⑧
私は、どうやら知らない間に二十五歳になったらしい。いや、この間誕生日を迎えたから二十六歳か。
とにかく、気が付いたら四年分、私は年を取っていた。
しかし、どうだろう。
どうやらこの病気----「進行性進化症」は眠っている間、身体的には年齢を重ねないのだという。私の感覚的には寝て、起きたら四年後だった。寝すぎた時特有の頭痛も、筋肉の衰えもない。強いて言うなら目が良くなった。コンタクトがいらなくなった。余計なものまで視えるようになった。
さて、では、私は今いくつなのだろうか。
身体的には年齢を重ねていない。
精神的にもその通り。
ただ、周りだけが私を置いて四年分年を取ったのだ。
つまり私は、私の意図しない形で四年後の未来へタイムトラベルをした。なんてロマンのないタイムトラベルなのだろう、とは思うが。
しかし、「帰れないタイムトラベル」というのは「タイムトラベル」と、----「時間旅行」と呼べるのだろうか。というよりも、そこにはいったい何の意味があるのだろうかと私は思うのだ。
未来へ飛ぶ、という行為は「未来をのぞき見する」から意味があるのであって。
「未来へ旅立つ」のでは一種人生のリセットだ。こちらでは終わりを延ばすことにしかならない。人生に空白を作って、その分を最後に回す、いわば「命の期間の後回し」、だろうか。
つまり「タイムトラベル」ではなく「タイムスリップ」。横滑りして、時間の流れから滑り落ちた。
ここで重要なのは、あくまで「寿命が延びる」わけではないということだ。私は、四年の眠りを対価に後ろに四年分、「この世に存在する期間」を伸ばしてもらったというわけだ。まったく嬉しくない。
そしてもう一つのおまけの話。
私の目は、いったい何を写すようになったのかと、そういう話だ。
慣れというのは恐ろしいもので、初めはあんなに心臓に悪かったあれやこれやもいつの間にか私の日常の一部にすっかり溶け込んでいた。溶け込みすぎて失敗もしたが、まあそれはそれである。
しかし、それほどまでに慣れても一向にそれらの正体は不明のままであった。
なぜかというと、つまり視えるのが私一人だということである。他の人からすれば、見えないのだから考えようがない。そして私にはそれらの正体を看破するほどの知識も欲求もなかった。単純に考えてお化けかなにかだとも思ったが--
端的に言おう。どうでもいいことなのだ。
私に何が視えているのかも、人よりも見えている色が多いらしいことも、いつのまにか目がよくなったことも、考えてみれば普通の人と何が違うというのだろうか。
例えば私がこの病気にならなかったとして、外を歩くあの人と私の見えている物が、色が、認識が一緒だと、誰が証明してくれるのだろうか。もしかしたら私に見えない空気の色をあの人は生まれた時から見ているかもしれないし、私はあの人が知らないこの世の仕組みを常識として知っているかもしれない。
検査の数値で異常が出ない「あの人」と「私」の違いなんて、きっと星の数ほどあるだろうし、この世の中にはこれだけ人間がいるのだから「あの人たち」と「私」との間には海よりも深い溝があるのだろう。
だから、いつのまにか気にならなくなった。
いつからかは分からないが、何が視えているとか、自分がいくつだとか、そういうことは意図しない限りグルグルと考えることはなくなった。
そして唯一の「同種」である彼がいなくなった研究所で、今日も私は穏やかに検体生活を過ごす。
空いている時間には音楽を聴いたり本を読んだりするし、話していて楽しい人もいる。
私がいつか世の中の役に立つのなら、きっとこの生活は良い物なのだと、そう思う。
●一年目 初冬の話
「……明坂さん?」
「…………あ、はい。どうしました?」
十月のある肌寒い日の研究室でのことである。
いつも通り京は一日の最後のチェック中だ。
「いえ、少し反応がなかったので。どうかしましたか?」
「?そうですか?特に何もないんですが……」
京はしきりにハテナマークを飛ばしている。どうやら本当に自覚がないようだ。
しかし、反応がないというよりかは、上木を注意深くうかがっているように見えた。名前を呼んだ後もジッとこちらを見つめていたし。
警戒している小動物のような……子供のような……?
