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 ●一年目 三月の話・二



 結局その日も前日と同じように、大量の検査をして終わった。

 上木は朝に話をして以降はそれまで通りのらりくらりとした対応で、いまいち話に真剣味を感じないまま京は二度目の夜を迎えていた。ちなみに今日の夕飯は雑炊だった。一応まだ胃に優しいものを食べておけということなのかもしれない。薬はもう飲まなくていいそうだ。

 それにしても検査ばかりしていたからか、妙に疲れているが体力は有り余っている感じがする。おかげで時刻は二十四時少し前、というところだが眠気をまったく感じない。ちなみに時計は上木に言って用意してもらった。

 まあ布団に入って目を閉じていれば眠れるだろうと、とりあえず布団にもぐりこんだ。

 ……しかし、案の定というかなんというか、十分経っても三十分経っても、京の意識が眠りにつくことはなかった。それどころかむしろ目が冴えていくような気すらしている始末である。

 そろそろ目を閉じているのにも疲れてきた。目の周りの筋肉が痙攣しそうだ。

 そう思って、しょうがなく目を開いた。

 明りの落とされた部屋は暗く、人の気配を感じない静寂がそこに満ちている。

 ふー、と息を吐いた。ため息と言うには少しばかり足りない量。

 一度眠りに落ちてしまえば次に目を開けると朝だというのに、一体自分は何に脳を動かされているのだろうか。体力が余っているのだったら、やり方なんて全く知らないがストレッチでもしてみようか。とりあえず体を伸ばしてみればいいだろう。

 と、そんなことを考えていた。この時は。

 

 ----「ソレ」が見えたのは、そうして京がベッドから起き上がろうと思ったその時だった。

 

 ちら、と目の端で何かが瞬いたような気がする。

 ドキリと大きく心臓の跳ねる音がした。気のせいか。気のせい、か……

 そのままの体勢から動くことができなかった。金縛りにあったように、体は硬直した。目線すらも動かせず、ただひたすらに目の前にあるシーツのシワを見つめた。

 何か淡く光るモヤのようなものだった。何色だったか、どんな形だったかなんて見ていない。でも何かがぼんやりと目の端を掠めた気がした。

 ドクン、ドクン、と、心臓の音が耳にうるさい。何か急かす号令のように鼓動は規則的に鳴り続けている。

 ドクン、ドクン、ドクン、ドクン、----

 そうして何分経ったのかも分からなくなった頃、ありったけの勇気を振り絞って、そろ、と目線を動かした。

 シーツのシワから淵、淵から床、床から壁、壁から天井……、

 …………、

 ……何もいなかった。淡い光もモヤも何もなかった。

 そこでようやく息ができた。気が付かなかったけれど、どうやら自分は息を止めていたらしい。全身にじっとりと汗がにじんでいる。

 京はゆっくりと体を起こして部屋中を目線で確認したが、やはり部屋には何もいなかったし、何も起こっていなかった。

 ふぅ、と。今度は安堵の息のようななにかが漏れていった。

 しかし何もいないことがわかっても、なんとなく落ち着かなかった。トイレに続く扉の向こうには何かがいるような気もするし、クローゼットのドアの薄い隙間から何かがこちらを見ているような気もする。怖い話を聞いた夜の、子供の気分だった。それに、今更思い出してしまった。

 (ここって病院みたいなものじゃん……!)

 とにかく寝よう。目をつぶっていればその内勝手に寝れるだろう。さっきも同じこと考えたような気がするけれど!

 そうして京は再び布団をかぶって目を閉じた。きつく閉じすぎて痛いくらいに。


 

 「明坂さん、……明坂さん?」

 「、……えぁ?え、あ、はい。なんですか?」

 からからと車椅子のタイヤがリノリウムの上で回る音がする。規則的に鳴る音に、少しうとうとしてしまっていたようだ。

 「大丈夫ですか?なんだかすごく眠そうですが。」

 なんだったら移動中寝ていてもいいですよ、と言われたので丁重にお断りする。遠回しに自分で歩けと言われているような気がしたので、次の検査が終わったら進言しようと思った。むしろ自分で歩かせてください。

