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狂い

ーーー狂い




それはまるで、ゆっくりとゆっくりと染み入るように―。




 好きだった。愛していた。確かにそこに親愛はあった。しかし、今となってはすべて過去のことで、いつしかそれはゆがみを帯びていた。




 最後に一人で外を歩いたのはいつだろうか。肌は色を忘れたように青白く、手首は折れそうなほどに細い。その姿は生を感じさせず、瞳はうつろなまま何もとらえていない。




 高層マンションの最上階、ここから飛び降りることができたらどれほど楽か。見えない鎖はいつもついたままで、死ぬことすら許されない。ゆっくりと手を持ち上げて窓ガラスに触れる。ひやりとした冷たさが手のひらを通して伝わってくる。








 今となっては彼を何と表現していいのかわからない。かつて弟と呼んでいた男は支配者に変わっていた。国家の最高機密機関【陰陽師】。平安の世、いや、その前から受け継がれる力を用いて、今日の政は行われている。そして、その最高位にいるのが彼だった。権力に執着の無かった弟はあの日を境に変わった。何を欲しているのかもわからず、ただひたすらその力をふるう。その姿は鬼神のようだった。






 5年前。あの日も空は晴れわたっていた。時を忘れたように、風は流れていた。仕事と呼ぶほどでもない、妖の小さないたずらをやめさせるために赴いた少し離れた神社から帰ったとこだった。あのころはまだ”本家”と呼ばれるものが機能していて、家族で本家の離れに住んでいた。大きな門の横にある小さな入口を開けた時、屋敷の異変に気が付いた。


 物音一つしない家の中から異様な妖気があふれ出ていた。その中にかすかに交る弟の力。しかし、それ以外感じなかった。人が呼吸するのと同じように力も自然と体にまとわりついている。それを消すのは呼吸を止めるのと同じように難しい。しかし、今その力を弟以外感じない。いつもなら力があふれかえっているこの屋敷ではありえないこと。ぞっと背中に何かが走った。鼓動が響く。そんなはずはない。ありえない。己の中の最悪の状況に呼吸が早まる。


「真人?」


何もない空間に呼びかける。あたりは静寂に包まれたまま。太陽は容赦なくその熱で実紀を焦がした。




――がたっ




「ッ!」


小さな物音に過剰に反応してしまう。音の先に目を向ける。いや、目を向ける前に気づいてしまった。普段と何ら変わりない弟。しかし、感じる力は恐ろしく大きく、まがまがしい。




 ゆっくりと顔を上げる真人。目があった瞬間、優しく、優しく笑った眼は今の状況にあまりに似つかわしくなくて、その瞳の奥の深さが怖かった。不自然に呼吸が上がる。口の中が乾く。のどから声が出ない。ここにいるだけで精いっぱいだった。










 その時間は何十分にも何時間にも、また逆に数十秒だったのかもしれない。真人はあの笑みを向けたまま、何も言わない。風がゆったりと二人の間を流れる。まるですべてを知らせるようにかすかな鉄の、血の匂いを載せて。




 見なかったことにはできない。知らなかったことにはできない。何よりも、魔の前の光景が信じられない。知らなければならない。止めなければならない。震える足に力を込め、顔を上げる。




「…ぅいうことなの」




渇いたのどは音をかすらせ、声は震えていた。しかし、その瞳は確かな光を宿しまっすぐ前を、真人を見据えている。しかし、真人はどこまで続くのかわからないような深い瞳を笑みでかくし告げる。




「みんな殺したんだ。父上も、母上も…、さすがに御当主様と側近は手こずったけどね」




 世間話でもするかのように軽やかに話す弟。音が耳を通り抜ける。何度も、何度も頭の中で繰り返す。一歩、二歩、めまいにも似たようにその場を後ずさる。恐怖。そして、湧き上がる怒り。




「っして!どうしてっ!」




悲鳴のように叫ぶ。弟はゆっくりと音をたてないように近づき、まるであやすように姉の体を抱きしめる。動けないでいる姉の耳元でそっと小さな声でささやく。




「どうしてって、力がほしかったからに決まってるでしょ。」




弟の腕から逃れようと実紀はもがくが、力の差は歴然であり、逃れることはできない。もがけばもがくほど締め付けはきつくなり、取り囲む力も大きくなる。これほどまでの力を感じたことはない。己が呑み込まれていく恐怖。苦しさが限界を迎えようとしたとき、弟はその腕を解き、姉の頬を両の掌で優しく包み目線を合わせる。




