⑤
●一年目 七月の話・二
「なあなあ、昨日はセンセとデートやったんやろ?どうやった?楽しかった?」
いつの間にか、施設内にぽつんと置かれている自動販売機前のテーブルで遠田と昼食を取ることが恒例になっていた。三食に関しては、特に検証で指定されない限りは自分たちで用意するしかない。食材はネットショッピングで購入している。前はまだそんなものが普及していなかったので、本当に世の中は短期間で便利になるものだと感心するばかりだ。
この日は、京はハムと卵のチャーハン、遠田は出来合いだというハンバーグだった。
「そうですねえ。楽しかったですよ。どこかに出かけたのは久々でしたし。あぁ、タルトを食べました。苺のタルト。美味しかったです。」
「お、ええなぁ。なあ、今度俺ともデートしよなー。」
「あはは、そうですね。機会があれば是非。エスコートしてくださいね。」
「おー。任せといてー。」
お互いに食事を進めながら、会話を弾ませた。
彼といると、話が途絶えないのは不思議なことだ、と思う。彼がよくしゃべってくれるので楽なのかもしれない。
「……遠田さん、ちょっと変なこと聞いてもいいですか?」
「ん?どうぞ。」
昼食をとり終えて一息ついたところだった。
「遠田さんは、ここに来る前は……あ、理系の院生だった、って言ってましたよね。なんで、その道に進もうと思ったんですか?」
ハンバーグの最後の一口を飲み込んだ遠田は、少し不思議そうな顔で答えてくれた。
「んー?俺は元々勉強嫌いじゃなかったしなぁ。せっかくなら行けるトコ行って、良いトコ就職してお嫁サン貰ってー、みたいな人生設計をしてたんやけどな?」
カシャ、とわざわざ食器を横にずらして、空いたスペースに遠田は頬杖をついた。必然、京のことを少し見上げる形になる。
「いざ大学行ってみたらなんの巡り合わせか研究にばっちりハマってしまってなぁー。」
そのまま院まで居着いてたわぁ、とぼやくように言った。
「どういう研究をしてるんですか?」
「統計学、って分かる?もうひたっすらデータ収集すんねん。人とか動物とか植物とか、なんでも。こういう時にはこういう行動をとって、じゃあ時間を変えたら?天気が変わったら?って、そんな感じのコトをなー。ホンマちまちました作業やんなあ。」
「でも、それで居着いちゃったんですよね?」
ふふ、と京が笑った。
「じゃあ、遠田さんはこれから先も研究職で食べていこうと思ってるんですか?」
「うーん、まあそれができたらいっちゃんええんやけどなぁ。データ取りしてるのも嫌いじゃないし。統計学ってのは中々すごいモンでなあ。大体のことはこれでどうにかなるってなモンやねん。」
「へえ……。すごい学問なんですねぇ。」
「あ、でも俺が最終的にやりたいのはその先、というか応用みたいなモンなんやけどな。そうやって集めていった数字を『実践的な哲学』に落とし込みたいと思とる。」
ポンポンポン、と音が鳴りそうなくらいに京の顔に分かりやすくクエスチョンマークが飛ぶ。実際本人も「んー……?」と唸っている。
「ハハっ。せやなぁ、まあいろーんな人にいろーんな話を聞いて、体験を数字にするんやな。『百人に話を聞いたら、その内の三十人は自殺を考えたことがあって、さらにその内の二人は行動に移したことがありました』ってな。そんでその割合とか、色んな事をまた数字に起こしながら、どうしたらより人は生きやすくなるのか、そもそも生きやすいとはどういう状態のことを指すのか、とか、そないなことを考える。」
……例え話が随分と物騒だ。しかし、彼は想像していたよりも色々とやっていた人だったらしい。話をする彼の顔は柔らかいながらも真剣で、もう少し話を聞いてみたくなった。
「遠田さんの哲学は、そういう、うーん、……『生と死』、みたいなものを主に考えているんですか?なんで人は生きるのか、みたいな?」
「そーね。そういうことも考えるかな。俺はどちらかというと『どうすれば生きやすくなるか』っちゅー方面なんやけどな。より現実的に、何をして、どういう心持にすればええか、っちゅーことやなあ。」
「どうすれば生きやすくなるか……。」
それは、誰しも考えることはあるだろう、それでもきっと永久に解けない命題のような問いかけだと京は思った。ただ、果てしない問いかけなのだ。きっと。だからこそ彼にとっては追及する価値があるのかもしれない。
「まあ、今は学籍やらどうなってるのかも分からんし、これからどうなるんかなぁ、って感じやけど。」
「学籍……は、残ってるんじゃないですか?遠田さんは。眠ってたの半年くらいですよね?休学扱いになってるんじゃないですかねぇ。」
「俺は……って、京は?っていうかなあ、そういえば俺、キミのことはほとんど聞いてないんとちゃう?」
しまった。藪蛇だった。
思わず口にした一言が彼のお節介心と好奇心を大いに刺激してしまったらしい。
なあなあとうるさくなった遠田はそのまま昼が終わるまで放っておいた。さて、次だ。