 京がこの施設で目覚めてからこの日で四日目を迎えた。今もまた例に漏れず検査と検査の間の移動中で、彼女は車椅子を押されながらその上で寝かけていた。

 それというのも、あの淡いモヤが原因である。

 初めの一日は、結局はっきりとモヤの姿を目にすることはできなかった。ただ、眠ろうとすると狙いすましたかのように目の端を掠めて、まるで京を眠らせまいとするかのようだったのだ。おかげでその日は明るくなってからようやく少し眠った程度の睡眠だった。

 そして次の夜、つまり昨日の夜である。ついにモヤははっきりと京の目の前に姿を現すようになった。

 ……昨晩、十二時を過ぎたころ。

 バっ、と布団をかぶって目をつぶった。部屋の電気は付けたままにすると外から見えるので意地で消す。なぜだかこの施設の人間に弱みを見せてはいけないような気がしていた。この部屋の照明はオンかオフしかないので結果部屋は真っ暗になる。

 (大丈夫、大丈夫、大丈夫、だいじょうぶ……)

 じわり、と、しっかりと閉じた京の目から涙がにじんだ。

 ふわふわと漂うモヤが危害を加えてくることは無かったが、その得体のしれなさは恐怖の対象でしかなかった。

 布団をかぶっていてもモヤが外にいることはなんとなく気配で分かった。しっかりと見たわけではないがモヤは薄青くぼんやりと光っていて、今にも布団の隙間から侵入してきそうで、ただひたすらに息を殺すしかなかった。

 意識が一瞬眠りに落ちたかと思うと、小さな物音に過敏に反応して飛び起きることを繰り返した。多分それは自分の立てた寝返りの衣擦れの音だったり、小さく漏れた声だったりしたが、その度に過剰なほどにビクついて意識は飛び起きた。

 ともかくそんなまどろみとも言えないまどろみを繰り返して、フ、っとモヤがいなくなったことに気が付いたのは空も白み始めて鳥が鳴き始めたころだった。

 そんなこんなで彼女は絶賛寝不足の真っ只中、というわけである。

 「次の検査は横になってる時間がちょっと長いですから。その間は寝ていても大丈夫ですよ。むしろその後は問診が続きますから、寝るなら次しかありませんからね。」

 「……分かりました。寝ないようにはしますけど、寝ていたら起こしてくださいね。」

 「了解しました。」

 上木の言った通り、次の検査室に入ると仰向けに横になるよう指示され、そのまま洗車機のような機械の下へ通された。上木や他の研究員らしき人物たちはガラスの向こうからデータを観測するらしい。なんだか動物園の動物の気分だ。一応言っておくともちろん良い気分ではない。

 しかし、適度に薄暗く、機械の駆動音だけが静かに唸るそこは確かに仮眠にはうってつけの場所だった。

 ヴーーーーーーーーーーーーーー…………

 少なくとも三十分はかかるらしいので、どちらにしろすることは何もない。周りには人もいるし、明るいところなら少しくらい仮眠をとっても大丈夫だろう。こんなところで深く寝入ってしまうこともないだろうし。いざとなれば目覚まし時計がいるし。

 そうして誘われるがままに目を閉じると、すぐに耳に馴染んだモーター音に意識が包まれていった。

 

 

 「……ぅ、ん……?」

 …………フワ、と視界の端に、何か、が----

 チカリ、瞬いた。

 「っひ、」

 びく、と肩が跳ね上がったのが分かった。そこからは自分では無意識だった。

 「ゃ、ひ、っゃあ……!」

 「明坂さん!?」

 ガツッ、ゴン、と、

 転がるように----否、頭や肩をしたたかに打ち付けながら機械の下から本当に転がり出た。

 ここはどこだ、わたしは、違う、アレがいた。怖い、怖い怖い怖い!!

 部屋の扉は夜はロックされて開かないはずだ。だけど、逃げたい。アレから逃げたい。

 縦横無尽に目線を走らせると無機質な真っ白いドアに目が行った。とにかくここから逃げなくては。今ここにはわたしをアレから遮るものがなにもない----!