「姉さん、僕が憎い?」




なんと言い表せばいいのかわからない。驚き、怒り、恐怖。様々な感情が入り混じる。気づいた時には頬を涙が伝って流れていた。


 真人は優しく微笑むと味わうようにその涙に何度も何度も繰り返しキスをした。そして、最後にゆっくり、かすかに震える唇にほんの一瞬、己の唇を重ね、少しさびしそうな笑顔を浮かべた。その瞳は実紀だけを捕えていた。


 すべてを遮断するように瞳を閉じていた実紀にはその姿は見えず、弟の手が首筋に触れたことに気づいた瞬間、焦がすような熱を感じ意識はそこで途切れた。


 








 物音がしたと思う。そう大きな音ではなく、控えめな音が何度か。真綿に包まれたように、逆に泥沼に落ちていくように体は起きようとはせず、力が入らない。窓から入る太陽の光が心地よく、頭をなでる手はどこまでも温かい。できることならずっとこのまま、ここに身を投じていたい。しかし、そんな願いも開いた瞼の先を捕えた瞬間はかなく消える。突然感じる多くの光は閉じていた眼には刺激が強く思わずもう一度瞼を落としてしまう。しかし、一瞬見えた自分を見下ろす男。温かい手の先にいたのは彼だった。逆光でうまく顔は見えなかったが、口元が緩く弧を描いていたことは見えた。動かないからだに力が入る。そんな様子に気づいたのか、頭を撫でていた手はとまり、上から覗きこまれる。一瞬交わる視線。先にそらしたのは彼だった。太陽を見上げ、まぶしそうに目を細めている。




「おはよう、姉さん」




そしてもう一度こちらを向き、額にかかる前髪を横に流す。数秒目を合わせた後ゆっくりと立ち上がり、軽く伸びをしながら部屋をさる彼。体に入っていた力が抜ける。ほっと息をついた後、見上げた太陽はまぶしく、部屋の白を、より明るくさせた。




 ここがどこなのかなどという質問は浮かばなかった。無機質な部屋は生活感がなく、ベッドが一つ置かれているだけだった。窓から見える景色は高く、遠くの空とビルが写っていた。




真人が使うために置かれているであろうベッドは実紀には大きく、その多くを持て余していた。


何の音もしない部屋。手を持ち上げようとして、力が入らないことに気づく。全身が鉛のように重い。


思考が鈍くなる。




――――ガチャ




「姉さん。」




無意識に体が強張った。彼がこちらに来る。ベッドサイドに腰かけた彼の膝のトレーにはコップと器が載っていた。視界の隅にそれを捉えつつも実紀の視線は逆を向く。




「起きれる?」




その言葉と同時に真人の腕が首と背に回され実紀の体を起こした。そして自分の身体にもたれかからせるようにすると、トレーからコップを差し出した。重たい体は自分の意志では動かせず、受け取る気にもなれず、視線をそれからそらした。




「ちゃんと食べてね。手荒なことはしたくないんだ。」




そういうとコップをトレーに戻し、その手を実紀の首筋に向かって伸ばした。コップの冷たさを移したのか、ひやりと彼の手が首筋に触れた。意識を失う前に感じた熱を思い出し、実紀の身体に不自然な力が入る。




何度か首筋を撫でた後、ゆっくりとその手が下り鎖骨を通り左の胸につく。導かれるように視線が手を追った。緩くはだけた胸元にある紋様に実紀の目が見開かれた。心臓が否や音を立て激しく打つ。呼吸が浅くなる。




「僕が守るよ」




そう言って実紀の胸元に刻まれた模様をなぞる指先は優しくて余計に恐ろしさを感じさせる。かみ合わない奥歯がカチカチとなる。その紋様は資料で見たことしかなかった。古き時代に使われていた、人を使役する術。生きることも死ぬことも、術者に委ねられるその術。一方でその反動として術者の命が削られるため今では禁術とされていた。




「――っあ、あぁ…、あぁぁ――っ…。」




嗚咽にも似た音を漏らしながら実紀の身体が前に傾いた。その身を守るように体を丸める。真人の指先が支えるように左の肩に移動した。




言葉にならない音を漏らしながらひきつった呼吸を繰り返す。それをなだめるように彼の手が肩を小さくたたく。そこから余計に彼の存在を感じ、心臓がぎゅっと縮まる。






「僕が守るよ」




いつの間にか、肩から頭に移動していた手が髪をすくった。そこに口づけ、告げられた言葉に感じたのは何だったのか。








色を失った瞳は暗く沈んだ。



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