⑦
「兼崎さん。これ、頼まれていたうちの方の資料です。遠田さんにも応用できるかはわかりませんが。そちらでも進展があれば共有をお願いします。お互いに貴重な検体だと思いますので、ここはひとつ協力していただけるとありがたいです。」
先日、といっても二か月ほど前だが、転院してきた進化症の患者が目覚めた。
今度は男、眠っていた期間は半年と、過去の患者全体と比べてもかなり短い期間だ。
「……随分冷徹な言葉選びをするモンだな。わざとか?」
ファイリングされた資料を受け取った兼崎は苦々しい顔をして眉間にしわを寄せた。
「何がですか?」
「とぼけんなよ。あいつらはモノじゃない。そんな突き放したような言い方はよした方がいいぞ。いつか本人たちの前でも出てくるようになる。」
しかし言われた上木はさほど表情を変えることもなく、
「肝に銘じます。ですが、マウスですよ。アレは。そうでしょう。遠田さんはまだわかりませんが。僕らと彼女は利害が一致しています。契約上彼女は紛れもないマウスです。」
そう、躊躇いなく言い放った。
カッ、と兼崎の顔に血が上るのが見て取れた。
昔からよく見た光景だ。なぜだか上木は人を怒らせることが多く、何度もその顔を見てきた。もう怒られるのも怒鳴られるのも慣れたものである。
「違う!彼女はマウスなどではない!お前は何を考えて……ッ、彼女のことをお前は……お前たちは、どうするつもりなんだ!」
兼崎の唇が怒りに戦慄いた。
兼崎は京と大して交流があるわけではなかったはずだ。なぜこんなに怒ることがあるのだろうか。少し考えたが、上木には分からなかった。
「そちらにとっては違うかもしれませんが、こちらにとってはそうなんです。どうする、って、そうですね。本当に人体に無害なのか断定できない薬を投与して、経過観察をするんでしょうね。でも、遠田さんにも治験頼むんですよね?臨床承認の下りていない薬を使うんですよね?僕らは同じ穴のムジナですよ。結局。」
「ッ……!それがどうした。それが俺たちの仕事だ。将来病気を一つ減らすための必要な施策だ。だがそれと彼女をマウス扱いすることは違う!」
上木は、真っ直ぐに兼崎を見つめた。
……多分、人として兼崎の言っていることは正しいのだろう。だが、
「気持ちの上でだけ人間扱いしたところでやっていることは変わりませんよ。彼らは実験動物と同じ、人間に投与する許可が下りていない薬を与えられて、観察されるんです。」
「お前ッ…………っ、いや、いい。クソッ。胸糞悪い。」
ガンッ、とその辺の壁に苛立ちをぶつけて、兼崎は足早に去っていった。
普段は軽いはずのサンダルの足音が、この日ばかりは地面を踏みぬかんばかりの低い音になった。
--しっかり資料は持って行ってるんだから人のこと言えないよなあ……。
半目になりつつその背中をしっかりと見送ってから、上木は研究室へ戻るために歩き出す。
こんな問答は今に始まったことではない。
三班に集まっている面子は良くも悪くも二面性のある人物ばかりだ。表面的には何事も穏やかに流すことが多いが、その実どいつも本性はかなり冷徹だと上木は思っている。対して四班は兼崎のように相手のことを慮る人間が多い。時折衝突が起こるのは当たり前と言えば当たり前か。
(明日はどこに行くか……まあさすがに彼女が行きたいところの目星くらいは付けてくるだろう。若干憂鬱だけど……まあ外空間での観察だと思えば多少は……うん。やっぱり少し面倒、だな……。)
明日の予定を頭の中でシミュレーションしながら上木は歩き出した。
上木は京に何の思い入れも無いわけではない。むしろこの施設にいる誰よりもよく彼女のことを知っていると断言できるし、気にかけている。上木に言わせてみれば、兼崎の怒りなどとうに超えてきた道だった。その程度の葛藤など入所二年目の頃には終わらせた。
だが、それを差し引いても、……それらをすべて足し合わせても、もう京の内面に深く関わる気はないのだ。
関わってしまえば、彼女に思い出させてしまえば、面倒なことになるのは目に見えている。
表面を作り上げるのは苦手ではない。仲谷辺りには指をさして笑われるが、意図せずとも誰しも外向きの顔というのはあるものだ。彼女には常に外向きの顔しか見せない。それだけのことだ。
アレはマウスで、僕は研究者。
それ以上にも、それ以下にもならない。
「なんだったらこの機会にデータ管理用の機械とか一式揃えましょうか?音楽を聴くのが好きなら、データにした方が管理が楽ですし、曲数も入りますよ?パソコンが苦手ならお教えしますし。」
このご時世に一枚ずつディスクを取り変えながら音楽を聴くなんて、レトロフリークじゃあるまいし。
そう思って言ったことだったが、どうも京の中の何かをかすったらしい。きょとん、とこちらを見上げている。滑車から落ちたハムスターとか、足を踏み外したリスとか、そういう感じの顔だった。
「……どうかされましたか?」
「いえ、先生は『教える』って言うんだな、と、思いまして……。先生なら『やってあげる』っていうのかと。」
どうも自分が彼女と距離感を置いていることをなんとなく感じ取っているらしかった。
教えてやるのも手間だが、その都度やってやるのも手間だ。そういう計算の上での発言だったが、ふと興味がわいて聞いてみることにした。
「明坂さんはどっちが好きですか?」
