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 --それから二週間後、あっけなく二人の外出禁止は解かれ、さらに二週間後、遠田は研究所を後にした。結局最後まで二人に外出禁止の本当の理由が告げられることは無く、その噂すら掴ませることは無かった。

 遠田が施設を出て二、三日過ぎたころ、相変わらず行われている問診の時に上木が一回だけ、零したことがある。

 「明坂さんも、ここを出ていきますか。」

 淡々と事務的に聞かれただけの一言だった。問いかけですらない一言だった。

 「……いえ、私はまだここにいたいと思っています。まだ置いていただけるのであれば、ですが。」

 そうですか。と、上木の答えはそれだけだった。彼が何を思っていたのかは知らない。遠田だったら分かったのかもしれないが、京は彼のように耳がよくなることは今のところなかった。

 そして、それから更に半月ほど経った、九月のある日のことである。


 

 

 ●一年目 九月の話


 「……あ、」

 その日京は与えられたルーチンをこなし、自室で一人読みかけの本を開いていた。

 外出禁止はかなり前に解かれていたものの、用もなければ出かける場所もないので結局は屋内にいることがほとんどだった。せいぜい新しくベランダに移動した椅子に腰かけて風に当たるくらいだろうか。

 まあとにかく、この日もいつもと変わらないなんでもない一日だった。だから、そのことに気が付いたのは本当に偶然だった。ーー本の中で、登場人物たちがこれから友人の誕生日会を開くらしい。

 「わたしの、たんじょうび」

 それで、ふ、と思い出した。いっそようやく目が覚めたような心地だった。なぜ、忘れていたのだろうか。

 昨日は、私の誕生日だった。


 「先生あの、お願いがあるんですが……いいですか?」

 「明坂さんがお願いとは珍しいですね。仕事のこと以来ですか?それで、お願いとは。」

 さて、その日の夜のことである。いつものカウンセリング、そして相手はいつもの上木だった。

 「家族に、……母に会いたいんです。」

 「……随分、…………そうですか。今までそういうことを言われなかったので、気にしていないのかと思っていました。それか会いたくない理由でもあるのかと。」

 嫌に棘のある言い方をすると思った。実際に少しその物言いに苛立った。

 「いえ、そういうわけではなかったんですけど。元々一人暮らしでしたし、半年会わないとかもザラだったので……。でも、最近は自分も少し落ち着いたかな、なんて思いまして。気のせいかもしれないんですけど。あはは。まあ、そんな感じなのでちょっと帰省したいんです。」

 誕生日のことはきっかけの一つにしか過ぎなかったけれど、唐突に思い立った。

 家族に会いに行こう。もう母親しかいないけれど、自分の住んでいた町に戻ってみれば何かあるかもしれない。何か、この例えようもない地に足のつかない不安を払拭してくれる何かがあるかもしれない。あわよくば遠目からでも彼の顔を見納めたい、そう思った。「元」彼、かもしれないが、母親の次に「家族」に近いのは、多分彼だろう。

 「申し訳ありませんが、それは許可できません。」

 だから、まさか許可が下りないなんてことは想定外で、というよりも許可が下りないという可能性を欠片も考えていなかったのだ。

 「え、あの、あー……。そっか。そう、なんですね。はは、そっかー……。……あの、どうしてか聞いてもいいですか?遠出、になるんですかね。ちょっとまだイマイチここがどこなのか把握していなくて。--で、そう、遠出、になると問題があったりするんでしょうか。」