「俺がこの道に進んだ理由?前に話さなかったっけ?」
「あー……なんでしたっけ、えるご、みすく?でしたか。何でそれを研究し始めたのかは聞いてないです。」
エルゴノミクスな、と律儀に訂正が入った。
ちなみに今は千葉スパルタトレーナー兼マッドサイエンティストのブートキャンプの休憩中だ。
「なんでって言われてもなあ……。あー、ま、強いて言うなら妹がいたからかな。俺の妹はちょっと足が悪くてね。別にめちゃくちゃ可愛がってるわけじゃないんだけど、まあ家族だから。で、その辺からなにかしら関係のある方に進みたいとは思ってたんだけどなあ。なんで、と言われると……巡り合わせかな。」
「巡り合わせ、ですか?」
また、「巡り合わせ」だ。
「うん。高校の時の先生に偶然そういうのに詳しい先生がいてな。『こういうのはどうだ』って勧められたんだよ。その時は漠然とリハビリ技師とか、そういう方へ行こうかと思ってたんだけど、なんか面白そうだったから人間工学の方に行ったんだ。」
そこからは前に話した通りだ、と千葉は言った。そして少し心配そうに京を見つめる。
「というか、なんで急にそんな話?なんかあった?」
本当に心配そうにこちらを見てくるので、京は少し慌てた。そんなに大層な問題ではないのだ。
「いやいや!そういうわけじゃなくて、アレです、ちょっと気になって!研究職って、私からは想像もできない世界なんで、どういう風にここまで来たのかなって。すみません。ただの好奇心で聞いてしまって。」
「いや、俺はいいけどね。一応人生の先輩だし。なんかあれば相談してよ。二十五の小娘にはぴったりの先輩でしょ。」
エッヘン、と言わんばかりの胸の張り様だ。つい、京からも笑いがこぼれる。
「ふふ、何かあれば、是非。……ちなみに千葉さんっていくつなんですか?」
「ん?三十三。」
人生の先輩は、大変可愛らしい威張り方をする三十過ぎの鬼教官だった。
「……さて、今日は以上です。お疲れ様でした。」
「お疲れ様でした。……あの、ちょっとご相談、というかお願い、があるんですが、いいですか?」
「はい。なんですか?」
その日もやはり、最後は上木とのルーチンチェックだった。
そして、京はこの日一日考えていた「お願い」をしようと決意していた。
「研究室で、何か私にできる仕事があればやらせていただきたいんです。お茶くみとか、書類整理とか、何かあれば空いている時間にやらせていただけないかと……。」
「……随分唐突ですね。何かありましたか?」
「何かあったか」、と上木も千葉と同じことを言う。
そんなに自分から何かを言うのは珍しいか、といっそ少し笑えてしまった。
「いえ、特にはないんですが……空きの時間は結構ありますし、その、給料もいただいていますが、ちょっと見合っていないんじゃないかと思って。それで、あの、多分最初の方はお邪魔にしかならないことは分かっているんですが。……やっぱり難しいですか?」
ふむ、と上木は口元に手をやった。少し考え込んでいるようだ。
「……そうですね、簡単な事務作業でいいなら、大丈夫だと思います。それこそお茶くみとかですけど、よければ。」
「!はい、ありがとうございます。是非、お願いします。」
京は少し嬉しそうに声を弾ませた。
「あ、あと、あの、……昨日は、ありがとうございました。久しぶりに外出したので新鮮でした。」
「あぁ、いえ、そんな大したことはしていないですし。またいつでも外出したいときは声をかけてください。何度も言うようですが、班の人間でしたら誰でもいいので。」
「……はい。出かけたいときは、そうします。」
そう言って京はへら、と笑った。
何か仕事をと言ったのは、もちろん給料云々の話も本当だが、一番は自分のためだ。
何かできるようになってここを離れたいとは思っていた。だが、四か月が経っても全くここを離れる自分の姿が想像できなくて、とにかく「働く」ことを覚えれば「社会」に近づけるのではないのかと思ったのだ。
漠然とした焦りと、いつかは自分一人で生きていかなければいけないという不安が、京を行動に移させた。本来自分はこんなに積極的なタイプではなかったし、むしろ新しいことをを嫌がるタイプだった。人間追い詰められればやるものだ。
そうして始まったお茶くみは、最初は給湯室の道具もよく分からないし、声をかけていいタイミングも分からないしで胃が痛い思いをした。ちょっと胃薬を処方してもらおうかとすら思った。が、まあ四人しかいない班のお茶くみだ。元々ある程度はコミュニケーションもあったし、何日かする頃にはどうにか胃が痛まない程度の仕事場にはなっていた。
しかし、それから一週間ほど経ったある日のこと。
ようやく京が四人それぞれの飲み物の好みを覚えてきた時だった。
「外出禁止、ですか。」
「うん。すまないけどね。期限はいつまでとは伝えられない。研究のフェーズが次の段階へ進み次第、ということになる。」
ごめんね、と重ねて仲谷が謝罪の言葉を口にした。
