです……!人生で最高の瞬間でした……!」
「それは良かった。いつでも作ってあげるから、僕と結婚しよう」
「………………………や、無理、です」
「明日までゆっくり考えていいよ」
今度こそ、わたしは彼の求婚を即否定できなくなっていた。一方、くすりと笑ったラークには、余裕すら漂っている。
悔しいが、立場は完全に逆転していた。胃をがっしと掴まれたわたしの心は、不安定にぐらぐら揺れまくり、それを隠し通す余裕など、ほとんど残ってはいなかった。
……それにしてもおいしかった。シチュー最高。何ならシチューと結婚したい。でも、少食のわたしは、おかわりしたくてもこれ以上入らない。
「時空魔術が使えたら、食べる前に時間を戻すのに……!」
アホなことを言いながら悶絶していると、食後のデザートのピスタチオアイスを食べていたラークが、「ちょっとお願いがあるんだけどいいかな」とすまなさそうに声をかけてきた。
+++++
……彼のお願いとは、「お風呂を貸してほしい」ということだった。今日は長時間キッチンに立っていたため、あちこちに、においとか汚れがついたのが気になって、できればさっぱりしたいという申し出だったのだが……
「君はいつもこんなお風呂に入ってたの……」
「はい……」
ラークを浴室に案内したわたしは、思わず俯いた。
雪が詰まった風呂桶と、寒々しく冷えきった浴室。そしてわたしを順番に見て、ラークは哀れみに満ちた表情を浮かべた。
当然ながらわたしはお湯が沸かせないため、シャリシャリの雪風呂に入るしかない。不可抗力だ。
でも、こんな情けないお風呂をラークに見られてしまい、自分の欠陥を突きつけられた気がして、とても恥ずかしくなった。しょんぼり項垂れていると、彼はこんもり雪が積もった桶に歩み寄って、そっと手をかざした。
「……僕は、君とならどこでだって暮らしていけそうだ」
彼はにこりと笑って振り向いた。
いつの間にか、風呂桶のなかの雪が溶けてお湯に変わっている。浴室全体も温かい。彼が温度を調節してくれたのだろう。
すごい。あまりに驚いて風呂桶を凝視していると、「良かったら、後で君の分のお湯もわかしてあげるよ」と彼が言った。
「いいんですか……!?」
「もちろん」
「ありがとうございます!」
お湯のお風呂。いつぶりだろう。期待に胸がわくわくした。
ラークが上がったあと、一度風呂桶のお湯を抜いて、気合いを入れて雪を降らせた。いつもより多めになってしまったのは仕方ない。
風呂上がりのラークが、風呂桶の小さな雪山に「すごいなぁ」と感心している。……彼の黒い濡れ髪がなんだか色っぽくて、ちょっと直視できない。
「あんまり熱いとのぼせるだろうから、ぬるめにしておくね」
彼は再び雪に手をかざして、魔力を注ぐ。そうすると、あっという間に雪が溶けて、湯気が立ちはじめた。なんということでしょう。お湯だ。この浴室にお湯がある。
「うわぁ……素敵……!」
「じゃあごゆっくり」
目を輝かせて、風呂桶を覗きこんでいると、ラークはまるで自分の家のように言って、浴室から出ていった。
よっしゃあ、レッツ風呂タイム!
+++++
簡潔に言おう。久々のお風呂、すごかった。感動した。
「ほわぁ……!」
お湯を掬って落としたり、水面をパシャンと叩いてみたり、潜ったり。楽しい。お風呂最高。
お湯と戯れまくっていたわたしは、自分の歓声や水の跳ねる音が浴室の外まで響いて、それを聞いていた男に「ほんとかわいいなぁ……」と呟かれていたことに気づかなかった。
軽くのぼせかけたけど、とにかく楽しかった。それしか言うことはない。
「お風呂上がりましたよ。いいお湯でした」
浴室から出て髪を拭きながら、ソファでくつろぐラークに声をかける。すると彼は振り返って、わずかに目を見開いた。
彼はオレンジの目を丸くして、吸い寄せられるように、わたしをじっと見た。そして、どこか上の空な表情を浮かべてふらりと立ち上がると、ふわふわした足取りで歩み寄ってくる。
すぐ近くまで来て、ほこほこと頬を赤くしたわたしを、彼は何とも言えない顔で見下ろした。そして「これは目の毒だなぁ……」と困った顔で笑った。
何か悪いことでもしたんだろうか。少し不安になって、わたしは彼の鮮やかなオレンジ色の瞳を覗きこんだ。
……けれどそこに宿っていたのは、見たことのない不思議な光だけだった。
「少しだけ触れてもいいかな」
「………………………はい」
ものすごく間を置いてから、頷いて顔を伏せた。もう、それを拒否する理由はなかった。
ドキドキしながら目を瞑っていると、固くてゴツゴツした指が、壊れ物にさわるようにそっと頬に触れた。
触れられたところからじんわりと熱が灯って、身体中に温かさが広がっていく。これはラークの魔力なのか、わたしの動悸のせいなのか、よくわからない。
でも、胸の奥が温まるようなその感覚は、けして嫌ではなかった。
指が優しく頬を滑っていく。じっとしてされるがままになっていると、目の前の男が深くため息をついて天井をあおいだ。
「星神の誓約がなかったら、本当に危なかったなぁ……」
三日目の朝。
もちろん星神の誓約があるから、寝室は当然別で、わたしたちは朝を迎えた。
そんなことより朝食だ。ほかほかの焼きたてワッフルに、ふわふわスクランブルエッグ、ぱりっと焼けたソーセージ。なぜか目の下に隈を作ったラークが、丁寧に紅茶を入れながら、母国の話をしてくれた。
「僕の国でも紅茶はよく飲むんだ。君の国のもおいしいけど、うちの国の紅茶も飲ませてあげたいな。
そうそう。僕の国には海があってね、コバルトブルーの水のなかに、きれいな色の魚がたくさん泳いでるんだ。特に、砂漠の畔にある海は透明度が高いから、底までよく見える。いつか君に見せたいな。なんなら泳ぐこともできるし」
「…………海水浴かぁ」
お風呂であれだけ楽しかったのに、海水浴なんて想像を絶する。そりゃ行きたいに決まってる。
この悪魔め……!と思いながら悶絶していると、
「一度僕の国に来てみたらどうかな。それで結婚するかどうか判断するのもありだと思う」
と彼は真面目な顔で畳み掛けてきた。
「そ、そうかな?」
「そうだよ。百聞は一見にしかずって言うしね」
「…………わかりました。では、行ってみます」
悪魔のようなえげつない誘惑をする彼に、わたしはついに、陥落してしまった。