 「いえ、基本的には体に問題は出ないはずです。遠出でも付き添いは必要になりますが。」

 「じゃあまた外出禁止になりそう、とか?」

 「いえ、その予定は今のところありません。」

 「じゃあなんで、」

 「意味がないからです。」

 「……意味がない、って、」

 上木が何を言っているのかが京にはよく分からなかった。

 「そのままです。家族に会いたい、と言いましたね。明坂さんの家族はお母さんがお一人だけです。他には会いに行く人はいない。」

 「……そうです。だから母に会いに、」

 「ですから、会えないんです。明坂さんの母親である人はもういません。いないんです。」

 何を、言っているのだろうか。この男は。

 遠回りな言葉ばかり、何が言いたいのかちっともわからない。

 イラついた京は柄にもなく強い口調で続けた。

 「……だから!どういうことなんですか!」

 しかし、それに対して返されたのは男の淡々とした、微塵も感情を感じさせない言葉だった。

 「明坂さんのお母さんは亡くなられました。三年ほど前です。ですから、明坂さんが家族に会いに外に出る、というのは意味がありません。もういないんです。」

 あなたの家族はもういないんです、と男は言った。

 「っ、……母、は、なぜ……死んだんですか」

 「ご病気でした。」

 「……なんで、そんな病気なんてしたことも……なかったのに、」

 「…………。」

 「……私のせい、ですか。」

 「いえ、……僕らがお伺いした時にはもう余命宣告を受けていました。明坂さんが昏睡に入ってから一か月半くらいした時です。明坂さんには言うタイミングを逃してしまったと、仰っていました。」

 「…………。」

 しばし、沈黙が流れた。

 そうか。私の母はもうこの世にはおらず、私の家族はいなくなったのか。

 京の心には「事実」だけがストン、と、いともあっさり受け入れられた。母が亡くなったことは悲しいと思う。悲しむことなのだと理解はしている。しかし、身体的に時間が経っているからなのか、そもそも自分が冷徹な人間だったのかはわからないが必要以上の「悲しみ」というものは湧いてこなかった。彼女の中には客観的な悲しみだけがきれいな四角い形でポツンと置かれていた。

 「すみません。もっと早くに伝えておくべきでした。」

 「……そうですね。できれば最初に、……言ってほしかったです。」

 --しかし母の存在を今の今、何か縋るものが欲しくなるこの時まで忘れていたのは、紛れもなく京だった。

 「……母の、骨はどこに?」

 「……お母さまのご希望で、共同墓地に散骨されました。」

 「そうですか。……あの、ありがとうございました。」

 「何がですか?」

 「あの、先生がそういう手続きとか、やってくれたんですよね。だから、……すみません。本当は私がやらなくてはいけなかったのに。」

 母の希望も、結末も知っているのであればきっと上木が全て行ってくれたのだろう。そう思っただけだったが、何か上木にとっては予想外なことだったようだ。少し驚いたように目を見開いている。

 「…………いえ、お礼なんていりませんよ。それも僕の仕事でしたから。」

 真っ直ぐに京を見据え、ゆるりとした目で上木は言った。少しだけ彼の目尻が震えたのは見間違いだったかもしれない。

 「先生、母のお墓参りに行きたいんです。着いてきてもらってもいいでしょうか。」

 「……はい。それは、もちろんですが、」

 「いつ頃がいいんでしょうか。もうお盆は過ぎてしまったし、ーー違う、お盆は家にいないとダメなのか……あ、もうすぐお彼岸ですね。その頃に出かけられたりはするんでしょうか?」

 「多分、だいじょうぶだと、思いますけど、……って、そうではなくて、明坂さん!」

 上木が何か焦ったような表情で声を上げた。

 この人も声を荒げることがあるんだなあ、と場違いにも京はそんなことを考えていた。

 「怒らないんですか。」

 きょとん、と京は上木を見つめた。

 「……何にですか?」

 本当に不思議そうな声だった。実際に彼女は本当に不思議に思っていた。

 どこに怒るところがあるのだろう、と。

 「……い、え。……なんでもないです。すみません。忘れてください。……それで、お墓参りの話でしたね。来週はもうスケジュールを組んでしまったので、再来週でもいいですか?再来週の火曜日でしたら僕も明坂さんも一日空けられます。」

 「私はいつでも。ありがとうございます。」

 二回目のデートですね、と京は笑った。

 彼女はここで笑うことがおかしなことだとは終ぞ気づかなかったし、上木が普段に比べれば格段に変な顔をしていたことにも、最後まで気がつかなかった。


 

