④
その男に、「お前は連ドラの事件の黒幕みたいだな。」と誰かが言っていた。ような気がする。隣の班の班長だっただろうか。
曰く、「味方面して最後には裏切りそう。胡散臭い」だそうだ。
そしてそれを否定できない程度に、やっぱりその男は胡散臭かった。
●一年目 七月の話
「うーん、なんか京とは初めて会った気がせーへんのよなあ。運命かな?」
微妙に西と東の言葉が混ざった喋り方だ。本人曰く「東にいたら混ざった」らしい。
「……多分、遠田さんが寝てる間ずっと近くにいたからじゃないですか?話しかけたりとかしてましたし。」
「『ずっと近くに』とか大胆なこと言うなあ。俺割と京のことタイプなんやけど!」
「ははは。『割と』って、ちょっと口説き文句には微妙じゃないですか?……リンゴ食べます?」
「食べるー」
ウサギにしてやったリンゴを無邪気にシャクシャク齧っているその男は、つい昨日、半年ぶりに目覚めたとは思えないほどよく喋った。
二か月前、この研究所に転院してきたその男を始めて見たのは京が目覚めたあの部屋とよく似た別の部屋だった。似たような形のカプセルベッドからは何本もコードが伸びていて、やっぱりSFベッドだなあ、と感心したものだ。
カプセルの中にはこげ茶色の髪をした青年が横たわっていた。二十代中頃か、まあ行っても二十代後半くらいであろう外見の男だった。
「遠田君、というんだ。いつ起きるのかは分からないけど、よろしく頼むね。」
そう言ったのは、彼を担当することになった別の班の班長だった。目尻に皺のにじむ、人の好さそうなオジサン、といった風貌だ。
「兼崎さん……っと、ちょうどよかった。明坂さんもここにいたんですね。兼崎さん、これ、この間言ってた資料です。明坂さんには、やってもらいたいことのリストです。」
パラパラと冊子をめくってみると、彼に関しておおよその一日の流れが記されていた。
朝の挨拶、昼食を一緒に取る、簡単なマッサージ、何かあればできるだけ話しかけるように……
本当に難しいことは何も無いようだった。上木の言っていた通り、同じ病気の患者同士を接触させる方が本来の目的なのだろう。
京が冊子に目を通している間にも、二人は何かを話していたようだ。
「申し訳ないね。しばらく明坂さん貸してもらうけど、怒らないでくれよ。」
「いえ、こちらとしても貴重なデータが取れますので。むしろありがたいくらいです。」
「……撤回する。少しくらい怒ってもいいと思うんだが。」
「何に対してですか?」
「……--……お前なあ……、……いや、いいわ。なんでもない。」
きょとん、とする上木に対して心底呆れたように兼崎がため息をついた。
「あの、……あ、お話し中でしたか?ちょっと聞いておきたいことがあるんですが、」
「ああ大丈夫。ただの雑談だから。で、どこのことかな?」
「このページの、これなんですけど----」
それが二か月後目覚めてみれば、初対面で名前を呼び捨てにするチャラ男がそこに現れたのだった。
「なぁ、京は俺と同じビョーキやろ?先輩として、なんかアドバイスとかないの?」
そんなことを聞かれたのはその次の日だった。
京の時と変わらず検査漬けらしいが、前例があるおかげか彼女よりも拘束時間は短いようだった。そしてその分空いた時間は大体京と話をしていた。
「アドバイスって言われても……進化症って人によって症状が違うらしいですし、私も未だによく分かってないですし……。」
「ふぅん。京はどんな症状が出てるん?」
「あーー……。目、が、良くなったりと、か?」
「……なんでそんなしどろもどろ?」
ふはは、と遠田は笑った。この二日間だけでも、彼はよく笑う男だった。
京は元々友達は広く浅いタイプだったし、男性も決して得意なタイプではなかったはずだが、なぜか遠田に対しては苦手意識や遠慮が顔を出すことはなかった。彼のコミュニケーション能力が高いのか、相性がいいのか、その辺りは謎だ。
これは、あれは、と取り留めのないことを話しているとコンコン、とドアがノックされる音がした。
「こんにちは、上木ですが。明坂さんはこちらにいらっしゃいますか?」
「あれ、先生ですね。……今日何か先生とあったかな。」
「なんやろなあ。」
ちょっと待ってくださいねえー、と気の抜けた返事をしながら遠田が来客を出迎えた。
「どうも。明坂さんは……いますね。午後からの予定が変更になったので、伝言役です。坂本さんとB-3で検証実験の予定でしたが、A-6で僕と治験になりました。ちなみに昼食はもう取られましたか?」
