⑨
「……みやこ、ねえ?おかあさん、いま、まで、……頑張って、きたよ、ね……ッハぁ、も、いい、かな?……ごめんね、……ごめ、んなさ、ッは、ごめんね……、」
ゲホゲホと、お世辞にも綺麗でない咳の音をまき散らしながらその女は白いベッドに横たわっていた。
その横では一人の男が何も言わずにジッと女の姿を見つめていたが、女の視界には全く入っていないようだった。うわ言のように謝罪を繰り返し、いつしかその中には違う言葉が紛れ込むようになった。
「……ど……ぅして、どうして、……返して、みやこを返して、か、……ゲホッ!ゴホッ、かえ、し、!ゴ、っ、ホ、ヴ、ぇッ!えホっ、……っは、……フーーっ、……ッフーーっ、」
男はそっと枕元にあるボタンを押した。それと、ずり落ちてしまっていた布団を女の胸元まで掛けなおした。
「……ねえ、チカくん、ど、して、もっと早く、はやく、きてくれなか、ったの?どう、して……」
小さな小さな掠れたしゃがれ声でつぶやいた女はそれきり、ひどく弱く薄い呼吸を繰り返すだけになった。どうやら眠ったらしい。
「…………どうして、か。」
女に負けないくらいに弱い声だった。
それから呼ばれた看護師がやってくるまで、男はただ窓から差し込む日差しにその背中をさらしていた。
* * *
●一年目 初冬の話・二
その日も京は男の家に転がり込んでいた。
施設から四十分ほどで到着するその場所に彼女が来るのは、今日で多分三回目か、四回目かというところだ。季節はもう十二月が見え始めていた。
「遠田さーん?紅茶淹れますけど飲みますかー?」
ひょこ、と開いたドアから京が顔をのぞかせる。
「おー、頼むわー。」
男はカタカタとパソコンに向かったままで返事をした。
男、----遠田は施設での検体としての生活を辞した後、自らの研究のため大学院への復学を希望していた。今は復学に際して提出を求められている書類やら論文やらの作成中だ。
二口コンロのキッチンと小さなダイニング、それと申し訳程度に分かれた寝室と洋室、それが今の彼の城だった。郊外にある駅からも離れた場所なので広さに対して家賃は安い。だが決して広くはない部屋のおかげで紅茶を淹れる音も、香りもじわじわと侵入してくる。聞いているだけで温かさを感じる音だと、遠田は思う。
「な、センセにちゃんと言ったんか?俺んトコ来るって。あのセンセは多分後からバレたらめっちゃ怒るタイプやぞー。」
「……や、友達のところに行くとは言ってありますよ?」
誰とは言ってないですけど、と京は決まり悪い表情だ。
「まあ俺はええけどなあ。京といるのが趣味みたいなモンやしぃ。キミは甲斐甲斐しく俺の世話してくれるしなあ。」
「なんなんですかその言い方……。嫌なら嫌って言ってくれなきゃ分からないですよ、私。遠田さんは分かるかもしれないですけど。」
「おー、おかげでキミのキライな食べもんは全部知っとるなあ。京は嫌いなもん多いからキミの旦那は大変そうやわ。」
「……なんでですか?」
「キミの嫌いなもんと好きなもんが被ったら絶対ご飯に入れてくれんやん。外で食うしかないわ。それか別メニューで一人ずつ用意するかやな。」
「もーー!ご心配なく!結婚する予定も相手ができる予定もありませんから!」
そう言うと京は顔を引っ込めて、ぷりぷりとキッチンの方へ戻っていった。
クク、と笑いはするが、案外自分も人のことは言えないので本気で京を乏しめたわけではない。もちろん食べ物の好みのことではないが。
人の考えていることが筒抜けだというのは、普通に考えて人間関係を構築するのに最高に邪魔でしかない。そもそもファーストコンタクトから良い印象の相手などほとんどいないものだ。時間を、コミュニケーションを重ねて関係性というのは更新されていくものである。
しかし、それは相手の考えが分からないからこそ言えることだ。
「あの時は実はああ思っていた」、というのは関係が築けてから聞かされるから許せることであって、最初から聞こえていれば無理な話だ。そこまでの関係が築けないのだから。