 二度目のデートは九月の残暑も薄い、良く晴れた、少し秋を感じさせる風の冷たい日だった。

 施設のある駅から電車を乗り継いでようやく半分です、というところまで来たのは出発してから一時間半は経たない頃だった。

 見慣れない都会の大きな駅は、平日だというのにかなりの混雑ぶりだ。

 「すごい人ですね……。」

 「そうですか?今日はかなり少ない方だと思いますが……。平日の昼間ですしね。」

 既視感のある会話だとは思った。が、やっぱり都会人は感覚が違った。気を付けないと肩がぶつかりそうな混雑を「かなり少ない」とは。

 加えて都会の人間はみんな携帯を使いながら歩いているか、とにかく目的地にしか目線を向けていないかのどちらかで進路予測がしづらくてしょうがない。そういえば皆が持っている四角いあれは携帯ではなくスマートフォンというのだと、上木が教えてくれた。外出時には持って行くようにと京に渡されている物は折り畳み式の携帯電話なので、未だあれに触ってみたことは無い。スイスイと画面をなぞる姿は京にとってなんとも不思議な光景だ。

 --あ、あのお姉さんはスカートの裾が地面に着いてしまっているけど、あれはあれで合っているのだろうか……。ああ、おじさんに裾を踏まれた。

 「……あぁ、……」

 「ん?どうしました?」

 「あのひらひらのスカートのお姉さん、おじさんに裾を踏まれてました。せっかく綺麗なのに……」

 あの人、と目線で示すが上木には伝わらなかったらしい。そうこうしているうちにお姉さんは角を曲がって見えなくなってしまった。

 「あ、行っちゃいました。やっぱり都会は人が多いですね。すぐ見失っちゃいます。」

 「そうですか。僕は割とこのくらいの駅を使うことが多いので、イマイチ分からない感覚で新鮮です。」

 こいつ。ナチュラルに田舎人を見下しているような気がしなくもなかったが、そこはスルーしてやった。フン。田舎駅なら線路の乗り換えに十分歩くなんてことは無いんだからな。終電は十時台だけれども!

 「行きましょう!早く行きましょう!できれば次の電車は座りたいです!」

 「あれ、なんかちょっと怒ってますか?」

 「怒ってません!都会が新鮮なだけです!」

 ちなみに次の路線でも席に着くことは叶わなかった。すでに足が痛い。


 そうして二人が二時間以上かけてようやく辿り着いたのは、申し訳程度に改札だけが設置されている小さな駅だった。同じ電車に乗っていた数少ない人たちは手馴れた風に電車を降りて改札へ向かう。改札と言っても交通IC券の端末と切符を入れる箱だけが置かれている、最早通り放題の改札だったが。

 この先十五分ほど歩くと母の眠る場所があるらしい。

 京が少し意外だったのは母の故郷……元々住んでいた場所とまったく関係のない場所だったことだ。この地は、何か母の思い出深い地なのだろうか。少なくとも京はこの場所には初めて来たように思った。

 そして改札を出ると周りは木、木、木……まさに田舎の唯一の駅、というか、非常に趣のある建物と、林なのか森なのか、申し訳程度に引かれたアスファルトのすぐ横には自然が広がっていた。

 そんな場所だったが、駅の前には一つだけ店がある。コンビニでもなく、自動販売機でもなく、そこにあったのは花屋だった。

 「この先本当に何もないので、買うものはここで買っていきましょう。自動販売機とかも一切ないですからね。本当にびっくりするほど何もないので。」

 なんでも、そもそもこの駅で降りるのは住んでいる人か、お墓参りに来る人たちだけらしい。こじんまりした花屋にはお供え用のフィルムで包まれた束ばかりで、それに加えて飲み物やお菓子なども並んでいる。まさしく「お墓参りのためのお店」だった。