「遠田さんの方も同じようになるはずだから、空いている時間は遠田さんと話でもしていてくれると俺たちも助かる。研究的にね。」
外出禁止の研究とは一体何の研究なのか、京には想像もつかなかったが、まあ研究者たちの考えることは一般人には理解しがたいことなのだろう。それで言うと遠田と話をしていると研究的に助かる、というのもさっぱり謎だったが、これもまた然り、である。
「分かりました。まあ元々外出する予定もなかったので問題ないです。他には禁止事項とか、あったりするんでしょうか。あ、中庭とか、ベランダは大丈夫ですか?」
そう京が尋ねると、一瞬研究室が静まり返った。
しん、とする部屋に、何かおかしなことを言っただろうか、と京は怪訝な顔をして見回した。
するとその内、ッブ、と噴き出すような声の後に、耐え切れずクッ、クッ、クッ、と笑う声が聞こえた。見ると千葉が心底可笑しいと言うように腹を抱えている。
「フッ、ははは、中庭とか、ベランダは、っ大丈夫だよ、フふッ、……あー、ダメだ!面白い、ハハハハハっ!まっ、真面目な顔して、っひ、言うなよ、ブッ、ハハハハハハっ!!」
その後もひーひー言いながら笑うものだから、ついジトッとした顔を向けてしまったことは許してほしい。それにしてもこの男、笑いすぎである。
「なんですか千葉さん!こっちはなんで外出禁止なのかも知らないんですから、きちんとどこからが『外』なのかを確認しておくのは必要だと思うんですが!というか笑いすぎです!笑ってるの千葉さんだけじゃないですか!」
ねえ!、と同意を求めて周りを見回すと、皆にバッ、と目を逸らされた。
え、と思ってしばらく見つめていると、仲谷がごめん、降参、とこれまたクツクツ笑いながらホールドアップの体勢をとった。
「ははっ、ゴメンね、俺もまさかそう来るとは思わなかった。フーー、……はー、俺の説明が足りなかったね。申し訳ない。この施設の敷地内は基本的にオーケー。ただ、できれば玄関からは出ないでほしい。詳しい説明はまだできないんだ。とりあえず今のところ食事とか、行動の制限はないから外出禁止以外は今まで通りってことで。」
仲谷が白旗を出したからか、部屋には坂本の笑い声も漏れている。解せない。
「ブッ、っ、ふふっ、ま、まあ後の細かい話とか質問は、そこでツボに入っちゃった主治医から後で聞いといてくれる?多分今はまともに話せないと思うから。」
未だ少し笑いの抜けない仲谷が視線を向けた先を見てみると、
「え、」
いわゆる京の主治医である男が、無言でこちらに向けた背中を震わせていた。
その後どうにか笑いを収めた上木の話では、外部との接触を断つことでの適応能力がどうたら、という実験らしい。真面目に話を聞いていたはずなのにほとんどが耳から抜けていった。というか笑いを抑えている風が筒抜けで、こっちが笑いそうになった。全く。初めて見るまともな笑顔がこれって、どうなんだ。主治医として。
まあとりあえずそういうことなので、彼女は大人しく指示に従い遠田と屋内デートの日々を送っている。今日で確か五日目だっただろうか。本日午後のデート先はブートキャンプを行っていたトレーニング用施設だった。
「なー、京ぉー?」
「なんですかーー」
片やインナーマッスル用の、簡単に言えば背中を浮かせて背筋をするようなマシンと、片や下半身用の所謂レッグプレスに乗りながら会話が飛び交う。
「俺たち、ふッ、いつまで、ひきこもり生活、ふッ、しとったら、ッ、ええんと思うー?」
「さあー、いつまででしょうねぇー」
「京は、俺と、よッ、いないときは、なにしてんのおー?」
「うーん、そうですねえ。音楽聴いたりー、本読んだりー、たまにお茶出しに行ってー、『何かすることありますか?』『うーん、今は特にないですね』って言われて帰ってきて寝ます。不貞寝します。」
「あー……そっかー。なんかゴメンなぁ。」
同情するなら仕事をくれ。いや、検体としては絶賛業務中なのだが。
働かずに貰う金は使えないわけではないし必要なら使うが、使いづらいのだ。
「いいえー。遠田さんはなにしてるんですかー」
「せやな、ふッ、廊下歩いてる人のデータを、勝手に、集計したり、ふッ、漫画読んだり、ふッ、無駄に手の込んだ料理作ってみたり、そんな、感じっ、か、ね、っ、っと!」
ふいー、と遠田は汗をぬぐった。
「遠田さんってみかけによらずストイックですよねぇ。私は背筋そんなにやりたくないです。……というか手の込んだ料理のことは初耳ですね。ごちそうしてください。あ、玉ねぎは抜いてくださいね。」
「いや、玉ねぎ抜いたらなんもおいしくないやん……。大きめに切っとくわ。自分で抜きぃな。」
「やったー」
形のある玉ねぎを美味いと思って食う奴の気が知れない。あれはドロドロに溶かして味を出すためのものだ。出汁だ出汁。玉ねぎは出汁。
「つーか自分もさっきからひょいひょいやっとるけど、ソレけっこーウェイトキツない?」
「えー、そうですか?背筋より、……これ、なんていうんでしたっけ、足のヤツ。こっちの方が全然楽ですよー、っと。」
