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 ●一年目 三月の話・三

 


「四色型色覚ぅ?」

 あくる日の夜。

 三班に与えられた研究室の中では班員の男たちが長机を囲んでいた。

 「まあ、多分。多分ってのは、実際は何色かわからんってことでの多分ですがね。」

 その場を仕切っているらしい男が言う。この場では一番の年長のようだ。

 「さかもっさーん。もうちょっと簡潔に説明してくれぇー。」

 「さかもっさん」と呼ばれた四十過ぎくらいの男は呆れたようにため息をついた。

 「……班長、あんたは本当に自分のとこしか興味ないんですね。ちょっとくらいは聞いたことあるでしょう。『四色見える女』の話。」

 「ないことはないけど知らんもんは知らんのですよぉ。というかそんな雑学みたいなの知ってる方が変態では?」

 「……一般的に人間は三色の色を見ることができる、というよりは三色しか見ることができない、ってのは分かりますよね。赤・青・緑の三色の組み合わせで俺たちはモノを見ているわけなんですが、そこにプラスもう一色見ることができるのが『四色型色覚』。ちなみに三色に比べると見える色が九千万色くらい増えるらしいですよ。」

 「ふむぅん。なるほどねぇ。それはまた『進化』らしい『進化』っすなあ。」

 班長は頷きながら手元のノートパソコンにパチパチと指を走らせる。

 「まあ一概に『進化』とも言えないとは思いますけどね。元々哺乳類は四色型色覚であったというのが通説なので、ある意味退化したと言えるかも。……まあ明坂の場合は視力の著しい改善と上昇も見られているので、そちらは順当な『進化』と言えるかもしれませんが。今の時点で俺から報告できるのはそれくらいです。他は?」

 次に手を上げたのは二人に比べれば少し年若く見える、細身だががっしりとした男だ。

 「一応明日で一通りの検査が終わるわけですが、検体依頼はどうなっているんでしょうか。もしあまり芳しくないようなら俺はもう少し検証したい部分があるんですが。」

 「どう?主治医。治験には協力してもらえそう?」

 にやにやと班長は上木に視線を向けた。

 上木は少し嫌そうな顔で答える。

 「主治医と呼ぶのはやめてください。……多分大丈夫だと思います。ここを出てもすぐには行くところもないはずですし、彼女の性格的に受けてもらえるかと。明日の検査が終わるまでには決めておくように伝えてあります。」

 「ん。仕事のできる男はやっぱ違うねえ。」

 他は?とテーブルを見渡せば、首を振るか、無反応かの二つだった。

 「よし。じゃあとりあえずは彼女が治験を受けるか受けないか、それが決まってからってことで、今日の定例は終了。お疲れっしたぁー。」


 「でさーぁ、実際どうなの?上木ちゃん的に。」

 皆がそれぞれの作業のためにデスクに戻っていく中、ひょこひょこやってきた班長が上木の肩を小突いて話しかけてきた。やっぱりニヤついている。

 「何がですか。」

 「彼女。扱いづらい?やっぱ。」

 「まあ、多少は。今のところは割とうまくやれていると思いますけど、先のことはなんとも言えないですね。うちの班は男しかいないですし。」

 「そうだな。ああ、一つだけ言っとくことがあるんだ。上木ちゃん、」

 

 「アレはマウスだよ。感情のあるマウス。」

 

 --上木の表情は動かない。

 なんでもないような顔で、世間話をするように班長は言った。

 「先達からの、お節介なアドバイスだ。マウスに感情移入するのは大学一回生がやることだよ。俺たちは冷静に、淡々とマウスで実験をし、検証しなければいけない。」

 「分かっています。」

 分かっている。だから上木は今ここに立っている。

 十年以上の研究を経て、京のためにーー京の病気のためにここにいる。

 ……この間の一件の後、上木は京に「僕のことは絶対に好きにならないでくださいね」と言った。

 京の認識の中では京には彼氏がいるし、性格上そんなことにはならないだろうと思ったが、まあ保険のようなものだ。身体的接触と閉鎖空間でのコミュニケーション。ある種そういったことを危惧する状況ではある。