自分はそこまで寛大な人間ではないし、そんな労力を割くタイプでもない、と遠田は考える。
だから彼は割と本気で思っているのだ。
彼女と作る関係が人生最後の人間関係かもしれないと。
そんな彼女がせっかく家にいるにも関わらず、生憎彼はこれから外出の予定があった。大学の研究室に顔を出しがてら、必要書類の提出に行かなければいけない。
遠田はあと数行分のためにキーボードをパチパチ鳴らしながら、これが終わったら昼食をとって家を出ようと脳内で予定を立てる。
「みやこぉー、昼飯どうすんのー?」
リビングの方へとりあえず声を投げてみる。
「えー?食べますよー?」
違う。そうじゃない。
「俺昼過ぎに出るって言うたやろー、ウチで食べてくなら作ってえやー。」
えー、遠田さんが作った方が美味しいのに。
彼女が発したのではない声が聞こえた。少し、笑う。聞こえてくるのが全部こんなものだったなら未来の俺も生きやすいなあ、とぼんやり思った。
「今日は何の気分ですか?冷蔵庫的にはスープとチャーハンくらいしかできませんけど。」
本物は何も言わず、わざわざお伺いに来てくれたらしい。
「……ふっ、くく、」
「なんですかいきなり笑いだして……」
「や、なんも。えーよ、できるもんで。あ、ちゃんとネギは入れてな。まだあるやろ?」
「……私がキッチンに立つ限りネギは煮込み料理のみです。どろっどろに溶かします。それかクシ切り。特大の。」
「長ネギクシ切りにはせーへんやろ……。」
結局その後京が作ったチャーハンには、細かく細かく刻んだネギが少しだけ入っていた。
「可愛ええなぁ」、と言ったら「黙って食べてください」と返された。なんでや。
と、まあ同棲ごっこで癒されるのも束の間。外に出てしまえばその煩さと言うのは筆舌に尽くしがたいものがある。
「「「「「「「「「「ねえねえ昨日のドラマあーあ今日は家でゆっくりし何であのクソババア今度という今度はあれ美味しいよね帰りたい帰りたい帰りたい違う俺はもっとやれるんだもっとのど乾いたーほんとこいつブスだななんだよ今日は仕事終わったら映画にねえママ!ママ!ママ!ママ!さあどうやって殺しママ!ねえマてやろうかいい曲だなあ…もうこんな時間頭痛いあの人超かっこいい!金出してママ!ママればいいんだよンだよこいつッ信号遅いなあヤバイヤバイ今日学校爆発すればいいのに本屋寄ろー暑っついなママ!ママ!う死にたい死に財布忘れた!空が青いな…ああ、こいつ最高だなあー単位やばいあれをこうしてこっちをそっちに教授に媚び売っておけばどうにかなるか学食行こうバイトめんどくさ大学辞め三限遅刻する……」」」」」」」」」」
イヤホンでもヘッドホンでも、耳栓でも遮ることはできなかった。もしかして鼓膜を破ったりすれば聞こえなくなるのかもしれないが、まだそれを試す気にはなっていない。
他人の思っていることが聞こえるというのは、つまりこの世が雑音で満たされるということだ。聞かせたくないものが聞こえる、聞かなくてもいいものが聞こえてくる。
「すみません、復学書類の提出に伺ったんですがこちらでよろしいでしょうか。」
「はい?……ああ、少々お待ちください。」
ぶっきらぼうに書類を受け取った事務の女性はこの仕事に疲れているらしい。帰りたい帰りたいと繰り返している。せっかくサボれてたのに面倒くさい書類が来たな、と奥へ引っ込んでいった。
書類受領の返答があったのは、それから十五分ほども待たされた後だった。
「ははあ、それでちょっとご機嫌斜めなのかい。」
「いや、別にご機嫌斜めというわけではないんですが、」
遠田の目の前で華麗なしたり顔を決めているのはこのゼミの教授だ。
少し白髪の混じり始めた眼鏡の男からは研究のこと以外があまり聞こえてこないので個人的に助かる相手でもある。
「それで?いつ頃復学するかは決まったの。」
「年明けて、一月中旬くらいの予定です。それからはまたお世話になります。それで、先日お話しした件なんですが、」
「ああ、自分の病気の研究したいって話?僕個人としてはオーケーだけど、統計の方はどうするの。止めちゃうの?」