ガッション、とウェイトが降りた。二人して暇を持て余してデートと言う名の筋トレ中だ。なぜ筋トレを推奨されているのかは知らないが、検証の一つとしてある以上やるのみである。
「はあー、もう今日は筋トレ終わり!よしゃ、京何食べたい?俺けっこーなんでもイケると思うよ?」
「えーっ、と、……あ、オムライス食べたいです!デミグラスソースのやつ!チキンライスには玉ねぎ入れないでくださいね!デミグラスにはどろっどろのやつだったら入れてもいいですから!」
「しゃーないなあ。じゃあ玉ねぎは自分で炒めぇな。」
「喜んで!」
「……こうしてると、ホンマにただのオンナノコやなあ。」
二人でオムライスを作って、二人で食べた。
片付けも終えて、買い置きのアイスでも出してやろうかと台所から見てみれば京は目を閉じてソファーにもたれていた。どうやら眠ってしまったらしい。
普段は夕方にも研究室に顔を出しているようだったが、今日は朝に顔を出したきり一日中二人でいたように思う。それは彼女が言う通り不貞ていたのか、別の理由なのかは知らない。ただ、外出禁止令が出てからは研究室から彼女に仕事を任せられることは無くなったようだし、ここ四、五日だけでも二人はほとんど一緒に行動をしていた。
遠田が眠っていたのはたったの半年、それでもその半年の空白は彼の人生を狂わせた。これから先も、きっと狂わせる。
しかし彼女はそれが四年間だと言う。
四年あれば何ができるだろう。中学生が高校性になるか。大学生が社会人になるか。パソコンの世代が代わるか。英語が喋れるようになるか。恋人ができるか。家族ができるか。なんでもできるか。
自分は体感で二十六歳、この子は本来まだ二十歳そこそこの女の子だ。自分からしたら二十一歳なんて、もう遠い昔のことだったような気がする。もっと小さい子供が大人になった方がまだマシだった。きっと大人になれば楽しいことがいっぱいあって、楽しい人たちに囲まれて、そういう希望を抱いて仮初めの姿に適応することもできただろう。まあ、そこが地獄だと最初から気づくか後から気づくかの違いしかないが。
ソファーにもたれかかる彼女をぼんやりと見下ろして、振動を与えないようにゆっくりと自らも腰を下ろした。つけっぱなしのテレビでは、小さくニュース番組が流れている。
「……なあ、キミが思ってるよりも大人は卑怯やわ。あいつらも、俺も、みんな隠し事ばっかりや。ホントは外に出たらあかん理由なんて無い。あいつらが出したくないから出さないだけや。……知ったらキミは、泣くかなあ……。」
ぽつりと男は言った。ただの独り言だ。京に聞かせる気は毛頭ない。
「泣きませんよ。知ってますから。」
「うわっ、起きとったん」
少しぼんやりと眠さの抜けない顔で京はテレビの方を見つめている。いつのまにか起きていたらしい。
「ちょっとウトウトしてただけです。起きてましたよ。」
「あー……そっか。……俺よく独り言が多いって言われんねんな。」
ごめんなあ、と遠田は後頭部をぽりぽり掻いた。
「……遠田さんはなにか隠してるんですか?あ、いえ、別に無理に聞きたいわけじゃないんですけど。」
「ん?せやな……。色々、あるなぁ。」
遠田はそれっきり口を閉ざした。
京もただぼんやりとテレビを眺めるだけだ。ニュースではどこか遠い外国で大きな事件があったことを報じている。何人かの死傷者も出たらしい。
エンタメとして消費されていくニュースからは当事者たちの悲しみとか、怒りとか、そういう感情だけがきれいに拭き取られて電波に乗せられている。きれいになったニュースを見て、箱の外側の人間ははただ可哀そうだと思うだけだ。
多分この世界には何個も何個も世界があって、一日に何個も消えていく。大きな世界も小さな世界も、等しく「無くてもどうにかなる」世界なのだろう。
「なあ、今日はここに泊まりぃな。」
「……はい?」
いきなり何を言っているんだろうこの男は、という意図の「はい?」だということはどうか本人にも伝わっていてほしい。
「あー、なんなら寝るときだけでもええし。風呂入って、色々やったらここで寝えや。」
お泊り会みたいでええやろ、と男は笑った。
いやいや保育園児じゃねーんですから。成人男女が一対一でお泊り会というのはつまりそういうことでは?と思わないこともなかったが、まあ彼との間にそういうことは起こるはずがないので口に出すのは見送った。京が拒否する限り、この男とそういうことは起こるはずもなかった。
「……じゃあ、そうします。お風呂入ってから外歩くの嫌なので、お風呂借りてもいいですか?」
「もちろん。ある物は好きにつこてええよ。」
「じゃあ一回部屋に戻ります。色々取ってくるので。」
いってらっしゃーい、と間延びした声を背中に受けて遠田の部屋を後にした。
貞操観念が、とかいい大人が何を、とか考えないでもなかったが、なんだかそういうものは全部どうでもいいもののような気がした。というよりは、関係のないもののような感覚だった。私たちには関係のないモノ。