 「……それはその時になってみないと分かりませんけど、まあ今のところ大丈夫じゃないですかね?」と言って笑った彼女の笑みはそれはもう乾いたものだった。

 自分には心を開いてもらった方が都合は良いが、好意を持たれては困る。

 そしてそういう輩は彼女の好まないタイプの人間だ。

 「目覚めた彼女が治験に協力してくれれば、恐らく俺たちの研究はかなり進むはずだ。彼女をみすみす逃すような真似はしたくない。」

 よろしく頼むよぉ、とわざとらしく間延びした物言いを残して班長は去っていった。

 (……そんなことは言われなくても分かってるよ)

 言われなくても分かっている。

 彼女に逃げられては何の意味もない。逃がすわけにはいかないのだ。


      *      *      *

 

 京がこの施設で目覚めてから一週間が経った。

 検査・検査・検査アンド検査、ひたすら検査……という名前の何かしらをされていたように思う。絵を描かされたり、音楽を聞かされたり、よくわからない検査もあった。まあ今まで科学の「か」の字も嗜んだことのない自分にはわかるはずもない理屈があるのだろう、と京は思っている。

 「明坂さん、治験のことは考えていただけましたか?」

 カラカラとタイヤの回る音が廊下に響いている。いい加減この音も聞き慣れたものになった。相変わらず後ろでハンドルに手をかけるのは上木である。

 「はい。あの、……受けさせていただければ、嬉しいです。外に出ても、どうやって生きていけばいいのか分かりませんし、先立つものもありませんし……よろしくお願いします。」

 先日の夜の件から、京から上木へは少し打ち解けたような、逆に少し気まずくなったような、そんな微妙な距離感を感じていた。なんだかあの日の終わりに最高に張り倒したくなるようなことを言われた気もするが、忘れた。忘れたと言ったら忘れた。

 まあこの検査期間もそろそろ終わりなので考えるところはしっかり考えないといけない。

 治験、と言われてしばらく考えてみたが、今の自分が生きていくにはともあれ色々なものが無さすぎる。

 もしかしたら変な薬とか飲まされるかも、注射は痛いしな、あ、でもそもそも記憶よりも四年過ぎてるんだから外に出たら色々変わってるんじゃ……等々、脳内会議を重ねた結果、とりあえず治験を受けることにした。今まで四年も一応、一応保護してくれていた訳だし、滅多なことは無いだろうと結論付けたのだ。

 「そうですか。ありがとうございます。僕たちも、本当に助かります。では、今日はちょっと寄り道しますね。」

 カラカラ、カラカラ、タイヤが回る。今は夕方、まだ明るい方の夕方だ。廊下から西日が差し込み始めたくらいの時間。

 今の京には一日の時間の流れがよく見える。そういう目に、なったらしい。

 あれからまた色々と検査をされて、言い渡されたのはなんだかよく分からない言葉だった。

 人よりも多く色が見えている。あの部屋にいるものは、彼らには全く見えないらしい。

 「できれば見てみたいんですけどね。そうしたら明坂さんとしっかり悩みを共有できるでしょう」と言われた時には。医者としてそう言った上木に感謝するべきか、研究者としての彼をマッドサイエンティストと蔑むべきか迷った結果愛想笑いを返しておいた。我ながら情けない対応である。

 まあとにかく、あの部屋にいたのが何なのかは誰も教えてくれなかった。誰にもわからないまま、とりあえずは部屋替えをして終わった。新しい部屋ではまだ何も見ていない。

 ただ、四年間の眠りのせいか、自分の頭が忘れっぽいせいか、夕日を前の自分がどんな色で見ていたのかは思い出せない。今見ている夕日は四年前に見た色と変わっていないのか、それとも全く違う色をしているのか、京にはわからなかった。それがなんだか妙に京を落ち着かない気持ちにさせる。