「あ、まだです。そろそろ食べようかと……。」
「そうですか。でしたら、申し訳ないんですがまだ食べないでください。水分は水を百ミリリットルまでで。」
「分かりました。十三時半からでいいんですか?」
「うーん、そうですね。時間はそのままでいいです。じゃあ、よろしくお願いします。」
最後にちらりと遠田を見遣ると慌ただしく上木は去っていった。
「……なぁ、治験ってなんのこと?」
「え?えっと、うーん、何と言えばいいのか……安全な薬を作るための実験?」
「違くて。俺一応理系の院生やったんやで?治験くらい知ってる。そやなくて、なんであのセンセは京が被検体みたいな口ぶりやったんかってコト。」
「いや、私それでお金もらってるんで……言ってませんでしたっけ?」
「言うてないやろ!」
その後も昼食を一緒に取りながら(京は見ているだけだったが)、遠田はぎゃあぎゃあと色々言っていた。内容はあまり覚えていない。ただ、なんで二日でこんなに懐かれているのかと遠い目をしてちびちび目盛のついたコップの水をすするだけだった。
「あのセンセはなぁ、絶対むっつりやんな。愛想悪いし。というか俺あん人が笑ったトコまだ見たことないんやけど、笑うの?」
「たまに、こう、小馬鹿にする感じで……『はは』って声だけ笑いますよ。目は全然笑ってないですけど。」
すでに三か月近く一緒にいるわけだが、思い返してみても上木が心底楽しくて笑っている、というところは見たことがない。口先だけで笑うか、目上の人間に対しての愛想笑いか。しかもそのどちらもがかなりのレアものだ。
「なあ、京はさ、治験、嫌じゃないん?痛いこととか、嫌なこともあるやろ。」
柔らかく煮込まれた雑炊を食べながら、神妙な面持ちで遠田が言った。
その表情は心底京のことを案じているようで、そういえばしばらくそんな顔で見られたことは無かったなあ、と心の端で思った。随分と京もこの状況に慣れきっていた。
「まあ、ないとは言い切れないですけど……。それでお金もらってますし、今のところこのまま外に出ても生きていける気がしないので。それにほら、先輩にもなりましたし!」
遠田には言わなかったが、一応将来的なことも考えてはいるのだ。こんな施設での経験なんてそうそうできないだろうし、折角ならなにかスキルの一つや二つ身に着けてここを去りたい。事務処理とか。お茶汲みとか。
「そ?まあ、それならええんやけどなぁ。なんやキミはいらんもんいっぱい考えて、自分の中にちょっとずつ貯めていきそうな、まぁ、なんか危なっかしぃ感じがするから。お兄さんは心配になるんやなぁ。」
「……へへっ。いつの間にかお兄さんになったんですね。」
「ん?うん。ふははっ。せやな。まあ、お兄さんついでにこれはただの好奇心なんやけどな?」
「なんですか?」
ニコニコと人懐っこい笑顔で、まるっきり世間話の続きで遠田は聞いた。
「キミらはどういう関係なん?もしかして好い人だったりする?」
「ちなみに君らというのは?」
京は淡々と返す。
「え、それはもちろんあのセンセと京のコト。」
「……それは、お互いに何の発展もしないと思うんですが……。ただの主治医と患者、もしくは上司と、部下?というか遠田さんにはそういう風に見えるんですか。」
「うーん、まだ、なんとも。でもなぁ、さっき部屋出てくときせんせ苦ぁーーい顔してたしなぁ。」
京はその「苦ぁーーい顔」というのを見ていないので何も言えない。しかし本当にそんな顔をしていたのなら、是非拝見したかった。
「なんか、あれじゃないですか。虫の居所が悪かったんじゃないですか。」
「あ、キミちょっとめんどくさなってきてるやん!お兄さんは悲しいです!」
今度はキャンキャンと何か言っていたが、内容はあまり覚えていない。が、予定の時間に危うく遅れそうになったので、それなりに楽しい時間ではあったのだとは思う。
「……と、今のところそんな感じです。」
その日の予定は上木との時間で終わりだった。そのまま問診、という名のルーチンである。
もちろん好い人だ云々は伏せて話した。
「そうですか。仲良くやれているようでよかったです。彼に、何か困っていそうな様子とか、気になることはありませんでしたか?」
「そうですね……。私が起きた時に比べて、全然動揺が見えないのでちょっと悔しいくらいです。」
「まあ明坂さんも僕が想定していた二十分の一くらいの動揺でしたが……。今後も何か気になることがあれば言ってください。できる限りのことはしますので。」