「あれ、明坂さん。こんばんは。」
自分の部屋がある区画に入ってすぐ、背後から声をかけられる。
ぎくり、とした。
「……先生、こんばんは。どうしたんですか?」
人に会う確率の少ない道を選んできたはずだったのだが、見当が外れただろうか。この区画に用のある研究員はほとんどいないはずだった。なぜ彼はここにいるのだろう。
「いえ、今日はあまり明坂さんの顔を見ていないと思いまして。外出制限がかけられてからは終業後のチェックもしていないですし。」
京に用があったらしい。それはこの区画にいるはずだ。
「今日は遠田さんに構ってもらっていたんです。まあ、ここ最近はいつものことですけど……あ、今日はトレーニングをしていました。遠田さんは見た目によらずストイックですね。」
早く部屋に入りたい。遠田を待たせているからか少しそわそわしてしまう。
「そうなんですか。ありがとうございます。ああ、待機中はなにか指示を出しておいた方がよかったですね。明日からは項目を作っておきます。」
気が付かなくてすみません、と上木は目礼した。
「、そんな、大丈夫ですよ。あ、でも指示はあるとありがたいです。なんならお茶くみの時間とか入れておいてくれてもいいですよ。」
へら、と笑う。確かにここ五日間は何をしていいのか分からなくて大変だった。まあきっとこの男は研究室に居座る仕事は与えてくれないだろうが。
「じゃあ、明日の朝は研究室に寄ってください。ボードに書いておきます。今日はもうお休みですか?」
「……え、っと、はい。もう寝ようかと。」
「もういい時間ですねからね。引き留めてしまってすみません。ゆっくり休んでください。……ああ、立ち話にしてしまってすみませんでした。また、チェックの時間を作ります。」
「あ、はい。分かりました。よろしくお願いします。」
「はい。では、僕はこれで。」
最後に「おやすみなさい」と告げると上木は去っていった。ものの五分くらいの会話だったから、それほど待たせたことにはならないだろうと思いたい。お泊りなんて初めてだからか妙にドキドキしてしまう。
「おけーり……どした、走ってきたんか?ちょっと顔赤いで?」
「そうですか?気のせいだと思いますよ。……あ、じゃあお風呂借りますね。」
「よし、じゃ寝よかー。」
二人とも風呂に入って、歯を磨いて、さあもう寝るだけ、という段階になった。
「じゃあ、私ソファー借りますね。おやすみなさい。」
「いやいや、何言うとんの。そっちで寝たら泊まる意味ないやん。ベッド入り。」
「……あの、私猫とか犬じゃないんですけど。」
京はじっとりと、半目になる。
「分かっとるよ?ええから早しい。ちょっとおしゃべりしながら寝よや。」
早う、と遠田はばしばし自分の寝そべったベッドの半分を叩いている。ホコリが舞うでしょうが。
「……寝相悪いかもしれないですよ。歯ぎしりとか、うるさいかも。」
「ああ、それはだいじょーぶ。京はそういうのないやろ。」
なぜあんたの方が自信があるんだ。
あっけらかんと言ってのける男に若干の苛立ちを覚えたが、もう面倒くさくなったので大人しくベッドを借りることにした。私は今から朝まで猫になるぞ。にゃー。
「……お邪魔します。」
「お邪魔されますー」
そもそも泊まって行けと言ったのは遠田だし、言われたのはこちらなのだからもっとどっかり構えていていいのではないだろうか。まあそんなことができたならもう少し楽に人生を送れている気がするが。
「…………」
「…………」
なんだか当たり前のように後ろから腕を回されている。京は遠田に背を向けている形なので彼の顔を見ることはできないのが救いかもしれない。関西人怖い。コミュニケーション力がぶっちぎっている。
しかし、後ろから抱きしめられているような構図なのだが緊張するとか、ドキドキするとか、そういうことが一切ない。強いて言うなら人肌の安心感とかそういうものだろうか。とにかく心地の良い場所であることは間違いなかった。
誰かの腕の中で眠るなんて小さいころ母と寝ていた時以来だ。正直その時分の記憶は曖昧だし、やはり家族と他人では温度が違う。
「な、京。京はアレやろ。これからどうしようかなーって、ちょっと悩んでるやろ?」
ベッドに入って電気を落とすと、声を潜めてしまうのは人間の習性なのだろうか。普段賑やかな遠田が声のトーンを落とすのを、京は少し新鮮な気持ちで耳にした。
「悩んでるというか……ここから出されたらどうやって生きていけばいいのかなって、そう、思ってるだけです。たぶん同じ年の子と比べてわたしはできることが少ないだろうし、……その、やっぱり、生きているのが四年、短い、から。あー、短い、っていうのは違うかもしれないですね。できることが四年分少ないから。かな。」
彼には見えない顔で、へら、と彼女は笑った。
四年という月日で、私はいったい何ができたのだろう、とたまに考えることがある。