 上木は紫と黄色の小さな花がたくさんついた花束を一束と、ペットボトルの緑茶と紅茶を一本ずつ買った。何がいいと言ったわけでもなく自然に渡されたストレートの紅茶は、ひんやりと冷たい。もうすでに結露してきているペットボトルは、紅茶の透き通った赤茶色がキラキラして涼し気に見える。手首を水滴が伝った。

 「……先生はもしかして何回かお墓参りに来てくれたりしてるんですか?」

 「いえ、僕もここに来るのは久しぶり……というか、二回目です。最初に来た時以来ですね。」

 ザリ、ザリ、と二人の足音だけが鳴っている。時たま車が横を通るくらいで道路は静かなものだった。強いて言うならかなり前を歩く五十代くらいのおじさんも同じ方向へ向かっているらしい。手には上木が持っている物よりももっと小ぶりな、申し訳程度の花束を持っていた。

 「母の最期には、立ち会ってくれた人がいたんでしょうか?」

 ふと、気になった。もしも誰かが自分の代わりに立ち会ってくれたのだとしたら、お礼をしなければいけないと思った。しかし身寄りのない母だったから、もしかしたら一人で静かに逝ったのかもしれない。まあ少し変わった人だったので多分一人だったとしても問題はなさそうだが。

 「……すみません。僕には、分からないです。病院の方は立ち会ってくれていると思いますが。」

 「そうですよね。すみません。変なこと聞いてしまって。もしいたなら、遅いかもしれないですけどお礼をしないと、と……」

 そんな話をしていた時、少し先を歩くおじさんの花束から一本花がこぼれ落ちたのが見えた。

 少し小走りすれば拾っても十分追いつく距離だろう。そう思った京は「ちょっとすみません」と上木に告げると走り出した。

 後ろから「え、明坂さん!」と京を呼ぶ声がしたから、多分上木は見ていなかったのだろう。事情は後で説明すればいい。

 駆け出した途中で花を拾った。てっきり花だと思っていたが拾ってみるとそれは枝のついた鬼灯だった。

 おじさんは落としたことに気づいていないようで、サクサクと前を歩いて行ってしまう。中々追いつかなさそうだったので、少し走るスピードを上げた。

 そうして追いつきそうな頃に、ひょいとおじさんは道を曲がってしまった。見失っては大変だ、と慌てて京も道を曲がった。が、曲がった先にそれらしい人影はもういなくなってしまっていた。

 「あのっ、……、…………?」

 そこはかなり傾斜のきつい坂道で、とても走って上るような道ではないし、何より本当に手が届きそうな距離で道を曲がったのだ。そんなにすぐにいなくなるとは思えなかった。

 少し息を切らしながらキョロキョロとあたりを見回していると、かなりぜえぜえしている上木が後ろから追いついてきた。

 「、ハっ、どうしたんですか、いきなり、走り出して……、」

 「あっ、すみません!前のおじさんが花を落としたので、渡そうと思ったんですけど……アレ?」

 ほらこれ、と拾った鬼灯を上木に見せようと思って手を開いた。

 しかし、京が握っていたのは握りしめられて少し茎の曲がったぺんぺん草だった。

 「……花といえば花ですけど……大丈夫ですか?ちゃんと水分取ってますか?」

 「遠回しに幻覚の心配をしないでください。ちゃんと飲んでます。」

 「ならいいんですが。まあなんにせよ到着です。ここが今回の目的地ですよ。」

 通り過ぎられなくてよかったです、と上木は坂の上を指さした。

 ほんの短い坂のはずだが、その上は全く見えないほどの急勾配だ。それに加えてかなりの狭さの道だが、タイヤ痕のようなものがあるからここを車で通る人間もいるらしい。

 そうしてえっちらおっちらその坂を登ると、上は普通のお寺だった。登ってすぐ左にはお堂を兼ねているらしい平屋の木造建築、右は墓がいくつも並ぶ墓地になっている。良く日の当たる場所だからか、暗い印象はあまり感じなかった。