コンコン、とボールペンを小さくデスクにぶつける音がした。見ると上木は眉間に力の入った少し難しい顔をしている。
コン、コン、コン、とそのまま小さな音が何度かした後、おもむろに上木が顔を上げた。
「……明坂さんは、外に出たいとは思わないんですか?」
京は少しだけ、本当に少しだけ目を見開いた。少し、驚いたのだ。
「いえ、まあ、そうですね。どこか買い物に出かけたいなあとか、思わないことはないですが……元々インドア派ですし、すっごいどこか行きたい!とかは……ないですね。」
そうして、どうしてですか?と続ける。そういえば、自分の内面のことについて聞かれたのは初めてだったかもしれない。
「明坂さんが目覚めてから、四か月、ですか。それくらいが経ちましたけど、一度も外には出ていないですよね?何か気になることがあるのかと思いまして。僕の知っている二十一歳の女の子は買い物とか、どこかに出かけたりとかが好きな子が多かったように思うので、気分転換とかしたくならないのかな、というお節介です。」
「……ふふっ、先生、言い間違えですか?私、もう二十一歳の女の子じゃないですよ?」
今、自分は何歳なんだったか。二十四か、五だったか。もう大学も卒業して、本来なら社会人、というところだろうか。
「いえ、合ってますよ。」
「……合ってますか?」
「明坂さんは、今、二十一歳なんです。それで合っているんですよ。」
相変わらず上木はにこりともしなかった。淡々と、いつものように言うだけだった。
ところが京の方はいつも通りではなかった。今度こそ、驚いた。
この人はそういうことを言う人だったのか。他人には全く興味のないような顔をして、そういうことをサラッと言ってしまうのは、反則だ。
それに、その言葉で気が付いてしまった。私が外に出たくなかったのは……怖かったのはそういうことだ。きっと。
そして思った。
ああ、そっか。私は私だった。
「そう、ですか。」
目を掻く振りをして、一粒だけ転がりそうだった水分はカーディガンの袖に吸われていった。どうやら人間、なんでもない一瞬だけで感情を揺さぶられることがあるらしい。
その頃上木といえば、ただジッと京のことを見つめていた。ひどく真っ直ぐに、見つめていた。観察するように、何かを探すように。
「……やっぱり、出かけましょうか。どこかに。」
ふいに、ぽつり、上木がつぶやいた。
「明後日は土曜日ですし、僕も一日空けます。ああ、明坂さんと出かけるのも研究の一環というところはあるので、ちゃんと半日は出勤にします。いえ、そうですね……検証の一つとして、外に出ましょう。そういえば外での検証はまだやっていませんでした。」
いいことを思いついた。というように彼が言うものだから、おかしくなって笑ってしまった。
それが建前なのか本音なのかは分からなかったが、少しだけ上木という人間の姿がちゃんと見えたような気がした。もしかしたら彼は京が思っているよりも、素直な人間なのかもしれない。
京が笑いをこぼしたのを見て、上木が怪訝そうな顔で尋ねた。
「……今のは笑うところでしたか?」
「ふふっ、すみません。……先生が自分から出かけようなんて言ってくれるとは思っていなかったもので。あの、よろしくお願いします。どこか、出かけたいです。」
「……今までも出かけたかったら言ってくださいねって言ってたじゃないですか。明坂さんの中で僕はどんな人間だったんですか……。まあいいです。どこか、出かけたい所があれば考えておいてくださいね。」
「はい。」
明後日。どこに行こうか。……どこに連れて行ってもらおうか。
ここに来て先のことが楽しみになったのは初めてかもしれない。しかし、同じくらいに不安でもあった。
外に出て、ようやく何が変わったのかを思い知ることになるのかもしれない。この白と緑に囲まれた箱庭の中では見なくても済んでいたものを見ることになるのかもしれない。
それが、漠然と不安だった。
--その部屋に、男は一人だった。
目を閉じて、あてがわれたベッドに体を横たえている。
部屋の外から聞こえるざわざわとした喧騒と会話を聞くでもなく聞き流しながら、ただ目を閉じてじっとしている。
----……さん、……お願いします、あり……で……
--あいつ--じゃ………………ように……
------マウスですよ。アレは。そうでしょう。
ピクリ、と小さく男の眉間がうごめいた。
----違う!彼女はマウスなどではない!お前は、何を考えているんだ。……彼女のことをお前は……お前たちは、どうするつもりなんだ?