四年あれば、友達が何人か増えたかもしれない。もしかしたら別の彼氏ができたかもしれない。その彼氏と別れたかもしれない。大学を卒業して、今頃自分は社会人だったかも。それとも何か別のことをしていただろうか。想像の中の四年間は、なんでもできる、可能性に満ち溢れた時間だった。しかし、同時にそれは想像でしかないこともよく分かっていた。
想像をするたびに思い知らされた。
私は戸籍上二十五歳になっていて、「あったはずの四年間」は「すでに過ぎ去った四年間」なのだ。想像するだけ時間を無駄にする、そして私の心とか、そういうよくわからないふんわりしたものを削っていくだけなのだ。
「それを悩んでるって言うんや。」
優しく、諭すように男は言った。
「キミはなあ、なんや自分に対するハードルが高すぎると俺は思うぞ。キミが四年くらい寝てたのはキミのせいじゃないし、なんならもっと喚いてもええと思うけどなあ。『良い子』すぎ……あー、ちゃうな。今まで『良い子』以外の面を他人に見せたことがないから嫌われるのが怖いんかな。自分がされて嫌なことは他人も嫌やと思っとる。」
でもな、と殊更男は柔らかな口調で言葉を落とす。
「キミが思っとるよりも、周りはキミのことちゃーんと見てるし、多分キミが思っとるよりもキミのことが好きや。キミがいつも笑ってなくても俺は京のことが好きやし、例えば、まあ多分キミはそういうのできないと思うけど、思いっきり八つ当たりされても受け入れたるわ。俺のが大分オニーサンやしなあ。」
「…………。」
今まで……あえて二十一年生きてきて、という前提で、だ。
今まで似たようなことを言われたことがある。そのどれもがやっぱり年上の人たちだった。学校の先生とか、バイト先の先輩とか、そういう人たちだった。
そして私はいつもいつも、涙を滲ませながらこう思うのだ。
お前に私の何が分かるというんだ、と。
悔しくて、悲しくて、苛立ちで、薄汚い涙を流しながらこう言うのだ。「ありがとうございます」と。「そんなことを言ってもらえて嬉しいです」と。
彼ら・彼女らは私が泣いたことに安心して、自分が泣かせたことに優越感を抱いて、そのできごとを美談として思い出に残す。泣くことは悪いことじゃないよ、私の前では泣いていいんだよ、と。
なんて捻くれた思考回路だ。他の人たちも、頭を開けばどこかそんな風にできているのだろうか。それとも、私だけがこんなに汚い感情のサーキットを持っているのだろうか。
そうだとしたら、なぜ。
どうして、わたしはこうなってしまったんだろう。どこかで、何かを間違えたのだろうか。でも、どこで何を間違えたのか、何が悪かったのか、それは誰も知らないのだ。私自身でさえ、知らないのだ。
「なんでやろなぁ。」
びくり、と自分の肩が跳ねたのがわかった。まるで自分の心の声が聞こえたような呟きだったからだ。
「でも、キミはやっぱり真面目すぎんなあ。みんなが真っ直ぐな思考回路を持ってるように見えんのはな、そこまで辿りつかないからやんな。どうして自分はそう考えるのか、どうしてそう考えてしまうのか、って、みんなは気にならないんやな。俺もつい最近ようやくそれに気づいた。世の中の人間は俺らが思ってるよりも何も考えんで日々を生きとる。多分な。」
彼は何を言っているのだろう。確かに私は口を閉じているはずだ。この唇からはわずかな吐息すら漏らしていないはずだ。
では、彼はなぜ私の疑問に対する見解を提示して見せたのか。
途端、自分の背後にぴったりと寄り添うものが全く知らない「何か」に思えて、少しだけ寒気がした。
「……あの、私、今何かしゃべってましたか?」
「ん?ああ……京の好きな方でええよ。キミが口に出したと思うならそうやし、そうやないと思うならそうやない。好きな方でええよ。」
「……何を言ってるんですか。私は何も言ってません。好きな方とか、よく分からないですけど。どういうことですか。」
なんだか馬鹿にされたような、はぐらかされるような感じがして少しムッとした。
「ハハッ。怒らんといてえな。あー、……アレよ。俺のビョーキの話。そういえばその話はまだしとらんかったよなあ、お互い。」
ハハハ、と乾いた笑いが首元をくすぐった。
「な、こっから、俺は話したいから話すけど京は話さなくてもええ。裏を読んだらあかんよ。そのままや。話したくなかったら話さんでええ。だけど、俺の話は聞いてほしい。」
「……いいですよ。当たり前じゃないですか。話してくれたらうれしいですよ、私は。」
本当だ。伝わってほしい。
そういう気持ちを込めて、京は回された腕を抱きしめ返した。
「ん。あんがとおな。ちゃーんと伝わってる。俺には分かんねん。京が『伝えたい』『伝わってほしい』って思たらなあ、ちゃんと分かるよ。」
「……遠田さんはエスパーになったんですか?」
「え、あー、そう来たかー……せやなあ、……うん!そういうことに」
「いや、冗談です。冗談。」
ぺしぺしと腕をたたいてやった。冗談の一つも言わないやつだと思われていたのかもしれない。
「遠田さんは他人の心が読めるようになったんですか。」
京の後ろ側にある彼の表情は伺えなかった。