「?えーっと、そうですね。……教えてくれる方が好きですかね。できるだけ優しくお願いしたいですけど。」
ハッ、と鼻で笑いたい気分だった。
きっと彼女はそちらを選ぶだろうと思っていた。想像通りの答えだ。
他人に迷惑をかけるなら最小限に。手間も時間も最小限で。それが美徳だと、他人にとって良いことだと思っている。……まったく、いちいち気に障る。
表情に出さないように、もし出ていても分からないように上木はなんとなしにその辺の棚へ目を向けた。
その後、あの喫茶店へ向かったのは単なる気まぐれだった。本当に昼食を食い損ねたのと、きっとオンナノコはこういう店が好きだろうと思ったからだ。親密度を上げておくに越したことは無い。なぜ知っていたのかはよく覚えていないが、昔の彼女か誰かと一緒に来ようとして調べたような気がする。
「うわぁ……そういうヤツですか……」
うわぁ、と言葉通りの表情を漏らした彼女は、すぐに失態に気が付いたのか表情を取り繕う。なんだ。ちゃんとそういう顔もできるんじゃないか。
ちょっとくらい本性を見せろ、というと京は少しだけ今までよりも砕けた話し方をするようになった。少し、上木の知っている京に近い話し方だった。正直、上木からしてみれば本性も何も、大体のことは分かっているのだから無駄な抵抗だと思うが、京にしてみれば年上の上司(仮)に素を出すことは難しいことだろう。
まあそういうメンタルに関わることは自分の仕事ではない。どちらかといえば千葉とか、兼崎とかが勝手にやってくれる仕事だ。
タルトを頬張り、おいしー……、と小さく呟く京を横目で見ながら、上木はなぜかあまり味のしないサンドイッチをコーヒーで流し込んだ。
「研究室で、何か私にできる仕事があればやらせていただきたいんです。お茶くみとか、書類整理とか、何かあれば空いている時間にやらせていただけないかと……。」
「……随分唐突ですね。何かありましたか?」
今まではこちらを伺うような態度を崩さなかった京が急に積極的なことを言ってきた。誰かに何かを言われたか、何かを聞いたか。京ならば一人で煮詰まって行動に移している可能性もなくはないと思ったが、まあ恐らく「誰か」の「何か」がきっかけだろう。まあそれが自分の、しかもあんなに些細な一瞬だとはさすがに上木も思い至らなかったが。
「いえ、特にはないんですが……空きの時間は結構ありますし、その、給料もいただいていますが、ちょっと見合っていないんじゃないかと思って。それで、あー、多分最初の方はお邪魔にしかならないことは分かっているんですが。やっぱり難しいですか?」
難しいか、と言われれば、種類の問題だ。
簡単な仕事なんて考えればいくらでもある。ただ、気分的には、というよりは精神衛生上は非常によろしくない。彼女と距離が縮まりすぎるのは班全体にとって問題になるだろう。
「……そうですね、簡単な事務作業でいいなら、大丈夫だと思います。それこそお茶くみとかですけど、よければ。」
「!はい、ありがとうございます。是非、お願いします。」
それでもそちらに天秤が傾いたのは、メリットの方が美味しいと思ったからだ。
上木はこんなに京が仕事をしたがることに少々の疑問を抱いていたが、仕事をしてもらえるのならば本来上木にとって、いや、三班にとっては願ってもないことだった。
彼女に仕事を与えればここに居場所ができる。居場所ができれば彼女がここを離れようと考えることは少なくなるだろう。検体がいなくなることは、彼らにとってはできるだけ避けたいことだった。だからこそ彼がいざと言う時の「繋ぎ」として「主治医」となったのだ。
少しだけ明るさを滲ませた声に、ほんの少し、少しだけ思うことがない訳でもなかったが、それは上木にとっては小説のキャラクターの死に悲しむことであり、道端を歩く高校生のカップルを眺めるようなことであった。つまりは些末なことである。
ただ、余計に仕事を考えなければいけないのは正直に面倒だな、とも思っていた。
しかしそれを押しても上木には京に検体を続けてほしい理由があった。
この病気を解明する。そして治す。それだけが彼がここにいる理由だった。
それは、外出から八日後のある日のことだった。
内藤化学は自由時間出勤--いわゆるフレックスタイム制を採用している。コアタイムは十一時から十四時だ。が、この日は朝から招集がかけられ、九時には出勤するようにとのお達しがあった。ちなみに余談だが聞かされたのは前日の深夜一時である。起きていなかったらどうするつもりだったのか甚だ疑問ではあるが、とりあえず翌日の九時には三班の面子は全員そろっていたので良しとしよう。
「お、揃ってるねえ。急な呼び出しでゴメンかったー。」
ガラ、と、最後に研究室のドアを開けたのは仲谷だった。
「で、早速なんですケドね。昨日海外検体がクラッシュしたらしい。こっち側では現在対応を協議中。でもまあ、たぶん行動制限がつくか監視措置が取られると思うのでよろしく頼むよー。」
「「…………」」
「……班長、もう少し詳しく説明していただいてもいいですか。」
遠慮がちに千葉が手を上げた。他の二人も似たような顔をしている。
「あー……悪い。俺もあんま詳しくは聞いてないんだわあ。」
「聞いてない?どういうことですか。」
坂本の質問に仲谷はボリボリと後頭部に手をやったままで答えた。
「そのまんまだよお。……なんかねえ、けっこーヤバい感じらしいんだわ。死人が出てる。詳細はこんな下っ端までは降ろせねえってことなんでしょーなあ。あーヤダヤダ。これだから縦社会は困っちゃうんだよなあ。」