 「、っ、っひ、も、や、ぁ、やだぁ……!」

 ガンッ、と鍵のかかった引き戸が音を立てた。

 ガンッ、ガンッ、ガンッ、とどうにかドアを開けようと、その場所から逃れようと京は足掻くが、一向にドアが開く様子はなかった。

 「や、出して、出して、も、っ、や、……っ!」

 京は震える手でドアに縋りついた。後ろは見られない。アレがいる。もう京は目の前の白いドアをどうにかして開けることしか頭になかった。

 「……ん!…さ……ん!」

 ガンガンとドアを揺さぶりながら、京の目からは拭うこともできない涙がぼろぼろとこぼれる。

 開かない、開かない、開かないっ----

 どうしようもなくなって、ついに京は恐る恐る後ろへ視線を動かし始める。

 そこには縁がぼんやりと薄青く光る、自分が先ほどまで寝ていた検査機が静かにたたずんでいる。

 部屋は京の心情など知るよしもなく、目を閉じる前と同じようにモーター音だけが唸っている。どこか遠くで誰かが何かを言っているような気もするが、どこからの音なのかはわからない。

 そうして京は振り返った。またアレがいるんだと、そう思って振り返った。見てはいけないモノを見ずにはいられないのは人間の性なのかもしれない。しかし、どうしようもないのなら見なければ。そして、逃げなくては、逃げなきゃ、逃げ、なきゃ------!!

 「……ーっ、……ーっ、ふーっ、ふーっ、ふっ……、……、」

 キツく目を絞って振り返った。こうなったらかかってこいと思っていたわけではない。とにかく意地だった。こんなところで訳も分からずに死にたくない。と、思った、--のだが、そこには何もいなかった。

 「……、……?」

 ふ、ふ、と未だに息を荒げながらも、京は恐る恐る視線を巡らせた。

 大きな検査機が一台、ただ何をするわけでもなく設置されている。

 それ以外、部屋には何もいなかった。昨夜はあんなにはっきり見えたアレは、この部屋には影も形もなかった。ただ小さく、検査機の中部分で何かの表示用のライトが青く光っているのが見えた。

 そうだ、この部屋はあの部屋じゃない。

 そう、気づいた時にようやく力が抜けた。ドアに縋りついていた手からも力が抜けて、そのまま京はずるずると床に座り込んだ。

 京が座り込むのと同時に、ガコン、という音の後に背中にドアが擦れる感覚がした。

 「--ぁ……、」

 「ああ、よかった……。このドア、引っ張っていると鍵が空かないんです。……どうしたんですか?」

 最後の一滴が、ぽろ、とこぼれて床に散った。

 のろのろと見上げると、驚いた顔をした上木が目線を合わせるように膝をついていた。後ろには何人かの研究員の姿もある。

 「……い、え、すみ、ません。なんでもないんです。」

 「なんでもないって、」

 「あの、なんか、うたたねしてたら夢見が悪くて、えっと、びっくりしてしまって。騒がしくしてすみませんでした。」

 へらり、と京は笑った。無理をして笑っているのも、顔色が悪いかもしれないのも悪夢のせいだと思ってくれればいいと思った。汗が一筋背中を伝う感触がする。

 「……そうですか?慣れない枕だと眠れない人でしたか。意外と繊細なんですね。新しい発見です。」

 「……実は、そうなんですよ、あはは。」

 はははは、と二人ともが乾いた音で笑いあった。意外というのはどこを見てそう思ったのか問い詰めたくなったが、そんなに仲良くもないので思うだけに留めた。

 「明坂さんが飛び出す直前にギリギリ検査は終わりましたので、この部屋で行うものはこれで終わりになります。」

 わあ、なんて綺麗な嫌味の入れ方でしょう。心中全力で舌打ちしておいた。

 「……それはよかったです。」

 よいしょ、と上木が腰を上げたので京もそれにならう。差し出された手には気が付かないふりをしておいた。

 「では、これでめでたく明坂さんは前科持ちになったので大人しく車椅子で運ばれてくださいね。さ、どうぞ。」

 「…………。」

 そして大人しく車椅子に腰かける京の顔はものすごく渋かった。それを見た上木が口先だけで「はは」と笑ったのでにっこりと笑顔を返しておいた。

 

 

