旦那様はどうしようもなく惚れてしまったようです
お久しぶりです。
仕事が忙しすぎて、体調崩して40度の熱出したりしていました。
成人越えて40度出すと一瞬死を連想しますね。
そんなこんなでいつの間にやら6月も後半に。
いろいろ急展開ですが、続けます。
幼いころから、年の離れた兄がとても好きだった。
立派な兄だ。ギルバートが物心ついたころから父の仕事を手伝っていて、屋敷のみんなに好かれていて、教師たちに優秀だと褒められる自慢の兄だ。兄よりも一つ上の姉は見栄を張っているだけだと言うけれど、そんなことはない。なんでもすぐこなしてしまう兄は格好いいのだ。
そんな兄みたいに、なりたいと思っていた。
だから頑張った。勉強も剣も礼儀作法も、兄みたいに出来るように。夜遅くまで起きて暗記したり、自分の時間を潰して本を読み耽ったりした。けれど、出来なかった。ギルバートはあまり勉強の要領が良くなかった。どれだけ頑張っても兄のようになれない。きっと兄ならもっと時間をかけず出来た。きっと兄ならもっと点数を取れた。きっと、きっと、と思ううちに、敵わないことがわかった。兄は完璧で、ギルバートが肩を並べようと思うこと自体烏滸がましかったのだ。その事実が悲しくて、勉強から逃げるようになった。だが、家族はそれについてなにもいうことはなかった。ギルバートがやりたいようにと見守ってくれた。幸い剣だけは兄と同じくらいできるようになったから、続けことができた。家族には騎士になるのだと言ったら、みんな喜んでくれた。兄がやりたいことが見つかったことを褒められたのが何より嬉しかった。けれど、兄に敵わないのは、変わらないのだ。
十年後のギルバートを想像すると、すぐに兄の姿が浮かんだ。ヴィヴィアナやアルバスト、そして屋敷のものたちの話を繋ぎ合わせて考えただけだが、きっと旦那様は兄のようななんでもこなしてしまう人だったのだろう。それが未来の自分だということは事実であるはずなのに、正直信じられなかった。だって、ギルバートが兄のようになれるはずがない。過去の経験からそれは証明されているからだ。ありえない。でも、旦那様は兄のようになった。それはきっと家族を亡くし、叔父を討った経験があったからこそだろう。だがギルバートは過去のことを覚えていない。だから旦那様になれるはずがない。旦那様の妻であるヴィヴィアナが、ギルバートを好いてくれる、わけがないのだ。
なんだか目の奥が熱くて、ギルバートは目を覚ました。ぼやける視界には見慣れない天井があり、ここがどこであるか分からなかった。瞬きをすると目尻から耳元に涙が伝っていた。なぜか、どうしようもなく悲しかった。
なぜこんなところにいるのだろう。そう思いはしたが、考える気になれなくて布団を頭から被って身体を丸めた。悲しい、虚しい、苦しい。そんな感情だけで胸がいっぱいで、トクトクと早く響く心臓が押しつぶされそうだった。
『帰ってくるんだ』
そんな聞き慣れない男の声が耳元で聞こえた気がした。心臓がさらにぎゅっと握られるように痛くなる。原因がすぐに分かって、やめろ、と分厚い布団の中で目を強く瞑る。
『今の伯爵は――――ヴィアンの知っている伯爵ではない』
やめてくれ。唇を噛む。思い出したくない。だが、今でもまぶたの裏に映る光が漏れた扉の隙間から鮮明に声が聞こえる気がした。
『新しく恋をして、そして今度こそは幸せになるんだ』
もう聞きたくない!
声を頭から追いやるに首を強く振った。だが、耳元にこびりついていて、離れない。頭を抱えるように強く手のひらを耳に押し当てて塞いでも、意味はなかった。何度も、何度も、繰り返し頭の中で、男の声が反芻する。
そうして繰り返し聞いているうちに、もう、心が、折れそうになった。
「旦那様?」
今度は聞き慣れた声がした。誰と聞かなくとも分かっている。ヴィヴィアナだった。耳をふさいでいたはずなのに、確かに聞こえたその声に体の力が抜ける。ギルバートが起きていることに気が付いたのだろうか。近寄ってくる音がする。そして、ベッドが軽く沈み込んだのを感じて、その縁に座ったのだと分かった。近くに来てくれた、それだけで先ほどまでの心臓の痛みも、心の苦しさも、なぜか少し軽くなる。
「お目覚めですか?」
優しい声だ。ギルバートがよく知っている、ヴィヴィアナの声。あの時のように震えていないし、泣きそうでもない。いつも通りの穏やかな声音だ。だが、今はそのいつも通りが怖かった。その声で、いつ、帰ると言うのだろうか?