 「明坂さん?」

 「はい?」

 少しだけのぞき込むように上木が背中を曲げた。

 「あ、いえ、ちょっとぼーっとしているかな、と。ここが三班……僕のチームの研究室です。これから使うこともあると思うので、覚えておいてください。」

 そう言われて見上げた扉の横には「人研・三班研究室」という小さなプレートがあった。

 治験を受けるからには、これからはここが京のメインの職場になるのだろう。

 コンコン、

 「失礼します……?」

 中に入っても、すぐには部屋の全容が分からない。そんな雑然とした部屋だった。

 ちょっと中は通路になるところが少ないので、と車椅子は入ってすぐの場所に置いていった。京としてはなぜ未だに車いすに乗せられているのかが分からなかったので逆にありがたい。

 ようやく地に着いた足で奥へ進んでいくと、書類やらファイルやらで埋もれたデスクに更に埋もれるようにして長机が二つ並べられているスペースにたどり着いた。

 「お、明坂ちゃん?初めましてー。」

 長机には三人の男性が座っていた。

 声をかけてきた男性以外は、何度か検査で見たことがあるような気もする。検査技師かと思っていたが、どうやら研究者だったようだ。

 「挨拶できてなくてごめんねー。俺は三班の班長やってまっす、仲谷俊明三十八歳独身です!今後ともよろしくお願いしまっす!」

 とても三十八歳には見えない見た目と言動だった。

 チャラい、軽い、年齢不詳顔。苦手なタイプだな、と瞬時に思う。

 「……副班長の坂本です。よろしく。」

 パッと見線の細い仲谷に対して、ガタイのいいおじさん、という感じだった。沖屋よりもかなり年上に見える。だが実際は沖谷が若見えしすぎるだけなのだろう。

 「千葉です。治験への協力、感謝します。これからよろしくお願いします!」

 ハキハキと話すその男性は三人の中では一番若く見える。上木よりは少し年上だろうか。

 「上木です。よろしくお願いしますね?」

 「ハハハ……よろしくお願いします。」

 突っ込みづらい。ものすごく。

 まあとにかくここが彼らの研究室で、三班は全部で四人らしい。他にも班はあるが、あまり関わることは無いそうだ。

 「給与と待遇は今説明した通り。何か質問はある?」

 そして机の上には五枚ほどの書類がクリップでまとめられた束と、契約書が一枚。

 現在はこれからのことについて仲谷から説明を受けている。

 「いえ、今のところは特に……何かわからないことが出てきたら、その時にまた聞きます。」

 「ん。そうしてくれるとありがたいかなぁ。じゃあ最後に俺からひとーつ。」

 とんとん、と手元の資料を片付けながら沖谷が言う。

 「この間上木からも言われたと思うけど、何か前と違うことが起きていたら迷わず言うこと。誰にでもいいからねー。俺は君を預かっている以上、君をきちんと管理する義務がある。君をできる限り健康で、健全に管理する義務が、ね。君の病気は数値に現れない症状が多い病気、なんだよねぇ。うん。君の申告が俺たちの研究の柱と言っても過言じゃない。だから、症状の報告も治験の仕事の一つであると考えてほしい。」

 「……分かりました。」

 ……こういう人はやっぱり苦手だ。

 自分のすることに自信と、自覚を持っている。自分の言葉に揺らぎがない、そういう人。

 ふわふわと浮きっぱなしの自分には刺激が強すぎるのだろうか。

 「まあ、そんなに難しいことはないから、気楽にねー。俺たち的には明坂ちゃんがいてくれるだけで研究が捗るってモンだから。とりあえずこれからよろしくってことでひとつ。」

 そう言って立ち上がり京の方まで来ると、沖谷は手を差し出した。

 「あ、はい!よろしくお願いします!」

 慌てて京も立ち上がって手を差し出す。

 大人はよろしくお願いするときに本当に握手をするんだなあ、とそんなどうでもいいことを思った。よく考えてみれば握手なんて初めてしたかもしれない。仲谷の手は線の細い見た目に反してゴツゴツした暖かい手だった。

 「……もう、いいですか?これで終わりでよければ、そろそろ部屋に戻りましょう。新しいことばかりで疲れたでしょうし、明日からのことも部屋で説明します。」

 「お?なんだなんだ、もうちょっとゆっくりしていってもいいのにー。別に取りゃあしないよぉ。」

 クハ、と噛み殺したように沖谷が笑った。

 「えっと、……どうしたら、」

 「ああ、冗談冗談。主治医の言うことは絶対だからねー。じゃああとは頼むよ、上木せ・ん・せ。」

 「……じゃあ行きましょうか。」

 「あ、はい!失礼します!」

 研究室では、なんだか上木はいわゆるいじられキャラのようだった。(主に仲谷が)時折ニヤッとして上木を面白そうに見ているのが印象的だった。まあ研究室のメンバーの中でも若い方になるだろうから、しょうがないのかもしれない。