「いえ、……いえ、そうですね。少なくとも今の僕には、自分の体の方が興味があるんです。将来的に、同じ病気になった人の役に立てるかもしれませんし。当事者、且つ研究者というのは活かせる点も多そうですし、こちらをメインでやっていくつもりです。」
ジ、と値踏みするように見つめられる。年の功というのか、年齢を重ねなければ出せない圧というのは、全て分かられているような気がして苦手だ。それこそ世界の真理まで知っているんじゃないかと、そういう錯覚に陥る。
「うん、分かった。僕からも学内にはそういう方向で研究要綱提出しておくよ。手間だけど一応君の方でも要綱作って、本格的に復学してからでいいから僕に提出してくれ。設備は医学部の方にちょろっと貸してもらえばいいだろ。うん。そういう感じで。」
うんうんと頷いている教授は研究環境を整えてる算段をつけてくれるようだ。自分に何かの権力があるわけでもないので正直助かる。
「ありがとうございます。またその内に伺うと思いますんで、よろしくお願いします。」
ぺこり、頭を下げて立ち上がった。
ーー用件だけ話してさっさと帰るヤツなあ。僕は嫌いじゃないけど生きてくの大変そうだわなあ、と、そんなようなことが聞こえた気がしたが知らない。というか随分なお節介である。
実際教授と話をしていたのは十五分程度ではあったが、やはり大学は煩くて困る。遠田が「聞こえる」範囲は何もしなければおおよそ人間の声と同じくらい。意識して聞き取るようにすれば、かなり煩くて冷や汗モノだが大学構内くらいは聞こえる。普通の状態では隣の部屋の声なんかはかなりおぼろげになるが、それでも人間というのは常に何かを考えているものだ。どこにいても、大体誰かしら何かを言っている。今は少し離れた席から論文に対する呪いの言葉がつらつらと聞こえていた。道端の雑音に比べれば可愛いモンだと自分に言い聞かせる。
研究室を退室してから、少し構内を歩いてみた。
どこもかしこも煩い。だが、本格的に復学すればここで過ごす時間が一番多くなるのだ。どこまで、何がどれくらい聞こえるのか、それくらいはちゃんと把握しておかなければ。
「あーっ!遠田君じゃん!久しぶりだねえ!」
トンッ、と肩に手が乗った。
振り返ってみると、同じ院生の女が手を伸ばしている。名前は……なんだったか。確か一年だか二年だかの授業が同じだったとかいう関係性だった気がする。
「おー、久しぶりやなあ。元気してるかー?」
「それはこっちのセリフっしょー!なんか病気してたんでしょ?もう大丈夫なの?」
女は純粋に心配してくれているようだ。純粋な心配と、それにほんの少しの打算……好意、だろうか。
「おん、もうなんもないなぁ。心配あんがとぉなー。」
ひら、と気持ち程度に手を振ってその場を逃れようとすると、
「あ、ちょっと待って!遠田君もうお昼食べた?食べてないなら一緒にどう?快気祝いに奢っちゃうよ!」
ニコ、と笑顔が添えられた。
きっと一般的には快活で気のいい女性、なのだろう。
--もうちょっと話したいなあ。私、方言に弱いんだよなあ。あ、でもちょっと病気の話にも興味あるな。研究に生かせるかも。まあ誰とでもパイプは作っておくべきだよね!うん。あぁでも、死ぬような病気じゃなかったんならそんなに面白い話じゃないかもなあ。
「……やあ、すまんなぁ。昼飯もう食ってきてしまったんだわ。美味いやつ。やから、また今度な。」
お誘いどーもなぁ、と今度こそ男はその場を離れた。手は振らなかった。
聞こえなかったら、きっと彼女と二度目の昼食にいっただろう。彼女の考えは間違っていない。きっと自分もそう考えた。聞こえていなかったのなら。
ただ、自分はそこまで器の大きい人間ではないし、それに対しての嫌悪感を隠せるような大人ではないというだけだ。「聞こえている」ことがこんなにも他人を遠ざけると、実感したのはもう何度目か分からない。何度やっても、今のところ慣れる気はしなかった。
京はもう帰っただろう。それでも、--ああ、早く家に帰りたいなあと、遠田は思った。