「うーん……」
この人は割と自覚なく色々やってるようなところがあるからなあ……うん。一応覚えておこう。と、上木はひっそり嘆息した。
「先生?どうしたんですか?」
上木がそんなことを考えているとはつゆ知らず、京はおーい、と上木の方へ向けてぷらぷらと手を振っている。
「いえ、解決しました。いや、解決はしていないんですけれども。まあ、とりあえず大丈夫です。で、なんでしたっけ。今日は千葉さんと出かけたんでしたか?」
「はい!新しい本を買ったのと、えーと、なんでしたっけ、アウトレット?に行きました。なんか妹さんからの頼まれ物があるから一緒に見てくれって。ふふっ、ちょっとお高いアクセサリーだったんでぶつぶつ言ってましたよ。『あいつ宛に領収書切ってやろうか……』って。」
京は目覚めた時よりも素直に、よく笑うようになったと上木は思う。
何かを誤魔化しているのか心からの笑みなのか、まだ上木には分らなかった。しかしよく話す相手が笑っていてくれるのはいいことだ。あまり人付き合いのない上木でもそれは感じている。
「楽しかったですか?」
「はい。なんか千葉さんは本当にお兄ちゃんみたいで、すごい過保護で面白かったです。本人はそんなことないって言うんですけど、でも言葉の端々ににじみ出てるんです。きっと妹さんといるときもそんな感じなんだろうなって。」
そう言って京はくすくす笑う。
京が目覚めてから半年以上が過ぎた。
彼女に関しての症状や変化などはどんどんと出てきているが、未だ有効な治療方法は見つかっていない。それどころか、最近では研究所内でも治療自体に疑問を持つ派閥まで現れ始めた。
曰く、「実際に体に害のない病気に根本的治療は必要ないのでは」ということだ。
つまり病気の根治、もしくは寛解を目指さなくとも、精神的治療や生活へのサポートで十分に社会復帰が可能なのではないか、ということである。
そして上木らはそれに対して反論の弁を持てていないのが現状だ。確かに、彼女は空白の期間を精神的にも埋められてきているし、外部から見ればいたって健康体だ。数値的にも問題はない。
しかし、上木にはなぜか研究を止めてはいけないという予感があった。それは確信にも似た感覚であったが、自分でも何がそう思わせるのかはわからないままだった。
「明坂ー、おーい、」
「……はい!なんですかー?」
「明坂、次の時間なんだが、」
「、はい、予定変更ですか?」
「明ちゃーん、俺今日はコーヒーがいいなあ」
「……はーい、了解しましたー」
「明坂さん、」
「……、はい、なんでしょうか?」
「……アイツ、最近妙じゃないか」
いつの間にか十一月になった。もう一月もすれば年越しだ。外はすっかり秋の終わりで、少しだけ灰と白の冬がのぞいていた。
「やっぱりそう思いますか。僕もそう思います。ちなみに坂本さんはどの辺りがおかしいと感じますか?」
どっかりと椅子に腰かけた坂本は、ゴツゴツした右手を口元へ持っていくと少し目をすがめた。坂本が考え事をしているときよくしているポーズだ。
「呼ぶと大体一拍置いてから返事があるだろう。あと、やたらとこちらをジッと見ているような気がする。」
横から重ねるように千葉も声をあげる。
「あと、これは元からかもしんないけど、自分から絶対話しかけてこなくなったな。お茶のおかわりとかも前は聞いてたのに最近はしてこない。俺とトレーニングしてる間も話しかければニコニコ答えてくれるし会話も続くけど、明坂から話を振ってくることは一切ないな。この間意識して観察してみたから多分間違いない。」
そして、はいはーい、と軽薄な……軽快な声をあげて仲谷が挙手する。
「俺は普段あんま関わんないから正直微妙なところだけどぉ……ちょっと動作が気になるかなあ。座る前はさりげなーく椅子の周りを確かめてるっぽい動きをするし、たまに廊下歩いてるの見ると変にジグザグ歩いてる。なんか避けてるみたいな、そういう動きだよねえ。」
「「「「…………。」」」」
研究室に沈黙が落ちた。
分かりやすい。分かりやすいぞ明坂京。そういう沈黙だ。
「……でも、なにか隠してる感じではないんですよね。至って自然体なんですが、行動が不自然というだけで。」
「うわ、分かりづらい言い回し。まあ言わんとすることは分かるけどな。」