 そうして二人は研究室を後にすると、これからは名実ともに京のものとなる部屋へと向かうのであった。


 

 

 ●一年目 五月の話

 

 「っぐ……も、むり、っ、で、……ア痛たたたたっっ!!」

 「はい、息止めないでー、はい、いーち、にーい、さーん、しーい、」

 「うぐぁああぁあぁぁぁぁ…………!」

 京が治験に協力するようになって一か月が経った。

 じゃあこれ飲んで五時間バイタルチェックさせてね、DVD流しとくから動かないよーに。あ、トイレ行った?、とか

 このプリントの計算式、三十枚。全部暗算で解いてみてくれ。制限時間は五分。はいスタート、とか

 とりあえず身体測定からにしようか。あ、シャトルラン嫌い?とか、

 そんなことをやらされている。その実験の結果取れたデータが今後どのように活用されていくのかは知らない。

 そして今、マッドサイエンティストその三によって地獄の筋トレが行われていた。

 「千葉さんっ!千葉さんっ!無理です無理です太ももちぎれますううぅ!!」

 「大丈夫。まだちぎれない。はい、あと十秒ー、いーち、にーい、」

 「う、ぎ、いいいぃぃ……!」

 直接的な接触がいいのかなんなのか、今のところMS(マッドサイエンティスト)その三----千葉とは一番気軽に話せるような気がする。ちなみに一番苦手なのは仲谷。僅差の次点で上木である。

 京の治験生活はカリキュラムが設定されているような、つまりは学校の時間割のようなスケジュールがその日ごとに組まれている。

 ある日は一日誰かの治験にべったりの時もあるし、ある日は二時間ごと、そしてある日は筋トレプラス休暇、そんな感じ。前日の夜までに研究室のホワイトボードにみんなが好き勝手スケジュールを埋めていく。次の日にそれを見て京はそれぞれのデスクに顔を出す。そして今日は地獄の筋トレ三時間コースの日だった。

 「そ、いえば、この、間、坂本さんに、聞いた、んですけど、」

 「ろーく、しーち、はい、息止めなーい……何を?」

 「ふーーーー、……ぅぐ、どこか日本のびょうい、ん、に、私と同じ病気の方がいるって。」

 「きゅーう、十、っと……うーん、どこだったかな、確かに三か月前くらいに聞いたなあ。うちには明坂がいたからほとんどスルーだったけど、まあ日本で二人目の患者だし上木辺りはよく知ってるんじゃない?」

 「っはーー……坂本さんとかじゃなくてですか?」

 ……勝手にそういう情報に詳しいのは坂本だと思っていた。何食わぬ顔して全部知っていそうなのは仲谷だが。

 「あー、そっか。明坂は知らないのか。ウチで、というか日本では、上木が一番進化症に詳しいんじゃないかな。いわゆる第一人者ってやつ。」

 「え、でも上木先生ってかなりお若いですよね?あ、実は仲谷さんと同じ類の方ですか?」

 仲谷は自称三十八歳独身だが、二十五歳彼女と同棲中です、と言われても全く違和感がない風貌をしている。幼顔ではないが、とにかく見た目と雰囲気が若い。

 「まあ班長のことは本当に、人間の精気かなんか吸ってんじゃないかとは思うけど……上木は俺より年下だよ。間違いなく。あれが才能ってやつなのかな。多分脳の出来が違うんだなあ。」

 やれやれ、となぜか呆れたように千葉は言った。そもそも千葉が何歳なのかも知らないが、おおよそ目測で三十過ぎ、といったところだろうか。

 「確か大学の時に研究室の教授の縁だかで研究を始めて、それから進化症一筋だったかな。俺たちはみんな何かやってて、途中から進化症に乗り換えたクチだけど、まあ良し悪しだよなあ。」