「うん。そう。それが俺のビョーキ、やな。」
「…………そうなんですね。……その、ありがとうございます。」
「何が?」
「話してくれて。私は、まだ、……その、」
「ん。ええねんええねん。だから最初に言うたやん。俺のを聞いてくれただけで十分。……あとは、せやな、俺には『聞こえてしまう』からな。言わなくても、分かる。大体はな。」
そういえばそうだ。他者の心が読めるのなら京の思考などダダ漏れも同然なのだろう。言いたくないことも、聞いてほしくないことも。
「『聞こえる』、なんですね。耳から入る感覚なんですか?」
「そ。目に見えるとか、分かる、とかやなくて、俺は『聞こえる』やな。だから、けっこーうるさいトコはうるさい。」
研究室とかな。と小さく零したのは聞こえないふりをした。
「まあ、でも『大体』やからな。京のは聞いてほしいことしか聞こえない。他は聞きたなくてもぜーんぶ聞こえてしまうんやけどな、多分、俺らは同じ種類やから、ってことなんかなあ。」
「同じ種類……」
人種、という言葉がある。
人の中にも種類があって、肌の色とか、体質とか、文化とか、そういう色々なものにも種類がある。これとこれは近いもの、これは独立したもの、これは絶対に相容れないもの……しかし、彼が口にした「同じ種類」というのは、きっとそういうことではないと思った。
つまり、彼は「人」と「私たち」は別物だと、別の生き物だと言ったのだ。
私たちは人ではない、と、そう言ったのだろうか。
「……今は、聞こえんなあ。な、ナニ考えてる?」
「……遠田さんのことを。」
「そっか。ならついでにもうちょっと俺のこと考えてほしんやけどな?」
「なんですか?」
少しだけ、回された腕の力が強くなった。
「俺は、これからどうしたらえんかなあ。どう、なっていくんやろなあ。」
呟くように、ぽつりと、ぽとりと言葉が落とされた。
「……それは、遠田さんのことじゃなくて『私のコト』じゃないですか?」
「『俺たちのこと』やろ。たぶん。」
その後も遠田は京の後ろ側でなにかを話していた。答えから目をそらしたいのか、未来を想像したくないのか、それともどんな可能性でも把握しておきたいのか、よく分からなかったが彼はぽつりぽつりと話し続けていた。
そのうちに、「なぁ、」と十回は呼びかけられたし十五回は「そうですね」と言った気がする。
「なぁ、」「そうですね」がいつのまにか「なぁ、」「はい。大丈夫ですよ」となった。それは「ねぇ、」にもなったし「せやな、うん。だいじーょぶや。」と返されることもあった。
彼と彼女は、この夜の中では世界に二人ぼっちの「人間」だった。
そうして二人はいつしか向き合って、しかし視線は絡めずに静かな会話を淡々と紡いでいた。
「なぁ、京はしょーらい何になりたい?就職したい業種とかでもええけどー。」
「えー……業種とか、妙にリアルですね……。うーん、なんだろうなぁ、……ぁ、でも、前は……大学行ってた頃は、図書館の人になりたかったんです。司書でも、事務員とかでもよかったんですけど。図書館にいる人になりたかった。」
「ふうん。本、好きやもんなあ。」
「それもそうなんですけど、……恥ずかしい話、オトコのシュミ、だったんです。」
「む、ちょっと妬けるなあ。」
「ふふ、付き合ってた彼が図書館が好きで。一緒に行ってるうちに、ああ、この雰囲気好きだなあ、って。」
そういえば彼のことを思い出したのはこの時が初めてだった。
四年も経てば向こうはもう忘れている頃だろうか。
胸を焦がすような恋ではなかったが、穏やかな、きっとどこかまで辿りつけるんだろうな、と思う、そんな恋だった。
「まあ、でも……もうそっちはいいかなあ。」
「なんで?今はなりたないん?」
「や、だって、今は……無理ですよ。こんなんだし。今から大学行きなおして、卒業して、そしたら私もう二十……九?三十?とか、そんなですよ。今すぐに始められるわけでもないし、病気がいつ治るのかもわからないし、ここから出たらどう生きていくのかも分からないですし。」
「そっか……そうやんなあ。」
「そうなんですよ。」
わたしたち、どうしていこうか。どうすればいいんだろうか。わたしたち以外みんな「人間」のこのせかいで、どうやって生きていこうか。
ずっと、ぐるぐるぐるぐる話を繰り返す。こうすれば、ああすれば、でも、彼女の失った時間が、彼の聞こえる世界が、想像の中でさえ二人をがんじがらめに縛り付けた。
「な、京。俺とけえへんか?」
「どこにですか。」
「どっか、うーん、とりあえず俺んち?」
「ふふっ、何を言ってるんですか。よく分からないんですけど。」
くすくすと京は笑う。
しかし、遠田は真面目な表情のまま重ねる。
「……俺は、冗談のつもりやないよ。本気で言うとる。俺と一緒にここを出ない?」
「…………ここを出て、どうするんですか?私たちが生きていくの、多分思っている以上に大変ですよ。」
「それでも、」
遠田は言葉を止めると京を見つめた。