色々とうろついて、遠田が家に戻ったのは十八時を回った頃だった。
この耳になってからあまり外をうろつくこともなかったのだが、いよい外界への本格復帰が近づいてきた以上そんなことも言っていられない。何事も慣れでどうにかなるものだ。
本屋に寄って京用に面白そうな文庫本を二冊と、自分用にCDを一枚購入した。嗜好品の店は、変な思考が少なくて居やすいことを発見した。
その帰りにスーパーに寄った。もちろん玉ねぎはちゃんとカゴの中にある。それと、彼女が好きだと言っていた銘柄のアイスを一箱。彼女が食べなければ自分が食べるだけの話だ。他意はない。
ついでに夕飯を考えるのがめんどくさかったので適当に総菜を二つ三つカゴに入れる。鶏肉を揚げて南蛮風にしたものと、春巻き、それと煮物の小パック。野菜が食べたくなればレタスでもちぎるか、とロースハムもついでに投下した。
そうして家にたどり着けば、おや、部屋に明りが……とはいかないものだ。目の前の扉はしっかりとロックされているし、部屋も真っ暗だ。十一月の十八時というのはもう日が落ちるとか落ちないとかの時間ではないのだから。
「ただいまぁー」
ガこン、とドアノブが落ちる。誰もいない部屋に一言告げるのは癖のようなものだ。
「ふーーーー……。」
とりあえず冷蔵庫に食材をしまって、少し冷える部屋に暖房を入れた。最後に部屋の電気を、
「…………うーーん。」
「……--……--……」
ーー点けてみればそこには眠れる森の美……眠れるマンションの乙女がいた。
ソファーに上半身をもたれかけて、下半身は地べたにぺったりと着いている。机の上には雑誌と彼女の好きな本が何冊か置いてあるので、恐らく読んでいる途中で睡魔に負けたのだろう。
「みやこぉー、起きぃなー、風邪ひくぞー、」
とりあえず声をかけてみる。これでは起きないだろうと思ったが、案の定起きる気配がない。
触れた体はひんやりと冷たく、とりあえず毛布をかけておいてやろうと思って立ち上がった。
--揺さぶって、それこそ無理やり起こすこともできた。それで自分の車で研究所まで送ってやればいい。ただそれだけの話だ。
しかしまだ彼女に帰ってほしくないと思う自分を無視できない。
彼女が部屋にいることが分かったとき、確かに暖かな気持ちが心に浮かんだのは否定できなかった。
ずるい男はそれに気が付かないふりをして、彼女のために毛布を取りに立ち上がった。
「ぅ、……--、」
ぼんやりと、京の瞼が重そうに持ち上がる。
「お、起きたかー?夕飯食ってくやろ?言うても作ったのは京やけどなあ。」
「ぇ、……?…………あぁ……うわぁ…………すみません。おはようございます。すみません……。」
起きたと思ったらすぐにソファーに突っ伏してしまった。ちなみに現在時刻は十九時である。
「流石にそろそろ起こそかなぁとは思ててんやけどなぁ。今日土曜やし、泊りでもええかなあって。土日は研究所休みやろ?」
「うん……はい……そうですね……うわぁ、三十分で起きるつもりだったのに……遠田さんのせいだ……。」
「なんでやの……ほら、とりあえず水分取りぃな。ほんで、飯食うぞー。」
「はーい……。」
帰ってきたときは気づかなかったが、コンロの上には鍋が一つ用意されていた。中身は味噌汁だった。……なぜ味噌汁なのかは謎だったが、まあ一人分の味噌汁を作るのはなかなか面倒なのでよしとする。なにより、単純に作っておいてくれたことが嬉しいと思った。
「……一人分にしてはお惣菜多くないですか?」
「ほうか?残ってしもたら明日食えばええかなぁって。男の一人暮らしなんてそんなもんやぞ。」
夕飯は買ってきた総菜に炊いてあった白飯、それに京の味噌汁と、「もう一コくらいなんか欲しいなあ」と言った遠田が作ったたまご焼きになった。
「ふーん、そんなもんですか。……ん、これ美味しーです。」
「京はだし巻きの方が好きなんやなあ。家の味か?」
「んー、家は卵焼きは甘い派でしたね。ちょっと醤油と、砂糖の入ったやつ。でも、私はだし巻きの方が好きなんです。……お母さんには、結局言えませんでしたけど。えへへ。」