 「どういうことですか?」

 「あー、あれだ。例えば俺は元々エルゴノミクス……人間工学の研究をしてたんだけど、その時に人体の仕組みとか、筋肉の作りとか、そういうのをやってたんだよね。だから俺は進化症をそういう側面から研究してるワケ。明坂と筋トレ紛いのことをしてるのもそういうコト。他のみんなも、まあそれぞれの分野ではそれなりにやってたからそれぞれの視点で研究してるな。でも、上木は違う。あいつは進化症一辺倒だから、第一人者であると同時にそれ以外は専門外なわけだ。その代わり進化症のことは上木に聞けば大体分かる。ほんと、気持ち悪いくらいに、な。」

 「へえ……。研究職って、すごいですね。本当に。私にはとてもできないです。」

 「まあ、金もらってるし、なにより研究者っていうのは皆どこか狂ってるやつが多いからなあ。俺なんかから見ると大体みんな狂人だよ。」

 来る日も来る日も、病気と向き合い、可能性を探り、検証し、その繰り返し。

 途方もない生き方だ、と純粋にそう思った。

 と、ピピピ、と千葉の腕時計が鳴った。どうやら今日の筋トレは終了時間のようだ。

 「っし、今日はここまでだな。この後は?」

 「今日は午前中だけです。終わったら上木先生のところに行って、その後は……何しようかな。」

 休みと言っても、一人で外には出られない。誰か空いている人を見つけて付き添ってもらえば出れると言われているが、誰かと一緒に出掛けようという気にはならなかったのでまだ外出をしたことはない。大抵部屋で元々置いてあった本を読むか、与えられたパソコンでウインドウショッピングをしているかだ。

 「どこか行ってきたら?午後は上木が空いてるだろ。」

 二人並んで廊下を歩く。トレーニングが終わると決まって千葉は次の研究者のところまで京を送っていった。だから、余計に千葉とは距離が近く感じるのかもしれない。

 「や、別に欲しいものがあるとかではないので……上木先生も忙しいでしょうし、部屋でゆっくりしてようかと。みなさんが仕事しているときに一人だけなんですけど。」

 「ふーん。まあ、俺も空いてる日は付き合うし、気が向いたら声かけてよ。」

 「ホントですか?……えへへ、はい。ありがとうございます。」

 社交辞令であっても、千葉のそういう一言が京には温かかった。ここにはなかなかこういうタイプの人間は少ないので、余計にありがたく感じる。

 そうこうしている内に上木が常駐している部屋についた。それは、初めに京が目覚めたあの部屋で、上木の研究ではこの部屋が一番都合が良いらしかった。

 「じゃあ、ここで。お疲れ。」

 「はい。お疲れ様でした!」

 軽く手を上げて、千葉は去っていった。

 (爽やかだ……)

 ぼんやりと千葉の背中を見送る。なんだか親戚のお兄さんというか、仲のいいお隣さんというか……

 「……ときめいちゃいました?」

 「ぅわっ!」

 いつの間にか、部屋から上木が顔を出してこちらを見下ろしていた。ドアの開く音すらしなかったので、この人は忍者か何かなのかもしれない。怖。

 「別に、ときめいてはないです。爽やかだなあと思っただけでっ!」

 「ふうん……明坂さんの好みはああいうタイプなんですね。なるほど。」

 「あはは、そんなんじゃないですよー。」

 ぶっ飛ばすぞ、と思わないこともなかったが、とりあえず笑って流した。反応した方が負けだ。きっと。

 なぜか上木は京のことをからかってくるようなことを言ったかと思えば、何も興味なさそうに黙っているときもある。ただ、どんな時でも京のことを見ていた。何を考えているのか、どういう行動をとっているのか、そういうことを常に見られているような気がした。つまりは何を考えているのか、京にはいまいちよく分からないままの人だった。