京も言葉の続きを催促するように、遠田に視線を向ける。
「京が一緒に来れんくても、俺はここを出てい行く。もう班にも言ってある。……京も、分かっとるやろ。ホントは。」
「俺たちのビョーキは『進行性進化症』。『進化する病気』や。比喩でもなんでもなく、俺たちは『進化』しとる。思考速度とか、身体能力とか、段々皆とは違ってきとる。なあ、俺たち今なんで外に出られんか、キミも分かっとるやろ。研究なんかじゃない。そんな真っ当な理由じゃないねん。」
すう、と、遠田が息を継ぐ音がした。
「……海外の検体が暴走したらしい。俺たちよりももっと進化したヤツや。しかもソイツは身体的な強化……なんやろな、多分腕力が高いとか、リミッターがかからないとか、そういう感じかな。そこまでは話してなかったからな。俺にも分からん。でも、とにかくソイツが何かをきっかけに暴走した。人間に牙をむいた。結果死人も出とるらしい。だから俺たちは今軟禁生活を強いられてる。」
「……そう、だったんですね。」
「……スマン、知らんかったか?」
京は少し視線を落として、ふる、と首を横に振った。
「いえ、研究のためじゃないんだろうな、ってことは分かってました。なんとなく、ですけど。……なんででしょうね。なんとなく分かったんです。ああ、嘘をつかれてるな、って。これも、進化かな。」
ふふ、と京は少し悲しそうに笑った。
「せやったら、」
「でも、私はまだここに残ります。遠田さんは一人でやっていく下地があると思いますけど、私は何もできませんし。もう少し自分の病気のことも知りたいですから。」
京がそう告げると、遠田は思案顔で黙り込んでしまった。
怒らせてしまっただろうか。がっかりさせてすみません、と京が口を開こうとしたときだった。
「……ゴメン、一個だけ言っとくわ。もしかしたら京は知らなくてええことかもしれん。でも、言っとく。あいつらはキミが思ってるほど『良い人』達やない。キミが思うよりよっぽど下種な大人や。なんやあいつらのプライベートなんか知らんけど、少なくとも仕事に関しては下衆なことしよるヤツらや。だから、なんかあったら遠慮なく俺んとこ来いや。……ああ、ちゃうわ、なんもなくても来たらええ。本当にいつでもええからな。早朝でも、夜中でも、平日でも休日でも。」
「ふふっ、ありがとうございます。家出先には真っ先に遠田さんの家を選びますね。」
そう言うと京はふわあ、と欠伸を一つかみ殺した。いつの間にか夜もいい時間になってきて、さすがに少し眠くなってきた。
「……なんか長いこと話してしまったなあ。そろそろ寝よか。」
「そうですね。明日も……まあ予定は何もないですけど、夜更かししすぎは多分なにかに支障が出ますね。でも、たくさんお話しできて楽しかったです。お兄ちゃんとかいたら、こんな感じかなって。」
「そおか。嬉しいこと言うてくれるなあ。俺も、こないじっくり話すこと中々ないから、京のことが知れてよかった。……今日は俺が横におるからな。なーんも視えんから大丈夫。安心して寝えな。」
一瞬京の動作が停止した。ぴきり、と、しかし硬直が解けたのも一瞬だった。
「……そんなところまで聞こえてたんですね。やだな。恥ずかしい。すみません。うるさかったでしょ。」
「いや?何回かは部屋まで行こうかとも思ったんやけどなあ。」
うーん、と遠田が小さく唸った。
「いきなり夜這いかけたら京がびっくりするやろし、そういう部分に踏み込むのを俺がちょっとビビっとったっていうのもある。まあ、やから俺は多分京のビョーキがどういう風になってるのかっていうのは大体分かっとる。ごめんな。」
遠田の目は真摯に物を言っていた。ああ、本当に心から謝罪を告げてくれているんだな、とちょっと気恥ずかしい。
「や、そんな、全然。症状のことは、ただなんとなく……口に出したく、ないだけです。すみません。……それに、知ってくれてるっていうのはしょうじき、ちょっと嬉しいです。」
「そか。なら良かったわ。今日はなんか見えたら俺を呼べばええ。すぐ隣におるからなー。まあ、いつでも呼んでくれてええんやけどなあ。」
ぱた、ぱた、と回された手が背中をなでる。
--以前、そう、京が目覚めてすぐの頃だ。「なにか」を見て怯える京の部屋に上木がいてくれたことがあった。でも、こんな風に抱きしめられながら眠りにつくのは一体いつぶりだろう。小学生か、保育園か、赤ん坊の頃か。
確実に言えるのはその時よりももっと現実的で、実感を持って、この暖かい手を享受しているということだと思う。人間とはこんなにも暖かい手を、体を持っているということを彼女はこの夜初めて知った。
「いつでも呼んでいい」と彼は言った。ああ、確かにそうなのだろう。だってすぐ隣には彼の気配を感じる。しっかりと抱きしめられている感触を感じる。
……そうか、私は、誰かに縋りたかったのか。暖かな腕の中で、ただゆっくりと眠りたかったのか。
そうぼんやりと考えていた次の瞬間には、京の意識はゆっくりと男の腕の中へ沈んでいった。