「班長。」
坂本の一声に、誤魔化すな、と言外に告げられて仲谷は諦めたようだ。はあ、と深いため息を一つついた。
「聞いてないのは本当だよ。まあ何も聞かされてないわけじゃないんだけど。……加害者は進化症患者、被害者は研究施設の職員、つまりは彼女と俺たち、ってことだなあ。」
「嫌な言い方をしますね。」
千葉が苦い顔をしてぼやいた。
「そう?間違っちゃいないと思うんだけどなあ。……で、なんだっけ?ああ、そーそー詳細ね。って言ってもあと聞いたのは患者の症状ぼやっとくらいなんけど。
検体名はサラ。昏睡期間は一年八か月で、覚醒からは四年二か月。症状は筋肉組織の変化と発達・増強。超パワー系だったみたいだねえ。」
「……つまり患者手ずからその職員を殺意を持って殺した、と、そういうことですか?」
千葉の言葉に一瞬、研究室に沈黙が満ちた。
「……うーん、どうなんだろうねえ。動機やら殺意やらその辺は聞いてないからなあ。分からないけど、患者が研究員を殺した、っていう事実だけで十分だよね。なんせ彼らは人間じゃないからねえ。」
彼らは人間じゃない。
仲谷は班の人間に言い含めるように、上木に刷り込むように、よくそういうことを言った。
分かっている。彼らはマウス、実験動物だ。泣くし、笑うし、言葉も通じる、感情のあるマウス。ただそれだけだ。
仮にマウスでなかったとしても彼らは目的のために彼を、彼女を使うしかない。それが彼らの仕事なのだ。
「人間が人間を殺せば殺人事件で裁判だけど、例えばクマが人を殺せば駆除されるだけ。そういうことだろうねえ。」
駆除。
駆除。
つまり駆除をされる対象は、人間のルールは適用されないということか。
獣を駆除するには猟師、害虫を駆除するのは専門業者。
そして彼女たちを駆除するのは研究者。
研究者が彼女たちを駆除しても、誰も彼らを裁かない。裁く必要が無いからだ。
獣を仕留めた猟師が農家から感謝されるように、害虫駆除業者が住民から感謝されるように、……そういうことか。
「駆除」という、その言葉がなぜかやけに上木の琴線に触れた。
「……班長、口が過ぎますよ。」
「おっとこれは失礼副班長殿。」
その後も一つ二つ仲谷と坂本はなにかを話していたようだ。
だが、上木は静かに、しかし確かに自分の中で波紋が浮かび上がるのを感じていた。
--こんな、こんな些細なことなのか。この十年必死に、それこそ死ぬような思いで積み上げてきたものが崩される瞬間が、これか。
いっそ笑えるくらいだった。なぜだろう。多分明確に、現実的に彼女が処分される様が想像できてしまったからか。想像ではなく、現実に脅威として、まざまざとその想像ができてしまった。
そしてその後をのうのうと生きていく自分の姿も、また想像できてしまった。
裁かれず、殺されず、それでも日々を重ねていく自分の姿が。
それにしても、こんな所でか。
「……はは、」
抑えきれず、小さく笑い声がこぼれた。きっと誰にも聞こえなかっただろう。聞こえていたとしても、まあ関係ない。そんなことはどうでもいい。
まだだ。まだ、僕は大丈夫。明坂京には深入りしない。アレはマウスだ。大丈夫。
まだ、自分は彼女を使える。
「……まあそういうことだからちょっとゴタゴタするかもしれない。恐らく沙汰が下るのは二、三日後だと思う。それまではとりあえず今まで通りに彼女に接して問題なし。それ以降は上からの指示に従うということで、異論があれば今言ってね。聞かないけど。…………無いみたいっすなあ。じゃあ以上。かいさーん。」
ようやく上木が少しばかり冷静さを取り戻した頃。そう軽い調子で言うと、仲谷はさっさと一人研究室を出て行ってしまった。
残されたのは困惑気味の大の男が三人だ。
「……坂本さん?」
困惑の中、千葉が一言目を発した。
「なんだ」
「とりあえず俺たちはどうすればいいんですか。班長言うだけ言ってどっか行っちゃいましたけど。」
「知るか。俺が聞きたい。」
坂本は眉間にしわを寄せて唸った。
あの班長が自由人なのは今に始まったことではないが、今回は随分な言いっぱなしだ。本当にあれだけしか聞かされていないか、面倒だから伏せたのか、どちらかだろう。
「……まあとりあえずはいつも通りでいいんじゃないでしょうか。班長も沙汰が降りるまでは今まで通りで、と仰ってましたし。」
あー、マズいな、と思う。
うまく自分がコントロールできない。今自分は冷静に話せているだろうか。
「あー、そうだな。というか俺たちにはどうすることもできんからな。とりあえずは待機ってとこだろう。あぁ、千葉は今日は俺のを手伝ってくれるか。そっちが急ぎでなかったらでいいんだが。」
「ええ、大丈夫です。じゃあ俺は坂本さんとってことで。」
「助かる。……じゃあとりあえずは解散だな。今日も事故はないように。よろしく頼む。」
「ふーーーー…………」
ポタポタと顎から水滴が垂れている感覚がする。昨日は遅かったのだ。それに加えて朝からの招集とあって、気分を変えるためにも顔を洗いたかった。
「……駆除、」
鏡に映る自分の顔を見たら、ようやく収まったはずのものがまた首をもたげてきた。
もしも、もしもそうなったら自分はどうするだろうか。自ら手を下すのだろうか。誰かに殺されるのなら、殺される前に殺す?そんな覚悟があるのか?