「うん?どゆこと?」
「ああ、すみません。彼女の性格からして意図的に何かを隠しているのであれば少しくらい『隠してますよオーラ』が出そうなものだと思ったんです。ですが、そういうことはなくただ不思議な行動をしているだけ、というのが少し気になって。」
「むうーん。なるほどねえ。ただあれくらいの女子の成長は早いからなあ。単細胞の野郎どもの目をくらます術を覚えただけかもしれない。俺としてはそこまで気にならないポイントっすなあ。」
ず、と仲谷はマグカップのコーヒーを飲みほした。
前は定期的に京が注ぎに来ていたが、言われてみれば最近は朝一番しかその姿を見ていなかったかもしれない。言われてみれば、だ。決して気になって三日ほど観察していたわけではない。
自分の眉間にほんの少しだけ皺が寄ったのは冷たいコーヒーの酸味にやられたせいだ、と仲谷はマグカップを少し睨んだ。
「……まあなんにせよ少し気に留めておいた方がいいだろう。それに、明坂のことは基本的に上木に一任だ。……お前が気になると思うなら、気にしてやれ。」
そう言った坂本の表情も、なんだか少しだけ心配そうなようにも見えた。
上木の気のせいかもしれないけれど。
「…………。」
「先生?どうしたんですか?」
おーい、と目の前でひらひらと女の手が動いている。デジャブ。
「明坂さん、何か僕に後ろめたいことありませんか?」
「へ?」
きょとん、と京は目を瞬かせている。
「隠していることとか。」
「えー……特に心当たりはありませんが……。そんな風に見えましたか?」
見えないから質が悪いんだ。そう思ったがとりあえずは言わないでおいた。
見るからにはてなマークを飛ばしている京を見やって、上木は小さく嘆息した。
「いえ、無いならいいんです。何かあれば、言ってくださいね。」
「……善処します。」
へら、といつものように京は笑った。
次の日。
「明坂さん、最近困っていることはありませんか?」
「……いえ、特には…………うーん、ちょっと考えてみますけど、やっぱり何もないですねえ。」
「夜は眠れていますか?もう何か見えたりすることはないですか?」
「え、っと、夜は眠れてます。『何か』は……まあ視えることは視えてるんですけど、最近はもう慣れてしまったというか、あまり驚かなくなったので特には困ってないです。」
「……そうですか。」
それはもう彼女の中で「困っていること」ではなくなったのか。
それは良いこと、のはずだ。
「見える」ことはともかく彼女がそれと共存して、うまく自分の中で消化して、自分の一部分だと思えているのならそれは良いことであるはずだ。
しかし、この違和感はなんだ?
多分、彼女は嘘をついていない。本当に「困っていない」。
しかし、あれだけ混乱して、叫びだしていたようなモノとこんなにあっさり和解できるものなのだろうか……?
「あ、でもまた怖くなっちゃったら言います。だから、その時はどうにかしてくださいね。せんせ。」
そう言って京は悪戯っぽく笑った。
「せんせ。」と言うそのイントネーションに誰かの顔が脳裏をよぎって、少し苦い気持ちになったのは許してほしい。
その次の日。
「今日はどこかに出かけていたんですか?」
研究室のドアがガラ、と音を立てる。上木の後ろから続いて入った京がドアを閉めた。
いつもの場所にあるいつもの椅子に上木は腰を下ろす。
京の方はというと、サリ、と指先で触るか触らないか、気にしていなければ分からない程度に後ろ手で軽く座面を一撫でしてからその向かい側に腰を下ろした。京の体で視線が遮られるので普通にしていれば気づかないかもしれないその動作。
やっぱり気になる。
「あー……はい。ちょっと、お出かけを。」
「誰も付けずに?」
「……あの、仲谷さんには言ったんですが、伝わってなかったですか?」
ちら、と京の伺うような目線が上木に送られる。怒られるのを待つ犬のようだ。
「いえ、聞きました。今さっき。『お前には事後報告の方が良いかなっと思って!たはー。』と言われましたね。で、どちらへお出かけだったんですか?」
ちょっと似てますね、と京が小さく笑った。上木はというと無言で返事を催促している。組んだ二の腕を右手の人差し指が一定のリズムで叩く。それは「早くしろ」という無言の圧力であることを京はすでに学んでいた。