『帰ってくるんだ』
確かにあの男はそう言っていた。ヴィヴィアナの兄の声が、また頭の中で響く。
そう、ヴィヴィアナは帰ってしまうんだ。大好きな家族にそう言われて、断るわけがない。だって、好きでもないギルバートと一緒にいる意味がないのだから。
「まだ、調子が悪いのですか?」
シーツの擦れる音がして、ヴィヴィアナの手がギルバートの頭の部分に触れたのが分かった。心配してくれているのだろう。けれど、その優しさが、今は一番辛い。
「触るな!」
思ったよりも大きな声だった。どこか掠れていて、弱々しい。自分のものだと一瞬信じられなかった。
「どう、されたの――」
「出て行ってくれ! もう、来ないで……」
驚くヴィヴィアナの言葉を遮る。これ以上話をしたくなかった。どうせギルバートのもとから去るんだ。ならばもう、優しくしないで――――……
「……わかりました」
その返事は、随分と間を開けてから返ってきた。寂しそうにも聞こえるが、きっとそれはギルバートの幻想だ。そんなはずがない。
少し傾いていたマットレスが元に戻り、足音がゆっくりと遠ざかっていく。――――これでいいのだ。自分を納得させる。でも本当にこのまま分かれていいのだろうか。疑問が浮かぶ。ヴィヴィアナはギルバートの最後の家族なのに、また失うことになる。それが耐えられるだろうか。けれどギルバートは旦那様になれない。ヴィヴィアナの幸せを願えば見送るのが一番はずだ。きっと、いい人が見つかる。社交界でもヴィヴィアナに目を奪われている人は沢山いた。あの男だって、熱の孕んだ瞳で見つめていた。離縁という傷があってもヴィヴィアナは沢山の男から言い寄られて、旦那様のような人を見つけるのだ。ギルバートではない、他の男を。きっと幸せになるだろう。それで、いいはずだ。
大丈夫、と納得して笑おうとしたはずなのに、口元が震えてできなかった。思い通りにならない自分に、唇を強く噛んだ。だって、――だって、本当は分かっていた。捨てたはずの恋心はいつの間にか隠しようのないほど膨れ上がっていて、無視できるものではなくなった。ヴィヴィアナがギルバートへ向ける気持ちは全て旦那様のものだと嫉妬した。それは恋と呼んでもいいのか分からないほど狂おしく、家族愛であるかもわからない。ただ一つ分かるのは、ギルバートはどうしようもなくヴィヴィアナに惚れてしまったということだ。もう、ヴィヴィアナなしでは、生きていけない――――……
「行かないで……」
まるで、子供の声だった。喉の奥から絞り出された声は、一人置いて行かれた幼子のようだ。
ゆっくりと布団から出て眩しい光に目を細めると、ヴィヴィアナの後ろ姿に縋るように手を伸ばした。そしてベッドから転げ落ちるように這い出ると、縺れた足を必死に前に出して駆け寄り、その裾を掴んだ。
「行かないでくれ……。僕を、一人にしないで……」
足を止めたヴィヴィアナが振り返ると、その表情は驚きに固まっていた。
「旦那様……?」
違う。ギルバートは旦那様ではない。そんな気持ちがすぐに心をよぎった。ギルバートは旦那様にはなれない。だからこそ、こうして縋るしかない。懇願するしかヴィヴィアナを引き止められない。
「――――どうして、」
「だって、子爵領に、帰ってしまうんだろう? 僕を置いて、他の男と――――」
項垂れ、落ちる涙を追いかけるように膝が崩れた。みっともない姿だ。自分よりも一回りも小柄なヴィヴィアナの裾を掴んで、泣きじゃくるなんて、旦那様がするわけがない。でも、他にどうすればいいのか分からない。
「僕は、君の好きな旦那様になれない。でも、僕は、君が誰を好きであろうと、ヴィヴィアナが好きなんだ。誰よりも。――――だから、僕を好きじゃなくてもいいから、どこにも行かないで欲しい……」
涙が止めどなく溢れてくる。口からは正直な気持ちが勝手に零れ出て、止まらなかった。幼稚な頼みだと分かっている。けれど、気持ちがぐちゃぐちゃと絡みあって纏まらなくて、自分の意思と関係なく言葉が出てゆく。――――おいていかないで。
「旦那様……、いえ、貴方様に、」
ぼやける視界の中、一歩、ヴィヴィアナの足がギルバートへ向かってきたのが見えた。ゆっくりと顔を上げると、元々そんなに距離がなかっただけに、目の前にヴィヴィアナの顔があった。視線が合って、つい逸らそうとするが、出来なかった。息がかかるような距離にあるヴィヴィアナの顔はどこか悲しそうに見えたからだ。なぜそんな表情をしているのかわからなくて、ただ見つめることしかできない。
「私の気持ちは、伝わりませんでしたか?」
口の端は上がっていて笑っているように見えるのに、下がった眉がそう思わせてくれない。美しい瞳も寂しそうな色を映している。