そう言うと京はまた一つ卵焼きを取って「おいしー」と笑った。
「な、京の家ってどんな感じやった?」
「えー?うーん、そうですねえ。いたって普通の家ですよ。父親はいませんでしたけど、というか途中からいなくなりましたけど。母とは仲良くやってましたし!」
「父親いなくて大変なこととかなかったん?俺は……大変やったけど。」
京がきょとん、とした顔になる。そういえば、そんな話はしたことがなかったかもしれない。
「ウチはなぁ、まあ両方とも親としてはしっかりした人たちではなかったんだわ。子供の俺から見てもちょっと異様な空気はあったくらいやしなあ。ざっくり省くと、ウチ両親ともにおらんねんな。よく覚えてる。俺が小学校四年の春やった。五月。学校から家帰ったらなあ、リビングで、……あ、ごめん。食事中やったわ。」
「ううん。どうぞ。」
「スマン。……二人とも大事そーになあ、お互いのこと抱えてんねん。多分薬かなんかで、二人とも死んでてんけどな。で、そっからは父方の祖父母に引き取られて、今。まあ、その祖父母も大学入ってすぐ亡くなってしもたけどな。あぁ、でもあんま仲良くはなかったから、めちゃめちゃ悲しいってこともなかったで?……ま、そんなこと言うてもこの年まで健康に生きてきたし、金に困ることも無かった。やから『よくある話』。けど……なんや『家族』っちゅーのに縁遠い星に生まれてしまったんやなあとは、思うかなあ。」
ずず、と熱いみそ汁を一口飲んだ。暖かい。のどに落ちて、体の真ん中を通って、そのすべてを温めながら腹に収まる。これが、美味しいってことやなあ、としみじみ思う。
「ああ、俺が話したからって」
「『無理に言わんでもええよ』?……だから別に無理してませんって。私が、遠田さんには知っててほしい、っていうか、聞いてほしい、って、思うから話すんです。それに、そっちよりもよっぽどソフトですよ、うちの方が。ありふれてる話ですから。」
「『どっちが』ってことはないやろ。比べるもんとは違う。」
「そうですか?私は比べられるものだと思いますよ?『苦労したー』とか『悲しかったー』とかっていうのは。……あ、で、こっちの話ですね。すみません。」
気が付けば卵焼きは最後の一切れになっていた。
「ん、遠慮のカタマリ。京、食べえな。」
「……『遠慮の塊?』」
「…………後で教えたる。」
愕然とした表情の遠田をよそに、京の話は始まった。
「ング。美味しい。……で、うーん、父親が浮気して借金作って離婚。借金の返済はこっち持ち。以上、終了です。」
「その借金はどうしたん」
「母と二人で汗水流して働いて返しましたよ……と言いたいところですが、母親がね、自己破産して、終わりです。でもね、自己破産って、そんなに悪いことばっかりじゃないんですよ。借金なくなるし。無くすのは金融機関からの信用だけです。」
「でも、そんだけじゃない?」
ごちそうさまでした、と京が箸を置いた。
「そーですねえ。うーん、なんだろ。母とは結構仲良くやってたはずなんですけど、イマイチ母に本音を話すとかって、できなくて。私は私で奨学金の返済とかあったし、そりゃあもちろん叶うはずのない将来の夢とかもあったんですよね。で、それに付随してそれなりに落ち込むこととかもあって、でも、そういうのも全部何も母には言えなくて。表向きもうそういうのは中学生で卒業して、現実見てますよ、っていうブラフ張って。」
ごっそさんでした、と遠田も箸を置いた。
「あー、これダメだな!ってなったのが大学入った時くらいですかね。お母さんのご飯が美味しくないなあ、って思い始めたんです。で、なんだったかな、テレビで自殺したい女の子の密着番組?みたいなの、やってたんです。それ見てて、母が『いやー、お母さんはそんなの一回も考えたこと無いわー。意味わかんない。京も、そういう子でよかったわ。だってお母さんそんなの対応できないもん』って。私は最初横目で見てたのにどんどん引き込まれちゃって、もう泣きそうなくらい刺さった内容だったんです。で、あ、この人と私は別人なんだなって、それで家を出て一人暮らしを始めました。きっと、ぜいたくな悩みなんでしょうね。こういうの。で、私が寝こけてる間にお母さんは死んじゃってました。……私たち二人とも血縁と関係が浅いんですかねぇ。」
