5.柵の向こう
1.
怜の意識から離脱した次の日の朝、詩子は怜の元交際相手、古澄希生のアパートを訪れていた。
…
現実の診療所へ戻った詩子は、まず怜の元交際相手の調査資料を再確認した。
一応一通りの内容を頭に叩き込み、煙草に火を点ける。おっと残り僅かだ、抽斗の中からカートンを一つ取り出す。ストックは潤沢だな。
煙をくゆらせながら、考える。
まず、怜は終末病の神様などではない。
少なくとも、彼を『神様』の力で以って向こう側に渡らせた、というのは否定できる。
この資料が今もこうして現存しているからだ。
前回の終末病被害者の一人、名を荒坂といった。彼の消えた持ち物とその後の顛末を思い出す。
彼は向こう側へ渡った時に持ち物を落としていた。消えた例の財布だ。
私はそれを元に聞き取り調査を行った。だが、その際に作成した資料は財布とともに消失したのだ。
帰ってすぐに作成した簡単な書類だったが、仮眠を取っている間に無くなっていて愕然としたものだ。
当然調査もそれなりに難儀した。覚えている情報を反芻しつつ書き出し、消えては作成してすり減っていく情報の中なんとか調査を終えたのだった。
今となっては私の記憶にだけおぼろげに残っている。
あの時はまさか事後に作成したものすらも無かった事にされるとは考えていなかったが、その事実が今は『怜=神様説』を否定する材料となっている。行動は起こしておくものだ。
それと、怜の告白の内容だ。
怜が神様でないなら、あの告白の内容は非常に危険だ。怜は明らかに神様に近い位置で終末病に関係している事になる。自分が神様であると思い込むほどに。
依然眠り続けている彼女、昨日の診療所での出来事を振り返る。
意識の中の事とはいえ、あの告白は真に迫っていた。彼女の中ではあれが現実であり、事実そのものであるかのように、彼女の心は訴えていた。
告白の内容は彼女が神様であるという事を明白にしていた。終末病の原理の一致。ハッキリとした事が思い出せないのは、自殺未遂の上意識不明という現実の姿を顧みれば仕方のないことかもしれない。半分以上が灰となった煙草を灰皿に押し付け、ため息を一つ。
彼女の近くに居た人間が、神様である可能性が高い。彼女の言を信じれば、現時点で一番疑わしいのはこの資料の彼ということになる。彼女の交友関係は驚くほど希薄だ。
だが、彼が神様、とはどうにも思えない。
「神様はどこの誰なんだ…か」
追えていると思っていた相手が消え、意外な所から真実が現れてしまった。自体は何も終わっておらず、情報はまだまだ足りていない。
また、彼を殺したという怜のあの言葉。
そもそも、『彼』とは誰か。
離別していたはずの元交際相手の事かと聞くわけにはいかなかった。あの段階では私と彼女はまだ初対面なのだ。
怜の殺人が事実で、手段が終末病でないとするなら。
…確証はないが、考えられるのは怜のあの力だ。
彼女は殺したと言ったが、死体は無かった。救急車が到着するまでの間、私は室内の様子を確認していた。
多少部屋は荒れていたが、どこにも人間が死んだ痕跡など無かった。
あの時感じた力の発動。あの怖気。恐らく、怜は、何らかの力を使い『彼』を殺したのだろう。殺害の痕跡を消し去ってしまうほどの人外の力。終末病に匹敵するほどの、別の力を彼女は持っている。
まずは、『彼』が元交際相手なのか、それを確認する必要がある。怜の言が正しければ彼はすでにこの世にいない。
まず、明日朝一で彼のアパートへ向かおう。
古澄が神様であるなら、終末病はすでに解決している事になる。
古澄が生きていた場合は白だ。その時は少し話でもしよう。
終末病以外に、全く別の大きい力。偶然なのか、必然なのか。異能者は惹かれ合うとでも言うのか。
…
古澄宅は郊外の、怜の家周辺のいわゆる住宅密集地から離れて数kmの若干寂れた場所にあった。
車ではさほど不便さを感じないが、公共の交通機関を利用する人間には住みづらい、そんな立地であり、近くには森が広がっている。
冬の早朝、辺りはまだ暗い。古澄の部屋の明かりは、点いていた。どうやら生きていたらしい。
アパートの前に停まり、車のエンジンを切って様子を伺う。
しばらくして、古澄は部屋から出てきた。
近寄って声をかける。
「古澄、希生君」
振り返る古澄。控え目にだがあからさまに警戒していた。逆に普通の反応とも言える。
「…どちら様ですか?」
どこか幼さの残る顔立ち、中肉中背の古澄は半歩下がりながらこちらをコソコソと伺っている。
「突然で申し訳ない。私は詩井怜の主治医でカウンセラーの、聖部詩子という」
「怜の…」
古澄はどこか申し訳なさそうな面持ちで、こちらを伺っている。調査資料の写真よりかなりやつれてみえた。
「古澄君、時間はあるか?」
「構いませんよ。どうせ暇ですから」
虚ろな目に、少しだけ光が宿ったように見えた。
…
「怜は、まだ体調悪いんですね」
切り出した古澄は、静かにそう呟いた。
アパートから少し歩いた先に、大きな公園があった。
広い敷地と、点在するベンチ。
葉のほとんどが落ちた裸同然の樹木が並ぶ、どこか寂しさを感じさせる冬の光景。
「怜は今、病院にいる」
「病院って…入院してるんですか?」
「意識不明だよ。手首を切った」
驚くことも、俯くこともなくただ、遠くを見つめる古澄。
「前にも、同じようなことがありました」
…そういうことか。
「彼女は、大分前から精神を病んでいる。何か知っていることがあれば、教えて欲しい」
数分の間。