 そしてまた、夜になった。

 京は壁に背を付けて、鼻を布団に埋めた体勢で膝を抱えている。

 「……ふーーーー……。」

 カチ、コチ、と時計の秒針の音だけが部屋に響いている。今は十時三十分を過ぎたところだ。

 「ぅーー…………。」

 ものすごく眠いのと、ものすごく怖いのとが、丁度半分ずつ京の中を占拠していた。

 もうすぐ電気を消さないといけない。上木達の研究室は遅くとも十一時くらいには解散するらしい。この部屋が明るくいられるのもあと三十分くらいだろうか。

 と、

 こんこんこん、

 「っっ……!!!!」

 びくうっ、と京の肩が大きく跳ねた。心臓が痛い。音を立てたのは外に繋がるドアだろうか。

 こんな時間に、誰だろう。もしかして眠すぎて幻聴まで現れだしたのだろうか……。

 「……はい、どなたですか」

 聞こえるか、聞こえないか、囁くような声しか出なかった。その上少し掠れていた。

 「夜分遅くにすみません。上木です。」

 「……上木さん?」

 ドアを開けてみればそこには確かに上木がいた。小さな銀色の、給食ワゴンの小さい版ようなものを横に置いている。

 「どうしたんですか?」

 「いえ、少し確認事項がありまして……入ってもいいですか?」

 「、はい、どうぞ……?」

 こんな時間に確認事項とは、一体何なんだろうか。

 そうして、お邪魔します、とガラガラ音を立てながら上木は部屋に入ってきた。

 ワゴンの上のものには布が被されていて何が乗っているのかは見えない。

 部屋に入ってきた上木は何を言うわけでもなく、まずワゴンの上の道具を動かし始めた。

 ワゴンにはティーカップとポット、それにソーサーと、茶葉の缶ーーどうやらティーセットのようだ。持ち手に木が貼ってある白い陶器のポットは、それだけが少しお洒落で浮いているのが不思議だった。というか多分コーヒー用だった。

 しかしこのポット、なんとなく見覚えがある。

 「……あの、上木、さん?」

 「ああ、とりあえずお茶を飲みながらにしましょう。少し待っていてくださいね。」

 「はぁ……。」

 ポットにザラザラと茶葉を入れて、その上からケトルのお湯を注ぐ。そして待つ。  

 紅茶に詳しくない京から見てもかなり雑な淹れ方だったが、横着とか粗野とかではなく、多分それしか知らないのだろう。そういう淹れ方だった。

 「…………。」

 「…………。」

 「あ、」

 「どうしました?」

 「あ、いえ、そのポット。前に……幼馴染にプレゼントしたものと同じだなあって。あ、でもお店で普通に売っている物なので、偶然ですね。」

 「へえ、そうなんですね。」

 「…………。」

 「…………。」

 

 沈黙。

 「そうなんですね」と言われたら返せるのはせいぜい「そうなんですよ~ははは、」だろう。会話下手くそマンか、会話する気がないのか。


 「…………あの、何のお茶ですか?それ。」

 「カモミールです。安眠とかリラックス効果とか、あるらしいですよ。」

 「へえ……。」

 ずいぶん今の状況にぴったりな効能だと思った。

 無言でお茶が入るのを待つ時間は苦痛ではなかったが、楽しくもない。せめて用事があるというのならこの間に進めてくれればいいのに、と上木を見やっても、当の本人はジッとポットを見つめている。これはダメだ、と京は上木から目をそらした。

 確認事項って、一つ二つ確認したら終わるんじゃないのかなあ……。もういい時間だしこの人も早く帰ればいいのに……。というかよく考えてみればこんな時間に男女が二人きりっていうのはどうなんだろうか。別にあっちもこっちもなんとも思っていないけれど。しかし客観的に見ると誤解されてもおかしくないよなあ……まあそもそもの状況が一般的に見てかなり特殊な状態だけど…………ねむいな……

 ふぐ、と欠伸をかみ殺したころに、ようやく上木がカップに茶を注いだ。コポコポ、という音とともに綺麗な薄黄緑色のお茶が現れる。更にその中へティースプーンに一さじ、蜂蜜を掬って緩く混ぜ合わせた。

 「お待たせしました。熱いので気をつけてくださいね。」

 カップはほこほこと湯気を立てている。

 「……ありがとうございます。いただきます。」

 ……言えない。実は猫舌なんですなんて。

 ふーふーと、どうにか一口分だけ一生懸命冷ましたが、努力もむなしく舌をやけどした。 

ハーブティーを飲むのは初めてだったが、ぴりぴりした舌先でもどうにか紅茶とは違う風味を感じた。柔らかなハーブの香りが鼻から抜ける。蜂蜜の穏やかな甘さがとても飲みやすい。