「せやなあ。それと、俺たち『終わり』と触れすぎて、考えすぎなんやろなあ。」
前に話した時京はよく分かっていなかったようだが、遠田がやっていた「統計学による生死の哲学」とはそういうところに近いものである。元より自分自身の体験から研究が始まっているのだ。当たり前のことだろう。
「人生が有限のモンと分かっとるから、終わりを考えるんやな。自分の終わりはいつ来るのか、来るとすればいつなのか、どういう風に終わるのか、終わりが来るのなら始まった意味とはなんなのか、『自分』が『自分』であることに意味はあったのか。」
「……うん、そうですね。分かります。死んではいけない理由とか、ご多分に漏れず一生懸命考えましたもん。中学生くらいの時に。えへへ。黒歴史ってやつですね。」
「それはみんな考えるやろ。あ、京、アイス食うか?」
「食べます!何味?」
「こないだ美味しーって言うとったやつ。あの、なんやチョコレートの棒つき。」
ぱあ、と見るからに表情を明るくさせた京を見て遠田は苦笑した。
単純だ。なんというか、救われる単純さだ。
冷凍庫から一本取って渡してやると、京はすぐに包装を剥いてアイスを食べ始めた。
「美味しーです。」
いひひ、と幸福そうに笑う姿が少しまぶしかった。
「ははっ、こないだとおんなじ感想やん。」
「美味しーものは美味しーからいいんです。遠田さんは食べないんですか?」
「んー、せやなぁ。一口でええわ。ちょーだい。」
「えー、私の分が減るじゃないですか。しょうがないなぁ。」
どーぞ、と京の食べかけのアイスが差し出される。何の疑問もなくパクついた。
うん。やっぱり一口でいい。あまい。
「ごっそーさん。アイス食べ終わったら先風呂入り。」
「え、いいですよ。今日は私片付けするんで遠田さん先入ってください。そんでとっとと寝ちゃってください。なんか疲れてる感じする。」
あら、と思った。なんや、バレとるわ。
実際人の多いところに長いこといたので、久しぶりに結構疲れていた。正直こんな小娘にはバレないと思っていたが、存外疲れがにじんでいたらしい。
「……ほーか?んじゃあオコトバに甘えて先入ろかな。いうかよお考えたら俺んちやったなあ。亭主は一番風呂て相場が決まっとるしな?」
「はいはい。なんでもいいけど早く入ってきてくださいね、旦那さん。ごゆっくりー。」
視線はテレビに向けたままひらひらと手を振られる。見ようによっては早よ行けと追いやられているようにも見える。
冷たい嫁さん(仮)やなあ。……どっちかというと(妹)か。
「ふぅーー…………。」
ざぱ、という音の後に、˝あーー……とおっさん臭い声が続く。
誰かが同じ屋根の下にいるというのは無条件で安堵感を作るものなのだろうか。リビングから薄くテレビの音が聞こえる。それと、多分皿を片付けているのであろう硬質な音も時折混じった。
しかし、これは誰でもいいわけではないのだろう。断言できる。……例えば他の、同じ病気の人間と暮らすことになったら自分は自然に暮らしていけるだろうか。
答えは否だ。正確に言えばその時にならなければわからないが、今は否だと思う。
同じ人種になって、初めて関係を築くか、築かないか、そのラインに立てるという、それだけだ。いきなり知らない人間と暮らせと言われれば誰しも戸惑うだろう。時間が経てばもしかしたら友達になれるかもしれない。ただそれだけの話だ。
犬猫と仲良くなることはできる。心を許すこともできる。だが、恋はできない。「同じ人種」というのはそこが境だと遠田は考えている。
「………………」
……では、自分たちはどこまで彼らと乖離していくのだろう。
初めて京がこの家に来た時、しっかりと主治医の彼には報告したのだ。「今日はお宅の大事な女の子がウチに来てましたよ。なんや相談があったみたいです。あんたには多分本人から話してくれるでしょう。ではまた。」と、そんな感じで。