--そちらにとっては違うかもしれませんが、こちらにとってはそうなんです。どうする、って、そうですね、----
チッ、と男の舌打ちした音が響く。忌々しそうな顔を隠そうともせずに、男は起き上がった。
「……下種が。」
その部屋の窓には、殺意すらにじむ男の横顔がはっきりと映し出されていた。
「明坂さん、こっちです。……おはようございます。」
上木との待ち合わせ場所は表玄関の前だった。
昼食を食べて、十二時半に集合。
中庭に出るには内側に向いている別の出入口を使うし、それ以外は外に出ることなどなかったので実質京は初めてこの玄関を使うことになる。この場所の前を通ることすらなかったのは、無意識に外へつながるこの場所を避けていたからかもしれない。
「おはようございます。今日はよろしくお願いします。」
「こちらこそ。女の子と出かけるなんて慣れていないので、不手際があったらすみません。見逃してくれると嬉しいです。」
「あはは、それこそこちらこそです。何かあれば、言ってくださいね。」
じゃあ、行きましょうか。とどちらかが言って、どちらからともなく歩き出した。。
「……そういえば聞いてませんでしたが、今日はどこに行かれるんですか?とりあえず駅方面に向かっていますが、明坂さんはこの辺りの地理は……詳しくないですよね?」
「詳しくないどころかここがどこなのかも実は知りませんね。えへへ。」
最初にもらったパンフレットは、結局開くことは無くチェストの中に眠っている。きっとあれにはこの施設の住所やらも書いてあったに違いない。
「どういうところに行きたいか言っていただければできるだけ案内しますが。まあ僕もあまり商業施設には詳しくないので最悪調べます。」
「本当ですか?……いえ、すみません。実をいうと初めからそのつもりだったんですが……。えっ……と、とりあえず、中古品の置いてある電気屋さんに行きたいです。」
「中古の、ですか?」
「はい。CDプレーヤーが欲しいんです。あの、丸いやつ。」
そこまで言うと京はハッとしたように目を開いて上木を見た。
「……もしかしてもうCDって、無いですか?何か別のものになってますか?」
問われた上木は、一瞬固まると
「……フフっ、ありますよ、まだ。」
と、目を細めて笑った。
「……先生が少しでも笑うの、珍しいですね。」
「この間から思っていたんですが、明坂さんの中で僕はどんな人間なんですか。普段から割とよく笑う方ですよ。僕は。」
どの面下げて言うか、と思うもののまあそういうことにいておいてやろうと落ち着けた。今日は上木がいなければ困ることも多いだろう。心は広く持つべきだ。
「中古屋なら、うーん、そうですね。三駅動きましょうか。駅までは十五分くらい歩きます。途中で何か見たいところがあれば言ってください。」
「はい。お願いします!」
研究所のある駅から三駅動くと、そこは平日の昼間だというのにかなりの人が行き交う大きな駅だった。
「なんか、すごく人がいっぱいいるところですね。いつもこうですか?」
「今日は少ない方だと思いますよ。まあ、休日だと人の流れに乗らないと進めないくらいにはなりますね。」
京にとっては今日でも十分進めないくらいの人混みだった。やはり普段から利用していると慣れるものなのだろう。
「で、中古屋ですね。北口です。行きましょう。」
そうして案内されたのはチェーン店らしいそこそこ大きな青看板の中古ショップだった。中に入ってみると、三十代くらいからそれ以上の男性客ばかりだ。これは上木に着いてきてもらって正解だったかもしれない。
「先生は機械には強い人ですか?私、あまり得意じゃなくて。」
「まあ、人並みにはできると思いますよ。何かあれば店員さんに聞けばいいですし。とりあえずその辺を見てみましょうか。」
とは言ったものの、まずオーディオ機器のコーナーを探すのも一苦労だった。スーパーのようにココにコレがあると札があるわけでもないので、それらしいところを端から一棚ずつ見ていく。