「さて、じゃあ確認事項のことなんですが。」

「はい。」

コトリ、自分の分のカップを置いて上木は切り出した。

ようやくか。長かったな。と京はぼんやり思った。

「今のところ何か自覚症状は出ていませんか?頭痛とか、めまいとか。」

「いえ、特には……。」

「……うーん。」

ふむ、と上木は口元に手をやった。しかし一息ついてすぐに顔を上げると、

「では単刀直入に聞きますが、夜はちゃんと眠れていますか?」

と言った。

「……そうですね。ちょっと慣れない枕なので寝にくさはありますけど、寝れてますよ?確認ってそのことですか?」

ふぁ、と本当にかみ殺せない欠伸を漏らした。すみません、とはにかみながら。

上木は何を考えているのかよく分からない顔で京を見ている。彼女のことを観察しているようにも見えた。

「本当に?何か症状が出てるなら、薬を処方したりもできますよ?」

「いえ、何もないのに薬をもらってもしょうがないですから……なんか、すごく疑われてますね?私、そんなに嘘っぽいですか?」

くすくすと京は笑う。出会って四、五日の男性に「お化けが怖くて寝れないんです」と告げるのは京にとって難しいことだった。何か薬をくれるというのは魅力的だったが、それでもその勇気は出なかった。

「そうですか?……あ、あともう一つ、これはお願いなんですけど」

「?はい。」

「僕のことこれから『先生』って呼んでもらえませんか?僕、先生って呼ばれるの、好きなんです。」

 上木は大真面目に、真剣な顔をしてそう言った。

 「……そうなんですか。分かりました。」

 なんだろう。この人、実はかなり変な人なのかもしれない。と、京は思った。そしてとりあえず素直に従うことにした。だって何か怖いし。

 「さて、では先生からの確認……いや、伝達事項です。突然で申し訳ないんですが一晩明坂さんのバイタルを取らせてもらいたいので、今夜はこの部屋に泊まりますね。ということで一晩よろしくお願いします。」

 「………………は?」

 さー準備準備、とワゴンの下の段からモニターやらコードやらを取り出し始めた上木のことを京はただ見つめるしかなかった。

 冗談?冗談なのか?冗談だよね?

 ……なんだか冷や汗まで出てきた気がする。さすがに深夜に異性と二人きりで、しかも寝ろというのは抵抗がある。と、京は対応に困っていた。

 「あの、上木さん」

 「…………。」

 「……上木先生」

 「なんですか?」

 なんだこれ。テンプレか。いけしゃあしゃあと。と、思ったが口には出さないでおいた。

 「……あの、私は、どうすれば?」

 「ああ、普通に寝ててくれればいいですよ。僕は僕で勝手にやっているので。あ、机だけ借りますね。」

 そうして上木はものの三十秒で三、四本のコードをベッドに繋ぐと、本当に部屋の電気を落としてテーブルランプだけにしてしまった。ちなみにこのランプも彼の持ち込みだ。この質素な部屋にランプなんてオプションは存在しない。

 「遅くまで起こしてしまってすみませんでした。では、おやすみなさい。僕のことはいないと思ってくれればいいので。」

 「あ、はい、おやすみなさい……。」

 寝れるわけない。なんだこの状況は。特殊な状況が更に特殊な状況になってしまった。

 かと言って電気も落とされてしまったので、そのままぼんやり座っているわけにもいかず上木が座っているであろうデスクに背を向けて横になった。背中がやたらと敏感に気配を探ってしまって落ち着かない。布団がずれる音が気になって寝返りも打てないし、最早どうにもこうにも身動きが取れなくなってしまった。

 なんだこれ、と思いながら、とにかく寝てしまおうと目をつぶった。もうなんだかお化けよりもこの状況の方がよっぽど恐ろしいような気さえした。

 しかし、寝れるものなのかと思ったのもつかの間、カモミールがよかったのか、進んで寝ようと思ったことがよかったのか、彼女の意識はあっという間に波にさらわれていったのだった。

 

    *      *      *

 

 

 永い眠りから目を覚ました彼女と話して最初に思ったのは、「優しそうな人だ」という、ひねりも何もない、そんなことだった。

 昏睡する前の彼女もまた優しい人ではあったが、この彼女は少し行き過ぎている。優しいというよりは僕らに警戒して猫を被っているのかもしれないが、それにしても彼女は笑みを絶やさない。

 起きてすぐは少し混乱していたようだったけれどそれもその日のうちにある程度は落ち着いたように見えたし、笑顔も増えた。というよりも、彼女は笑顔が常態のような人だった。