「…………、」
覚悟。彼女を殺す、覚悟。
……違う。違う。違う、違う、違うだろう、違う、違う!
なんて、情けない男なのかと自分でも思う。
気づいてしまえばくるりと手のひらを返せる。この男は昨日までの自分は自分ではなかったのだと思い込みたいのだ。今日からは心を入れ替えて心機一転?そんな都合のいい話があるものか。
だが、結局今日は昨日の続きでしかない。今日の自分は昨日まで彼女をマウス扱いして一人前だと思っていた男と同一人物だし、なんだったら今日からだって今まで通りに過ごしていくのだ。
しかし彼女は、--明坂京は、少なくとも自分にとっては、少しだけ特殊な病気にかかってしまった、女の子だ。
分かっていた。彼女は人ではないんだと、実験に使ってもいい道具なんだと、必死で思い込んでいただけだ。そうして彼女の体に傷を付けながら、十年をかけて自分を納得させた。そうでなければ研究などできなかった。できるわけがなかった。
京を、彼女の命をこの手で止める。その命を背負って生きていく。もう一度。……「次」があれば、もう二度目だ。そんなことは、あってはならない。今度の彼女は生かさなければならない。
必ず彼女をあの眠りから、遠ざける。そのためだけに上木の十年間はあったのだから。
「…………、」
バシャバシャと気を紛らわすように顔を洗った。汚い自分も一緒に流れないかとバカみたいなことを考えたが、そんな都合のいいことはもちろん起きなかった。
大丈夫だ。今までと何ら変わりはない。自分の優柔不断さに見切りが付いただけ。ただそれだけだ。
(……そんな風に、簡単に切り替えられればいいのに。)
消えた月日は京を縛ったが、過ぎた月日は上木を縫い付けた。
時間とは、残酷だ。
自分に降りかかって、初めてその重みを知った。それに気がついて、また少し笑えた。
「あれ、明坂さん。こんばんは。」
結局、仲谷の言っていた通り彼女たちには外出禁止措置が取られた。当面自分たちに害はないと判断されたのか、現場の研究職が見捨てられたのかは謎だ。
そして、彼女に正面切って会うのは三日ぶりだった。何度か研究室には来ていたが一言二言の受け答えのみだったし、行動制限がかけられてからは日々の検証も行っていない。結果ルーチンのチェックも必要がなかったから、気が付けば三日も空いてしまっていた。
「……先生、こんばんは。どうしたんですか?」
久しぶりに会った彼女は少しソワソワとしているようだった。
遠田の部屋がある方面から歩いてきたから、恐らく食事を共にしたのか、話でもしていたのか。なんにせよきっとこの時間まで一緒にいたのだろう。
「いえ、ここ二、三日あまり明坂さんとちゃんと話していないと思いまして。外出制限がかけられてからはチェックもしていないですし。」
あー、と京は目線を少しうろつかせた。何か気まずいことでもあるのだろうか。
「今日は遠田さんに構ってもらっていたんです。まあ、ここ最近はいつものことですが……あ、トレーニングをしていました。遠田さんは見た目によらずストイックですね。」
こちらからは何も言っていなかったが、どうやら自主的にトレーニングをしてくれていたらしい。このトレーニングも結局は変化していく体を少しでも自分で制御できるようになるためだ。彼女のためでもあるが、自分たちのためでもある。……「サラ」はそういうトレーニングなんかはしていたのだろうか。
「そうなんですか。ありがとうございます。ああ、待機中はなにか指示を出しておいた方がよかったですね。明日からは項目を作っておきます。」
「、そんな、大丈夫ですよ。あ、でも指示はあるとありがたいです。なんならお茶くみの時間とか入れておいてくれてもいいですよ。」
へら、と京が笑った。そういえば、この人は元々よく笑う人だったな、と今更のように思った。誤魔化すのにも、本当に楽しい時にも、似たようにへらりと笑う。いつの間にか、あの気持ちの悪さはどこかへ行ってしまったようだ。気づいた途端にこれなのだから、我ながら現金な奴だと思う。
「じゃあ、明日の朝は研究室に寄ってください。ボードに書いておきます。今日はもうお休みですか?」
「……え、っと、はい。もう寝ようかと。」
「もういい時間ですねからね。引き留めてしまってすみません。ゆっくり休んでください。……ああ、立ち話にしてしまってすみませんでした。また、チェックの時間を作ります。」
「あ、はい。分かりました。よろしくお願いします。」
「はい。では、僕はこれで。」
顔色も良かったし、自主的にトレーニングをしていたということはひとまず体調が悪かったりもしていないようだ。
しかしチェックをしていないから、というのは建前だった。どちらかといえば、顔を見ていないから、と言う方が本音に近い。