「え、ーっ、と……あ、本屋と、CDショップに行きました!で、間にカフェでカボチャのタルトを食べました。」
あとアイスティーを。美味しかったです。と彼女は続けた。
で?後は?と聞きそうになったが、彼女が喋るのに任せることにした。
その後もこれを見て、あれを見て、と言う話をしばらくしていたが、それらの話題を通り過ぎた後、さも今思いついた、というように彼女は核心を口にした。
「……あの、先生に、ちょっと聞きたいことがあるんですけど、いいですか?」
京は少し上目使うような視線で上木に問いかけた。その両手は膝の上でゆるく握りこまれている。緊張している様子ではない。
「もちろん。なんでしょうか。」
「あの、友達に会いに行ったりするのって許可が要りますか?あ、えっと、もし許可が必要なら、その許可は先生にお願いすればいいんでしょうか。……実はこの辺に住んでいる友達がいるはずで!せっかくだから会いたいなあ、なんて……」
ダメでしょうか、と言う。
現在彼女に掛けられた外出制限はなく、一人だけの外出でも予定を伝えてくれていれば自由にできる状況だ。向かう先が誰であろうと基本的に許可が下りないということはない。だから、京の問いに素直に答えるのならば許可は必要だが外出は可能、だ。だが、
……はて、彼女にそんな友達はいるだろうか。
そもそもこの近くに本当に友達がいたとして、それは彼女的には四年前の話のはずだ。
今も同じ場所にいるとは限らないし、それは京も理解しているはず。
というよりも、それが事後承諾であることを上木はすでに知っていたのだ。
「そんなこと言って、もう今日行ってきたんでしょう。いつの間にかそんなに彼と仲良くなられていたんですね。まあ、僕は良いことだと思いますよ。」
やれやれ、と言った風に上木は告げた。
「えっ、いや、あの…………すみません。なんで知ってるんですか。」
「さっき遠田さんからメールが送られてきました。いつの間に人の社内アドレスを入手したのか、今度会った時に聞いておいてください。」
物申したい相手は遠田だったが、そう言うとなぜか京がバツが悪そうな顔をしている。やはり随分仲良くなっていたようだ。
「……機会があれば。ちなみにメールにはなんて、」
「『今さっきまで京がウチにおりましたよ。ちゃんとお家まで帰ったか確認したって下さいねー』と、そんな感じのことを。」
むぅ、と京は少しふくれっ面になった。
「過保護ですね……。出る間際もホントに一人で帰れるかー、って、ずっと言ってたんですよ。小学生じゃないんだから、って。もう。」
京は口ではなんだかんだ言いながらも、饒舌に遠田のことを話した。
上木はいつも通り真顔で相槌を入れるだけだったので、彼女はソレに気が付かなかった。
「……で、何を聞きに行っていたんですか?別に遠田さんと仲良くおしゃべりするためだけに行ったわけではないでしょう。」
カチ、と一瞬京の身振りが止まった。一瞬だけだった。
「、いえ?新居が落ち着いたから一度遊びにおいで、とお誘いがあったので……まあそういう意味ではおしゃべりに行ったわけではないんですが、」
「誤魔化さないでください。遠田さんは元々研究畑の人です。ここにいた間も精力的に『自分』の研究について聞いていたそうです。あちらの班長が言っていました。『ウチの研究員に欲しいくらいだ』と。それに、……それに、あなた方は頭の造りが変わっている。彼の性格的に、きっとそれを殺すようなことはしないでしょう。ならばきっと『自分の研究を自らのテリトリーで行いたい』はずです。……違いますか?」
「造りが変わった」とーーそんなこと口に出したくはなかったのだと言えば彼女は信じてくれるだろうか。そんな益体もないことが頭をよぎった。なぜだろう。遠田に関しても、彼女の交友関係が広がるのは歓迎すべきことだ。それだけ彼女が「今」に順応しているということであり、きっとそれは未来の彼女に有益なことになるからだ。それなのに、上木は少し、ほんの少しささくれ程度の節を作る心中を無視できないでいる。
絆創膏を貼るほどではない。いっそ剥いてしまえば楽だろうか。