 技師と一言二言話すときも微笑んでいるし、ほかの職員に挨拶をするときだって彼女は常に笑っていた。笑う、というよりは、にこやか、だろうか。とにかく、とても人当たりの良い、そんな人に見えた。

 ああ、でも自分と話すときには少し気を張っているかもしれない。初対面の人間と笑顔で話すことは得意でも、よく知りもしない相手と適当な軽口を飛ばしあって中身のない会話をすることに彼女は慣れていないように見えた。つまりは、頑張って自分に合わせた会話をしてくれている。ように見える。

 だけれど、どうだろう。

 その優しさは、この状況では異様な姿に写る。

 検体として売られたことを泣きわめいて取り乱すでもなく、家に帰せと叫ぶわけでもなく、いっそ何か無理をしているような姿ですらない。いたって自然でそれが普通だと言わんばかりの立ち姿だった。

 (……気持ち悪いな。)

 素直に、そう思った。

 どんな状況でも平常心を失わず、常に笑顔を忘れない。そんな人間はこの世に存在するはずがない。そんなものがいるとすれば、恐らく自分とは違う生き物だ。

 だから、彼女には少しの毒を言い続けた。自分には多少暴言を吐いても、ぞんざいな扱いをしても許されると思わせられればきっと彼女も本心をさらすに違いない。それが欠片だったとしても、そういうモノが存在していることが分かればいいのだ。彼女が自分と同じ「人間」であると分かればそれでよかった。そうでなければ、自分の研究は意味を失ってしまう。

 彼女には、人間でいてもらわなければ困るのだ。

 そして、彼女が目覚めて四日目の朝。

 「明坂さん、……明坂さん?」

 「、……えぁ?え、あ、はい。なんですか?」

 珍しく彼女が眠そうな表情を露骨に表していた。

 (……今のこの人も一応人間なんだな)

 普通に考えて慣れない環境と慣れない状況、四日もすればそりゃあ疲れてくるだろう。それでも、軽口を投げればちゃんとにこやかな声が返ってくるし、検査漬けの予定にも文句の一つも言ってこない。まだまだ上木の中では「気持ち悪い」域を脱していなかった。

 ところが、それはすぐに覆されることとなる。

 「ゃ、ひ、っゃあ……!」

 「明坂さん!?」

 その時、上木は隣室で彼女の状態をモニタリングしていた。

 脈拍・血圧・体温……呼吸数からしてどうやら眠っているようだが、いたって何の問題もないバイタルだった。

 必要な情報をあらかた取り終え、さあ彼女を起こしに行こうか、と腰を上げかけた時。

 スピーカーから女の甲高い悲鳴が響いたのはその瞬間だった。

 「何があったんですか?」

 「さあ……バイタル的には眠っていたようだけど。まあこのままだとドアが壊れそうな気はするかな。」

 ガチン、ガチン、と施錠されたドアを必死で開けようとする京の姿がモニターには映っていた。

 「…………」

 とにかく、彼女を落ち着かせなければ。

 そして彼女の元へ向かってみれば、白い顔に張り付けたような笑みで誤魔化しの言葉を並べるだけだ。無理をしている姿は痛々しくも見えるが、だが、それだけだ。抱えたければ抱えていればいいし、吐き出したければその内勝手に吐き出すだろう。まあ、こちらから一歩くらいは歩み寄りの姿勢を見せておくべきか。

 

 二人が去ったその後ろでは、京のことなど気にもせず、何事もなかったように技師達の作業が続けられている。

 「よくあることだ」と言わんばかりの技師たちはデータにしか目を合わせることはなかった。



 --やがて、夜が来た。

 彼女は昼間の出来事を「悪夢のせいだ」と言った。

 では、その悪夢の出処はどこだろう。もしかしたら症状の一つかもしれない。

 とりあえず考えうる可能性はすべて検証すべきだ。ついでに少し彼女と仲良くなっておくべきだろう、とそう考えた上木は京の検査が終わった夕方過ぎから仮眠を取り、気持ち程度のティーセットと機材一式を携えて京の部屋へやってきたというわけだ。