ようやくオーディオコーナーを見つけたと思ったら本格的すぎるスピーカーのコーナーだったり、見たことのない小型の機械ばかりが置いてあるコーナーだったりした。
「あ、ありました!先生!ありましたよ!」
店に入ってから十分ほどした頃に、京はようやく丸い形のCDプレーヤーが置いてあるコーナーを見つけた。コーナーと言ってもパーツ取りのジャンク品をまとめて入れてあるような隅の場所だったので、なかなか見つからなかったのも頷けた。
「うわあ。懐かしいですね。」
ひょっこりと後ろから上木が顔を出した。
「あれ、でも四年前だともうウォークマンとか出回ってませんでしたか?」
「そうなんですけど、家で聞く分にはこっちの方がなんとなく好きなんです。ディスクは手元に実物で置いておきたいというか……。きっと今はもっと、こう……データみたいなので管理するのが主流なんですよね。うわあ、難しそうだなあ。」
うえ、と京は苦い顔をする。
「なんだったらこの機会にデータ管理用の機械とか一式揃えましょうか?音楽を聴くのが好きなら、データにした方が管理が楽ですし、曲数も入りますよ?パソコンが苦手ならお教えしますし。」
ぱちくり、京はしゃがんだままで上木を見上げた。なんだかびっくりしたような顔をしている。
「……どうしたんですか?」
「いえ、先生は『教える』って言うんだなあと思いまして。先生なら『やってあげる』って言うのかと。」
「明坂さんはどっちが好きですか?」
「?えーっと、そうですね。……教えてくれる方が好きですかね。できるだけ優しくお願いしたいですけど。自分でできるようになるのがいいかなぁ。」
なぜそんなことを聞くのだろうと上木を見てみても、本人は別の棚に目をやっていて、結局よく分からないままだった。まあ雑談のうちの一つだろう、と思う。
そこからまたしばらくこっちにするか、いやそっちの方が、と悩んで、その店では比較的きれいなCDプレーヤーと、物は試しとMP-3プレイヤー、そして転送に必要なコードやハードディスクを購入した。それと何枚かCDを選んで、それを全部買い終わる頃には十五時を少し過ぎていた。
「さて、次はどこへ行きますか?」
「え?」
「え?」
「「…………」」
二人の間に沈黙が落ちる。お互い顔を見合わせたまま微妙な表情を崩せない。
「……ええと、行きたいところはここで終わり、ですか?」
「え、あ、ーーっ、と、そう!そうなんです!他に何も考えてなくて!」
「本当は?」
「……先生がそんなに何か所も付き合ってくれると思ってませんでした。すみません。」
思いっきり上木から顔をそらした。なんだか最近こんなことばかりのような気がする。
「分かりました。じゃあここからは僕の行きたいところに付き合ってください。明坂さんに意見を聞くのは止めましょう。とりあえず駅に戻ります。」
「あ、はい、……っ先生、ちょ、」
そう言うと上木は京を置いてむっつりと歩き出してしまった。伺い見た横顔は怒っているようにも見えたが、いかんせん普段からあまり表情がないのでよく分からない。
「……あの、先生、怒ってますか?」
「いえ、怒ってはないですよ。少し呆れてはいます。」
「……すみません。でも、あーー……なんでもないです。すみません。」
「…………。」
ちら、と少し後ろを歩く京に目線をやると、上木は特に何も言うこと無く歩き続ける。
そのまま黙々と五分ほど歩いて駅に戻ってきた。上木に先導されるがまま着いていくが、どこに行くのかはさっぱり分からない。
駅を通り過ぎて二、三分歩くと細い路地が連なる通りに入った。そのうちの一本を選ぶと、迷いなく進んでいく。そうしてたどり着いたのは、レトロな雰囲気の漂うこじんまりとした喫茶店だった。
ドアを押し開けるとちりんちりん、と控えめなベルの音が響く。古びた外観に対して、中はいかにも女子受けしそうな洒落た様子だった。こんなところに来たいとは、正直言って意外でしかない。
「こういう喫茶店とか、好きなんです。甘いものも嫌いではないです。」
席に案内され一心地つくと、唐突に上木がそう言った。
それを言われて私はどうすればいいんだ……?