 上木が平屋の方へ向かっていったのでそれに着いていく。住職に挨拶をしたが、共同墓地なので色んな人が来るらしく住職は上木のことを覚えてはいなかった。まあ葬儀の後一度だけしか着ていないと言っていたからそれもそうだろうと思う。

 今日は他にお墓参りの方は来ていないんですか?と問いかければ、帰ってきたのは「あなた方だけですよ」という初老の住職の柔らかな声だった。

 「気になりますか?その花のこと。」

 外に用意された流し場で水桶を準備していると、上木が聞いてきた。

 「まあ、そうですね。せっかく花束を用意してきたのに一本なくなってしまったら悲しいじゃないですか。でも、拾えたからまだよかったかなって、思います。もしかしたらお供え用に買ったものではなかったかもしれないけど、道端に捨て置かれるよりはいいかなって。」

 ぺんぺん草をくるくると手遊びながら京は答えた。葉っぱをちぎっていないから音が鳴ることは無い。

 しばらく桶に水がたまる音だけが響いた。あとは風で揺れる木々の葉音だろうか。とにかく墓地というのは静かなものだ。

 そして彼らは水桶を一つずつ手に持ち、またえっちらおっちら坂を登っていく。共同墓地は少し上の段にあるようで、今度は人が一人しか通れないようなこれまた急勾配の細い坂だ。

 坂を登ると、そこは開けた広場のような場所だった。

 一つだけ下と変わらない普通の墓標があって、その後ろには柵と、あとはよく手入れされている薄い色の芝生が半円形に広がっている。普通の墓と違うのは墓標の左右に三つずつ花を生けるための台と鉄の花瓶があることだろうか。

 「すみませんでした。遅くなってしまって。」

 それは、いったいどちらに向けられた言葉だったのだろうか。母か、私か。

 京には区別がつかなくて、返事をすることができなかった。

 「明坂さんが目を覚ました時にはもうお母さんは亡くなっていたんです。言わなければ、言わなければと思っていました。でも、目覚めてすぐにそんなことを言われれば明坂さんは耐えられないと思いました。」

 「……そうですか。」

 「はい。でも、もしかしたらそれは僕の決めつけだったのかもしれません。僕が思っていたよりも明坂さんは強かったし、柔軟でした。だから、すみませんでした。色々。遅くなってしまいました。」

 上木は京のことを「強くて柔軟だ」と言った。

 しかし、それは違う、と京は思った。

 私は執着するものがなく、抵抗しないだけだ。

 きっと目覚めてすぐに母のことを知らされていれば、私は落ち込んだだろうし、泣いただろう。彼の判断は正しかったと思う。今知らされて落ち着いているのはこの半年くらいの間に色々なことを考えたからだ。色々な可能性を考えた。その中に母がもうこの世にいないという可能性があった。それだけの話だ。そんなことは考えたのに、母に会いたいということはこれっぽっちも考えなかったのだ。

 これが「進化する」ということなのだろうか。だとしたら、私はどんどんつまらない人間になるのだろうと思った。ありとあらゆる可能性を想定して未来を潰す、そんな人間になるのだろうか。

 「あっ、」

 ふと、落としていた視線の端をなにかが掠めた気がして顔を上げた。

 すると、柵の一番端の方にさっきのおじさんがいるのが見えた。

 きっと彼は住職に挨拶をせずに直接こちらへ来たのだろう。それなら住職が把握していなかったことも頷ける。

 今度こそ花を渡さなければと、京は小走りで彼のもとへ駆け寄った。

 「あの、すみません。さっき、道路で一本落としました。これ。」

 どうぞ、と鬼灯を差し出した。

 あれ、さっきまでぺんぺん草だったはずなのに……?