 「ふーー……。」

 部屋には、京の寝息と、時々上木が静かに息をつく音だけがあった。

 パソコンは静音設計の最低限のものを持ってきたし、京に言われて用意した時計はデジタルなので音もしない。今この空間には確かに夜の静けさだけが満ちていた。

 ぎぃ、と部屋に備えつけの椅子が回った拍子に少しだけ音を立てた。

 椅子と一緒に少し回った上木の目線の先には、仰向けで規則的に寝息をたてる京の姿がある。

 バイタルは正常。今は深い方の睡眠に入っているようだ。薬を混ぜたにしろ、よほど疲れていたのだろうか。電気を落としてから十分もしないうちにいたって静かな寝息が聞こえてくるようになって、そのまま静かに眠っている。

 「…………。」

 ぼんやりと、眠る彼女を見つめた。

 現年齢は彼女の感覚では二十一歳。しかし実際にはその限りではない。年齢で物事を図るのは好きではないが、認識の乖離したその年月で、人はどれほど価値観を変えるのだろうか。彼女が眠り続けた年数は、彼女から何かを奪ったのだろうか。

 そして、自分は彼女からまた奪おうとしている。検体としてこの場所に縛り付け、彼女の時間を奪っている。それが一週間か、一か月か、一年か、……十年かかるかも分からない。

 罪悪感はない。彼女は被検体で、患者だ。つまりはギブアンドテイク。

 少しだけ、体の奥の方でどこかが軋んだ音がした。

 「ふー……、」

 時刻は三時四十分過ぎ。

 もうそろそろ深夜から早朝へと移り変わろうとする空間は微妙な暗さに満たされている。

 ……夕方に少し仮眠は取ったが、やはり普段と違う生活リズムに疲労感は拭いきれない。

 自分が立ってしまうと彼女に光を浴びせてしまうのでデスクとモニターのライトは落とす。

 そしてひとつ息を吐いて、冷たい目をした研究者はコーヒーでも飲もうかと立ち上がった。

 その時、

 「んぅ…………、」

 背後から愚図るようなうめき声がした。

 立ち上がった時の椅子が軋んだ音で目を覚ましたのか、いつのまにか彼女はこちらを向いていた。

 しょうがない。起こしてすまないと寝かしつけるか……。

 そう思って彼女の方へと一歩足を進めた。が、

 「ッひ、」

 薄目も開いていなかったはずの彼女が飛び起きた。

 壁にぴったりと体を付け、中途半端に中腰のような体勢で頭から布団をかぶって身を隠しているように見える。布団の中からは押し殺してはいるが忙しない息遣いが漏れ聞こえる。

 「……明坂さん?」

 意識的にゆっくりと、柔らかいトーンで声をかけてやる。

 布団が開かれる様子はない。

 彼女が壁際に身を寄せたせいで空いたスペースに膝をかけて、上木は少しベッドに乗り上げる姿勢になる。

 「明坂さん、」

 そっとその布団の塊に手を寄せた。

 外からでも布団がびくりと大げさなほどに震えたのが分かった。

 未だ中からは落ち着かない吐息が聞こえる。

 「明坂さん」

 子供にするように、その塊の背中らしき部分をぽんぽんと規則的に叩いた。

 彼女の名前を呼びながら、それを五分くらい続けただろうか。

 ゆっくりと、恐る恐る、といった風に布団の裾が持ち上げられた。

 ほんの一センチほど。

 「……明坂さん?」

 「…………………………かみきさん、ですか?」

 細く細く、かすれた声だった。まるで誰かに聞かれることを恐れているような。

 「はい。昨日就寝中の状態を観察させてもらうのにお邪魔したんですが、覚えていませんか?まだ四時前ですし、もう少し寝ていても……」

 「なにか、いませんか」

 「……、すみません、もう一度、」

 「この部屋に、上木さん以外に、なにか、いませんか。いま。」

 ……ぐるり、部屋を見回してみる。

 部屋には相変わらず深夜か早朝か微妙な暗闇が、それでもはっきりとした暗さがあるだけだった。強いて言うならデスクのパソコンのスリープモードを示す小さな灯りが光っているだけ。