と京は思ったが、もちろん口から出てきたのは「……そうなんですか。」という一言だけだった。
「結構歩きましたし、疲れたでしょう。何か食べますか?」
はい、と渡されたメニューは中々の喫茶店価格だった。つまり高い。
「え、っと、じゃあ、アイスティーで……」
「すみません、ミックスサンドセットでホットコーヒーと、苺のタルト、あと単品でアイスティーをください。」
かしこまりました、と店員が下がる。
しかしサンドイッチとケーキって普通に昼食だよなあ。もしかして昼食食べ損ねたのかなあ、なんて京は考えていた。
…………沈黙。
壁掛け時計の振り子の音と抑えめにかかっている音楽をバックに、四人掛けのボックス席で向かい合っている。気持ち真正面よりもずれた位置で二人は対面していた。
今日は沈黙の続く日だなあと思ったけれど、よく考えてみれば普段は問診だったり検証だったり何か目的があって一緒にいるわけで、今日のように向かい合って話題がない、という状況が今まではなかったと、それだけの話だった。
(気まずい……)
なんだか嫌な汗滲んでいる気がする。どこかへ出かける、というのは要するに少しプライベートへ踏み込んだ領域なわけで、研究所ではないこの空気がじわりじわり、ゆっくりと京の首を絞めにかかってきていた。
「お待たせいたしました。ミックスサンドセット、苺のタルト、アイスティーでございます。」
よっしゃあ救世主だ!ありがとう店員さん!と思ったけれど表情には出ていないと思う。そう願いたい。
優雅な所作でコト、コト、とテーブルに皿が並べられる。
上木の前にサンドイッチとホットコーヒー、京の前にはタルトとアイスティー。窓から入る日の光がグラスとコーティングのゼリーに反射してきらきらしている。ゼリーと苺で何層かになった複雑な赤色が綺麗だ。
「ごゆっくりどうぞ」
にこり、と柔らかな笑顔を残して店員は去っていった。
うーん、まあこうなるよなあ。と思いながら京は上木の方へ皿を押しやる。
「あはは、まあケーキって、イメージ的に女性側ですよね。」
上木は少しだけ自分の側に寄ったタルトをちらりと見ると、すぐに目線を外した。ちなみに彼はすでにサンドイッチに手を付けている。
「?食べないんですか?あ、イチゴ嫌いでしたか?」
「うわぁ……そういうヤツですか……」
うへぇ、と今度は顔に出た。あ、ヤベッ。
「そういう顔、表に出すといいと思いますよ。明坂さんは僕のことをよく分からないヤツだと思っているようですけど、僕の方も同じですよ。明坂さんは僕には常に構えているようですし、ほら、僕主治医ですから。ちょっとくらい本性を見せてくれてもいいと思うんですよ。」
本性、と言われ少しムッとした。別に隠しているわけではない。大体会ってから四か月の先輩、上司、いや主治医か。に、自分をそのまま見せるなんて普通できないのではないだろうか。少なくとも彼女はそういうコミュニケーション能力に長けた人間ではなかった。例外と言えば遠田くらいか。方言男子恐るべしである。
「……甘いもの嫌いじゃないって言ったじゃないですか。」
「そうですね。でもちょっと昼飯を食べ損ねてしまって。甘い物よりしょっぱい物の気分なんです。」
「私が甘いもの嫌いだったらどうするつもりだったんですか。」
京はテーブルの隅に置いてあるカトラリーケースからフォークを一本取り出す。カチャ、と少しだけ金属同士が音を立てた。
「まあその時は僕が食べますけど。……嫌いなんですか?」
さく、とタルトにフォークを入れる京を見ながら上木が聞いた。
「嫌いじゃないです。……あげませんよ。」
「大丈夫です。これ食べ終わったら僕もケーキ頼むんで。」
「…………サンドイッチ一つください。」
「どうぞ。」