「私の愛情表現は、分かりにくかったでしょうか?」
「あいじょう」
まるで言葉を理解できない子供の用にオウム返ししてしまった。唖然としているであろうギルバートを困ったように見ると、ヴィヴィアナは話を続けた。
「そうです。私がいかに貴方様を想っているかをご存知ですか?」
「確かに君は旦那様を、」
「いいえ、違います。貴方様のことを、です」
「…………僕を?」
「ええ、貴方様を」
にこりと笑うヴィヴィアナの言葉がまた、理解できなかった。けれど何秒か時間をかけて、頭の中に染み渡る。ヴィヴィアナがギルバートを想っている、と。
「君が、……僕を?」
余りにも信じられなくて、聞き返す声は震えていた。
「好いて、くれるのか?」
「きっとその言葉では足りないでしょう」
「本当に?」
「ええ、本当です」
「僕は記憶を失くしてしまっている。前の旦那様に戻れないのに?」
「旦那様も、貴方様も、私の想う人であることに変わりありません。――私が旦那様と貴方様を比べたことがありましたか?」
穏やかな声で問われるその質問に、ぴしゃりと冷や水を打ち付けられた気分だった。そうだ、ヴィヴィアナは一度だってギルバートを比べたことはない。いつだって比較していたのはギルバート自身だったのだから。
ヴィヴィアナの真っすぐな言葉に、すぐに答えることができなかった。どう答えればいいのか、分からなかった。逸らすことなく見つめられるその瞳は急かすような視線ではなかった。寧ろ、ギルバートがなにを言うのか待っているようだった。
「……僕は、自信がないんだ」
考えて考え抜いて出たのがこれだった。やはり、情けない。
「君に、前の自分よりも、好きになってもらえる、自信が……」
声とともに段々と、視線が下がってしまう。ヴィヴィアナの足元が見えて、その足がまた一歩近づいた。そして、頭が柔らかいものに包まれる。いや、ものではない。ヴィヴィアナがギルバートの頭を胸に抱きしめたのだ。
「私の一番は、他の誰でもない貴方です」
頭を抱きかかえる腕に力が籠る。服が耳に擦れてくすぐったかった。それ以上に入ってきた言葉が熱を持たせた。
「貴方様が旦那様と今のご自分を違う人と思っていらしても、私にとってはどちらも思う相手であることには違いありません。確かに変わってしまったところもあって、戸惑いました。けれど新しく積み上げてきたこの数か月は私にとってかけがえのない時間でした。新しい旦那様が、貴方が、一番になるは十分でした」
穏やかな声だった。いつもと変わらないように聞こえる。けれど、一緒に過ごしてきたギルバートには分かった。ヴィヴィアナもまた、ギルバートに分かってもらおうと必死なのだと。
「こんな僕で、ヴィヴィアナはいいの……?」
「当然です。どんな変わってしまっても、私は貴方がいいです」
弱々しく聞き返すギルバートに、ヴィヴィアナは即答してくれた。それだけで、もう十分だった。なにを、疑っていたのだろう。ずっとずっとヴィヴィアナを見ずに、十年後のギルバートを兄のように神聖視して、自分勝手に考えて、困らせて、不安にさせて、結局はこんなみっともない姿をさらして。ヴィヴィアナはいつだってどんな様子だってギルバートを想ってくれていたというのに。――――これ以上ヴィヴィアナの言葉を疑うのはやめよう。
柔らかい胸に顔をうずめる。こんな風に抱き締められたのは子供以来で、母や姉のように包み込んでくれる優しさと懐かしさに胸が熱くなった。
「僕も、君が好きだ」
腰に手を回す。見上げると、ヴィヴィアナと目が合った。さっきこうして間近にあった顔は悲しそうだったが、今はいつものように穏やかな微笑みを浮かべていた。いや、いつものようと思ったけれど、違った。影がかかった頬は桃のように淡く色を染め、ずっと、ずっと幸せそうに見えた。果物のようにみずみずしい唇がゆっくりと開かれる。
「私も――――、あれ?」
と、ヴィヴィアナがなにかを言いかけたが、急に首を傾げて時が止まったかのように固まる。すると、鼻から赤い液体がツーっと流れ出てきた。ヴィヴィアナは鼻下を手で擦り、甲についた赤い筋をみてまた不思議そうに、子供が疑問を問うように言った。
「――どぉして?」
そうして、ヴィヴィアナの身体は力なく崩れたのだった。
一瞬のことだった。幸い近くにいたので、ヴィヴィアナは床に打ち付けられることはなくギルバートに受け止められた。けれど、間近で見ていて何が起きたのか分からない。ただ、ヴィヴィアナが倒れた事実だけが突きつけられる。
「ヴィヴィアナ!! ヴィヴィアナ!!」
ギルバートはただただ叫ぶことしかできなかった。
初期目的達成!
今週の予定
もう一話投稿したい。