やたらとソワソワしていたのが少し気にはなったが、最後に、おやすみなさい、と告げて上木はその場を後にした。
それから二週間が経って、結局すぐに問題が起きるほどのことではないだろう、と二人の外出禁止措置は取り下げられた。
「明坂の進化は目だし、遠田さんの方は耳だろ。そもそも俺は外出禁止も大げさなくらいだと思ってたけどね。」
廊下の共用スペースに設置されている喫煙室、その中で煙草をふかしながら千葉が言った。
「まあ外出禁止なんてされなくても明坂さんはめったに外に出ようとしないですけれどね。」
「それもそうだな。俺は一回も声かけられたことない。ほのめかされたことすらないな。あいつインドア派なの?」
「うーん、……どうなんでしょうか。出かけたくない訳ではなさそうですけど、外出を我慢しているっていう感じでもないですね。単純に用がないから、ということかもしれないですね。」
フゥー、と上木の口からは白い煙が吐き出された。
三十路も過ぎた男が二人、肩を並べて狭い喫煙室でタバコをふかしている姿には妙な哀愁も漂っていたが、それを指摘する人間は誰もいなかった。
「そういえば、アレ聞いた?」
「えー……僕が想像しているアレで間違ってなければ聞きましたね。遠田さんのことですか?」
「そうそう合ってる。ウチも逃げられないようにしとかないとなー。頑張れよ、先生。」
「…………そうですね。彼女にいなくなられると、ウチも困りますからね。」
ははは、となんとも軽い乾いた笑い声が煙草の煙の上を滑っていく。
中身のない笑い声は、握りつぶしたらくしゃりと音がしそうだった。
チラ、と千葉が上木に目線を流す。
相変わらず煙は天井を目指して真っ直ぐ登っていく。
「……上木、大丈夫か?」
「もちろん。」
間髪入れずに上木が答えた。
大丈夫か、だと?大丈夫に決まっている。
「そういうときのために僕が三班に入ったんでしょう。そうでなければあの頃あんなぺーぺーがいきなり実地研究班に入れるわけがない。」
ふぅっ、と上木の口から最後の煙が吐き出された。
三口ほどしか吸われなかった煙草は、遠慮なく灰皿に押し付けられて無残にもフィルターをぐしゃぐしゃにした。
「……そうでなくてもお前はさっさとどっかの班には配属されてたと思うけどな。まあ俺が言ったところで、って話だけどね。っつーかアレだ、そんなこと言ってもお前、明坂には言ってないんだろ?」
ハッ、と自嘲するように上木は鼻で笑う。
「何も言っていないです。彼女は僕の年齢すら知らないはずですよ。」
「じゃあ何年前だかぺーぺーだったお前が配属された理由は、今のところ機能してないわけだ。」
きょとん、と男の動きが止まった。
男のキョトン顔なんか見たところでなあ……と千葉は思ったが、一応顔には出さないでおいてやった。武士の情けである。
「……そうですね。……僕、大丈夫ですか?役に立ってますか。」
「進化症第一人者が何言ってんだお前。気持ち悪い。」
しっかり最後まで吸われた煙草がぐしゃり、灰皿にもう一本押し付けられた。
「それに、あいつの主治医はお前だろ。班長はああ言ってたけどな、あいつは、まああれだ、人間だよ。俺たちと同じ人間だ。マウスでも何でもない。」
千葉の顔はいささか難しい、それでいて甘いお菓子をを押し付けられたような顔だ。余談だが千葉は甘いものが少し苦手である。
「二十歳そこそこのオンナノコなんかなあ、三十過ぎたおっさんからすれば二次元みたいなもんだろう。それでも、三次元にしてやれんのは多分お前だけだ。
……頑張れよ。先生。」
「明坂さんも、ここを出ていきますか。」
そう言ってしまったのは無意識のうちだった。
そんなことを聞くつもりはなかった。だって、きっと彼女はまだここを出ていくことはしないと思ったのだ。ここを出ては生きていけないと思っていると思ったのだ。
「……いえ、私はまだここにいたいと思っています。まだ置いていただけるのであれば、ですが。」
やっぱり、答えは想定通りだった。
そうですか、とできるだけ淡々と聞こえるように慎重に言葉を発した。
そうでないと今更のように謝罪の言葉が口をついて出てしまいそうで、恐ろしかったのだ。
* * *
「……最後まで面倒見てくれなくていいの。でも、あの子が一人で生きていけるようになるまで、ねぇ。きっと、何も言わなくてもあなたは面倒見てくれるよねえ。ね、だって、あなたの大事な大事なお人形さんだものねえ、きょうちゃんは。ねぇ、あなたはいくつになったのかしら。きょうちゃんよりもお兄さんでしょう?それだけは知ってるの、私。ねえ、昔からきょうちゃんをお嫁さんにするんだー、って、言ってくれてたじゃない?ねえ、いいじゃない。何の気兼ねもないでしょう?お互い姑も舅もいないんだもの。羨ましいわあ。……ね、だから、よろしくね。きっとよ、きっと。ね。信じてるからね……」