「さあ……もしかしたらそういうこともあるのかもしれませんが、私はそこまで聞きませんでしたね……。というか、何をそんなに疑ってるんですか?もしですよ?違いますけど。もし、私が遠田さんに恋しちゃってる女の子で一生懸命惚れさせようとしてるとかだったらどうするんですか。」
ふう、とおおげさに京はため息をついて見せる。
「そうなんですか?」
そんなことは意にも介さないで、上木は真顔のままだ。
「いやだから『もしも』ですって……あー、いいです。特に面白い話はしませんでしたよ。」
投げやりな口調で京は言った。
何をそんなに疑っているのか、京には上木の考えていることがよく分からなかった。
「では、こちらからも聞いていいですか。」
「……どうぞ。」
「最近明坂さんは不思議な行動が目立つと皆からも声が上がっています。こちらから声をかけると返答までに間があるとか、椅子に座る前には座面を確認するとか、そういうことです。」
ふ、と上木が一息入れた。
「……僕も、最近の明坂さんは少し前と変わったように思います。感情の起伏が薄くなった、というか、あまり物事に動じなくなったというか……すみません。こっちは僕の主観なので気にしないでください。とにかく、僕らが気づいているなら明坂さんも気がついているでしょう。それについて遠田さんに聞きに行っていたのではないんですか?」
少しは動揺を見せるかと思っていた。きっとそういう話をしに行っていたはずなのだ。京が心の柔らかい部分を見せるのは、きっと遠田のはずだから。そう思っていた。だけど。
動揺を見せるどころか京は異様なほどに凪いだ顔をしていた。
「うーん…………。」
何の感情もなく、ただ彼女はそこにあった。感情をそぎ落とした顔ではなく、一切の感情の読み取れない顔だった。無機物のような、仮面のような。
「それは上木先生の買い被りですよ。そんなこと、言われるまで気づきませんでした。」
そういうと、にこ、と京は笑う。
その笑顔に思わず上木は息をのんだ。見てはいけないものを見てしまったような、作ってはいけない毒を意図せずに作ってしまったような、そんな恐ろしさをどうにか飲み下した。どこにそう感じたのかは分からない。けれど、確かにその笑顔は「彼女」のものではないと、上木には確信できた。
「--というか、私そんなことしてましたか?全然気づきませんでした!なんでだろ……あ、でも返事に間が空くのは今更というか……多分ちょっと皆に慣れてしまったので、一生懸命返事を考えることがなくなったからかと……。すみません。会話をサボってるだけだと思います。」
えへへ、と今度はいつものように彼女は笑った。
ーーもう、上木には分からなかった。その笑顔の中に何もないのか、それとも何かを隠しているのか。いや、なぜ一瞬でも分かったつもりでいたのだろうか。「嘘をついているようには見えない」なんて、よく思えたものだ。
そんなもの、彼女ではない彼には一生分かるはずのないことだったのだから。
「ふあ……ぁ、すみません、思いっきり欠伸を……。」
恥ずかし、と京は天井を仰いだ。
「……いえ、今日はこれで終わりにしましょう。色々と聞いてしまってすみませんでした。」
「はい……。今日は結構歩いたので、疲れちゃったのかもしれないですね。すみません。お言葉に甘えてこれで失礼します。おやすみなさい……。」
ふあ、と京はもうひとつ欠伸をこぼした。
「はい。あ、明日イチは十一時にDー9ですのでよろしくお願いします。……おやすみなさい。」
ガラガラガラガラ、ぱたり。
「…………ふーー、」
京が部屋を出ていくのをしっかり見送ると、上木は深いため息を一つ。その反動でイスに深く背中を預ける形になる。なんだか、妙に疲れた。
そしてきっかり三分後。
すっかり冷たく味の変わったコーヒーを気つけに、パソコンのメールソフトを立ち上げる。
画面の送信者欄には「遠田」の文字があった。
ピ、ピ、ピ、ーーマンションのエントランスで部屋番号をプッシュする。
ピーン、ポーン。…………「ザザッ、……ガタ、…………『はい、どなたで……』」
ブツン。
「…………。」
ピ、ピ、ピ、ピンポーン。………………「……チッ…………どうぞぉ」
ブツン。
…………。
…………………………。
……………………………………ウィーン。
「子供かよ……。」