未だ彼と自分の思考が乖離していると感じる点はない。何だったら京に変なことしたらブチいてかますぞと思っているし、これはつまり同じ土俵に立っているということではないだろうか。個人的に彼のことはあまり好きではない。アイツは絶対むっつりや。
そんな彼のことも、いつか自分は個として認識しなくなるのかもしれない。すでに兆候はあるのだ。もう遠田は初対面の相手には「人間ではない」という意識が働くようになっている。自分は人間、彼らは人間ではない。綺麗だとも、ブスだとも、かっこいいとも感じない。ただそこに「別に種族の何か」がいるだけだ。
「……認識が、変わる…………」
そう、例えば犬や猫の顔の区別が難しい、みたいな状態だろうか。
難しいだけでできないわけではない。しかし、確実に今までとは違う認識の仕方になっている。
人と犬猫は共存している。しかし、百パーセント意思の疎通を図ることはできない。ヒトと彼らは同じ言語で文化を構成してはいないし、寿命も、世界における役割も違う。だが元々は同じ海から生まれた生物だ。何万年、何億年とかけて、その途中で進化の道を違えたに過ぎない。
自分たちも、もしかしたらこれから何万年とかけて彼らと道を変えていくのかもしれない。もしかしたらこの、自分や彼女はその始まりであるのかもしれない……
「は、……まさかなぁ…………」
そうだったとしても、自分たちには体感しようのない途方もない未来の話だ。
人類はその形を変え始めたのかもしれない。理論も仮設すらも成り立たない空想の話だ。
バシャバシャと浴槽の湯を手で弄びながら、なんとなく思考する。
そういえば、猫は風呂、というよりは水があまり得意ではないらしい。犬はそうでもないが、体を清潔に保つ目的で自主的に風呂に入ることは無い。そこまで考えて馬鹿らしくなって笑う。何を考えているんだか。別にこれから犬猫になるわけでもない。
「はぁーーーー……上がるか。」
多分風呂に入ってからまだ十分くらいだったと思う。これは(妹)にどやされるかもしれない。
「はは」
どやされるのも悪くない、と脱衣所で素っ裸の男が一人笑った。
----その日の真夜中。
みやこ、みやこ、みやこ、ねえ、みやこ…………
「ッ……、……………………、」
びくり、と自分の腕が震えた振動で目が覚めた。
夢を見た。最近はよく夢を見る。夢に、見る。
「……、…………」
もう秋も終わりだというのに少し汗ばんだ体が気持ち悪い。首筋に手をやれば冷たく湿った感触がした。
カーテンの引かれたリビングは暗く、ひとつの物音もしない。デジタルの時計を見てみれば二時三十七分を表示していた。布団に入ったのは十一時を過ぎたころだったから、まだ全然寝ていない。しかし意識ははっきりしている。
悪夢ではない。夢に見るだけだ。そして起きてから少し不快なだけ。
遠田の家に泊まるときはリビングのソファを貸してもらっている。しかしきちんと毛布も枕も予備があるんだからすごいと思う。彼は元々よく友達を呼ぶタイプの人なのかもしれない。
「…………ふー……」
上半身を起こしてしまったから背中が寒い。薄くかいていた汗が急激に冷やされていくのを感じる。
「-…………。」
男の部屋の扉は閉じられている。彼は寝つきがいいからきっと今頃はお休み中だろう。自分も物音を立ててはいないから起こしていないはずだ。
悪い夢ではなかった。母親の夢だ。彼女がもう四年以上会っていないという母親の夢。
みやこ、みやことずっと名前を呼ばれる。もうおぼろげな父親が後ろに立っている。自分が回っているのか世界が回っているのか、ぐるぐると回り、父と母の顔が交互に視界に入る。夢だ、夢だ、早く起きろ、と念じているうちにどこかへずっと落ちていく。実際には夢だと理解しているわけではない。ただ夢であってほしいと夢の中で思っているだけだ。
そうして落ちながら、ガクンっ、という感覚に目を開ければ汗ばんだ布団の中だ。今日はそんな夢だった。