その女性は真っ白な部屋に横たわっている。
清潔さだけを求めたような部屋だ。見舞いの花も、趣味のものも何もない。
「はい。分かっています。きょうちゃんは僕がちゃんと面倒見ます。
……喋りつかれたでしょう。少し、休んでください。」
そう言って男は少しずれた布団を女の肩まで引き上げた。
疲れた顔でゆっくりと目を閉じた女はひどくやつれた顔をしている。年のころは五十代前半と言ったところだろうか。ツヤのない髪に埋もれた頬はこけ、顔全体に陰を作っている。
「…………また、来ます。」
静かに女が眠る空間に、それだけ告げた。
返事はなかった。
* * *
京が「家族に会いたい」と言い出したのは、外出禁止が解除されてからさらに二週間後のことだった。
彼女が、「視える」ということ、その本当の意味に彼が気付いたのはきっとこの頃だった。
目の前で呆然と彼を見下ろす女性は、今にも倒れそうな、白い顔をしていた。
きっと自分は彼女のこの表情をしばらく忘れないだろうと、上木は思った。
「……次で一回降りましょう。」
「いえ、大丈夫……」
「ダメです。次で降ります。ほら、もう着きましたよ。」
がこん、と電車が止まる音がした。
その場にくっついてしまったように、困ったような目線だけを送る京の腕を引いて上木は電車を降りた。少しひっぱれば、すぐに彼女の足は床から剥がれ落ちた。
男に手を引かれて駅のホームを歩くというのは、きっと傍から見ればカップルか何かに見えるのだろうな、とそんなことを京は考えていた。男の手が熱く感じるのは、きっと自分の手が冷たいからだ。心なしか体の中心の、何かよく分からない部分もすっかり冷え切っているように感じていたし。
手を引かれてどこかへ行く途中、上木は誰かに連絡を取っていたようだ。
まあ、多分研究所だろう。京が動けなくなったから迎えに来てくれ、とかそんな感じだろうか。
「どうぞ。」
ふと気が付くと公園のような場所のベンチに座らされていた。
本当に、いつの間にか、だった。そんなにも自分はぼおっとしていたのかと京は少し驚いた。
「あ……、すみません。」
何に謝ったんだろう。彼女は自分でもよく分かっていなかった。
上木が差し出したのは、温かい紅茶のペットボトルだった。今度はミルクティーだった。
「大丈夫ですか、…………いや、違うな、その……何と言えばいいのか、よく分からないんですが、……どうしましょうか。いや、今日これからの予定とかではなくてですね、将来的に、というか……」
そう言うと上木はむっつりと難しい顔で黙り込んでしまった。
彼の手には何も握られていなかったし、眉間にしわを寄せて小さな声であー、とかいや、とか言っている。
「…………私、上木先生が言葉に詰まるのって初めて見ました。」
上木はあからさまに怪訝な表情になった。
僕が真剣に慰めの言葉を考えているのに何を言っているんだこいつは、というところだろうか。しかし、自分のその姿が一番の効果を発揮しているとは考えないのだろうか。この人は。
きっと普段の先生なら私に気を使わせないように自分の飲み物も買ってきて、これ見よがしに一口先に飲むくらいのパフォーマンスをするだろうし、「熱いですよ、気をつけてくださいね。」くらいの一言は入れるだろう。そこに心がこもっているかいないかは別として。
「先生も人間なんですねえ。ふふっ、なんですか、こう、可愛げがあっていいと思いますよ。」
そして、温かい紅茶を一口飲んで気が付いた。
あ、
「って、違いますね。私こそ人間じゃないんだった。」
あはは、と公園の木々を見ながら彼女は言った。
葉っぱが一枚一枚光の角度や枯れ具合でこんなにも色が違うのにも、男の目が様々な色を放つのにもすっかり慣れきってしまっていた。最初からそうだったくらいに思っていた。だから、忘れていたのだ。彼女はマウスで、彼は研究者。水と油、ウサギと亀、……つまりはそういう対比として持ち出される部類の関係性だと言うことを。
すみません、忘れてました、と京が上木の方を見やると、相変わらず上木は難しい顔をしていた。
「あの、……どうしましたか?」
恐る恐る、聞いてみた。京に心当たりはない。
「いえ、今本気で怒ろうか、それとも真面目に嗜めようか悩んでいるところです。」
真剣な顔で上木は言った。
そうか、あれは難しい顔ではなく怒っている顔だったのか。と、どうでもいいことが頭をよぎった。
……というか、私は慰められていたんじゃなかったか。なぜ怒られなければいけないのだろうか。
「不思議そうな顔をしていますね。」
ぎくり、とした。こいつ、エスパーか?