ささやかな反撃は不発に終わった。せめてもの反抗のしるしにサンドイッチを一つ奪ってやったが、それすらも彼の手のひらの上のような気がしてならない。少しイラっとした。
むかつくことにタルトは丁度いい甘さに丁度いい酸味、つまるところ美味しかった。まあお店とケーキに罪は無いのでありがたくいただくことにする。
「さて、この後はどうしましょうか。一応まだ時間はありますけど、何か見たいものはありますか?」
その後サンドイッチを食べ終わった上木はミルクレープを頼んだ。絶対自分の方が早く食べ終わると思ったのに、ほとんど同じくらいのタイミングで食べ終わってなんだか少し悔しかったことは言わないでおく。
「うーん……そうですね……特には……先生はどこか無いんですか?」
「……そうですね。今日は久しぶりに歩いて疲れたでしょうし、これで帰りましょうか。」
「……はい。分かりました。」
そうして二人で元来た道を駅に向かって歩いた。
喫茶店を出たときにはすでに遅い方の夕日が出張っていて、いつのまにか窓から日が差すこともなくなっていたようだ。タルトとは違う赤色が辺りに乗算されている。
駅まではぽつり、ぽつり、世間話とか、道端の目についたものの話とかをしながら歩いた。駅に近づくにつれて、人の波がまた押し寄せる。昼間よりも明らかに増えている。帰宅ラッシュと被ってしまったのだ。
「明坂さんは人混みが苦手なんですね。ものすごく歩きづらそうです。」
「いや、だって人が多すぎませんか?先生が得意なだけじゃないですかね……。」
「うーん、そんなに多くはないと思うんですけれど。普通に歩いているだけですよ。」
どうにかこうにか券売機までたどり着いて、ようやく切符を手にした。駅に入ってからは人、人、人で、上木の後ろを歩いていたものの避けるのに精いっぱいだった。しかもみんな歩くのが早いものだから、去っていく人の足を踏まないようにするのがとても大変だった。それに加えて久しぶりの外出だからか、なんだかものすごい達成感だ。
だからかもしれない。
研究所に帰ってきて--「帰ってきた」と思ったときに、ふと、何気なく、何の意識もせず、気づいた。帰ってきたけれど、上木はこの後家に帰らなければいけないんだな、大変だなあ、と考えて、ハタ、と思いついてしまった。
私はいつまで家に帰れないんだろう。
というか、ここを出なければいけない時、例えば治験が終わったとき--自分が必要とされなくなった時。どうやって生きていこう?
……家を、探さないといけないな。四年も空白のある履歴書でどこか雇ってくれるところはあるだろうか。
ここで事務処理なんてやらせてもらえるあてもないし、ましてや研究を手伝える頭の良さなんてあるはずもない。スキルも何もなく、多分ここからも空白の期間は増え続けていく。
何か資格でも取ろうか。時間は多分結構あるし。
うん、それがいいかも。なんだかんだ接客はずっとアルバイトでやっていたし抵抗もない。最悪バイトでも、自立していけるようになれば万々歳だろう。
でも、私の病気は治るんだろうか。それとも治らなくても上手く付き合っていけるようになるのだろうか。必要とされなくなったらどうしよう。こんなよく分からない病気を持った女と結婚してくれる男性はいるのだろうか。
いやきっと世の中にはそんな奇特な人間の一人や二人いるだろう。世界に何人人間がいると思ってるんだ。
まあいなければ、その時は一人で生きていくしかない。きっと一人でもなんとかやっていけるはずだ。空白の履歴書にはなんて入れようか……上木あたりに就業証明みたいなものを偽造してもらうおうか…………
…………
……………………
………………………………私、これから先どうなるんだ?