煙草を差し出すと、無言で頷く彼。火を点けてやる。
「ごちそうさまです。冬に吸うと美味しいって本当だったんですね」
この美味さを知らなったとは可哀想に。
古澄は淡々と語りだす。
「怜は、昔、暴行を受けそうになったらしいんです」
「暴行…」
「高校の頃の話だと聞きました。その時に彼女は、その相手を殺してしまったと、言っていました」
…
「殺した…?」
古澄は続ける。
「怜の話では、襲われそうになって、怖くてどうすることも出来ずに泣いていたそうです。組み伏せられて、もう駄目だと思った時、目の前が真っ暗になって」
「気づいたら、相手はどこにもいなくなっていたそうです。ただ」
「怜は言ってました。相手を殺した実感だけが強く残っている、と。自分が殺したのは間違いないと」
薄暗かった辺りは段々と朝の色に変わりつつある。
「君は、どう思う」
「当時、そのような事件の報道は一切ありませんでした。世間的に事件は起きていないんです。それに、彼女は…人を殺したりなんかしませんよ」
言葉とは裏腹に力なく答える古澄。
「一つ聞きたい。君は何時頃まで彼女と共に生活していた」
「そこまで知っている貴方なら、お分かりでしょう。もう半年以上前の事になりますね」
そこまで言って、古澄はもうすっかり灰になった煙草を公園の灰皿に捨てる。
ふと予感がよぎる。
「古澄君、君は終末病の噂を知っているか」
「知ってますよ、今流行ってますからね。それが何か?」
「いや。ありがとう、突然押しかけてすまなかった」
立ち上がって、辺りを見回す。陽が登っても寂しい印象は変わらなかった。
古澄は座ったまま、こちらを向いて頭を下げる。
「聖部先生、でしたっけ。怜をよろしくお願いします」
「君は随分なお人好しのようだな。私達は初対面だぞ」
立ち上がり、古澄は姿勢を正してこう言った。
「ただの主治医が、いくら患者が自殺を図ったからといって元恋人の家まで来たりはしませんよ。先生のほうが、よほどお人好しだ」
「…違いない」
…
古澄の話を聞いた後、私はその足で怜の元へと向かった。
再度アクセスした怜の意識の中、診療所の前でウロウロしている彼女を見つけた。
「怜」
怜は振り返ると笑顔で会釈してくる。
「こんにちは、先生。どこ行ってたんですか、もう」
昨夜の告白の割に随分と明るいな…言い聞かせた私も意外に思うほど、彼女は2度目とは思えないほど親しげに接してくる。無理しているようなところは感じられない。
薬は一般の安定剤だ。それほどの影響があるとは思えないが。
「昨夜の事でもっと落ち込んでいるかと思ったが、元気そうでなによりだ」
キョトンとした顔でこちらを見る怜。
「昨夜何か、ありましたっけ…?」
…。
診療所内に通し、他愛ない話をしながら考えをまとめる。
怜は、告白の事を覚えていない。その上、彼女にとっては私達はそれなりに親しい、友人と言っていいほどに親しい間柄になっている。
彼女の意識内の事であるから、多少の改ざんはあると思っていたが、まさかこういう風に働くとはな…。
恐らく、秘密を打ち明けたい、という望みを彼女は叶えた。
それにより、打ち明けた相手である私を、信頼のおける相手として辻褄を合わせたのだろう。告白自体を忘れているのは、本来そのほうが自然だからだ。
彼女は彼を殺した後自殺するのだから、あの内容は彼女にとって都合の悪い現実だ。
忘却していなければ、この世界は成り立たない。あれは私が強引に引き出した真実だった。
深い眠りの意識の中に構築されたこの世界は、彼女の都合のいいように回っているかに見えた。
それと、彼女はもう一つ、重大なことを忘れている。
彼の存在だ。
彼を意識する前の時間軸へ、怜の意識は飛んでいる。
その日は他愛無いおしゃべりをするだけして、切り上げた。
先日の二の舞にならぬよう、点滴が十分残っているうちに離脱した。
私は今朝の古澄の様子を思い出していた。
虚ろな目で包み隠さず語ったその奥に、何かを隠しているような気がしていた。
2.
終末病の噂は誰が流しているのか、調べていくうちにあっけなくその場所は知ることが出来た。
自殺するのに躊躇う理由のありとあらゆる物を、終末病は解決してくれる。
自分自身が無かった事になるのだから、何もかもそのままでふらっと向こう側に渡るだけで成立する。覚悟も何もいらない。ただ祈るだけだ。
この雑居ビルの屋上が、終末病の集合場所だ。
時間はきっかり2時。少し遅れてしまったせいか、僕以外誰も居ない。
…?柵の向こう側に、人影が-
-グシャッ
今のは…まさか。
柵までゆっくりと歩いて行く。そして、下をのぞき込んだ。
道路に面した反対側。裏の雑草生い茂る敷地内は真っ黒に染まっていた。
これが…終末病?
こんな、ただの投身自殺が、終末病なのか。
神様なんて、どこにもいないじゃないか。彼らはただ、飛び降りただけだ。
裏切られたような気分で、柵の向こうを眺める。
別にこれでも、構わない。
柵の向こうに、足をかける。
あれは夢みたいなものだったんだ。
そんな死に方、出来るはずないんだから。
僕に出来るのは精々、この位だろう。
遺書も何も、残さない、突発的に見える自殺。
彼らも僕も、絶望しつつもきっと期待していたのだ。
最後の夢からも目が覚めて、みんな諦めることができたのだろう。
怜の助け、力になれなかった。側に居てやることも僕は諦めた。
もう何も、したくない。
「古澄、希生!」
「!」
振り返ると、いつかの先生が立っていた。
分割する能力がない