旦那様が記憶をなくされたようです
「君は、だれ?」
そう旦那様が言うと、家令は真っ青な顔をして追い出したばかりの医者たちを呼びに行った。その様子を横目で見ながら、ヴィヴィアナははらりと涙を流した。
「だ、誰だなんて、そんな……。わたしは、旦那様の妻です。覚えていらっしゃらないのですか?」
「つ、ま? 僕は結婚なんてしていない! それに僕の婚約者はアリアンだ……!」
「そんな……」
アリアンとは旦那様のかつての婚約者だと聞いている。だが訳あって婚約は流れた筈だ。それを覚えていないというのはどういうことだろうか?
旦那様は混乱しているようだった。君は誰だと繰り返す。ヴィヴィアナが寝室に侵入してきた曲者とでも思っているのだろうか。手を強く握って離そうとしない。
すぐに医者が駆けつけ、調べる。詳しく問答もしたいからと、ヴィヴィアナは出るように言われた。しかしそうしたくても手を繋がれているから出来ない。
「その、一度お医者様にみてもらった方がいいでしょう。わたしは外におります」
やっと手を握り続けたままだと気づいたようで、旦那様はハッと手を離した。そのままハンカチで目元を抑えて、部屋を後にする。
外には護衛のカーニャがぼーっとしながら立っていた。サボっているようにも見えなくないが、カーニャは常に眠そうでなにを考えているかわからない表情なので仕方がない。だが、旦那様の護衛はカーニャが来た初日からそれが気に入らないようで今も彼女を睨んでいる。部屋から出てきたヴィヴィアナもついでとばかりに鋭い視線を送られた。
「はんっ! やはりお前も追い出されたようだな!」
護衛が得意げに言う。まるで大型犬がきゃんきゃん吠えているみたいだ。
旦那様の部屋に日参するので毎日顔を合わせているが、護衛のカーニャがついていることが気に入らないのか文句を言ってきたり、自分は主人の部屋に入れないのにヴィヴィアナは入れるのが面白くないのか突っかかってくる。今はやっと主人が目を覚まし、自分の立場が分かったかとでも言いたいのだろうかこの駄犬。
返事をする必要も感じないので、応接間でくつろぐ。もちろん涙を流して悲しそうにするのも忘れない。
そして少し時間を待つと、家令が出てきた。深刻そうな表情が、旦那様の異常を語っていた。
「旦那様の容体は?」
「身体は大丈夫ですが、記憶を失くされたみたいです」
「そんな……」
「話を聞いたところ、ご自身を十七歳と思っていらっしゃるようです」
家令の言葉は重々しかった。旦那様は先月二十七になったので、十年分の記憶をなくしているということだ。その十年の間、旦那様は『氷の伯爵』と呼ばれるに至る出来事があったと聞いている。叔父と婚約者の裏切りで両親と兄姉を亡くし、その復讐を果たした後は領地の立て直しが待っていた。もともと後継者として育てられていなかった旦那様は大層苦労されたらしい。
「ご家族のことは姿を現されないことでそのうち不審に思われるでしょう。先ほど少しお話しいたしました」
家令はちらりとヴィヴィアナを見た。家族のことについて伝えたが、愛人のことについてはどうしようかと瞳で問いかけていた。
ヴィヴィアナは涙をぬぐい、湿ったハンカチを強く握ると、まっすぐ家令を見つめた。それは何かを覚悟しているようにも見えた。
「貴方に任せます」
「……よろしいのですか?」
「わたしは、……わたしは、旦那様が回復されるのでしたらそれだけで十分です」
なんていじらしい。家令は驚きに目を見張った。彼女が伯爵のもとに日参しているのは知っていた。だが、ここまで愛が深いとは思いもしなかった。自分を裏切った相手をそこまで想える愛情の深さに感服する。
「……ヴィヴィアナ様は、ずっと、ずっと奥様だったのですね」
「まぁ……」
思わず、だったのだろう。ハンカチで押さえる暇もなく一筋の涙が流れた。笑うような状況ではないと分かっているのだろう。けれど、耐えきれない笑みがこぼれていた。人生で初めて、こんなにも綺麗な表情があるのだと家令は知った。
「ごめんなさい。だって、やっと認めてもらえたと思って、つい」
「いえ、私こそ申し訳ございませんでした。今まで、今までずっと旦那様が幸せであれば良いと貴女をないがしろにしてきました。今はそれを反省しております」
「誰にだって守りたいものはあるわ」
ヴィヴィアナは少し悲しそうに視線を下げた。気を悪くしてしまっただろうか。家令がもう一度謝罪をしようとするが、旦那様をこれ以上一人にするわけにはいかないわ、と立ち上がってしまったので言葉にすることはできなかった。代わりに頭を深々と下げた。
「――――旦那様をよろしくお願い致します」
背中で気配を感じつつ、ヴィヴィアナは寝室の扉を開いた。表情は未ださえないが、心の内では高笑いが反芻していた。それもそのはず、停滞するはずだった復讐が通常通りで行え、それに加えて旦那様の復讐もできるのだから。旦那様の精神年齢が十七歳になってしまったと聞いた瞬間、ヴィヴィアナが自分と同じ目に遭わせてやると思った。くしくもヴィヴィアナが旦那様に出会ったのは十七歳の時だった。その時の純情をもてあそんだ恨みを今、同じ方法で晴らしてやろう。――――わたしに惚れさせて、捨ててやる。
二年半前のあのパーティーから結婚までの半年間、旦那様は演技をしていたが、それは旦那様だけの専売特許じゃない。むしろ演技はヴィヴィアナのものである。――――ルトルカス子爵家、四代目当主が娘ヴィヴィアナは演技の天才であった。これは公にされておらず、家族だけが知ることだった。ヴィヴィアナの家族はヴィヴィアナの才能を知っていたからこそ演技で騙されることはないと思っていたのだ。だが現にことは起きた。旦那様が事故に遭ってからの演技など相手を騙すだけの小手調べのようなもの。だが旦那様には『魔性』の演技で本気で魅了してやろう。精々溺れすぎないように覚悟することだ。
ヴィヴィアナは目を閉じた。そして自分に暗示をかける。わたしは、『旦那様を愛する妻』と。
「旦那様、お待たせいたしました」
それは優しそうな笑みだった。ベッドの横の椅子に腰を落ち着かせる。
「アルバストに、少しは聞いた」
あの短時間ですべてを聞いてはいないだろう。だが家族と婚約者がいないことは端的に伝えられていたようだ。ショックに顔が歪んでいる。
「父上も、母上も、兄上も、姉上も、アリアンもいないのだな……」
二人しかいない部屋で、その寂しい呟きが静かに消えていった。見た目は成人した大人だが、精神はまだ少年そのものだ。受け入れがたい事実に歯を食いしばっている。
そんな旦那様の手をそっと握った。そして、顔が見えないように背中を向けた。ヴィヴィアナが旦那様といっても、彼にとっては初めて見る少し年上のお姉さんである。涙を見せるには抵抗があるだろう。だが、ぬくもりはあったほうがいいはずだ。
後ろで小さく嗚咽が漏れ出る声がした。それは旦那様が眠りにつくまで続いていた。