頑張ってもう一度寝なおそうか。明日は土曜日だから焦ることもない。なんだったら寝られなかったところでいつもと同じだ。何も変わりない。今日は遠田の家だったからよく眠れるかと少しだけ期待していたから少しだけ残念だが。
でも、これが研究所だったら所内にはもう誰もいない。はるか遠くの警備員室に一人か二人いるくらいだ。それに比べれば扉一つ隔てた向こうに人がいるというだけで気分が違う。もしかしたら今日は二度寝できるかもしれないな、なんて思う余裕もあるくらいだ。
「……うん。」
大丈夫。大丈夫。そう念じてまた頭まで毛布に包まった。
すっかり足先が冷えてしまってすり合わせる。大丈夫。足が冷たくて眠れないかもしれないけど、しょうがない。もう三時間ちょっとくらいは眠ったし、大丈夫だろう。
「……大丈夫やないやろ、アホ。ほら、早ぉこっちおいでや。」
ぼす、と頭まで被った毛布の上から額をはたかれた。なに、と思って毛布から顔を出せば、スウェット姿の遠田が上からのぞき込んでいた。
「……、どうしたんですか?トイレですか?」
「ちゃうわ。さっき言うたやん。早ぉこっち来い、て」
早ぉ寝よや。俺まだ眠いねん、と遠田は欠伸交じりに続けた。
京と言えば頭の上ははてなマークでいっぱいである。
「あの、私はこっちでいいんですが……?」
「キミも理解力がないなあ。やから京の聞いてほしいことは全部聞こえるって言うてるやん。『寒いよー寒いよー』て、さっきから言うとったやろ。『大丈夫大丈夫』って、アホか。さっさとこっち来ればえぇのに。こんな近くにおんねんから。」
「…………だって、遠田さん寝てるし」
「起こせばえぇねんんなもん。アホやなぁ。」
「さっきからアホアホって!なんですか!もーっ!」
ワーキャーと二人で騒いだ。暗いままの室内で妙齢の男女がじゃれ合う図は傍から見ればイチャつきでしかなかったが、京はそれとは違う暖かいものを感じていた。
「……ほら、枕だけ持ってき。もお寝るで。」
「…………ん。」
遠田がほら、と言って先に部屋へ向かった。京は枕だけ抱えて後に続く。
「……ん?」
さっきからアホアホ言われた意趣返しに、追いついて遠田のスウェットの背中のすそを少しだけ握りこんだ。ちくしょう。手のかかる妹にくっつかれて困ればいいんだ。
「なんや、そんなん足りんやろ。」
くるりと場所を交代させられて後ろから羽交い絞めにされた。ぎゅうぎゅうと背中側から腕が回されている。そのままで二人羽織りのようにベッドまで行く羽目になった。ぼふん、とベッドにダイブする。
「関西人怖い…………コミュニケーション能力の鬼…………」
「何言うとんの。あーあったかー。」
羽交い絞めにされたまま布団をかぶったので、京は遠田に背を向けて腕を回された状態だ。胸の下あたりを通っている遠田の腕を、自分の腕でキュ、と抱え込んだ。
暖かい腕だ。暖かい背中だ。でも、少し寂しい。彼ばかりが誰に抱きしめられることもなく、私に与えるばかりだ。
そう思ったら、なんとなく、なんとなくだが遠田の顔が見たくなった。その方がよく眠れる気がした。
「お?」
ぐりん、と遠田の腕の中で身をよじる。顔が見たくなったと言いつつ遠田の顔は見られなかった。なんだか気恥ずかしかった。
そして今度こそ意趣返しは成功したようで、少しだけ視界をかすめた遠田の顔は少し驚いているようだ。ついでにそのまま遠田の体に腕を回した。ごそごそ動いている途中で「ほれ、」と遠田が腕を差し出してきたので乗り上げる。腕枕だろうがなんだろうが知ったことではない。明日腕がしびれていようが、差し出してきたのは向こうの方である。
しばらくごそごそして、ようやく落ち着く体勢に収まった。結局胸元に腕を畳んだ京の上に、遠田の腕が緩く回されている。遠田の体温を布越しにも感じる。
……もしかしたら今日は眠れるかもしれない。小さいころ、誰かのたくましい腕ににこうして抱きしめてもらった気がする。
「……あったかいなぁ」
「……そうですね。」
もっと暖かさを感じたくて目を閉じた。
きっとここでは夢を見ないと、そう思えた。