 何もいない。昼間言っていた悪夢とやらを見て混乱しているのだろうか。小学生じゃあるまいし。彼女はこんなにも怖がりだっただろうか。

 「何もいませんよ。明坂さんと、僕だけです。」

 「…………そう、ですか、」

 京は一度深く息を吐いた様子だった。そしてゆっくりと、ゆっくりと、じれったいくらいのゆっくりさで布団から彼女の口元が現れた。

 「…………。」

 彼女の斜め前に腰を降ろして、恐らくは彼女から見えない位置からその様子をうかがう。

 京は布団をまだ被ったままで部屋を注意深く見渡している。そのままでは見える範囲は少ないだろうに。

 そのまま観察を続けていると、もう少し布団を持ち上げたところでまたバッ、と布団を深く被ってしまった。……何をやっているんだろうか。

 「っか、かみきさん、」

 歯の根が合っていないのかもしれない。それか体に力が入っているのか、その両方か。

 「はい。」

 「この、部屋、何もいませんか。ほんとうに。」

 ……とりあえずもう一度部屋を見回してみる。やはり特に変わったことは無い。

 ふむ。

 「うわっ!」

 遠慮なく布団の塊の中に手を突っ込んで彼女の手を探した。

 人が一人包まっているにもかかわらず布団の中はほとんど冷たいままだ。

 布団の中を探ると京の手はすぐに見つかったが、すっかり冷え切って強張った肌の感触がした。それをまた容赦なく上から自分の手で包む。逃げるように手を引っ込めようとしたのが分かったが、また探すのは面倒だったので強めに掴んでおいた。

 夜から朝へ、黒色の質を変え始めたその部屋の何を見るともなしに、布団の塊に男は声をかける。

 「明坂さんには何が見えるんですか?」

 「え、いや、ぁ、…………、あ、すみません!寝ぼけてたみたいで、あの、パソコンのライト!あれにビックリしちゃったんです!昼間も同じことしたのに。恥ずかしいですね。えへへ。」

 そう言いながら今度は素早い動きで布団から出てきて、照れくさそうに頭をかいた。

 顔色は……暗くてよく分からない。手は未だに冷たいままで、確かにその手を握っているはずなのに、自分の体温はすべてやんわり拒否されているような心地だ。

 そのドが付くほど下手くそな演技に騙されてやろうかとも思ったが、やっぱり面倒なのでその案はすぐに却下された。ため息をつきたいほどにこの彼女は愚かだ。

 「……寝る前に言いましたよね。さっきから普通に『上木さん』って呼んでいますけど。僕のことは何て呼ぶんでしたっけ。」

 ふう、まったく。そういう仕草で上木は言った。

 「え?……あぁ、すみません。『かみきせんせい』。」

 「で、最初に起きたときにも言ったんですけど、僕は明坂さんの主治医なわけです。そして研究者でもある。だから、症状は正直に言ってもらわないと困るんです。」

 ベッドに横並びで二人。片や正座を少し崩したように、片や体育座りを崩したように、壁に背を預ける。視線が交わされることはなかった。

 「……すみません。」

 「あと、苦しいとか、つらいとか、楽しいとか、言わなかったら誰にも伝わらないんですよ。」

 「……そうですね。」

 「あ、今ちょっとイラっとしました?そんなこと分かってますよ、って。」

 「や、そんなことはっ」

 「まあ友達とか、家族とか?そういう人たちには隠しておきたいのかもしれないですが、僕は、医者で、研究者なので、言ってもらわないと仕事にならないわけなんです。何を見て、何を思ったのかは、数値には現れません。まあ今の心理状態が落ちているのか上がっているのかくらいはわかりますが。」

 「…………。」

 心なしかムッ、とした表情で黙り込んでしまった京を横目で見て、上木は内心で息をついた。さっさと話してくれればいいものを、面倒くさい人だな……。

 いくら周りに比べて多少若くても、徹夜慣れしていても、眠いものは眠い。これが終わったら今日は、とっとと帰って惰眠をむさぼってやろう。睡眠がなければ研究はできない。しかし、帰るのも面倒だ。仮眠室を借りるか……

 「……あの、笑わないで聞いてほしいんですけど、」

 「もちろん。」

 ようやくか……。

 内心の疲れはおくびにも出さず、男は大人然とした空気を纏い、彼女に続きを促した。

 

 ……誤解を恐れずに言うのならば、上木と言うこの男は京のために生きていると言っても過言ではない。それだけ、男の中にしめる京のウェイトは大きい。今も、もちろん。

 男は他の誰でもなく京のためだけに研究をしてきたし、これからもきっとそうだ。

 

 だが、彼女がようやく目を覚ました四日目の夜……もう五日目の朝になった、三月のある一日。

 今日この時点では、男の中にあるのは疲れと眠気、ただそれだけであった。

 

 ----何かが体のどこかで、小さく、小さく、軋み続けている。

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