 「、」

 おじさんは少し困ったような顔で口を開いた。開いただけだった。

 「えっと……?あの、どうかしましたか?」

 京が困惑していると、おじさんはようやく差し出された鬼灯を受け取った。その手には先ほど持っていた花束はなかったので、もう生けてしまったのかもしれない。困り顔だったのはそのせいだろうか。

 「すみません。それだけなんです。お節介でしたら申し訳ないですが……失礼します。」

 結局最後までおじさんが何かを言うことは無かった。少しだけ気になったが、用件は済んだので彼のもとをそそくさと離れた。

 「あ、先生、すみませんでした。いきなり離れてしまって。」

 「…………いえ、……大丈夫です。」

 「どうかしましたか?」

 上木は少し青い顔、というのか、具合の良くない顔色をしているように見える。自分こそきちんと水分を取っていないのではないだろうか。

 「……いえ、特には。すみません。少しぼーっとしていました。さて、花を生けさせてもらいましょうか。僕はこういうの苦手なので、お願いしていいですか?」

 「私もあまり得意じゃないんですが……頑張ります。」

 うーん、と少し唸りながら京は花束のフィルムを広げた。

 もう生けてあった先客の花束を参考に束を分けて、見栄えが良いように花器に供えていく。

 その姿を上木がじっと見つめていることには、気が付かなかった。


 「……今日はありがとうございました。なんか、区切りがついた気がします。」

 ゴトンゴトン、と軽快な音がする。

 施設へと向かう電車は混みあっているわけではないものの、席は空いていないくらいの乗車率だった。見る限り自分たち以外で立っているのは入り口の前の二、三人だけだ。

 「いえ、お礼を言うのは僕の方です。僕の方こそようやくけじめがつけられました。」

 「ふふ、そうですか。じゃあ、お互いさまということで、このことは終わりにしましょう。」

 さすがに一日歩きっぱなしで足が痛い。

 それに、電車の揺れというのはどうしてこうも眠気を誘うのだろうか。

 隣でぼんやりと窓の外を見つめている上木はあまり疲れた様子が見えなかった。そこは男女の違いというものか。少し悔しい。

 「……明坂さん、疲れましたか?足、痛いですよね。」

 少しかかとを浮かせたりしていたのが見えたのだろうか。少し伺うように上木が声をかけた。

 「あー、そうですね。少し疲れましたけど、大丈夫です。その内席も空くと思いますし。」

 あはは、と京は笑った。

 しかし、上木は反対に険しい表情をしている。あれ、もしかしてまた具合でも悪いのだろうか。実は乗り物に弱い人だったのかもしれない。

 「先生、大丈夫ですか?なんかさっきから顔色悪そうですけど……席探しに行きましょうか?」

 「あ、いえ、……いえ、そう、ですね。少し疲れたのかもしれません。すみませんがちょっと座ってもいいですか」

 「え、でも席空いてないですよね……」

 きょろきょろと周りを見回すが空いている席は無いように見える。

 気分が悪いというのなら次の駅で一度降りようか。

 「あの、一回次の駅で降り……って、えぇ!ちょ、先生、流石にマズいですって!!」

 京がきょろきょろしていた間に、上木はこともあろうに座っているおばさんの上に腰を下ろそうとしていた。

 そんなに疲れていたのか!でもさすがにそれはない!人として!

 あわあわと手を振り回す京に、ちらりと上木は視線を寄せたがそのまま座ってしまった。

 ひえええええ!ごめんなさい!うちの先生が!先生は常識知らずだった!どうしよう!どうやってこの場を取り繕えばいいんですか!

 勢いで目を思いっきりつぶってしまったが、上木が暴走している以上京がなんとかしなければいけない。覚悟を決めてそっと目を開くと、

 「…………あれ?」

 そこにあったのは、いたって普通に席に座る上木の姿と周りの人たちに注目されている自分だった。

 「……明坂さん、どうかしましたか。」

 断定系だった。

 京が何をそんなに慌てているのかはすべてわかっているとでも言いたげな声色だった。

 「え、あの、……え?」

 そうしてようやく気がついた。

 おかしかったのは自分の方だった。

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