 「今日は午前中で終わりですよね。体調になにか問題はありますか?」

 部屋の中に入って、問診を受ける。一日の検証や実験が終わった後のルーチンだった。

 「特には……明日になったら筋肉痛がすごそうですけど。」

 「千葉さんは随分スパルタみたいですね。」

 「そうですね……。ふふっ、なんだか検証というより、本当に筋トレしてるみたいです。」

 「うわあ。」

 僕は絶対やりたくないですね、と上木が言った。手元ではボードにさらさらと何かを書き込んでいるようだ。

 その後も、あれはどうだ、これは、困っていることは無いか、それは言い回しが少し違うだけで、この三週間くらい毎日のようにされる質問だ。

 普段から表情の変わらない人であったが、この時間はより、表情が抜け落ちたような、淡々とした表情を作っているような、そんなように見えた。質問に答えながら、彼は笑うことがあるのだろうかとぼんやり思った。

 「あ。それと、明坂さんに頼みたいことというか、提案があるんですが。」

 「?はい。なんですか?」

 「今度うちに、進化症の患者さんがもう一人来ることになったんです。で、その人の面倒を見てもらえないかな、と思っているんですが……。」

 「面倒、ですか?でも、私何もわからないですし、あの、看護とか……無理だと思うんですが、」

 点滴を変えたり、体を拭いたり、だろうか。残念ながらそれはできる気がしない。

 「ああ、すみません。面倒と言っても……そうですね、部屋に花を飾ったりとか、話しかけたりとか、そういうことでいいんです。進化症の患者さんは、言ってしまえば本当は面倒を見る必要はないんです。排泄や代謝なんかは眠りにつくと同時にストップしますから。だからあくまで新しい試みとして、同じ症状を持った明坂さんが近くにいることでなにか変化が起きないかと、そういうことなんですが……どうでしょう?」

 どうでしょう、と言われても。

 「えーっと、……どう、なんでしょうか。私でもできるのなら、やらせてもらえれば、とは、思いますが。」

 給料分の仕事はしなければ。給料分がどれくらいなのかはイマイチ分かっていないが。

 働いた分だけ対価がもらえるのなら、逆説的にもらった分は働かなければいけないのだ。

 「そうですか。よかった。ああ、もちろんやって欲しいこととかはこちらでまとめておきますので心配しないでください。」

 その「患者さん」が転院してくるのは一週間後だ、と上木は言った。

 そして、その日のルーチンチェックはそれで終わりになった。

 「午後は何かするんですか?」と聞かれたので、ゴロゴロするとも言えず「読みかけの本があるのでそれを読もうかと思います。」と答えた。けれど、どうしようか。外に出たいような気はしたけれど、何かを買いたいとか、見に行きたいとか、そういうものは特にないのだ。それと外に出るのは少しだけ怖いような、そうでもないような、そんな気持ちが「外」にはあった。

 

 「はーー…………。」

 結果、自分の部屋のベランダに寄り掛かって、ぼんやりと外を眺めている。

 あの騒ぎの後変えてもらった部屋には、それなりの広さをしたベランダが付いていた。元々研究施設のはずなのに、なぜこんな部屋があるのかは謎だ。もしかしたら研究員の居住用に作ったのかもしれない。

 「……--。」

 短い短い、春の終わりが少し見えた過ごしやすい日。ベランダには乾いた風が吹いていた。暑くも寒くもない、そんな風だった。やることもないので、柵にぺったりと頬を押し付けて風を浴びてみる。

 自由に外に出られないことはそりゃあある程度は不便ではあったが、別段これと言って困ることは無かった。気分転換ができないとか、新しいCDを買いに行けないとか、そういうことだけだ。

 新しい部屋のベランダからは少しだけ緑が見える。極々小さなスペースに植えられた木が、丁度手を伸ばしてもぎりぎり届かないくらいのところまで枝を伸ばしている。葉っぱは緑や、青や、黄色がかったものや、様々な色で溢れていたが、--彼女の脳内ではそれらはみんな等しく「緑色」の枠内に収まっている--それはもうこの数日の間に見飽きていた。最初のうちは確かに「綺麗だ」と思っていたものも、毎日毎日目に入ってくれば日常になるのが現実だった。

 なんとなく感じる恐ろしさの理由は分からなかったが、茂る葉を綺麗だと思ったこと、それにベランダに乗せた頬に感じる冷たさは、……それを冷たいと思うことは、ちゃんと覚えておこうと、そう思った。


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