「ハァ……明坂さんはなにか勘違いしているようですが、別に進化していったからと言って人間でなくなるわけではないでしょう。それに、僕らはそれを食い止めようと思って研究を行っているわけです。それを、あなたの口から、……『人間じゃない』と、言われれば僕らを否定されているのと心象的には似たようなものです。……思っていることを素直に口にしてもらえたのは嬉しいです。進歩でもあります。ですが、明坂さんは多分怒られないと分かってもらえないと思うので怒っておきます。いい加減にしてください。」
なんだろう。怒られるのはとてもとても苦手だったはずなのに、今日は全くそんな気がしなかった。
「でも、先生が言ってたんですよね?『アレはマウスだ』って。」
そう、京が何の感情も滲ませずに、言った。当たり前のことのように。
「…………遠田さんですか。」
絞り出すように、上木は言った。苦々しい顔だった。
それを見て、もしかしたら言ってはいけないことだったのかもしれないと思いながら、京は続ける。
「いや、でも本当のことだと思いますよ?そう思っててもらった方がこっちとしても、なんか、こう、自分は普通じゃないんだ、ってことが思い出せるというか、やりやすいというか、」
まあ、今の今まで忘れてたんですけどね、と京は少し照れくさそうに笑った。
それを見た上木は、今度こそはっきりと、刺されたような顔をした。
さっきまで血の気の引いた顔をしていたはずの彼女は、「普通ではないことを思い出した」らもうこんな照れくさそうに笑っている。それが「普通」なんだと、彼女にとっての「自分の姿」は、この何か月かでいつの間にか「普通ではないこと」にすり替わってしまった。
彼女をこんな形にしたのは誰だ。そんなのは決まっている。上木たち、----彼女からすれば「大人たち」だ。
上木は今すぐに京の肩を掴んで「それは違う」と言ってやりたかった。当てつけのように、誰もそんなことは思っていないよと偽善者ぶりたかった。でも、ダメだ。
確かに上木は京を検体だと認識していた。遠田が聞いたことも、彼女が聞いたこともきっとニュアンスの違いはあれど間違いはないだろう。上木が京をマウスだと思っていたことも本当のことだ。さらに嘘を重ねれば、きっと聡い彼女はそれすらも飲み込んで、何でもないように自分の「普通」に落とし込んでしまう。
「大丈夫ですか?先生ちょっと顔色悪くないですか?」
挙句彼女に心配をさせる始末だ。
……少し、動揺しすぎている。
「すみません、大丈夫です。」
落ち着け、と上木は自分に言い聞かせる。何を言えば京をこちら側に引っ張れるのか……。彼女の意識を少しでも逸らしたかった。どこに向いているのかも上木には見えないが、別のことを考えてほしかった。
「多分、もうすぐ迎えが来るはずなのでもう少しゆっくりしていましょう。考えてみれば、明坂さんと二人でゆっくり話すというのは今までなかったかもしれません。あ、ルーチンチェックは『ゆっくり話す』には入りませんからね。」
「……そういえば、そうですね。半年、くらいですか?ほとんど毎日会って話していたのに雑談もしたことがなかったなんて、おかしいですね。あぁ、CDプレイヤーを買いに行ったとき、少し話しましたかね。えへへ。」
京は何事もなかったようにくすくすと笑った。
その頬には薄く赤みが差していて、嘘偽りなくいつも通りの姿に見える。
「なんでしょうね、私は割といつも他人と仲良くなる、というか、うーん……話し始めるのが遅くて。一番仲の良かった友達とも、それこそ幼馴染とも、仲良くなったのは結構大きくなってからなんですよねえ。」
遠い昔のことを思い出すように、京はぼんやりと宙を見つめながら言う。
「まあ友達というのは分からないものですよね。絶対仲良くなれないと思った人と意気投合したり、すごく良い人だと思っていたらそうでもなかったり……まあそもそも最初のイメージで、その人に人間性を期待しすぎなのかもしれないですね。『こうあってほしい』というのが強すぎるからがっかりする。」
期待なんてしない方が自分のためです、と上木は続けた。
「そうですね、でも、……それはなんだか、寂しい生き方のような気がしますね。」
「まあ、それもアレですよ。元々僕は寂しい人間ですから。それがこうやって話してみて分かったというだけです。というか、明坂さん、幼馴染がいたんですね。今時珍しくないですか?」
「あー……幼馴染、って言っても、仲良くなったのは遅いんですけどね。」
えへへ、と京は照れくさそうに頬を掻いた。
「どうしてですか?」
「親同士が近所だからそれなりに交流があったんですけど、向こうは一つ下だし、男の子だし、なんかちょっと打ち解けられなかったんですよね。ほら、小さい頃って一つ違いっていうだけですごく壁があるじゃないですか。それで、私は勝手に学校とかですれ違っても『おはよー』とかのんきに言ってたんですけど、向こうはそうじゃなかったみたいで。」
「というと?」
「中学の時に部活の後輩から、『明坂先輩、信親くんと知り合いなんですよね?信親くんが『あんまり仲良くないけど幼馴染みたいなもん』って言ってましたよー』って。信親くん、っていうのは幼馴染なんですけど、あー、そうだよなー、一緒に遊んだのも小一とか小二が最後だもんなー、と。あ、でも別にショックだったとかそういうわけじゃないですよ?こっちもすれ違ったら『おはよー』って言うだけの関係でしたから。知り合い以上、友達未満、みたいな感じだったんです。」
「でも、どこかで仲良くなったんですよね?」
「そうなんですよ!びっくりしちゃうんですけどね。」
くすくすと京は笑みをこぼした。つい零れてしまったような、そんな笑みだった。
「私の母が一度具合を悪くしたことがあったんです。私が……高二の時でした。『お母さんが救急車で運ばれたので病院に来てください』って、学校で先生に伝えられて。こういうこと本当にあるんだなあって思いました。
それで病院に行ったら彼がいて、『一緒に救急車乗ってきた』って言うんです。ビックリしちゃいました。」
京は懐かしそうに目を少しだけ細めた。
「え、チカくん。どうしたの。」
少しだけ息を切らした少女が病院の廊下に佇む少年に声をかけた。
二人とも高校生らしく、違う制服を身に着けている。
「おばさんが倒れた時、俺一緒にいたから乗ってきた。偶然だけど。」
少年は気難しそうな、つんとした表情で答えた。
「あ、そうなの……ありがとう。」
「いや、別に。偶然だし。おばさん、盲腸だって。今は眠ってるけど、面会はできるよ。たぶん。」
「盲腸……なんだ、よかった。ビックリしたよ。」
ふう、と少女は息をついた。
「というかチカくん学校は?」
「今日土曜日だよ?……きょーちゃんこそなんで学校?」
「いや、なんか先生たちの勉強会とかでうちの学年だけ今日学校だったんだよね。まあ月曜日休みだからいいんだけど。……ん?学校ないならなんで制服着てるの?」
少年は少し目線を揺らした。なんだか話すか話さないか迷っているようにも見える。
「あー……予備校。」
その予備校の同じ建物に母の勤める店が入っていて、何か騒いでいるから見てみれば母が倒れているところだったので一緒に来た、ということらしかった。
「予備校?チカくん頭いいのに。」
「……今は、そうでもないよ。だからちょっと勉強頑張ってるんだ。」
そうなのか、と少女は頷いた。小学生くらいの時のまま記憶が更新されていないせいか、彼はかなり賢い子のようなイメージがあった。
「ふうん。でも、チカくんは元々頭良かったし、大丈夫だよ。きっと良いところの大学に行くんだろうなあ。予備校に行ってるだけでも私より全然偉い。」
偉い偉い、と少女は少年を褒めちぎった。
「まだ予備校行ってるだけだから偉くないよ。きょーちゃんは大学決まったの?」
「う、なんとなくは……多分ちょっと離れたところになるから、もし受かれば一人暮らしかなー。」
それを聞くと、少年は少し俯いてしまった。
「……そっか。寂しくなるね。」
「そうかな。でも飛行機乗らなきゃいけない距離じゃないし、すぐそこだよ。」
あまり接点のない幼馴染でも寂しがってくれるのか、と少し驚いたことを覚えている。
しかし、それっきりだ。二人の間には沈黙が落ちる。
長椅子に二人並んで座っている。なんとも手持無沙汰な空気だ。
「……じゃあ、私お母さんのとこ行くね。一緒に来てくれてありがとう。予備校頑張ってね。」
耐えられなくなった少女がそう言って踏み出した時、
「きょーちゃん、」
少年が椅子から立ち上がった。
「なに?」
きょとん、と少女は少年を見つめている。
「……ごめん、なんでもない。じゃあ、俺行くね。……ごめん。」
そう言うと少年はその場から去っていった。
「……変なの。」
それを見送った少女は、母の待つ病室へと向かって足を進めた。
「で、それっきりだったんですけど、偶然同じ大学になって。あ、学部は全然向こうの方が頭良いところなんですけどね。それからなぜかちょくちょく連絡をくれるようになって、お茶したりとか、ちょっと一緒に買い物行ったりとかするようになりました。それまではそんなことしたことなかったのに、変ですよね。でも私はその時間が好きで、まあ向こうはもしかしたらうざがってたかもしれないんですけど。」
「きっと、その幼馴染の男の子は照れくさかったんですよ。仲良くなりたかったけどきっかけがなくて、多分うざがってなんかいなかったですよ。そのくらいの男の子はそういうものです。」
「上木先生もそうだったんですか?」
上木が何かを言うために口を少し開いた。
が、その口は言葉を飲み込んでまた閉じられた。
ふい、と視線が動く。
上木の視線を追って公園の入り口に目をやると、黒いボディの自動車が止まっていた。お迎えの車のようだ。
それを見ながら上木は薄く笑うと、
「……さあ、どうでしょうね。さ、迎えが来ましたから、帰りましょう。」
そう言ってベンチから立ち上がる。
横から見えたその上木の顔は少しだけ悲しそうにも見える、不思議な笑みだった。
その笑みは少しだけ、かつての幼馴染にダブって見えた。